薄手の毛布にくるまったまま、琴子は寝ぼけまなこで時計を見た。AM 8:30。二階にある部屋のカーテンの隙間からは、十一月のやわらかな光が射し込み、琴子の額を照らしている。
 土曜日の朝は、一週間の中でいちばん幸せな瞬間だ。このまま夜までゴロゴロしていても、まだ丸一日休みが残っている。
 そんなふうに思いながら、琴子は再び眠りについた。もっとも会社勤めをしていない彼女にしてみれば、毎日が半ば休日みたいなもので、土、日を特別扱いできる立場ではない。けれども、休みの感覚くらいは人並みに持っておかないといけないような気もして、あえて土曜の朝は幸せなのだと、自分に言い聞かせるように心がけていた。

 一階から、トントンと軽やかに包丁を切る音が聞こえてくる。
 あ、そうだ。今日は、みんなと出かけるんだった。 
 琴子は、パジャマの上にフリースを羽織り、急いで階段を降りた。淹れ立ての珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐる。
「おはよう、鈴音」
「おはよー、琴子ちゃん」
 キッチンで人参を切っていた鈴音は、笑顔で振り返った。ショートボブのヘアスタイルと黒縁の丸眼鏡の組み合わせは、高校の時から変わらない。何年経っても、鈴音はずっと初々しくてかわいいままだなと琴子は思った。
「今日は私が朝ごはん全部用意するから、琴子ちゃんは座っててね」
「おいしそうな匂いだねー。何が出てくるのかなー」
 琴子はソファでほおづえをつきながら、忙しそうにキッチンを動き回る鈴音の姿を眺めた。
「内緒だよー。あと二十分くらいしたら、沙羅ちゃんも起こしてきてね」
「あー、沙羅は朝弱いからなー。昨日も夜遅かったみたいだし……」
「まあ、ギリギリまで寝かせてあげるから」
 そう言って、鈴音は冷蔵庫の扉に貼り付けてあるタイマーを操作した。

 琴子と鈴音と沙羅は、高校時代の同級生。今、三人で東京の郊外にある一軒家に暮らしている。元々は琴子が両親と住んでいた家だ。彼女が大学生の時に両親が他界し、その後の数年間は、琴子一人で住んでいた。
 鈴音や沙羅とは、仲の良い友達だったけれど、高校を卒業してからは連絡を取り合うことが無くなっていた。だから二人は、琴子の両親が亡くなったことも、彼女がそのまま実家で一人暮らしをしていることも知らなかった。
 その二人がどうして琴子と一緒に暮らすようになったのかというと、きっかけは偶然の再会だった。
 美大を卒業した琴子は、漫画家を目指しながら、時折バイトをする生活を続けていた。半年ほど前に、近所のスーパーで惣菜を作るバイトをしていた琴子は、ある日の閉店間際、店長に言われ、バックヤードから店頭に出て行き、売れ残った惣菜に半額シールを貼って回った。すると貼ったばかりの餃子に手を伸ばしたのが沙羅で、やや遅れてやって来て、「彩り野菜とチキンの炒め物弁当」を半額でゲットしたのが鈴音だった。
 すぐにお互いに気づいた三人は、九年ぶりの再会に大はしゃぎし、琴子の仕事が終わるのを待って、そのまま近くのファミレスへ移動し、近況を報告し合った。
 沙羅は、高校を卒業してからは、名門の女子大を経て大手広告代理店に就職し、営業の仕事をしていた。高校生の時から、美形でスタイルも良くて、モデルさんみたいにクールな雰囲気をまとっていた彼女だから、琴子は華やかな世界で仕事をしている沙羅に違和感はなかった。むしろ違和感があったのは、半額餃子に手を伸ばす沙羅の方だ。そもそもこんな郊外ではなく、都心のシングル向けのマンションに住んでいる方が彼女に相応しいように思えた。
「私、最近実家に戻ったの。買い物しすぎたり、株で大損したりしちゃって。だから心を入れ替えて、今は慎ましく生活中」
 聞けば、派手な業界は、人間関係その他諸々、ストレスも半端ではなく、ここ数年、心身ともに乱れまくっていたらしい。それでもサバサバと自分の失敗を語る彼女に、凜とした雰囲気は失われておらず、琴子は嬉しかった。
 一方の鈴音は、高校卒業後、大学の薬学部へ進んだ。そして難しい資格を取って、卒業後は都内のドラッグストアの薬局コーナーで働いていた。仕事は定時で終わり、休日もしっかりあるらしかった。でも何か日々の生活に物足りなさを感じていて、色々模索中だった。
「最近は、写真にはまっていて、いつもこれを持ち歩いているの」
 と言って、かわいいデザインの小さな一眼レフカメラをバックから取り出し見せてくれた。鈴音は二つ隣りの駅のワンルームで一人暮らしをしていたが、その日はスマホを買い換えた母親の初期設定を見てあげるために、実家に寄るところだった。
 見た目は高校生みたいにあどけないけれど、鈴音が三人の中では一番大人で、堅実に暮らしているな、と琴子は思った。
 近況を伝え合う中で、何よりも話題の中心となり、沙羅と鈴音が心配してくれたのが、両親を亡くして一人でいることを最後に打ち明けた、琴子の身の上だった。
 琴子の父親ががんを患い、四十三歳の若さでな亡くなったのは、彼女が美大の二年生になったばかりの時だ。父より一つ年下の母は、ひどく憔悴してしまい、翌年、父と同じがんで後を追うように逝ってしまった。琴子には兄弟がおらず、両親に親戚と呼べるような人もいなかったから、彼女は一人ぼっちで生きていかなければならなかった。 
 幸い、家のローンは父の保険で支払われ、住む場所だけは残っていた。美大に通ううちにいつしか漫画家を目指すようになっていた琴子は、がらんとした家で、こつこつと漫画を描き続けた。大学を卒業して数年後、小さな賞の佳作に入選し、ようやく出版社の担当者と面識ができた。けれどもその後は、何度作品を持ち込んでも、デビューの機会はいっこうに訪れなかった。
 あと数年で、三十になる。いい加減、才能がないのを認め、漫画家になる夢は諦めよう──
 そんな思いが日増しに強まっていた頃に、琴子は二人と再会したのだった。
「琴子の描いた漫画、面白い。もっと見てみたい」
「私も」
 スマホに入っていた作品の一部を読んだ二人にせがまれ、琴子は戸惑ったが、素直に嬉しくもあり、その週末に再び琴子の家に集まる約束をした。総二階で収納付きの空き部屋が、琴子の部屋以外に四部屋もある間取りは、シェアハウスとしても申し分のない物件であり、半分冗談で「一緒に住んじゃう?」と琴子がつぶやくと、あれよあれよという間に話がまとまったのだ。
 一ヶ月後には、沙羅も鈴音もそれまで住んでいた部屋を引き払い、琴子の家に引っ越してきた。水道光熱費をもらえれば、家賃などは入れてもらわなくてもよかったけれど、沙羅と鈴音は頑固なまでに「ちゃんと払う!」と言うので、琴子は相場の半分くらいの家賃をもらうことにした。
 沙羅と鈴音は、平日は琴子の家から出勤し、琴子は家で漫画を描き続けた。三人のシェアハウス暮らしの日々は、互いにほどよい距離感を保ちながら平穏に過ぎて行き、もうすぐ半年が経とうとしていた。 
 
「沙羅ー、朝ごはんできたよー」
 と琴子が二階の部屋の前で声をかけると、既に身支度を済ませた沙羅がすぐに扉を開けてでてきた。
「おはよー」
「おはよー。起きてたんだ」
「うん、今日は出かけるって約束だからね」
 沙羅は、オーバーサイズの長袖のコットンTシャツとデニムをおしゃれに着こなしていた。さすがにメイクはまだだけど、すっぴんで外に出ても平気なくらい、今日も美人さんだと琴子は思った。

 食卓には、鈴音渾身の朝食メニューがずらりと並んでいた。
 ももハム、紫キャベツの千切り、人参のマリネ、プチトマト、スクランブルエッグ……、それらが絶妙のバランスでワンプレートに盛り付けられている。そして焼きたてのフレンチトーストとコーンポタージュの香りが、朝から何とも言えず食欲をそそる。
「うおー、鈴音、天才だねー」
 沙羅は鈴音に抱きついて頬ずりした。琴子も、自分が時々みんなのために作る味噌汁と卵かけご飯とは比べものにならないなと思った。

「うーん、おいしい!おいしいね琴子」
 沙羅がフレンチトーストを頬張りながら、無邪気な表情を見せた。琴子も人参のマリネの絶妙な味加減に感動しながら「うん!」と微笑んだ。
「二人とも珈琲でいい?」
「はーい。ていうか自分でやるから鈴音も早く食べなよ」
 沙羅はキッチンに置いてあるコーヒーポットを取りにいった。
「今日は、私のわがままに付き合ってもらうんだから、このくらいはしないとね」
 そう言って鈴音はようやく席に着いた──

「N通り商店街は、都内で野良猫さんに出会える数少ないスポットなんだって!」
 数日前の夜、スマートフォンを見ていた鈴音が、テレビのスポーツニュースを見ていた沙羅と琴子に突然訴えた。
「なぬ?ぬこ?ぬこがどうしたの?」
 沙羅は訴えの意図が分からず、生返事で応じた。
「私、どうしても野良猫さんの写真が撮りたいの──」
 鈴音はとつとつと語り始めた。彼女いわく、自分が日々撮っている写真は、SNS映えするような自然の絶景とか料理やスイーツの写真ではなく、何気ない日常を切り取った地味といえば地味な写真なのだが、そういう類いの日常写真のジャンルにおいては、(彼女が考えるに)2大モチーフなるものがあって、一つは工事現場などの前に置かれている「三角コーン」、もう一つが「野良猫さん」なのだそうだ。
 前者の三角コーンに関しては、鈴音もこれまでに数多く撮りためており、いくつか作品を見せてくれた。殺風景な街並の中で、カラフルな三角コーンは、確かにほどよいアクセントになっていて、写真を印象的なものにしているなと琴子は思った。それに路上でポツンと佇む姿は、どこか寂しげな人のようにも見え、いくつかで並んでいるとチームメイトや仲間のようにも感じられた(もっとも、沙羅はいまひとつピンときていないようだったが)。
 三角コーンを撮り続ける一方で、野良猫さんに関しては、全くといっていいほど、鈴音に撮影のチャンスは訪れなかったらしい。都内では野良猫さんを見かける機会がめっきり減ってしまったからだ。
 鈴音は、地方に住むSNSの交流仲間が披露する〈猫のいる日常風景〉の素晴らしい写真を見かける度に、自分も撮りたいという思いを募らせていた。そんな折に「猫の街、N通り商店街」の情報を見つけ、彼女は心躍らずにはいられなかったのだそうだ。
 一緒に行こうよという鈴音の誘いに、最初はあまり乗り気でなかった沙羅も、「N通り商店街は、そこでしか味わえない絶品グルメがたくさんあるみたい」という琴子の言葉に反応し、野良猫さん撮影会に付き合うことになった。

 琴子の家の最寄り駅から乗る私鉄は、地下鉄に乗り入れており、その沿線にある「N通りまち」駅までは、乗り換えなしで一時間かからずに到着した。
 時刻は午前十一時。地上に出ると、爽やかな秋晴れの空が三人を出迎えてくれた。駅舎にしては珍しい茶色い外壁の建物には、猫のしっぽと足跡が紛れ込んだ文字で駅名が表示されていて、「猫の街、N通り商店街」への期待は、否が応でも高まった。
 駅前に野良猫さんの姿は見当たらないが、家を出た時から、首にカメラを下げていた鈴音は、あちこち動き回って、シャッターを切った。いつもは冷静で、大人びた振る舞いが目立つ鈴音だけれど、今日ばかりは、見た目に相応しく、子供に返ったみたいにはしゃいでいた。沙羅はそんな鈴音の姿を、母親のような眼差しで見守っている。
 みんなで遠出するのは、随分と久しぶりだな。
 琴子は、最後に出かけたのはいつだったか思い出そうとしたが、なかなか思い出せなかった。シェアハウス生活が始まってからは、毎日顔を合わせているけれど、三人で出かけたのは近所の買い物くらいだ。
 ということは、高校生の時以来かな?
 あれ?でも高校の時も遠出したことなんかあったかな?
 ああ、そうだ。一度だけあった。
 三人でディズニーランドに行ったんだ。
 そういえば、あの時も言い出しっぺは鈴音だったな──

「琴子は、お昼何食べたい?」
 沙羅はいつの間にか鈴音から目を離し、商店街のメインストリートらしき通りの方へふらふらと向かっていた。ついさっき、鈴音の朝ごはんを堪能したばかりなのに、お腹が空き始めたのは、琴子も同じだった。
「食欲の秋だから仕方ないよね」
 と沙羅はいたずらっぽく笑って、通り沿いに立ち並ぶ飲食店や屋台を物色し始めた。この辺りの写真をとりあえず撮り終えた鈴音も、「お腹空いたねー」と言いながら戻ってきた。

「にゃんこ先生いた?」
 沙羅が鈴音に訊ねる。
「うううん。まだ見てない。でも珍しい色の三角コーンはあったよ」
 そう言って鈴音はカメラの画面を見せてくれた。 きれいなライトグリーンの三角コーンが三つ並んでいる。三角コーンといえば赤色のイメージが琴子にはあったけれど、鈴音の写真を見るようになってから、青や黄色や白や黒など、他にもいろんな色が存在することに気づかされた。
「レアだね。ポケモンの色違いみたい」
 一緒に画面をのぞき込んでいた沙羅は、いつの間にか三角コーン評論家になっていっぱしの感想を述べた。
「まあ、でも、赤色がベースを築いてくれているからこそ、特別な色が引き立つんだよね」
 ふいに大人に戻った鈴音の言葉に、琴子は再び何かに気づかされた感じがした。

 お昼近くになると、商店街は急に賑わいを増し始めた。外国人観光客らしき人々もたくさん訪れている。 
 琴子たちは、「これもおいしそー」「あれもいいね」「こっちも捨てがたい」とあちらこちらに目移りした末に、海老や帆立など、食べ応えのありそうな具材と特製スープの香りにつられて、ようやく海鮮ラーメンの店でお昼を食べることで意見がまとまった。
 店先に並べられたテーブル席に座ると、看板娘の柴犬がにっこり顔で琴子たちを歓迎してくれた。再び童心に返った鈴音は、ラーメンができあがるまでの間、ずっと柴犬に向けてシャッターを切り続けていた。
 野良猫さんのためにフィルムを残しておかなくて大丈夫かな、と琴子は少し心配になったけれど、用意周到の鈴音のことだから、膨れたリュックの中には、きっと予備のフィルムがたくさん入っているに違いないと思った。

 期待以上においしかったラーメンを食べ終え、お腹も十分に満たした三人だったが、とりあえず野良猫さん探しの前に、隣の団子屋さんで口直しをすることにした。
「『スイーツが別腹』って本当に人体の神秘だよね」
 三色団子を頬張りながら、沙羅が語り始めた。「『別腹』の謎が解明されたら、『別脚』とか『別頭』とかもできて、人間の潜在能力がもっと開花しそう」
「『べつあし』って何?」
 琴子も団子を頬張りながら訊ねた。
 沙羅は、琴子の質問に、団子を持ったまま一瞬固まったが
「十キロ歩いて疲れたと思ったら、もう一キロ歩けたみたいな……」
 と広告代理店の営業らしく、すぐに適当な答えを返した。
「ご飯は基本、しょっぱい系の味でしょ。だからご飯をたらふく食べた後でも、全然違う甘系の味は食欲が刺激されて、脳から胃袋に、『もうちょっとだけ食べれるスペースを作りなさい』って指令が出るんだよ。それが別腹」
 と、鈴音が口を挟む。
 なるほど。
 さすがは薬剤師、と琴子は思った。鈴音はその理論に基づき、みたらし団子とあんこの団子を交互にたいらげるという細かな別腹を発揮している。
「それじゃあ、十キロ走った(、、、)あとに、一キロ歩く(、、)みたいな?」
 沙羅が鈴音に負けじと『別脚』話を続ける。
「走るのも歩くのもそれほど違いはないから、強いて言うなら、十キロ自転車を漕いだ後に、一キロ歩くとか……」
「ああ帰りの通勤電車で一駅手前で降りて、家まで歩いてみるみたいな感じか」
 沙羅は、納得したようにまた団子を口に運んだ。
「でも電車に乗っちゃったら、もう人体の話じゃなくなってない?」
 琴子が意地悪くつっこみを入れた。
「あ……」
 沙羅が笑顔で固まる。その顔を見て鈴音もけらけら笑った。
 
 琴子がこんなふうに自然におしゃべりができるのは、沙羅と鈴音だけだった。小さい頃から、人と接するのが苦手だった琴子は、小学校でも中学校でも、いつも一人ぼっちで教室の片隅でノートに落書きをしていた。
 そんな琴子に、そよ風みたいに話しかけてくれたのが沙羅で、警戒しながらも、少しずつ距離を縮めて懐いてきたのが鈴音だった。
 三人は、見た目も性格もばらばらだった。
 沙羅は、さばさばとした男っぽい性格で、黒髪をなびかせて颯爽と歩く姿は、男子生徒だけでなく、女子生徒からも憧れの的だった。勉強もできて、陸上部では走り高跳びの選手として全国大会に出場した。そんな文武両道の完璧な彼女が、どうして自分なんかのことを気にかけてくれるのか、琴子は不思議でならなかった。
 鈴音は、沙羅とは対照的に、おかっぱと丸眼鏡が似合うかわいらしい女の子で、誰からも愛されるアニメのキャラクターみたいな存在だった。けれどもその外見からは想像できないほど理屈っぽくて、授業は数学と化学にしか興味がなかった。部活は卓球部に所属し、カットマンという攻撃をしのぎながら相手の自滅を待つ、持久力と忍耐力を必要とされる戦型を選び、団体戦では欠かせない選手として活躍していた。
 そんな二人が、部活もせず、いつも教室やグラウンドや帰り道の川沿いの土手で一人でいる琴子の傍らにやって来ては、特に何もしない時間を過ごした。
「私たちは、もともと一つの三角形だったのかもしれないね」
 いつか土手で三人で寝そべっているときに、鈴音がそんなことを言っていた。
「私たちは、それぞれ三角形の一辺。だから時々集まって形を作らないと落ち着かないの」
 数学好きの鈴音のたとえ話は、突拍子のないものだったけれど、琴子にはなぜかしっくりきた。そして、黙って目を閉じて聞いていた沙羅も、同じように感じている気がした──

 お会計を済ませ、三人は柴犬に別れを告げた。時刻はもうすぐ二時になろうとしていた。
「さてさて、それじゃあ、ねこ様の写真を撮りに行きますか」
 沙羅が当初の目的を思い出して言った。鈴音がうんうんとうなずく。琴子はなぜか沙羅の「猫」の言い回しが先日から定まらないのがおかしくて、吹き出しそうになった。
「とはいえ、どこへ行けばよいのかな?」
 表通りをぶらぶらと歩き出した沙羅は、振り向いて鈴音に訊ねる。
「歩いていれば、そのうち現れるよ」
 鈴音がフィルムの残りの枚数を確認しながら答えた。
「ふーん。猫を求めてひたすら歩く。これぞキャット・ウォークってやつだね」
「ちょっと、意味が違うけどね」
 琴子が笑いながらつっこむと、沙羅が真顔で「私、失敗しか(、、)しないので」と、米倉涼子の口調を真似て言い返したので、思わず鈴音と一緒に爆笑した。 

 それから小一時間、三人はN通り商店街を一通り歩き回ったが、未だに野良猫さんの姿は一匹も見かけずじまいだった。
 先日の鈴音の話し振りが、まるで街中、至る所で出会えるみたいなテンションだったので、琴子はやや拍子抜けした。
「野良猫さんがいないなら、美女のグラビアでも撮りますか」などと冗談を言いながら沙羅と琴子にカメラを向けていた鈴音も、さすがに少し焦りを見せ始めていた。
「やっぱり表通りより、路地とか住宅街の駐車場とかにいるんじゃない」
「だよね」
 沙羅の言葉に、鈴音は珍しくうなずいた。
「じゃあ、少し手分けして探してみる?」
 琴子の提案で、三人は三手に別れ、表通りからそれぞれ奥まった路地へ入っていった。
 
 自分で言い出しておきながら、二人がいなくなって、琴子は急に寂しくなった。表通りの喧噪に比べ、裏道の路地はひっそりとしていて、奥へ奥へと進むほど、心細さは強まった。戸建ての住宅やアパートが建ち並ぶエリアまでやって来るまでの間に、小さな駐車場がいくつかあったが、猫の姿はどこにも見当たらず、ましてや、これから彼らの集会が開かれる気配など、微塵も感じられなかった。
 四時を過ぎ、お日様が帰り支度を始めた。琴子は、ふいに両親を相次いで亡くした時の感情をよみがえらせた。言いようのない悲しみや孤独とともに当時の琴子を支配したのは、自分の人生も、両親と同じ四十二、三の歳で終わるのだ、という感覚だった。
 これから二十年ちょっとの間、自分はどう生きればいいんだろう。
 誰かと共に生きていく選択肢なんて考えられなかった。ただ自分の生きた証、せめてその痕跡でも残せればという思いで細々と漫画を描き続けていた。そんな折りに、再会したのが沙羅と鈴音だった。
 二人のおかげで、消え入りそうだった琴子の人生は、少しずつ、ゆっくりと、どこか地に足のついた確かなものへと変わっていったのだ。

 一時間後、三人は再び表通りの元の場所で落ち合った。お互いの表情を見て、野良猫さんには誰も遭遇できなかったんだな、とすぐに察しがついた。
「もう日が落ちてきちゃったから、ちゃんとした写真も撮れないな……」
 と鈴音が肩を落とす。
「まあこれでも食べて元気出しなよ」
 沙羅が、商店街のお肉屋さんで買ってきたという揚げたてのコロッケを、一つずつ鈴音と琴子に配った。
「うまあーなんじゃこりゃ」
 鈴音が一口かじって絶賛した。
「『にゃんコロ』だって。なんかここの名物みたい」と、沙羅もさくさくあつあのつ牛肉入りコロッケに、顔をほころばせながら答える。
「あ、ここに猫のイラストが描いてある」
 琴子は包み紙を二人に見せた。
「ほんとだ」
「かわいい」
 すっかり機嫌を直した鈴音は、「にしても、なぜ野良猫さんは一匹も現れないのだ?」と改まって疑問を呈した。
「そもそも今回の猫情報、どこで見つけたの?」
 沙羅が訊ねる。
「『都内』『野良猫』で検索したら出てきたブログだけど……」
 鈴音はスマホでそのブログを開いて、沙羅に見せた。
「ああこれか、『都内に残された貴重な野良猫スポット』。うん?でもこのブログ、五年前から全然更新されてないよ」
「え!じゃあ、五年経つ間に、もう此処も野良猫さんがいなくなっちゃってこと?」
 鈴音は再び肩を落とし、口をへの字にする。
「たぶん……ね」
 沙羅はそっと鈴音の肩に手をおき、スマホを返した。目を潤ませる鈴音を見て、琴子もたまらず鈴音をハグした。逢魔時の猫のいない猫の街の片隅で、三人はしばらく三角コーンみたいな形でじっと固まっていた。
 
 それから三人は、あともう少しだけ探してみようと、往生際の悪さで一致し、今度は一緒に商店街の裏道などを歩いて回った。けれども、やはり野良猫さんは現れなかった。
 せっかくだから、最後においしいものを食べて帰ろうということになり、鈴音が行きたいと言った薬膳カレーの店に入り、評判通りの美味を心ゆくまで堪能した。
 さすがに別腹の余裕はなく、三人は九時前にN通り商店街を後にした。

 帰りの電車は途中から座れたので、琴子は満腹のお腹を擦りながら、うとうとした。向かいの席に座る沙羅と鈴音は、何駅も前からとっくに眠っていた。
 鈴音の目的は果たせなかったけれど、楽しい一日だったなと琴子はしみじみ思った。
 私たち三人は、鈴音の言うように、お互いがバランスを取り合うために必要な三角形なのかもしれない。
 と同時に、それぞれの人生は○といえるほど完璧ではなく、×をつけるほど駄目でもない。程良い△の人生を壊さないよう、器用に、時には不器用に生きている。
 ○でもなく×でもない、△な私たちの日々は永遠に続くんだ──

 いつの間にか眠りに落ちた琴子は、沙羅に起こされ、慌てて我が家の最寄り駅で降りた。
 帰り道の河川敷を三人で歩く。たらふく食べたお腹は、電車で一眠りしている間にすっかりこなれていた。
「今日は本当にありがとうね」
 鈴音がつぶやいた。
「お礼を言うのはこっちの方だよ。朝から夜まで、本当にすごく幸せな休日だったよ」
 と琴子は答えた。
「まあ、野良ちゃんには会えなかったけど、おいしいものたくさん食べたしね」
 と沙羅も声をかける。
「うん、いっぱい食べたね」
 鈴音に少し笑顔が戻る。
 澄み切った夜空には、小さな星々がきらきらと輝いていた。三人は、しばらく空を見上げながら歩いた。
 
 
 どこからか、微かに耳をくすぐるような音が聞こえた。琴子は立ち止まり、一瞬、耳を澄ませた。
 ……あ、また聞こえた。
 か細いけれど、何かの鳴き声が、橋の下の方から確かに伝わってくる。琴子はすぐに土手を降りてそちらへ向かった。
「琴子、どうしたの?」
 沙羅が声をかけたが、琴子は振り向かずに進んでいった。すると鈴音も気づいたのか、琴子に続いて土手を降りた。一人取り残された沙羅は、慌てて二人の後を追いかけた。
 鳴き声は、橋下の隅に置かれた小さな段ボール箱から聞こえていた。近づくと、タオルにくるまれた猫が、鳴きながら顔を覗かせている。琴子は猫をそっと抱きかかえた。三毛猫みたいな雑種で、子猫ではないけれど、頼りなさげな表情と鳴き声が、子猫みたいに弱々しかった。段ボールにはマジックで「ネコもらってください!」と走り書きがしてあった。

「よしよし……」
 待望の猫さんと、まさかの形で遭遇し、鈴音はぎこちない手つきでその頭をなでた。
「ほんとに無責任な飼い主だよな」
 沙羅は腕組みをして、走り書きの文字をにらみつける。
「どうしようか……。家では、やっぱり飼えないよね?」
 鈴音が家主である琴子の顔を覗う。
「そりゃあ、家で飼ったら写真も撮り放題だけど、生き物を飼うなら、最後まで面倒をみなきゃ駄目なんだからね。それを琴子に押しつけたらいけないよ」
 沙羅が諭すように鈴音に言う。
「わかってるよ、沙羅ちゃん。大丈夫。私、無理言ったりしないから……」
 鈴音は、気持ちの整理をつけて沙羅に答える。
 二人のやりとりを、琴子は猫の体をやさしく擦りながら聞いていた。

 しばし沈黙する三人の傍らで、猫は時折、精一杯の力で「ニャー」と鳴いた。

 やがて琴子は、猫を両手で抱きかかえ、すくっと立ち上がった。 
「とりあえず、今日のところは家に連れて帰るよ。お腹も空かせているみたいだし」
 鈴音と沙羅は、一瞬、あっけにとられた。けれども、すぐに表情を緩ませハイタッチを交わした。
「よかったね」
「よかったにゃー」
 二人は、代わる代わる猫の頭をなでなでした。
 
 とりあえず、とは言ったけれど、琴子は既にその時、密かに心の中で決めていた。
 ずっとこの子のそばにいてあげよう、と。
 なぜなら、捨て猫さんの背中には、赤茶色のかわいらしい三角模様が、きらりと輝いていたのだから。

 
 
 
  
                                    〈了〉