6
一晩寝たら忘れてたりして、と思ったけれど、起きても気持ちは変わらなかった。というか、考えすぎてあまり眠れなかった。
「奏、早いね。もう行くの? カレー食べる?」
「いらない……。行ってきます」
いつもより三十分早く家を出て、怜との待ち合わせ場所――駅の近くの寂れた公園に向かった。昔、ふたりでよく遊んだ場所だ。駅前だと人が多くて怜が居づらいから、高校に入ってから、一緒に登校するときはずっとここで待ち合わせていた。
いつも怜が先に来ていて、奏は待ち合わせの時間ギリギリに着くので、ひとり時間を潰すのは初めてだ。
怜を真似て、入り口近くの鉄棒に寄りかかって英単語帳を開いてみたが、一呼吸後には全く別のことを――怜のことを考えてしまう。
どんな顔で会えばいいんだろう。どんな話をすればいいんだろう。
少し前も同じ問答をしたけれど、あのときとは全く気持ちの種類が違う。一体どう扱えばいいのか、奏には全くわからなかった。何せ、これが初恋だし。
おれはいつから怜のことが好きだったんだろう。教室でキスされてから? それともずっと前から好きで、ただ気づかなかっただけ?
昨晩からずっとこんな調子だ。卵か鶏か、みたいな埒のあかない追いかけっこが脳内で延々と繰り返されていて、とてもじゃないけど勉強にリソースを割ける状態じゃない。
「……カナ?」
しかし、待ち人の声がするなり、奏の意識はガソリンでも注がれたように、怜に向かって一気に動き出した。
怜は眉間に皺を寄せ、戸惑いを浮かべて奏を見ていた。朝日がまるで後光のように背後から差していて、妙に神々しく見える。ていうかこいつマジでイケメンだな。
「お、おはよう」
気後れしながら挨拶すると、怜はスマホを取り出し、画面を確認した。
「え、俺、時間間違った? スマホ壊れてる?」
「いや、おれが早く来ただけ」
「は? 嘘だろ? 何で?」
おまえのせいで眠りが浅かったんだよ、なんて言えるわけがない。仕方なく曖昧に笑ってみせたのだが、それがますます怜の不安を煽ったらしい。
「大丈夫? 風邪引いたとか? 変なものでも食べた? 昨日おじさんがご飯作る日だったんだって?」
「大丈夫だよ。全然普通。マジで平気。ちょっと早く目覚めただけで」
「カナが早起きするってのが既に異常なんだって」
だから言い方。
「心配なら熱でも測れば。絶対平気だろうけど」
あまりの信用のなさに軽口を叩いたら、怜の手がにゅっと伸びてきた。
「え?」
前髪を優しくかき上げ、手のひらが額にそっと触れる――いやちょっと待て。急に何してんだよこいつ。
「熱は、ない……? え、カナ? 本当に大丈夫? 顔、真っ赤だけど」
ひんやりとして、骨張った手のひらの感触が生々しい。その状態で顔を覗き込まれたら。
「っ……。バーーカ!」
諸悪の根源を睨んで奏は叫ぶ。頭がパンクして小学生のような文句しか出なかった。
「ちょっ……。何? ほんとに大丈夫?」
大丈夫じゃない。心臓が爆発しそうだ。いや、したかも。鼓動がやばい。体育の授業で全力ダッシュしたときよりもうるさく鳴っている。一生分の鼓動の回数は決まっている、なんて話を聞いたことがあるけど、本当なら今日で十年ぐらい寿命が縮まった気がする。
「カナ?」
おれ、何でこいつと普通に一緒にいられたんだろう。
怪訝そうに顔を近づけてくるのをどうにか押し退け、奏は早足で歩き出す。
困った。世界が一変してしまった。どうしよう。
マジで怜のこと好きなんだ、おれ。
文化祭の準備のため、怜は図書室に寄ると言う。
「体調悪かったら保健室行きなよ」
おまえといると悪化するんだよ。
心配する怜を追い払って教室に行き、机に突っ伏していると「カナ」と明るく呼ばれた。高橋の声だ。朝から元気だなと顔を上げると、奏の前の席に勝手に座っている。
「おはよ。何だよ」
「カナの無罪放免が決まったから、お祝いに来た」
「はあ?」
「昨日LINEしただろ。クラスのやつらとファミレス行ってたんだけど――あ、怜は面談とかで残ってたから、それ以外な。したらさ、誰かが聞いたんだよ。カナと三澤さんってどうなんだって。何て言ったと思う?」
「知らねーよ。どうせ眼中にないとかだろ?」
「それがさー、三澤さんはっきり言ったんだよ。『私が好きなのは月峰くんだから』って」
「……は?」
がばっと身体を起こすと、高橋が「釣れた釣れた」と笑った。いや、笑い事じゃねーし。
「え? 三澤さんが告白したってこと?」
「しーっ、声でけえよ。怜はいなかったって言っただろ」
奏は声を潜めて尋ねた。
「じゃあ、怜は知らないってこと?」
「そうそう。あの場にいたメンバーだけの秘密ってことで口止めされてる。ただ、カナは当事者みたいなもんだし、三澤さんに聞いたんだよ。そしたら、新瀬くんならいいよって。LINEで報告しようと思ったけど、こういうのは直接言ったほうがいいと思って」
高橋は満足げに笑い、奏の肩をねぎらうように叩く。
「あ、ただし怜には絶対内緒な。自分で言いたいんだって。健気だよな」
しみじみと言う高橋の前で、奏は屋上での怜のコメントを思い出していた。
「いや、外堀めちゃくちゃ埋めてんじゃん……」
健気かもしれないけど、やっぱり強かだ。
「それだけ本気ってことだろ。ちなみに三澤さん、女子アナ志望らしいぜ。俺らもそっちの彼女ができるかも……」
「おまえ個人情報ベラベラ喋りすぎ。彼女できねーぞ」
高橋を追い返し、奏は再び机に突っ伏した。
三澤がアプローチに動いたのは想定内だが、外堀を埋めてくるとは思わなかった。確かに、クラスの団結力が高まっている中で気持ちを暴露すれば、クラスメイトたちは三澤を応援し、ふたりをくっつけようとするだろう。他の女子への牽制にもなるし、断りづらい空気になりそうだし、メリットが多い。マジで頭いいな。
ただ、怜は圧力とか空気とかが大嫌いなので、興味がなければその場の雰囲気なんて関係なく断るだろう。怜に興味がなければの話だけど。
高橋、その辺どうなのか怜に聞いてくれねーかな。おれの口からは絶対聞けないし。
いや、これっておれが勝手に気を揉んでるだけ? さっきの接触は全くためらいがなかったし、もう意識なんてしてないのかも。怜の中ではとっくに終わっていて「もうカナなんて好きじゃないから安心して」なんて言われるかもしれない。
そうなれば奏は「怜の好きな人」から「ただの幼馴染」――怜を見守り、怜の幸せを祝福する立場になる。それを想像し、奏の胸は手で心臓を潰されたようにきつく痛んだ。放課後の教室で怜に「よかったな」と不承不承告げたけど、今度は本気で言わなければならない。嫌だ。めちゃくちゃしんどい。
もしあの日に戻れるなら、軽率なことをした自分をぶん殴ってやりたい。おまえはほんとは怜が好きなんだって言ってやりたい。そうしたら、もしかしたら今頃おれたちは。
――ばかじゃねーの。
怜を散々傷つけておいて、何都合のいい妄想してるんだよ。夢見るのもいい加減にしろ。せっかく幼馴染に戻ったのに、怜が全部飲み込んでくれたのに、その怜の幸せを願ってやれないなんて本当に最悪だ。怜のおじさんによろしくって言われたのに。
恋愛って、人を好きになるって、もっとキラキラしていて綺麗なものだと思っていた。しかし奏の内に潜むそれは、自分の醜い部分を集めて煮詰めた闇鍋のようだ。どす黒く濁っていて、汚くて、おどろおどろしい。一度触れたら呪われて、どんどん悪い方向に落ちていく。ネガティブが加速し、溜息が止まらない。
こんな無神経で自己中なやつ、そりゃあ見限るよな。あのまま幼馴染を続けてもらったことが奇跡だ。好きになるなら、自分に好意があって、素直に健気に追いかけてくれる子のほうがいいに決まってるよな。
ていうか三澤さん、女子アナ志望なんだ。ちゃんと進路も決まってて偉いな。おれなんか全然、何がしたいのかもわかんないのに――。
「カナ」
呼ばれてはっと顔を上げ、心臓が跳ねた。
「怜……」
奏の負のループを断ち切ったのは、他でもない怜だった。
「びっ、くりした……。何で?」
席替えしてから――キスされてから、怜が奏の席に来たのは初めてだった。
「高橋が、カナがずっと机に伏せってるって言ってたから。やっぱ具合悪いんじゃないの?」
「いや、全然……」
メンタルの具合は悪いけど、身体は悲しいほどに元気だ。しかしそれを証明する手立てはない。とりあえず、また額を触られたら困ると思ったので両手でガードした。
「……何やってんの?」
「熱はないから。マジで」
「え? ああ、ガードしてるってこと? ぷっ、何それ……」
なぜかツボったらしく、怜が突然、顔をくしゃくしゃにして笑った。目を細めて、眉をひそめて、口角は綺麗な弧を描いて。
いつも涼しげな怜が、幸せしか知らない子どもみたいに顔中いっぱいに喜びを浮かべるとき、奏も同じように嬉しくなった。でも、今は胸の内が弓を引き絞ったように苦しい。
好きだ。怜が好きだ。昨日の夜に感じたよりも確かな熱と手応えが自分の胸の中に宿り、広がっていくのを感じる。
この顔も他の顔も、怜を誰にも取られたくない。
「……あのさ、怜」
「ん?」
切り出してみたものの、緊張して震え出しそうだった。
怜も、三澤さんも、校舎裏の子も、もしかしたらラブレターをくれた子だって、胸が潰れるような気持ちを抱えながら、一歩踏み出したんだろうか。すごい勇気だ。
「カナ?」
奏は短く呼吸し、からからの唇を舌で軽く舐める。それから、怜以外の誰にも聞こえないよう、声を潜めて言った。
「今日、学校終わったら、部屋に来てほしい」
あの日以来、暗黙の了解で引いていた境界線をあえて踏み越えたのはこれが初めてだった。怜も何かを察したのか、黒い目をこれ以上なく丸くした。
数秒間、ふたりの間に気まずい沈黙が流れ、やがて怜の唇が動いた。カナ、と声なき声に呼ばれた奏は姿勢を正し、次の言葉を待とうとした、その矢先だ。
予鈴が鳴った。
緊張の糸がばつんと切れ、奏と怜は、図ったように息をつく。
「……俺、戻んないと」
そう言って、椅子を引いて立ち上がる寸前、怜は奏をちらっと見た。
「文化祭の準備があるから、終わったらLINEする」
「え? じゃあ」
「行けそうだったら、行く」
それって「行かない」ってやつじゃねーの。
喉元まで出かかったけど、怜の困った顔を見ていたら、何も言えなかった。
何の前触れもなく誘ったのが悪かったのかもしれない。
そう思って、休み時間に「大事な話があるから、怜に聞いてほしい」と改めて連絡を入れた。しかし放課後になっても既読スルーが続いている。
このままなかったことにされたらどうしよう。不安だ。でも怜は連絡すると言っていたし、その言葉を信じて待つしかない。
とりあえず部屋の片付けでもするか。この際、隅から隅までぴかぴかにして驚かせてやろうかな。
帰ろうとしたところで、「新瀬くん」と呼ばれた。
「三澤さん」
「もう帰るの? 文化祭の準備は?」
「あー……。うちは休憩所の設置だから」
周囲を目で窺いながら返事した。何せ玄関前の廊下だ、こんな目立つところで気安く話しかけられて、また変な噂を立てられても困る。
「あ、そうだった。ミホに聞いたよ。残念だったね」
しかし彼女は何も気にしていない様子で、普通に会話を続けた。そういえばクラス中に怜が好きだと宣言したんだっけ。もう何も気にしないってことか。
「えっと、そっちは謎解き迷路だっけ」
「うん。月峰くんたちと一緒に謎解き作ってるんだ。結構いいのできたから、遊びに来てね」
花の咲きそうな笑顔で言われて、不覚にもどきっとしてしまう。くそ、可愛いな。
「ありがと。謎解きって難しそうだけどできるかな……」
「あれ? 一回もやったことないんだ。意外」
「え? 何で?」
頭良さそうな見た目じゃないと思うけど。実際よくないけど。
「月峰くんがすっごい謎解き上手いから、てっきり新瀬くんと一緒に遊んでたんだと思ってた。そうじゃないんだ」
「いや……。一回もしたことない。そうなんだ」
「すごいよ。レベル高い問題もすらすらって解いちゃう」
三澤の笑顔がバラの棘のようにちくちく刺さった。見惚れてしまいそうな綺麗な顔で、そんなに楽しそうに、怜のことを語らないでほしい。その怜はおれも知らないのに。
「……ごめん。おれ、帰るから」
「あ、ごめんね。引き留めちゃって。バイバイ」
「うん。じゃあね」
不利を悟り、尻尾を巻いて逃げ出そうとした奏に、三澤は明るい笑みを浮かべて手を振り、颯爽と立ち去った。残された奏は溜息をつき、重い足で靴箱に向かう。
だっせえな、おれ。
そういえば、結局、手紙の差出人は現れなかった。もう期待もしていなければ、この状況でもらっても困るのだが、やっぱり自分は無価値で、誰にも必要とされていないんだと思えて、更に気持ちが沈んでいった。
奏は深淵のような靴箱に鬱々とした溜息を詰め込むと、重い足で自宅に帰った。
怜のLINEに気づいたのは、部屋の片付けを終えたときだった。
『ごめん、やっぱり行けない』
ある程度予想はしていたけれど、もしかしたら来てくれるかもと薄ら期待していた。だからこそ、直接ノーを突きつけられるときつい。
奏は皺ひとつなく綺麗に整えたベッドに寝転がり、腕で目を覆った。
まあ、そうだよな。おれなんて、もうどうでもいいよな。可愛い女の子が傍にいるんだし。
でも、何とも思ってないなら部屋に来ないか? つまり、まだ意識してるってこと?
いや、もう気持ちはないけど、おれが懲りずに無神経な誘いをしたってドン引きしてるのかも。
もしかしたら本当に用事があったのかもしれない。おじさんが急に帰ってきたとか。
「わかんねーよ……」
怜のことがわからない。
二人一緒に同じものを見て、なんでもわかり合えていたはずなのに。
ずっと一緒にいたはずなのに。一番近くにいたのはおれだったのに。
「奏」
ドアがノックされ、のろのろと身体を起こすと、母親が顔を出した。
「もうすぐご飯にするけど、怜くんは?」
「……来ないって」
「そう。忙しいのかな。文化祭の準備?」
「知らない。あいつ、何も言ってくれないから」
八つ当たり気味に言うと、母親は苦笑を浮かべた。
「そんなに気になるなら聞けばいいじゃない。スマホですぐに聞けるんでしょ?」
「……え?」
「何驚いてるの。じゃあ、早く降りてきてね」
母親が階下に降りる音を聞きながら、奏は握りしめたままのスマホを見つめていた。そして、「今どこ?」と送ってみる。これも既読スルーされたらどうしようと思ったけれど、すぐに返事が来た。
『学校。これからファミレス行く』
誰とだろう。謎解きメンバーの四人、または三澤さんとふたりきりで告白劇が始まっちゃったりして。そんでオーケーしちゃったりして。そんなのめちゃくちゃ嫌だ――というのはさすがに妄想だけど、そうなってもおかしくない状況だ。
どうしよう。聞くか。いや聞いてどうすんだ。変に踏みこんでまた断られたり、あまつさえ嫌われてしまったら。
逡巡している奏の元に新着メッセージが届く。今度は高橋だった。
『今クラスみんなでファミレス。怜がこれから来るんだけど、三澤さん告るかも』
「は⁉」
血の気が引いた。どうしてそんなことに。画面を凝視していると、聞いてもいないのに高橋が説明してくれた。奏が想像していた通り、クラス一丸となって三澤の告白を応援しよう、という流れになっているらしい。
まずい。迷っている暇なんてない。
震える手で「店どこ」と返信すると、場所が送られてくる。駅前のファミレスだ。
『何、カナ来るの? 席作る?』
『行くわけねーだろ』
誰が公開告白なんて聞くか。その前に、何としてでも阻止しないと。最低でも何でもいい。じゃないと絶対に後悔する。
奏は部屋を飛び出し、勢いよく階下に降りると母親に叫んだ。
「おれ、怜のとこ行ってくる!」
「え? 今から」
「ごめん、ご飯はあとで食べるから!」
言い終わるのと同時に靴を引っかけ、玄関を飛び出し、走り出した。
駅前のファミレスは道路に面した平屋の店舗だ。通行人のふりをして窓ガラス越しに店内の様子を窺ってみたものの、見える範囲にはそれらしき集団の姿は見当たらなかった。怜が合流しているかも不明。ただ、高橋のLINEが沈黙しているので、まだじゃないかと踏んでいる。
奏はファミレスの出入り口から少し離れた場所に控えて、怜に「今いい? 通話したい」とLINEを送った。怜が店に入る前に何としても捕まえなければならない。失敗したら――考えたくもない。とにかく今は怜を見つけることに集中しよう。
まだ来てないよな、と入り口を注意深く監視し、ちらっと画面を確認すると、いつの間にか既読がついていた。しかし、返事はない。怜は基本、メッセージを見るまでが遅いけど、見たらきちんと返してくれる。よほどの事がない限り、既読のまま放置はしない。
嫌な予感を噛みしめながら数分待ってみた。しかし、相変わらず無反応。「もう店にいるの」と追加で質問すると、即既読がついたのに音沙汰なしだ。既読スルーしてんじゃねえよ。面倒な彼女みたいに「ねえ見た?」ってめちゃくちゃ追撃してやろうか、なんて思っても送る勇気はなかった。というか一回断られたのに追いかけて、店先で待ち伏せしている時点で既にやばい。ストーカーじゃん。
やっぱり家に誘ったのがまずかったんだろうか。考えなしに言うんじゃなかったと俯き、足元を見た瞬間、奏は今の自分の格好を思い出した。
部屋着のまま無我夢中で飛び出したので、上は着古した長袖のシャツ、下はジャージ(中学時代のもの)。走ってきたから髪もぼさぼさだし、汗もかいている。念のため腕と首元が臭わないことは確かめたが、客観的に大丈夫かどうか自信はなかった。もちろん制汗剤なんて持ってない。
こんな状態で怜に会ってどうする? これで告白すんの? いや、バカだろ。いくら気の置けない仲だからって、さすがにこれはない。
せめて制服に着替えてくればよかった。何でいつも後先考えないで行動しちゃうんだろう。何回後悔すればわかるんだ。自分がほとほと嫌になる。
でも、仮に身なりを整えて家を出たとしても、相手してもらえないなら結果は同じだ。未だに怜からの返事は来ないし、これが怜の意思表示なのかもしれない。
帰るか、と奏は踵を返す。しかし、数歩歩いたところでもう一度スマホをタップした。
状況は未だ変わっていない。必死な自分のメッセージに既読の二文字がついているだけ。もうこれだけで心が折れそうだった。
でも、でも――やっぱり諦めきれない。
これが最後だ。奏は指を動かし、一言だけ送った。
『会いたい』
すぐに既読がついた。また既読スルーだろうか。
『何で?』
「は?」
画面に向かって声を上げていた。返事があった、じゃない。何でって。
どう返そうか迷っていると、通話がかかってきた。
「も、もしもし、怜? 今どこ?」
『さっきの何』
怒った声で詰問された。
『会いたいって何? 何で?』
「な、何でって……。言葉通りの意味、だけど」
怜の溜息が聞こえる。電波越しに聞くとより冷たかった。
『こういうの、困るから――』
ぶつんと通話が切れた。
どうやってここまで来たのか覚えてない。
真っ直ぐ帰る気になれなくて、奏は毎朝待ち合わせしている公園に寄り、鉄棒にもたれながらぼんやりと薄暗い空を眺めていた。今にも陰って消えそうな小さな月に、目を凝らしてやっと見えるぐらいの小さな星。寂しい夜空だった。公園の電灯は弱々しく掠れていて、地面ではゴミか枯れ葉のかさかさと乾いた音がさざめいている。自分以外の気配はなく、世界に置いていかれてしまったような気持ちになった。
何してるんだろうな、おれ。
今頃、隣のクラスはカップル成立でどんちゃん騒ぎの真っ最中かもしれない。高橋の実況を聞きたくなくてスマホの電源は切ってしまった。今日いっぱいはこのままでいるつもりだけど、いっそバッテリーが干上がって動かなくなってくれればいいのに。
そんなことをしたって、現実は変わらないけど。
気づくのが遅すぎたんだよな。家に誘ったのも最悪だったし、うぜえって、無神経だって思ってんのかも。でも断るにしたって言い方があるじゃん。もっと優しく言えって言ったのに。
過ぎ去ってしまったことを悔やんでも仕方がないのに、傷を抉る作業が止められない。何で、どうして、どうすればよかったと息を吸うたび考えてしまう。終わったものはしょうがないよなと一瞬切り替えようとしても、いつの間にか思考が振り出しに戻っている。負のループに陥っているとわかっているのに、止められない。
「カナ」
スニーカーの底で苛々と地面を掘っていると怜に呼ばれた気がした。やばい、とうとう頭おかしくなったかも。幻聴まで聞こえてきた。そんなに好きならもうちょっと早く気づけって感じだよな。ほんとに全部間が悪い。
「カナ!」
肩を掴まれて、ひっくり返りそうになった。
「うわああっ⁉ え、は? 怜⁉」
「……何やってんだよ、こんなところで」
怜は不機嫌に吐き捨てると、短く息をつき、カーディガンの袖を捲る。
「全然連絡つかないし、おばさんには俺に会いにいったって言われるし、どこにいるかわかんないし……」
にわかには信じられなかった。さっき、こっぴどく拒絶されたのに。
「ていうか、何その格好。何でそんな薄着で……」
カーディガンを脱ごうとするのを慌てて制した。
「だ、大丈夫。マジで風邪とか引いてないから。元気!」
奏の言葉を聞いて、怜が怪訝な顔をした。それはそうだろう。頭悪そうな発言だと自分でも思う。無駄な心配を掛けたくなかったのと、これ以上変に期待をしたくなくて空回ってしまった。もう中途半端に優しくされたくない。どうしたらいいのかわからなくなる。
「……さっきはごめん。途中で切って」
黙る奏に向かって、怜は静かに言った。
「別にいいよ。既読ついてたのにしつこくしてウザかっただろ。悪かった」
「いや、最後のLINE以外は読んでなかった。画面開きっぱなしで、勝手に既読ついてたんだと思う」
「は? あ、そうなんだ……。え?でも、通話切ったじゃん」
怜が苦々しく髪を弄った。
「……間違って切った」
「は? 間違い? 何言ってんだ」
「嘘じゃない。ほんとに、あのときは普通じゃなかった。動揺してて……」
「動揺?」
奏の問いに答えず、怜は電話口と同じ、冷めた溜息をついた。
「……結局、俺に何の用だったの」
こんな険悪な雰囲気で「三澤さんの告白を止めたかった」というエゴにまみれた理由を言ったら、心底軽蔑されそうで怖かった。嫌われるところまで嫌われているなら暴露してもよかったけど、ここまで探しにきてくれたという事実に縋ってしまいたくなる。
崖っぷちだけど、今ならギリギリ引き返せる。もう勝ち目なんてないんだし、適当に理由をつけて、どうにかこの場をやり過ごして、全部なかったことにしてしまえばいい。そうしたら、また明日から怜といつも通り一緒にいられる。これから先もずっと幼馴染で、怜に彼女ができたら祝福して――。
嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。無理だ。
怜の隣に他の誰かが立っているのを見たくない。
おれが、そこにいたい。
言わなきゃだめだ。ここで何も言えなかったら、おれは今日を、この夜を一生後悔する。
勝ち負けなんて関係ない。言わないと何も変わらない。始まらない。
「おれ、怜に言いたいことがあって……」
スマホが震えた。怜のだ。通話なのか、振動音が止まらない。
「……ごめん、ちょっと待って」
そう断ってスマホを取り出し、怜がつぶやいた。三澤、と。
奏はとっさに怜の腕を掴んだ。
「出るなよ」
「え?」
「出るな」
二回、同じ言葉で阻んだ。怜の怪訝が強くなる。
「……何で」
「出てほしくない」
「だから何で」
「わかんねーのかよ!」
驚きを浮かべた怜の目を見つめ、絶対に行かせないように腕を強く握る。
「好きだから……。嫌なんだよ、一緒にいてほしくないんだよ。会いたいんだよ!」
言ってしまった。
声が、手が、情けないほど震えている。
「……カナ、今、何て」
怜の惚けた顔に、もう後には退けないと悟った。
「好きって言った。怜のこと。……幼馴染としてじゃねーから」
もう一度、今度ははっきりと口にする。一度踏み出したら、もう止まれなかった。
「ずっと嫌だったんだ。怜に好きな人がいるって聞いて、喜べって言われて、ずっとモヤモヤしてた。何でかわかんなかったけど、怜がおれ以外の誰かのところに行くのがすげー嫌なんだよ。おれたちの間に入ってほしくない」
怜が小さく息を呑む。
「……いや、それは、幼馴染としてじゃないの」
「違う。全然違う。おれ、めちゃくちゃ三澤さんに妬いてる……。おまえがおれのこと好きだって言ったのに、いちゃいちゃしてんの、すげームカついた」
「……本気? 本気で言ってんの?」
戸惑う怜を睨みつけた。
「冗談でこんなダサいこと言うわけねーだろ」
漫画の台詞のように、綺麗で心に響いて格好いい告白を奏だってしたかった。でも実際は恥ずかしいほど幼稚で自分勝手で傲慢なことばかり口にしている。
こんな汚い気持ち、怜にしか言えない。怜にしか感じない。
「怜」
この距離で視線を見交わすのはこれが最後かもしれない。そう思ったらまた怖くなる。しかし、身体の中から何か大きな衝動が湧き上がってきて、奏の口を動かした。
「今更だってわかってる。バカだって自分でも思うし、もう、怜はおれのこと吹っ切れたかもしれない。でも、どうしても伝えたくて。だから呼んだんだ」
怜が困ったように視線を揺らした。
「……会いたいって、家に来いって言ってたのも、今の話?」
奏が頷くと、怜は明後日の方向に顔を背け、全身をひっくり返したような溜息をつき。
「……そうなんだ」
疲れたようにつぶやいた。
あ、終わった。
頭の片隅で冷静な自分がつぶやき、奏は暗い地面を見つめた。
まあ、そうだよな。そういう反応になるよな。今更何言ってんだよって感じだもんな。
胸の内で膨らんでいた興奮や衝動が勢いよく萎んでいき、足元が覚束なくなる。後ろに鉄棒がなかったらひっくり返っていたかもしれない。
「カナ」
哀れむように優しく呼ばれた。こういうときってどんな反応すればいいんだろ。とりあえず笑う? 笑うってどうやるんだっけ。
「顔上げて」
「……無理」
どうにか返事すると、それだけで泣きそうになった。やばい、はずい。つーか、ダサい。
「カナ」
「も、うるせえ! さっさと言えよ。遅いんだよバーカとか言え……!」
怜に呼ばれるたびに、溺れているみたいに苦しくなる。もうひと思いにとどめを刺してほしい。早く終わらせてくれ。これ以上優しくしないでほしい。
なのに怜は、先程よりも深い溜息をつき、奏を責める。
「……ほんと、カナは俺のこと全然わかってない」
「だって何も言わねーじゃん! おれはいつも言ってるのに、怜は……」
「カナ」
怜は乱雑かつ強引な手つきで奏の両頬を持ち上げる。
急に街灯の薄明かりが差してきて、薄暗い地面に慣れていた目が眩しさに眩む。奏は一度瞼を閉じ、それからそっと開き、惚けた声を出した。
「……怜?」
その先で待っていた怜の笑みに、状況も忘れて見惚れてしまった。この世の不幸なんて何も知らないような、柔らかい笑みだった。
「俺も好きだよ」
「……は?」
おそらく、この場にもっともふさわしくない変な声が出た。
「……怜、今、好きって言った? え、うそ、おれの幻聴……?」
「こんな嘘つくわけ……いや、ついたか」
きつく抱き締められて、怜の鎖骨に顔を押しつけられる。
「……びっくりした。もう完全に終わったって思ってた……。何で今更……」
「あ、ご、ごめん」
「責めてるわけじゃなくて……。ちょっと俺、今、本気で自分が何喋ってんのかわかんないから、適当に聞き流して」
あの怜がパニクっている、らしい。むちゃくちゃなお願いをして困らせることはあるけど、変なことを口走るほど戸惑っているのは初めてで、奏はこくりと喉を鳴らした。目の前で慌てる人がいると冷静になる、なんて聞くけどまさにその通りで、だんだんと状況が飲み込めてくる。
完全に終わったと思っていたのは奏も同じだ。怜の反応があまりにも素っ気なかったから、もう駄目なんだと決めつけていた。でも、聞き間違いじゃなかったら、怜はおれのこと、まだ好きでいてくれたってことになる。
「……つまり、両想い、ってことで、いいの」
おそるおそる確認すると、怜が「うん」と答えた。マジか。マジでか。
大人しかった心臓が急にばくんばくんとうるさく鼓動し始めた。どうしよう、また頭回んなくなりそう。
「カナ、もう一回言って」
「え? え、両想いじゃないの⁉」
恍惚に浸っている状態で言われて変な方向に思考が飛び、肝が冷えたのだが。
「そうじゃなくて……。好きだって言って」
あ、そっち。改めて言われると照れるんだけど。
「す、好きだ、です……?」
「何その口調」
更に引き寄せられて、怜の匂いにめいっぱい包まれる。興奮と幸福で身体中が熱くてふわふわしていた。
ひりつく顔を怜の鎖骨に押しつけながら、奏はどうにか腕を動かし、怜を抱き返す。カーディガンの編み目越しに伝わってくる体温が自分と同じように熱っぽくて、胸が切なくさざめいた。悲しいとか恥ずかしいとかフィクションを見て感動するとか、それ以外で泣きたくなることってあるんだ。両想いってこんな気持ちなんだ。すげえな。
「怜」
「うん?」
好きだよ、ともう一回、今度はちゃんと言おうとしたけれど、胸が苦しくて言えなくなってしまった。代わりに怜のことをめいっぱい抱き締める。好きだと念じながら。
想いはきっと過不足なく伝わった。怜が小さく笑ったから。
怜のスマホが震えたのを機に、そっと抱擁を解いた。持ち主は不服そうだったけど、このままだときりがなさそうだったので。
奏も電源を入れ、しばらくぶりに画面を確認したのだが。
「うわ……」
怜からの着信がずらっと並んでいる。圧がすごい。だいぶ心配を掛けてしまったみたいだ。あとは母親から「怜くん来たよ」、高橋から「怜来れないって!」という正反対のメッセージ。
申し訳ないと思いつつ、ちょっとにやけてしまった。とりあえず母親に「怜に会えた」とメッセージを送ると、珍しくすぐ返事が来た。
「怜」
「ん?」
顔を見るとちょっと照れる。怜も同じらしい。互いにはにかんでしまった、じゃなくて。
「これからうち来ない? 母さんが唐揚げ作ったって」
「そうだな、おばさんに心配かけちゃったし、久しぶりに食べたい」
「最後のが本音だろ。じゃ、うちに帰ろうぜ」
いつものように怜の腕を引っ張ろうとして、手を握った。俗に言う恋人繋ぎではなく、小学校の頃のように無邪気な握り方で。でも、心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
「カナの手、熱い」
「怜のだって」
そんな言葉を交わしながら、昔一緒に帰った道を、手を繋いで歩いた。
食事を終えたタイミングで父親が帰ってきて、久しぶりに怜の顔を見たとたいそう喜んだ。怜も嬉しそうだったので、それはいい。でも、奏がトイレに行っている間に「もちろん泊まってくだろ?」と怜を押し切ってしまった。場所はもちろん奏の部屋だ。
「……なんか、ごめんな。うちの父が、マジで」
告白した日に同じ部屋に泊まるってやばすぎる。でも、そんなことを思っているのは奏だけかもしれない。
「いや、いいよ。大丈夫」
そう答える怜は、座椅子に足を投げ出し漫画を読んでいた。奏の家に来なかった期間の新刊を熱心に読みふけっている。漫画のほうが優先かと少し不満ではあるけれど、油断すると顔を見るだけで照れそうになるので、今はこれで十分だ。
奏はベッドの上で三角座りし、黒い後頭部のつむじを目で追っていた。右向きだな、とどうでもいいことを考えていると、怜が漫画を閉じて、急に振り返った。そして一言。
「……何、その顔」
ちなみに、怜の顔は呆れ返っている。
「おれ、どんな顔してる?」
「笑うのに失敗した感じ。……そっち行っていい?」
「え? ド、ドウゾ……」
ぎこちなく隣を示す。ベッドがきしみ、怜が隣に座った。肩が触れ合いそうな距離だ。
「ち、近くねーか?」
「どっかの誰かさんはもっと近かったけど」
意地悪な発言で気づいた。
「仕返し⁉」
奏が無自覚無神経を働いてた頃の。
「冗談だよ」
怜は笑って、拳ひとつ分を空けると足を真っ直ぐ投げ出した。それから、部屋着のシャツの匂いを嗅いだ。
「何、臭い? 変える?」
怜が着ているのは、中学時代に置いていったスウェットだ。あの頃はよく泊まりに来ていたので、下着とスウェットを何セットか置いていた。
「いや、逆。いい匂いでびっくりした。おばさん、定期的に洗ってくれてたのかも」
「でも、さすがに買い換えたほうがいいんじゃね? 丈足りてねーじゃん」
黒いスウェットの裾から骨張ったくるぶしが飛び出しているのを見て、少し悔しくなった。奏の身長は一センチも伸びていないのに、怜はまだ成長期の真っ最中らしい。
「そうだね。お下がり、カナにあげようか? さすがにデカいか」
「さっきから辛辣だな⁉」
「ごめんごめん。なんか俺、浮かれてるっぽい」
浮かれて毒舌になるって何かおかしい。でも、蕩けるような目で見つめられたら言い返せない。
「……そうだ。結局クラスの方はよかったのか? 作業するって言ってたよな」
「別にいいよ。さっきグループトーク見たけど、ご飯食べて終わりだったってさ」
「そっか」
「一応確認するけど、明日から残って作業しても大丈夫?」
何でそんなことを聞くんだ、と不思議に思ったけれど、すぐに合点がいった。三澤がいるからだ。さっき世にも醜い嫉妬をべらべらと喋ってしまったから。
「あー……。ごめん、いい、大丈夫。全然気にしなくていいから、マジで」
気を遣ったつもりなのに、怜の横顔が曇る。
「そこまで言われると逆に喜べないんだけど」
「え? 何で?」
物言いたげな目で睨まれた。何で?
「……カナ、今日の帰り、三澤と話してたんだろ」
「ああ、うん。声掛けられて……。もしかして何か言われてた?」
怜の表情で全てを察した。
「他クラスでだけど、カナってやっぱり三澤のこと好きなんじゃないかって盛り上がってたらしいよ。高橋が言ってた」
「うっわ、そういうのマジでうざい……。どうせ影で笑われてるんだろうな。高嶺の花とか身の程知らずとか言われて」
「だから、そう思ってんのはカナだけだって。全然、見劣りなんてしないから」
「はあ……」
その反応が不服だったようで、怜は短く嘆息した。
「俺はそれを聞いて、カナが三澤のこと気になってるんじゃないかって思ったんだけど」
「いやいやいやちょっと待て。何でそーなる⁉」
ありえない妄想だ。しかし怜は大真面目に続きを話した。
「カナは人を見た目で判断したりしないから、三澤のこともちゃんと中身を見てるんだろうなって思ったんだよ。前に褒めてたしね。漫画好きだから話も合うだろうし。だから家に呼ばれたのは、その相談されるんじゃないかって……」
「だから、何でそうなるんだよ!」
「突然神妙な顔で家に誘われたら、普通、大事な話があるって思うだろ」
だからって何でおれが三澤さんなんだ。奏の不服を察したのか、怜は自嘲を浮かべた。
「カナ、ずっと俺に気を遣ってくれてただろ。でも、家に呼んだってことは、もう終わりにするって、本当に幼馴染に戻るつもりで、俺にそういう相談でもするんじゃないかって思った。三澤が俺のこと好きだって知ってるから義理立てみたいな。だから行きたくなかった」
何だそりゃ、と溜息が出た。
「おれ、すっごい気合入れて掃除したんだけど!」
「そういえば今日、部屋綺麗だな」
「そーだよ。おまえが来るから、おまえに話すから、ちゃんとしないとって……」
近くにあった枕を抱き締めて、「バカ」とつぶやく。怜が気まずそうに目を逸らしたのにいらっとして、足を蹴ってやった。ばーか。
「ひとつ聞いていい?」
「今みたいな話だったら蹴るぞ」
「ほんとに謎なんだけど、いつ俺のこと好きになったの? ずっとそんな素振りなかったよね?」
今度はそっちか。絶対バカにされるなと思いながら、重い口を開いた。
「……昨日」
「は? 昨日?」
予想通り、怜は素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。
「気づいたのが昨日。いつからかはわかんねーよ。途中で考えるの止めた。あ、でも、気の迷いとかじゃないから。さっき言ったことに嘘はねーから」
それだけは勘違いされたくないので念押しするが、怜は上の空だ。
「え、待ってよ。ほんとに昨日の今日で言ったんだ……。ほんとせっかちっていうか、後先考えないよね……」
「悪かったな考えなしで。言っとくけど、怜のせいだからな」
奏は枕を抱え直し、顎を載せてむすっとする。
「何で俺?」
「さっきの話の逆だよ。おまえの方こそどう見ても三澤さんといい感じだっただろ。だから、早く言わねーと取られるかもって」
言葉にしてから、また随分と幼稚な発言だなと自分に呆れた。直前まで軽口を叩いていた怜も押し黙ってしまい、恥ずかしさがいっそう募る。
「何だよ。怜だって変な妄想してただろ。……いや、それはおれが悪いけどさ」
「カナ」
「何」
横を向くなり動けなくなった。鼻先が当たりそうなほど近くに顔がある。うわ、と思ったら、そのまま声に出てしまい、怜が目を丸くする。
「ごめん、今『うわ』って言った……」
正直に白状したら怜に笑われてしまった。変な声を上げたり、ジャージで外に飛び出して告白しようとしたり(した)、ロマンチックが欠如しすぎだろう。
「少女漫画読んで勉強しようかな」
「何の?」
「ロマンチック……」
「何それ」
怜が目を眇めるように笑うと、ふたつの黒目の片方だけ少し茶色く見えた。ずっと真っ黒だと思っていたから新発見だ。光の加減か、境界線の溶けそうな距離のせいか。
「前に言わなかったっけ。カナはカナのままでいいって」
きらきら光る虹彩に見入っていたら、「目瞑って」とささやかれた。奏が緊張気味に瞼を下ろすと、そっと頬を撫でられる。その指先が震えていて、奏の胸もさざめいた。
そういえば、怜にまだ聞いていない。いつからおれのことを好きだったんだって。
瞼が開いたら聞いてみようと思ったけど、柔らかい唇が重なる感覚に頭がのぼせて、何にも考えられなくなってしまった。
「……なんか、怜に聞こうと思ったけど、全部忘れた」
「何それ。地味に気になるんだけど。思い出したら教えて」
そうだ、今すぐじゃなくてもいいんだ。これからたくさん話して、たくさん聞こう。幼馴染の怜も、そうじゃない怜のことも、たくさん知りたい。ずっと見ていたい。怜の隣で、ずっと。
***
まさか、カナが俺を好きになる日が来るなんて思わなかった。
あまりにも都合のいいことばかり起きるから、全部夢の中の出来事なんじゃないかと密かに疑っていた。寝て起きたら自分の部屋のベッドにいて、何ら変哲のない――カナと幼馴染として過ごす日々に戻っていてもおかしくない。全部が全部出来すぎている。
でも、浅い眠りから目が覚めても、俺はカナの部屋にいた。顔の横には枕が転がっている。昔のように上から落ちてきたらしい。
布団から身体を起こし、隣のベッドを覗く。カナは身体を丸めるようにして大人しく眠っていた。カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた横顔は、まるで宗教画の天使みたいに無垢で穏やかで幸せそうだ。
足元に蹴飛ばされた毛布を直してやって、しばらくカナを眺めているとアラームが鳴った。昔は寝起きが悪かったのに、意外にもカナはすぐに起きた。俺を見て、不思議そうに瞬きをする。
「怜?」
「うん、おはよう」
「おはよ……」
まだ頭が働いてないようで、声も顔も無防備にぼーっとしていてかわいかった。乱れた髪を直してやると、カナはうっとりと目を閉じて――勢いよくかっ開く。
「うわあっ、なっ、な、なっ……」
どうやら覚醒したらしい。突然叫んで絶句して真っ赤になるから俺も驚いて、同時に安心した。カナの漫画みたいに大袈裟なリアクションのおかげで、昨日の出来事は夢じゃないんだとようやく確信できた。
「カナ」
枕に顔を埋めてしまったカナの髪を撫でながら、「好きだよ」とささやくと、カナは飛び跳ねるように起き上がり、俺の顔を見て破裂しそうなほど顔を赤く染める。指で触れたら本当に爆発してしまいそうだったので、俺は伸ばした手を引っ込めて笑った。
幸せな朝だった。
一晩寝たら忘れてたりして、と思ったけれど、起きても気持ちは変わらなかった。というか、考えすぎてあまり眠れなかった。
「奏、早いね。もう行くの? カレー食べる?」
「いらない……。行ってきます」
いつもより三十分早く家を出て、怜との待ち合わせ場所――駅の近くの寂れた公園に向かった。昔、ふたりでよく遊んだ場所だ。駅前だと人が多くて怜が居づらいから、高校に入ってから、一緒に登校するときはずっとここで待ち合わせていた。
いつも怜が先に来ていて、奏は待ち合わせの時間ギリギリに着くので、ひとり時間を潰すのは初めてだ。
怜を真似て、入り口近くの鉄棒に寄りかかって英単語帳を開いてみたが、一呼吸後には全く別のことを――怜のことを考えてしまう。
どんな顔で会えばいいんだろう。どんな話をすればいいんだろう。
少し前も同じ問答をしたけれど、あのときとは全く気持ちの種類が違う。一体どう扱えばいいのか、奏には全くわからなかった。何せ、これが初恋だし。
おれはいつから怜のことが好きだったんだろう。教室でキスされてから? それともずっと前から好きで、ただ気づかなかっただけ?
昨晩からずっとこんな調子だ。卵か鶏か、みたいな埒のあかない追いかけっこが脳内で延々と繰り返されていて、とてもじゃないけど勉強にリソースを割ける状態じゃない。
「……カナ?」
しかし、待ち人の声がするなり、奏の意識はガソリンでも注がれたように、怜に向かって一気に動き出した。
怜は眉間に皺を寄せ、戸惑いを浮かべて奏を見ていた。朝日がまるで後光のように背後から差していて、妙に神々しく見える。ていうかこいつマジでイケメンだな。
「お、おはよう」
気後れしながら挨拶すると、怜はスマホを取り出し、画面を確認した。
「え、俺、時間間違った? スマホ壊れてる?」
「いや、おれが早く来ただけ」
「は? 嘘だろ? 何で?」
おまえのせいで眠りが浅かったんだよ、なんて言えるわけがない。仕方なく曖昧に笑ってみせたのだが、それがますます怜の不安を煽ったらしい。
「大丈夫? 風邪引いたとか? 変なものでも食べた? 昨日おじさんがご飯作る日だったんだって?」
「大丈夫だよ。全然普通。マジで平気。ちょっと早く目覚めただけで」
「カナが早起きするってのが既に異常なんだって」
だから言い方。
「心配なら熱でも測れば。絶対平気だろうけど」
あまりの信用のなさに軽口を叩いたら、怜の手がにゅっと伸びてきた。
「え?」
前髪を優しくかき上げ、手のひらが額にそっと触れる――いやちょっと待て。急に何してんだよこいつ。
「熱は、ない……? え、カナ? 本当に大丈夫? 顔、真っ赤だけど」
ひんやりとして、骨張った手のひらの感触が生々しい。その状態で顔を覗き込まれたら。
「っ……。バーーカ!」
諸悪の根源を睨んで奏は叫ぶ。頭がパンクして小学生のような文句しか出なかった。
「ちょっ……。何? ほんとに大丈夫?」
大丈夫じゃない。心臓が爆発しそうだ。いや、したかも。鼓動がやばい。体育の授業で全力ダッシュしたときよりもうるさく鳴っている。一生分の鼓動の回数は決まっている、なんて話を聞いたことがあるけど、本当なら今日で十年ぐらい寿命が縮まった気がする。
「カナ?」
おれ、何でこいつと普通に一緒にいられたんだろう。
怪訝そうに顔を近づけてくるのをどうにか押し退け、奏は早足で歩き出す。
困った。世界が一変してしまった。どうしよう。
マジで怜のこと好きなんだ、おれ。
文化祭の準備のため、怜は図書室に寄ると言う。
「体調悪かったら保健室行きなよ」
おまえといると悪化するんだよ。
心配する怜を追い払って教室に行き、机に突っ伏していると「カナ」と明るく呼ばれた。高橋の声だ。朝から元気だなと顔を上げると、奏の前の席に勝手に座っている。
「おはよ。何だよ」
「カナの無罪放免が決まったから、お祝いに来た」
「はあ?」
「昨日LINEしただろ。クラスのやつらとファミレス行ってたんだけど――あ、怜は面談とかで残ってたから、それ以外な。したらさ、誰かが聞いたんだよ。カナと三澤さんってどうなんだって。何て言ったと思う?」
「知らねーよ。どうせ眼中にないとかだろ?」
「それがさー、三澤さんはっきり言ったんだよ。『私が好きなのは月峰くんだから』って」
「……は?」
がばっと身体を起こすと、高橋が「釣れた釣れた」と笑った。いや、笑い事じゃねーし。
「え? 三澤さんが告白したってこと?」
「しーっ、声でけえよ。怜はいなかったって言っただろ」
奏は声を潜めて尋ねた。
「じゃあ、怜は知らないってこと?」
「そうそう。あの場にいたメンバーだけの秘密ってことで口止めされてる。ただ、カナは当事者みたいなもんだし、三澤さんに聞いたんだよ。そしたら、新瀬くんならいいよって。LINEで報告しようと思ったけど、こういうのは直接言ったほうがいいと思って」
高橋は満足げに笑い、奏の肩をねぎらうように叩く。
「あ、ただし怜には絶対内緒な。自分で言いたいんだって。健気だよな」
しみじみと言う高橋の前で、奏は屋上での怜のコメントを思い出していた。
「いや、外堀めちゃくちゃ埋めてんじゃん……」
健気かもしれないけど、やっぱり強かだ。
「それだけ本気ってことだろ。ちなみに三澤さん、女子アナ志望らしいぜ。俺らもそっちの彼女ができるかも……」
「おまえ個人情報ベラベラ喋りすぎ。彼女できねーぞ」
高橋を追い返し、奏は再び机に突っ伏した。
三澤がアプローチに動いたのは想定内だが、外堀を埋めてくるとは思わなかった。確かに、クラスの団結力が高まっている中で気持ちを暴露すれば、クラスメイトたちは三澤を応援し、ふたりをくっつけようとするだろう。他の女子への牽制にもなるし、断りづらい空気になりそうだし、メリットが多い。マジで頭いいな。
ただ、怜は圧力とか空気とかが大嫌いなので、興味がなければその場の雰囲気なんて関係なく断るだろう。怜に興味がなければの話だけど。
高橋、その辺どうなのか怜に聞いてくれねーかな。おれの口からは絶対聞けないし。
いや、これっておれが勝手に気を揉んでるだけ? さっきの接触は全くためらいがなかったし、もう意識なんてしてないのかも。怜の中ではとっくに終わっていて「もうカナなんて好きじゃないから安心して」なんて言われるかもしれない。
そうなれば奏は「怜の好きな人」から「ただの幼馴染」――怜を見守り、怜の幸せを祝福する立場になる。それを想像し、奏の胸は手で心臓を潰されたようにきつく痛んだ。放課後の教室で怜に「よかったな」と不承不承告げたけど、今度は本気で言わなければならない。嫌だ。めちゃくちゃしんどい。
もしあの日に戻れるなら、軽率なことをした自分をぶん殴ってやりたい。おまえはほんとは怜が好きなんだって言ってやりたい。そうしたら、もしかしたら今頃おれたちは。
――ばかじゃねーの。
怜を散々傷つけておいて、何都合のいい妄想してるんだよ。夢見るのもいい加減にしろ。せっかく幼馴染に戻ったのに、怜が全部飲み込んでくれたのに、その怜の幸せを願ってやれないなんて本当に最悪だ。怜のおじさんによろしくって言われたのに。
恋愛って、人を好きになるって、もっとキラキラしていて綺麗なものだと思っていた。しかし奏の内に潜むそれは、自分の醜い部分を集めて煮詰めた闇鍋のようだ。どす黒く濁っていて、汚くて、おどろおどろしい。一度触れたら呪われて、どんどん悪い方向に落ちていく。ネガティブが加速し、溜息が止まらない。
こんな無神経で自己中なやつ、そりゃあ見限るよな。あのまま幼馴染を続けてもらったことが奇跡だ。好きになるなら、自分に好意があって、素直に健気に追いかけてくれる子のほうがいいに決まってるよな。
ていうか三澤さん、女子アナ志望なんだ。ちゃんと進路も決まってて偉いな。おれなんか全然、何がしたいのかもわかんないのに――。
「カナ」
呼ばれてはっと顔を上げ、心臓が跳ねた。
「怜……」
奏の負のループを断ち切ったのは、他でもない怜だった。
「びっ、くりした……。何で?」
席替えしてから――キスされてから、怜が奏の席に来たのは初めてだった。
「高橋が、カナがずっと机に伏せってるって言ってたから。やっぱ具合悪いんじゃないの?」
「いや、全然……」
メンタルの具合は悪いけど、身体は悲しいほどに元気だ。しかしそれを証明する手立てはない。とりあえず、また額を触られたら困ると思ったので両手でガードした。
「……何やってんの?」
「熱はないから。マジで」
「え? ああ、ガードしてるってこと? ぷっ、何それ……」
なぜかツボったらしく、怜が突然、顔をくしゃくしゃにして笑った。目を細めて、眉をひそめて、口角は綺麗な弧を描いて。
いつも涼しげな怜が、幸せしか知らない子どもみたいに顔中いっぱいに喜びを浮かべるとき、奏も同じように嬉しくなった。でも、今は胸の内が弓を引き絞ったように苦しい。
好きだ。怜が好きだ。昨日の夜に感じたよりも確かな熱と手応えが自分の胸の中に宿り、広がっていくのを感じる。
この顔も他の顔も、怜を誰にも取られたくない。
「……あのさ、怜」
「ん?」
切り出してみたものの、緊張して震え出しそうだった。
怜も、三澤さんも、校舎裏の子も、もしかしたらラブレターをくれた子だって、胸が潰れるような気持ちを抱えながら、一歩踏み出したんだろうか。すごい勇気だ。
「カナ?」
奏は短く呼吸し、からからの唇を舌で軽く舐める。それから、怜以外の誰にも聞こえないよう、声を潜めて言った。
「今日、学校終わったら、部屋に来てほしい」
あの日以来、暗黙の了解で引いていた境界線をあえて踏み越えたのはこれが初めてだった。怜も何かを察したのか、黒い目をこれ以上なく丸くした。
数秒間、ふたりの間に気まずい沈黙が流れ、やがて怜の唇が動いた。カナ、と声なき声に呼ばれた奏は姿勢を正し、次の言葉を待とうとした、その矢先だ。
予鈴が鳴った。
緊張の糸がばつんと切れ、奏と怜は、図ったように息をつく。
「……俺、戻んないと」
そう言って、椅子を引いて立ち上がる寸前、怜は奏をちらっと見た。
「文化祭の準備があるから、終わったらLINEする」
「え? じゃあ」
「行けそうだったら、行く」
それって「行かない」ってやつじゃねーの。
喉元まで出かかったけど、怜の困った顔を見ていたら、何も言えなかった。
何の前触れもなく誘ったのが悪かったのかもしれない。
そう思って、休み時間に「大事な話があるから、怜に聞いてほしい」と改めて連絡を入れた。しかし放課後になっても既読スルーが続いている。
このままなかったことにされたらどうしよう。不安だ。でも怜は連絡すると言っていたし、その言葉を信じて待つしかない。
とりあえず部屋の片付けでもするか。この際、隅から隅までぴかぴかにして驚かせてやろうかな。
帰ろうとしたところで、「新瀬くん」と呼ばれた。
「三澤さん」
「もう帰るの? 文化祭の準備は?」
「あー……。うちは休憩所の設置だから」
周囲を目で窺いながら返事した。何せ玄関前の廊下だ、こんな目立つところで気安く話しかけられて、また変な噂を立てられても困る。
「あ、そうだった。ミホに聞いたよ。残念だったね」
しかし彼女は何も気にしていない様子で、普通に会話を続けた。そういえばクラス中に怜が好きだと宣言したんだっけ。もう何も気にしないってことか。
「えっと、そっちは謎解き迷路だっけ」
「うん。月峰くんたちと一緒に謎解き作ってるんだ。結構いいのできたから、遊びに来てね」
花の咲きそうな笑顔で言われて、不覚にもどきっとしてしまう。くそ、可愛いな。
「ありがと。謎解きって難しそうだけどできるかな……」
「あれ? 一回もやったことないんだ。意外」
「え? 何で?」
頭良さそうな見た目じゃないと思うけど。実際よくないけど。
「月峰くんがすっごい謎解き上手いから、てっきり新瀬くんと一緒に遊んでたんだと思ってた。そうじゃないんだ」
「いや……。一回もしたことない。そうなんだ」
「すごいよ。レベル高い問題もすらすらって解いちゃう」
三澤の笑顔がバラの棘のようにちくちく刺さった。見惚れてしまいそうな綺麗な顔で、そんなに楽しそうに、怜のことを語らないでほしい。その怜はおれも知らないのに。
「……ごめん。おれ、帰るから」
「あ、ごめんね。引き留めちゃって。バイバイ」
「うん。じゃあね」
不利を悟り、尻尾を巻いて逃げ出そうとした奏に、三澤は明るい笑みを浮かべて手を振り、颯爽と立ち去った。残された奏は溜息をつき、重い足で靴箱に向かう。
だっせえな、おれ。
そういえば、結局、手紙の差出人は現れなかった。もう期待もしていなければ、この状況でもらっても困るのだが、やっぱり自分は無価値で、誰にも必要とされていないんだと思えて、更に気持ちが沈んでいった。
奏は深淵のような靴箱に鬱々とした溜息を詰め込むと、重い足で自宅に帰った。
怜のLINEに気づいたのは、部屋の片付けを終えたときだった。
『ごめん、やっぱり行けない』
ある程度予想はしていたけれど、もしかしたら来てくれるかもと薄ら期待していた。だからこそ、直接ノーを突きつけられるときつい。
奏は皺ひとつなく綺麗に整えたベッドに寝転がり、腕で目を覆った。
まあ、そうだよな。おれなんて、もうどうでもいいよな。可愛い女の子が傍にいるんだし。
でも、何とも思ってないなら部屋に来ないか? つまり、まだ意識してるってこと?
いや、もう気持ちはないけど、おれが懲りずに無神経な誘いをしたってドン引きしてるのかも。
もしかしたら本当に用事があったのかもしれない。おじさんが急に帰ってきたとか。
「わかんねーよ……」
怜のことがわからない。
二人一緒に同じものを見て、なんでもわかり合えていたはずなのに。
ずっと一緒にいたはずなのに。一番近くにいたのはおれだったのに。
「奏」
ドアがノックされ、のろのろと身体を起こすと、母親が顔を出した。
「もうすぐご飯にするけど、怜くんは?」
「……来ないって」
「そう。忙しいのかな。文化祭の準備?」
「知らない。あいつ、何も言ってくれないから」
八つ当たり気味に言うと、母親は苦笑を浮かべた。
「そんなに気になるなら聞けばいいじゃない。スマホですぐに聞けるんでしょ?」
「……え?」
「何驚いてるの。じゃあ、早く降りてきてね」
母親が階下に降りる音を聞きながら、奏は握りしめたままのスマホを見つめていた。そして、「今どこ?」と送ってみる。これも既読スルーされたらどうしようと思ったけれど、すぐに返事が来た。
『学校。これからファミレス行く』
誰とだろう。謎解きメンバーの四人、または三澤さんとふたりきりで告白劇が始まっちゃったりして。そんでオーケーしちゃったりして。そんなのめちゃくちゃ嫌だ――というのはさすがに妄想だけど、そうなってもおかしくない状況だ。
どうしよう。聞くか。いや聞いてどうすんだ。変に踏みこんでまた断られたり、あまつさえ嫌われてしまったら。
逡巡している奏の元に新着メッセージが届く。今度は高橋だった。
『今クラスみんなでファミレス。怜がこれから来るんだけど、三澤さん告るかも』
「は⁉」
血の気が引いた。どうしてそんなことに。画面を凝視していると、聞いてもいないのに高橋が説明してくれた。奏が想像していた通り、クラス一丸となって三澤の告白を応援しよう、という流れになっているらしい。
まずい。迷っている暇なんてない。
震える手で「店どこ」と返信すると、場所が送られてくる。駅前のファミレスだ。
『何、カナ来るの? 席作る?』
『行くわけねーだろ』
誰が公開告白なんて聞くか。その前に、何としてでも阻止しないと。最低でも何でもいい。じゃないと絶対に後悔する。
奏は部屋を飛び出し、勢いよく階下に降りると母親に叫んだ。
「おれ、怜のとこ行ってくる!」
「え? 今から」
「ごめん、ご飯はあとで食べるから!」
言い終わるのと同時に靴を引っかけ、玄関を飛び出し、走り出した。
駅前のファミレスは道路に面した平屋の店舗だ。通行人のふりをして窓ガラス越しに店内の様子を窺ってみたものの、見える範囲にはそれらしき集団の姿は見当たらなかった。怜が合流しているかも不明。ただ、高橋のLINEが沈黙しているので、まだじゃないかと踏んでいる。
奏はファミレスの出入り口から少し離れた場所に控えて、怜に「今いい? 通話したい」とLINEを送った。怜が店に入る前に何としても捕まえなければならない。失敗したら――考えたくもない。とにかく今は怜を見つけることに集中しよう。
まだ来てないよな、と入り口を注意深く監視し、ちらっと画面を確認すると、いつの間にか既読がついていた。しかし、返事はない。怜は基本、メッセージを見るまでが遅いけど、見たらきちんと返してくれる。よほどの事がない限り、既読のまま放置はしない。
嫌な予感を噛みしめながら数分待ってみた。しかし、相変わらず無反応。「もう店にいるの」と追加で質問すると、即既読がついたのに音沙汰なしだ。既読スルーしてんじゃねえよ。面倒な彼女みたいに「ねえ見た?」ってめちゃくちゃ追撃してやろうか、なんて思っても送る勇気はなかった。というか一回断られたのに追いかけて、店先で待ち伏せしている時点で既にやばい。ストーカーじゃん。
やっぱり家に誘ったのがまずかったんだろうか。考えなしに言うんじゃなかったと俯き、足元を見た瞬間、奏は今の自分の格好を思い出した。
部屋着のまま無我夢中で飛び出したので、上は着古した長袖のシャツ、下はジャージ(中学時代のもの)。走ってきたから髪もぼさぼさだし、汗もかいている。念のため腕と首元が臭わないことは確かめたが、客観的に大丈夫かどうか自信はなかった。もちろん制汗剤なんて持ってない。
こんな状態で怜に会ってどうする? これで告白すんの? いや、バカだろ。いくら気の置けない仲だからって、さすがにこれはない。
せめて制服に着替えてくればよかった。何でいつも後先考えないで行動しちゃうんだろう。何回後悔すればわかるんだ。自分がほとほと嫌になる。
でも、仮に身なりを整えて家を出たとしても、相手してもらえないなら結果は同じだ。未だに怜からの返事は来ないし、これが怜の意思表示なのかもしれない。
帰るか、と奏は踵を返す。しかし、数歩歩いたところでもう一度スマホをタップした。
状況は未だ変わっていない。必死な自分のメッセージに既読の二文字がついているだけ。もうこれだけで心が折れそうだった。
でも、でも――やっぱり諦めきれない。
これが最後だ。奏は指を動かし、一言だけ送った。
『会いたい』
すぐに既読がついた。また既読スルーだろうか。
『何で?』
「は?」
画面に向かって声を上げていた。返事があった、じゃない。何でって。
どう返そうか迷っていると、通話がかかってきた。
「も、もしもし、怜? 今どこ?」
『さっきの何』
怒った声で詰問された。
『会いたいって何? 何で?』
「な、何でって……。言葉通りの意味、だけど」
怜の溜息が聞こえる。電波越しに聞くとより冷たかった。
『こういうの、困るから――』
ぶつんと通話が切れた。
どうやってここまで来たのか覚えてない。
真っ直ぐ帰る気になれなくて、奏は毎朝待ち合わせしている公園に寄り、鉄棒にもたれながらぼんやりと薄暗い空を眺めていた。今にも陰って消えそうな小さな月に、目を凝らしてやっと見えるぐらいの小さな星。寂しい夜空だった。公園の電灯は弱々しく掠れていて、地面ではゴミか枯れ葉のかさかさと乾いた音がさざめいている。自分以外の気配はなく、世界に置いていかれてしまったような気持ちになった。
何してるんだろうな、おれ。
今頃、隣のクラスはカップル成立でどんちゃん騒ぎの真っ最中かもしれない。高橋の実況を聞きたくなくてスマホの電源は切ってしまった。今日いっぱいはこのままでいるつもりだけど、いっそバッテリーが干上がって動かなくなってくれればいいのに。
そんなことをしたって、現実は変わらないけど。
気づくのが遅すぎたんだよな。家に誘ったのも最悪だったし、うぜえって、無神経だって思ってんのかも。でも断るにしたって言い方があるじゃん。もっと優しく言えって言ったのに。
過ぎ去ってしまったことを悔やんでも仕方がないのに、傷を抉る作業が止められない。何で、どうして、どうすればよかったと息を吸うたび考えてしまう。終わったものはしょうがないよなと一瞬切り替えようとしても、いつの間にか思考が振り出しに戻っている。負のループに陥っているとわかっているのに、止められない。
「カナ」
スニーカーの底で苛々と地面を掘っていると怜に呼ばれた気がした。やばい、とうとう頭おかしくなったかも。幻聴まで聞こえてきた。そんなに好きならもうちょっと早く気づけって感じだよな。ほんとに全部間が悪い。
「カナ!」
肩を掴まれて、ひっくり返りそうになった。
「うわああっ⁉ え、は? 怜⁉」
「……何やってんだよ、こんなところで」
怜は不機嫌に吐き捨てると、短く息をつき、カーディガンの袖を捲る。
「全然連絡つかないし、おばさんには俺に会いにいったって言われるし、どこにいるかわかんないし……」
にわかには信じられなかった。さっき、こっぴどく拒絶されたのに。
「ていうか、何その格好。何でそんな薄着で……」
カーディガンを脱ごうとするのを慌てて制した。
「だ、大丈夫。マジで風邪とか引いてないから。元気!」
奏の言葉を聞いて、怜が怪訝な顔をした。それはそうだろう。頭悪そうな発言だと自分でも思う。無駄な心配を掛けたくなかったのと、これ以上変に期待をしたくなくて空回ってしまった。もう中途半端に優しくされたくない。どうしたらいいのかわからなくなる。
「……さっきはごめん。途中で切って」
黙る奏に向かって、怜は静かに言った。
「別にいいよ。既読ついてたのにしつこくしてウザかっただろ。悪かった」
「いや、最後のLINE以外は読んでなかった。画面開きっぱなしで、勝手に既読ついてたんだと思う」
「は? あ、そうなんだ……。え?でも、通話切ったじゃん」
怜が苦々しく髪を弄った。
「……間違って切った」
「は? 間違い? 何言ってんだ」
「嘘じゃない。ほんとに、あのときは普通じゃなかった。動揺してて……」
「動揺?」
奏の問いに答えず、怜は電話口と同じ、冷めた溜息をついた。
「……結局、俺に何の用だったの」
こんな険悪な雰囲気で「三澤さんの告白を止めたかった」というエゴにまみれた理由を言ったら、心底軽蔑されそうで怖かった。嫌われるところまで嫌われているなら暴露してもよかったけど、ここまで探しにきてくれたという事実に縋ってしまいたくなる。
崖っぷちだけど、今ならギリギリ引き返せる。もう勝ち目なんてないんだし、適当に理由をつけて、どうにかこの場をやり過ごして、全部なかったことにしてしまえばいい。そうしたら、また明日から怜といつも通り一緒にいられる。これから先もずっと幼馴染で、怜に彼女ができたら祝福して――。
嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。無理だ。
怜の隣に他の誰かが立っているのを見たくない。
おれが、そこにいたい。
言わなきゃだめだ。ここで何も言えなかったら、おれは今日を、この夜を一生後悔する。
勝ち負けなんて関係ない。言わないと何も変わらない。始まらない。
「おれ、怜に言いたいことがあって……」
スマホが震えた。怜のだ。通話なのか、振動音が止まらない。
「……ごめん、ちょっと待って」
そう断ってスマホを取り出し、怜がつぶやいた。三澤、と。
奏はとっさに怜の腕を掴んだ。
「出るなよ」
「え?」
「出るな」
二回、同じ言葉で阻んだ。怜の怪訝が強くなる。
「……何で」
「出てほしくない」
「だから何で」
「わかんねーのかよ!」
驚きを浮かべた怜の目を見つめ、絶対に行かせないように腕を強く握る。
「好きだから……。嫌なんだよ、一緒にいてほしくないんだよ。会いたいんだよ!」
言ってしまった。
声が、手が、情けないほど震えている。
「……カナ、今、何て」
怜の惚けた顔に、もう後には退けないと悟った。
「好きって言った。怜のこと。……幼馴染としてじゃねーから」
もう一度、今度ははっきりと口にする。一度踏み出したら、もう止まれなかった。
「ずっと嫌だったんだ。怜に好きな人がいるって聞いて、喜べって言われて、ずっとモヤモヤしてた。何でかわかんなかったけど、怜がおれ以外の誰かのところに行くのがすげー嫌なんだよ。おれたちの間に入ってほしくない」
怜が小さく息を呑む。
「……いや、それは、幼馴染としてじゃないの」
「違う。全然違う。おれ、めちゃくちゃ三澤さんに妬いてる……。おまえがおれのこと好きだって言ったのに、いちゃいちゃしてんの、すげームカついた」
「……本気? 本気で言ってんの?」
戸惑う怜を睨みつけた。
「冗談でこんなダサいこと言うわけねーだろ」
漫画の台詞のように、綺麗で心に響いて格好いい告白を奏だってしたかった。でも実際は恥ずかしいほど幼稚で自分勝手で傲慢なことばかり口にしている。
こんな汚い気持ち、怜にしか言えない。怜にしか感じない。
「怜」
この距離で視線を見交わすのはこれが最後かもしれない。そう思ったらまた怖くなる。しかし、身体の中から何か大きな衝動が湧き上がってきて、奏の口を動かした。
「今更だってわかってる。バカだって自分でも思うし、もう、怜はおれのこと吹っ切れたかもしれない。でも、どうしても伝えたくて。だから呼んだんだ」
怜が困ったように視線を揺らした。
「……会いたいって、家に来いって言ってたのも、今の話?」
奏が頷くと、怜は明後日の方向に顔を背け、全身をひっくり返したような溜息をつき。
「……そうなんだ」
疲れたようにつぶやいた。
あ、終わった。
頭の片隅で冷静な自分がつぶやき、奏は暗い地面を見つめた。
まあ、そうだよな。そういう反応になるよな。今更何言ってんだよって感じだもんな。
胸の内で膨らんでいた興奮や衝動が勢いよく萎んでいき、足元が覚束なくなる。後ろに鉄棒がなかったらひっくり返っていたかもしれない。
「カナ」
哀れむように優しく呼ばれた。こういうときってどんな反応すればいいんだろ。とりあえず笑う? 笑うってどうやるんだっけ。
「顔上げて」
「……無理」
どうにか返事すると、それだけで泣きそうになった。やばい、はずい。つーか、ダサい。
「カナ」
「も、うるせえ! さっさと言えよ。遅いんだよバーカとか言え……!」
怜に呼ばれるたびに、溺れているみたいに苦しくなる。もうひと思いにとどめを刺してほしい。早く終わらせてくれ。これ以上優しくしないでほしい。
なのに怜は、先程よりも深い溜息をつき、奏を責める。
「……ほんと、カナは俺のこと全然わかってない」
「だって何も言わねーじゃん! おれはいつも言ってるのに、怜は……」
「カナ」
怜は乱雑かつ強引な手つきで奏の両頬を持ち上げる。
急に街灯の薄明かりが差してきて、薄暗い地面に慣れていた目が眩しさに眩む。奏は一度瞼を閉じ、それからそっと開き、惚けた声を出した。
「……怜?」
その先で待っていた怜の笑みに、状況も忘れて見惚れてしまった。この世の不幸なんて何も知らないような、柔らかい笑みだった。
「俺も好きだよ」
「……は?」
おそらく、この場にもっともふさわしくない変な声が出た。
「……怜、今、好きって言った? え、うそ、おれの幻聴……?」
「こんな嘘つくわけ……いや、ついたか」
きつく抱き締められて、怜の鎖骨に顔を押しつけられる。
「……びっくりした。もう完全に終わったって思ってた……。何で今更……」
「あ、ご、ごめん」
「責めてるわけじゃなくて……。ちょっと俺、今、本気で自分が何喋ってんのかわかんないから、適当に聞き流して」
あの怜がパニクっている、らしい。むちゃくちゃなお願いをして困らせることはあるけど、変なことを口走るほど戸惑っているのは初めてで、奏はこくりと喉を鳴らした。目の前で慌てる人がいると冷静になる、なんて聞くけどまさにその通りで、だんだんと状況が飲み込めてくる。
完全に終わったと思っていたのは奏も同じだ。怜の反応があまりにも素っ気なかったから、もう駄目なんだと決めつけていた。でも、聞き間違いじゃなかったら、怜はおれのこと、まだ好きでいてくれたってことになる。
「……つまり、両想い、ってことで、いいの」
おそるおそる確認すると、怜が「うん」と答えた。マジか。マジでか。
大人しかった心臓が急にばくんばくんとうるさく鼓動し始めた。どうしよう、また頭回んなくなりそう。
「カナ、もう一回言って」
「え? え、両想いじゃないの⁉」
恍惚に浸っている状態で言われて変な方向に思考が飛び、肝が冷えたのだが。
「そうじゃなくて……。好きだって言って」
あ、そっち。改めて言われると照れるんだけど。
「す、好きだ、です……?」
「何その口調」
更に引き寄せられて、怜の匂いにめいっぱい包まれる。興奮と幸福で身体中が熱くてふわふわしていた。
ひりつく顔を怜の鎖骨に押しつけながら、奏はどうにか腕を動かし、怜を抱き返す。カーディガンの編み目越しに伝わってくる体温が自分と同じように熱っぽくて、胸が切なくさざめいた。悲しいとか恥ずかしいとかフィクションを見て感動するとか、それ以外で泣きたくなることってあるんだ。両想いってこんな気持ちなんだ。すげえな。
「怜」
「うん?」
好きだよ、ともう一回、今度はちゃんと言おうとしたけれど、胸が苦しくて言えなくなってしまった。代わりに怜のことをめいっぱい抱き締める。好きだと念じながら。
想いはきっと過不足なく伝わった。怜が小さく笑ったから。
怜のスマホが震えたのを機に、そっと抱擁を解いた。持ち主は不服そうだったけど、このままだときりがなさそうだったので。
奏も電源を入れ、しばらくぶりに画面を確認したのだが。
「うわ……」
怜からの着信がずらっと並んでいる。圧がすごい。だいぶ心配を掛けてしまったみたいだ。あとは母親から「怜くん来たよ」、高橋から「怜来れないって!」という正反対のメッセージ。
申し訳ないと思いつつ、ちょっとにやけてしまった。とりあえず母親に「怜に会えた」とメッセージを送ると、珍しくすぐ返事が来た。
「怜」
「ん?」
顔を見るとちょっと照れる。怜も同じらしい。互いにはにかんでしまった、じゃなくて。
「これからうち来ない? 母さんが唐揚げ作ったって」
「そうだな、おばさんに心配かけちゃったし、久しぶりに食べたい」
「最後のが本音だろ。じゃ、うちに帰ろうぜ」
いつものように怜の腕を引っ張ろうとして、手を握った。俗に言う恋人繋ぎではなく、小学校の頃のように無邪気な握り方で。でも、心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
「カナの手、熱い」
「怜のだって」
そんな言葉を交わしながら、昔一緒に帰った道を、手を繋いで歩いた。
食事を終えたタイミングで父親が帰ってきて、久しぶりに怜の顔を見たとたいそう喜んだ。怜も嬉しそうだったので、それはいい。でも、奏がトイレに行っている間に「もちろん泊まってくだろ?」と怜を押し切ってしまった。場所はもちろん奏の部屋だ。
「……なんか、ごめんな。うちの父が、マジで」
告白した日に同じ部屋に泊まるってやばすぎる。でも、そんなことを思っているのは奏だけかもしれない。
「いや、いいよ。大丈夫」
そう答える怜は、座椅子に足を投げ出し漫画を読んでいた。奏の家に来なかった期間の新刊を熱心に読みふけっている。漫画のほうが優先かと少し不満ではあるけれど、油断すると顔を見るだけで照れそうになるので、今はこれで十分だ。
奏はベッドの上で三角座りし、黒い後頭部のつむじを目で追っていた。右向きだな、とどうでもいいことを考えていると、怜が漫画を閉じて、急に振り返った。そして一言。
「……何、その顔」
ちなみに、怜の顔は呆れ返っている。
「おれ、どんな顔してる?」
「笑うのに失敗した感じ。……そっち行っていい?」
「え? ド、ドウゾ……」
ぎこちなく隣を示す。ベッドがきしみ、怜が隣に座った。肩が触れ合いそうな距離だ。
「ち、近くねーか?」
「どっかの誰かさんはもっと近かったけど」
意地悪な発言で気づいた。
「仕返し⁉」
奏が無自覚無神経を働いてた頃の。
「冗談だよ」
怜は笑って、拳ひとつ分を空けると足を真っ直ぐ投げ出した。それから、部屋着のシャツの匂いを嗅いだ。
「何、臭い? 変える?」
怜が着ているのは、中学時代に置いていったスウェットだ。あの頃はよく泊まりに来ていたので、下着とスウェットを何セットか置いていた。
「いや、逆。いい匂いでびっくりした。おばさん、定期的に洗ってくれてたのかも」
「でも、さすがに買い換えたほうがいいんじゃね? 丈足りてねーじゃん」
黒いスウェットの裾から骨張ったくるぶしが飛び出しているのを見て、少し悔しくなった。奏の身長は一センチも伸びていないのに、怜はまだ成長期の真っ最中らしい。
「そうだね。お下がり、カナにあげようか? さすがにデカいか」
「さっきから辛辣だな⁉」
「ごめんごめん。なんか俺、浮かれてるっぽい」
浮かれて毒舌になるって何かおかしい。でも、蕩けるような目で見つめられたら言い返せない。
「……そうだ。結局クラスの方はよかったのか? 作業するって言ってたよな」
「別にいいよ。さっきグループトーク見たけど、ご飯食べて終わりだったってさ」
「そっか」
「一応確認するけど、明日から残って作業しても大丈夫?」
何でそんなことを聞くんだ、と不思議に思ったけれど、すぐに合点がいった。三澤がいるからだ。さっき世にも醜い嫉妬をべらべらと喋ってしまったから。
「あー……。ごめん、いい、大丈夫。全然気にしなくていいから、マジで」
気を遣ったつもりなのに、怜の横顔が曇る。
「そこまで言われると逆に喜べないんだけど」
「え? 何で?」
物言いたげな目で睨まれた。何で?
「……カナ、今日の帰り、三澤と話してたんだろ」
「ああ、うん。声掛けられて……。もしかして何か言われてた?」
怜の表情で全てを察した。
「他クラスでだけど、カナってやっぱり三澤のこと好きなんじゃないかって盛り上がってたらしいよ。高橋が言ってた」
「うっわ、そういうのマジでうざい……。どうせ影で笑われてるんだろうな。高嶺の花とか身の程知らずとか言われて」
「だから、そう思ってんのはカナだけだって。全然、見劣りなんてしないから」
「はあ……」
その反応が不服だったようで、怜は短く嘆息した。
「俺はそれを聞いて、カナが三澤のこと気になってるんじゃないかって思ったんだけど」
「いやいやいやちょっと待て。何でそーなる⁉」
ありえない妄想だ。しかし怜は大真面目に続きを話した。
「カナは人を見た目で判断したりしないから、三澤のこともちゃんと中身を見てるんだろうなって思ったんだよ。前に褒めてたしね。漫画好きだから話も合うだろうし。だから家に呼ばれたのは、その相談されるんじゃないかって……」
「だから、何でそうなるんだよ!」
「突然神妙な顔で家に誘われたら、普通、大事な話があるって思うだろ」
だからって何でおれが三澤さんなんだ。奏の不服を察したのか、怜は自嘲を浮かべた。
「カナ、ずっと俺に気を遣ってくれてただろ。でも、家に呼んだってことは、もう終わりにするって、本当に幼馴染に戻るつもりで、俺にそういう相談でもするんじゃないかって思った。三澤が俺のこと好きだって知ってるから義理立てみたいな。だから行きたくなかった」
何だそりゃ、と溜息が出た。
「おれ、すっごい気合入れて掃除したんだけど!」
「そういえば今日、部屋綺麗だな」
「そーだよ。おまえが来るから、おまえに話すから、ちゃんとしないとって……」
近くにあった枕を抱き締めて、「バカ」とつぶやく。怜が気まずそうに目を逸らしたのにいらっとして、足を蹴ってやった。ばーか。
「ひとつ聞いていい?」
「今みたいな話だったら蹴るぞ」
「ほんとに謎なんだけど、いつ俺のこと好きになったの? ずっとそんな素振りなかったよね?」
今度はそっちか。絶対バカにされるなと思いながら、重い口を開いた。
「……昨日」
「は? 昨日?」
予想通り、怜は素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。
「気づいたのが昨日。いつからかはわかんねーよ。途中で考えるの止めた。あ、でも、気の迷いとかじゃないから。さっき言ったことに嘘はねーから」
それだけは勘違いされたくないので念押しするが、怜は上の空だ。
「え、待ってよ。ほんとに昨日の今日で言ったんだ……。ほんとせっかちっていうか、後先考えないよね……」
「悪かったな考えなしで。言っとくけど、怜のせいだからな」
奏は枕を抱え直し、顎を載せてむすっとする。
「何で俺?」
「さっきの話の逆だよ。おまえの方こそどう見ても三澤さんといい感じだっただろ。だから、早く言わねーと取られるかもって」
言葉にしてから、また随分と幼稚な発言だなと自分に呆れた。直前まで軽口を叩いていた怜も押し黙ってしまい、恥ずかしさがいっそう募る。
「何だよ。怜だって変な妄想してただろ。……いや、それはおれが悪いけどさ」
「カナ」
「何」
横を向くなり動けなくなった。鼻先が当たりそうなほど近くに顔がある。うわ、と思ったら、そのまま声に出てしまい、怜が目を丸くする。
「ごめん、今『うわ』って言った……」
正直に白状したら怜に笑われてしまった。変な声を上げたり、ジャージで外に飛び出して告白しようとしたり(した)、ロマンチックが欠如しすぎだろう。
「少女漫画読んで勉強しようかな」
「何の?」
「ロマンチック……」
「何それ」
怜が目を眇めるように笑うと、ふたつの黒目の片方だけ少し茶色く見えた。ずっと真っ黒だと思っていたから新発見だ。光の加減か、境界線の溶けそうな距離のせいか。
「前に言わなかったっけ。カナはカナのままでいいって」
きらきら光る虹彩に見入っていたら、「目瞑って」とささやかれた。奏が緊張気味に瞼を下ろすと、そっと頬を撫でられる。その指先が震えていて、奏の胸もさざめいた。
そういえば、怜にまだ聞いていない。いつからおれのことを好きだったんだって。
瞼が開いたら聞いてみようと思ったけど、柔らかい唇が重なる感覚に頭がのぼせて、何にも考えられなくなってしまった。
「……なんか、怜に聞こうと思ったけど、全部忘れた」
「何それ。地味に気になるんだけど。思い出したら教えて」
そうだ、今すぐじゃなくてもいいんだ。これからたくさん話して、たくさん聞こう。幼馴染の怜も、そうじゃない怜のことも、たくさん知りたい。ずっと見ていたい。怜の隣で、ずっと。
***
まさか、カナが俺を好きになる日が来るなんて思わなかった。
あまりにも都合のいいことばかり起きるから、全部夢の中の出来事なんじゃないかと密かに疑っていた。寝て起きたら自分の部屋のベッドにいて、何ら変哲のない――カナと幼馴染として過ごす日々に戻っていてもおかしくない。全部が全部出来すぎている。
でも、浅い眠りから目が覚めても、俺はカナの部屋にいた。顔の横には枕が転がっている。昔のように上から落ちてきたらしい。
布団から身体を起こし、隣のベッドを覗く。カナは身体を丸めるようにして大人しく眠っていた。カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた横顔は、まるで宗教画の天使みたいに無垢で穏やかで幸せそうだ。
足元に蹴飛ばされた毛布を直してやって、しばらくカナを眺めているとアラームが鳴った。昔は寝起きが悪かったのに、意外にもカナはすぐに起きた。俺を見て、不思議そうに瞬きをする。
「怜?」
「うん、おはよう」
「おはよ……」
まだ頭が働いてないようで、声も顔も無防備にぼーっとしていてかわいかった。乱れた髪を直してやると、カナはうっとりと目を閉じて――勢いよくかっ開く。
「うわあっ、なっ、な、なっ……」
どうやら覚醒したらしい。突然叫んで絶句して真っ赤になるから俺も驚いて、同時に安心した。カナの漫画みたいに大袈裟なリアクションのおかげで、昨日の出来事は夢じゃないんだとようやく確信できた。
「カナ」
枕に顔を埋めてしまったカナの髪を撫でながら、「好きだよ」とささやくと、カナは飛び跳ねるように起き上がり、俺の顔を見て破裂しそうなほど顔を赤く染める。指で触れたら本当に爆発してしまいそうだったので、俺は伸ばした手を引っ込めて笑った。
幸せな朝だった。