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 カナの鈍感さに腹が立った。
 カナの口から無神経な発言を聞きたくなかった。
 カナに、俺の気持ちに気づいてほしかった。
 気づいたら身体が勝手に動いて、カナにキスをしていた。

 
 帰宅すると玄関に革靴が揃えてあった。そういえば帰ってくるって言ってたな。すっかり忘れていたのを申し訳なく思いながらリビングに入ると、レストランの扉を開けたときのようにいい匂いが漂ってきて、キッチンに立った父さんが顔を上げた。
「怜、お帰り」
 前に会ったのは二か月前、梅雨明け直後だった。あれからちょっと痩せた気がする。繁忙期でろくに休めてなかったのかもしれない。それなのに新幹線でこっちに戻ってくるなりキッチンに立っているのだからタフだなと思った。
「ただいま。何作ってんの」
「アクアパッツァ。いい魚を分けてもらったんだ。産地直送だよ」
 キッチンを覗くと、いつも棚の奥で眠っている重たい両手鍋に魚がまるごと一匹、豪快に収められていて、えびや貝やミニトマトと一緒に煮込まれていた。
「新幹線って魚持って乗れるんだ……」
「釣った魚を持って帰る人もいるだろ」
「確かに」
 鍋がぐつぐつと煮える音と魚介とハーブが混ざった匂いに、美味そう、と思った。あんなことがあったのに自然と腹が減るんだから、人間ってどうしようもない生き物だ。
「もうできるから着替えておいで」
「うん」

 自室に引っ込み、制服をハンガーにかける。ズボンのポケットに入っていたスマホに連絡はない。期待もしてない。ただ、カナが無事に帰れたのかは気になった。
 置いてくべきじゃなかったんだろうか。前にここでキスを仕掛けたときのように、冗談だとすぐ取り繕って、なかったことにしてしまえればよかったんだろうか。
 無理だな、と思った。
「怜、できたよ」
 扉の向こうから呼ばれて、俺は「今行く」と答えた。
 さっきまで忘れていたくせに、今日、父さんがいてくれてよかったと心から思った。今夜ここにひとりだったら、延々とカナのことを考えてしまいそうだった。
 
 
 夕飯を食べ終わり、皿を片付けようとしたときだ。父さんが姿勢を正した。
「そろそろ話さないといけないと思ってたんだけど、進路はもう決めてる?」
 そういえば、もうそんな時期だ。もうすぐ進路票を配ると担任が話していた気がする。来年の今頃は受験生という実感は正直まだ湧かない。
「まだ、あんまり。気になってるところはどこも大丈夫そうとは言われてるけど」
「そうか。頑張ってるんだな」
「別に……。一応、都内で探すつもり。ここから通いやすいところかな」
「そこは気にしなくてもいいよ。部屋を借りてもいいし、何なら都内に引っ越ししてもいい」
 思ってもみなかった提案に驚いた。一人暮らしはまだしも、引っ越しって。
「は? 何言ってんの? そんな大袈裟な……」
 父さんは柔和な笑みを崩さなかった。
「大袈裟だなんてことはないよ。通学に時間をかけるのはもったいないだろ。ライフステージに合わせて家を住み替えるのは大事だし、よくあることだから気にしなくていい。怜の好きなようにしていいよ」

 突拍子のないように聞こえた提案が実は理に適っていることも、父さんなりの優しさだということも理解はできた。でも、そんな重大な選択を突然委ねられても困る。何千万、何億でホテルの経営を動かしている人にとっては大した話じゃないのかもしれないけど、新しい家を買って引っ越すなんて、創造の範疇を超えている。
「ごめん、困らせたな。そうしろって言ってるわけじゃないんだ。ただ、将来の選択肢のひとつとして考えてくれればいいから」
 慌てた父さんのフォローを聞きながら、俺はつぶやく。
「将来の、選択……」
「うん。ここに残ってももちろんいいし、どこに行ってもいいんだ。日本でも、海外でも。そのための協力はするから、それは覚えておいて」

 ここから離れる未来。そんな選択肢、考えたこともなかった。大学に進学しても、社会人になっても、ずっとここに住むつもりでいたから。
「ありがたいんだけど、国内外とかスケール大きいんだけど……。俺はここ離れるなんて、考えたこともなかったのに」
「そうだな。ごめん、突然すぎた。怜にとってはここが地元だもんな。……もう戻って七年か」
 棚の写真に目をやる父さんに、かける言葉が見つからなかった。

「そういえば、奏くんは? ここに残るのか?」
 不意に聞かれて胸が痛んだ。心配を掛けたくないので何でもないように答える。
「たぶん実家だと思う。前にそう言ってたから」
 去年の夏、初めて進路調査票をもらったときは「実家から通える大学にする」と言っていた。おそらく都内か県内になるんだろう。少なくとも、一人暮らしはしないと思う。
 想像だけど、カナが家を出るのはきっと恋人ができたときだ。結婚を前提に同棲するんだって満面の笑みで報告してくる光景がリアルに浮かんで苦しくなる。

 カナの思い描く未来と俺の未来は違うんだって、ずっと前からわかっていた。
 でも、「よかったな」って、カナにだけは言われたくなかった。無神経だと思った。どうして気づかないんだよと叫びたかった。
 溜息が出る。
 カナが俺を幼馴染としてずっと大事に想ってくれているのは知っている。あの言葉だって他意はない。俺を想って言ってくれただけ。
 なのに俺は、俺のことばっかりだ。
「奏くんが残るなら、うちはここにあったほうがいいな。ここに残るにしても、一人暮らしするにしても、怜がいつでも帰ってこられるように」
「……うん」
 返事をしたけど、本当はわかっている。
 俺たちはもうすぐ大人になる。
 いつまでも子どものまま、一緒にはいられない。

 
 部屋に戻ってプロジェクターを起動した。何も考えたくなくて、ただ映画でも流そうとしたら、この間のデータが残っていたらしい。カナと一緒に観た懐かしいアニメが流れ出した。止めるのも億劫で、俺はベッドに寝転び、その映像をぼうっと眺めた。
 話の筋はほとんど忘れていた。でも、「ここすごいよな!」とはしゃいでいたな、とか「漫画と変わった!」と怒って俺を睨んでたな、とか、カナのリアクションだけはうっすら覚えていて、自分でも驚く。

 人の記憶はもろく、すぐに忘れてしまうというけれど、何度も何度も反復すると定着する。忘れられない記憶とはその瞬間を何回も追体験した証だ。きっと当時の俺は、カナのリアクションを何度も何度も思い返したんだろう。
「……カナ」
 流れてくる映像が眩しすぎて、両腕で顔を覆う。
 一緒にいられるだけで幸せだった。ぽっかり空いた俺の心の穴は、いつの間にかカナで埋めつくされていて、寂しさも孤独も消え失せていた。
 それだけでよかったのに。

 
 カナは俺の気持ちを確信しただろう。練習だとうそぶいて、「バーカ」と責められた頃にはもう戻れない。

 数時間前の俺は、ただの幼馴染でいたくないと思っていた。
 でも今は、ただの幼馴染に戻りたくてたまらない。
 キスなんてするんじゃなかった。しなければよかった。

 カナは今どうしているんだろう。できれば、そんなに落ち込んでなければいいんだけど――無理だろうな。泣き出しそうな顔が瞼の裏に焼きついている。素直なカナはきっと自分を責めて、いつまでも引きずるんだろう。あっけらかんとしているように見えて繊細で、一度転ぶとなかなか立ち直れないのがカナだ。
 明日は全部忘れて笑っていてほしい、なんて虫のいい話だけど、そう願ってしまう。
 今の俺は、カナのために何ができるんだろうか。
 明日から、どうすればいいんだろう。
 
 ***
 
 怜の好きな人が気になっていた。自分たちの間に割り込んでほしくなかった。
 奏の歪んだ欲望は、予想もしない形で成就してしまった。

 
 夕飯も食べずにベッドに潜り、奏はネットの海を彷徨い続けた。「キス 友達」「幼馴染 好き」「片想い」――色んなワードを組み合わせて検索しては、記憶の怜の言動と照らし合わせる。昨日今日より遡って、デート(の練習)に付き合わせたときのこと、ラブレターを自慢したときの反応、それよりもっと前――高校に上がってから泊まりに来なくなったことだって、今になって思えば全部が全部、伏線だったのかもしれない。

 じゃあ、無茶ぶりをしても付き合ってくれるところや、何だかんだ優しいところは?
 それは怜の本質であって、享受できるのは幼馴染の特権だと思っていたけど、もしもそうじゃなかったら? 怜に特別扱いされていると自覚はしているが、その「特別」とは?

 考え始めたらきりがないし、無意味なのもわかっている。ネットの海で見つかる答えなんて、大衆向けに書かれた占いと同じぐらい当てにならない。決まり切った型に怜を当てはめたって、本当の答えは見つからない。怜のことは怜に聞くしかないと、頭ではわかってる。

 でも、怜の気持ちを知った上で、これ以上踏みこんでいいわけがない。またあんな顔をさせてしまったら、今度こそ自分が許せなくなる。
 スマホが発熱し手のひらに汗が滲んでもなお、奏は答えを求め続けた。
 明日からどう振る舞えばいいのか。どんな顔をすればいいのか。
 怜を傷つけないためには、どうしたらいいのか、必死で考える。

 
 そのまま眠ってしまい、明朝、空腹で目が覚めた。怜を傷つけた云々と感傷に浸っていたくせに、夜は健やかに眠れて朝になれば腹は減りとどこまでも自分勝手で嫌になる。

 今日は土曜――月に一度の登校日だ。
 階段を下りると、本日休みの父親が両手にゴミ袋を抱えて、玄関を出るところだった。奏の顔を見るなり「母さんが心配してたぞ」と外に出て行く。こういうとき、過剰に心配しない父親の態度がありがたかった。

 まずは心配させてしまったことを謝ろうと、リビングに行くと真っ先に母親に謝罪した。
「昨日はごめん。ご飯食べなくて」
 母親は奏を見ると「体調は大丈夫そうね」と笑った。
「おなかすいたでしょ。残してあるけど食べる?」
「うん」
「先にシャワー浴びちゃいなさい」
「わかった。あ、ご飯は自分で用意するから大丈夫」
「じゃあ、冷蔵庫にラップしてあるのを温めて食べてね」

 早起きしたとはいえ時間は有限だ、さすがに二日連続で全力ダッシュは避けたい。
 奏は手早くシャワーを浴びて身支度を調えた。制服に着替え終わったタイミングで目覚ましのアラームが鳴ったので、それを消してリビングに戻って、自分の目を疑った。
「怜……?」
「あ……。おはよう」
 なぜか怜がダイニングで気まずそうに座っている。え? 夢?
 怜の横で平然とコーヒーを飲んでいた父親に視線で説明を求めると、「外にいたから連れてきた」と言って席を立ってしまった。
「仲直りしろよ」
 肩を叩かれ、そっと耳打ちされる。奏が思わず顔を見ると、父親はにやっと笑った。
「いつまでもいじけてんのは格好悪いぞ。寂しいのはわかるけどな」
 前言撤回、マジでうざい。怜に彼女ができて、自分たちの関係性がこじれたと思い込んで気を利かせてくれたつもりなんだろうが、違う。全然違う。今ふたりきりにされるのはめちゃくちゃ困るんだけど。怜の前でどんな顔してメシ食えばいいんだよ。
 怜も同じ気持ちのようで、手つかずのマグカップの前で両手を組み、所在なく指を動かしていた。

 とりあえず、放っておくわけにはいかない。何か喋らないと。
「……えっと、ごめん。連絡くれてた?」
「いや、俺が勝手に来ただけ。おじさんは俺に気を遣ってくれたんだと思う」
「どうせ自分が気持ちよくなりたいだけだろ」
 会話はそこで終了した。気まずい沈黙にじりじりと焼かれ、暑くもないのに背中を汗がつうっと伝う。どうしよう。いや、まずはメシ食わないと。
「朝ご飯食べていい?」
「うん、もちろん」
 短い会話を交わすと、奏は冷蔵庫から昨日の夕飯(さんまの塩焼きだった)を運び出し、レンジで温めた。白米に味噌汁を並べると豪華な朝食セットになった。
「朝から結構食べるんだね」
 今度は怜が口を開いた。場の空気を暖めようとしてくれたのかもしれない。が、逆効果だ。
「……昨日、夜、食べなかったから」
 いや、気まずい。気まずすぎる。これじゃあ怜のせいって言ってるみたいじゃん。当てつけじゃん。嘘でもいいから別の理由にすればよかった。とにかく、何かフォローしないと。
「あ、えっと……怜も食べる?」
「大丈夫。食べてきたから」
「あ、そっか。そうだよな」
 また会話が終わってしまう。次の話題はどうする。
 必死で考えていると、奏の腹が大きな音を立てて空腹を訴えた。タイミングが最悪だ。恥ずかしすぎて顔が熱くなる。
「ちがっ、今のは……」
「俺のことは気にしないでいいから。ていうか、外出てたほうがいいよな」
 立ち上がろうとした怜をとっさに制した。
「いやっ、いい、大丈夫だから。すぐ食うから。ちょっと待ってて、マジで食うから」
 奏の必死の剣幕に圧倒されたのか、怜は嘆息すると席に座り直した。
「ゆっくりでいいよ、って俺が言うのも変だな。邪魔しちゃってごめん」
「父さんが無理やり連れてきたんだろ。怜は悪くないから」
「いや、でも俺が急に来たせいで……」
「あー、謝るの禁止。とりあえずほんとにメシ食うから、適当にくつろいでて。あ、『エレファク』あるよ」

 貸すつもりだった漫画を怜に押しつけ、奏はとりあえずさんまの骨を取ることに集中した。骨も皮も全部綺麗に解体し終えたところで怜の様子をこっそり窺うと、大人しく漫画を読んでいたので少しほっとした。
 今のところは昨日のような剣呑さは感じられないけど、このあとはどうしよう。一緒に登校するんだよな。なら、何か平和に話せるネタがほしい。こんなことならおれも『エレファク』の最新刊を読んでおけばよかった。

「カナ」
「は、はいっ⁉」
 不意打ちを食らってびしっと背中を正すと、怜が目を丸くしたのち苦笑を浮かべた。
「そんなにかしこまんなくていいよ」
「急に呼ぶから……何だよ」
「うん」
 怜も、奏に合わせて背筋を正した。真正面から向けられる視線は昨日のような濁りはなく、朝の空気のように澄んでいる。

「昨日はごめん」
 そのために来たんだろうと思っていたので、奏は「うん」と相槌を打つ。
 気になるのは次の一手だ。昨日は確信めいた言葉は言われてないので、告白されるとしたら、きっと今だ。
 制服のシャツの下で心臓が大きな早鐘を打っていた。腿の上てズボンを掴む手には汗が滲んでいる。こんなに緊張したのは、高校入試の面接以来かもしれない。
 ぎこちなく呼吸する奏の向かいで、怜は視線を一瞬テーブルに投げ、もう一度戻した。そして、緊張を緩めるように柔らかく息をついた。

「……冗談にしては行きすぎてたよね」
「え?」
 思っていたのと真逆の展開に、呆けた声が出た。冗談? まさか、そんな。
 戸惑う奏を見て、怜は渋い笑みを浮かべた。笑わなければと思って必死に口角を上げているような、下手くそな笑顔だ。
 そして、頭をふかぶかと下げた。
「あんなに気まずい空気になるとは思わなかった。ごめん。昨日のことは忘れてほしい」
「忘れろって……」
「ごめん」
 奏が情けない声にも微動だにせず、言い訳も謝罪も口にせず、怜はただ、テーブルに額がついてしまいそうなほど頭を垂れている。

 怜は本気だ。本気で昨日のことをなかったことにしようとしている。冗談ということにして、忘れてほしいと奏に懇願している。そのために、こんな朝早く奏の元に来たのだ。
 どうしよう。どうすればいい。冗談ってなんだ。昨日のことを茶化して軽口でも叩けって? 俳優になったら主演男優賞狙えるかもよ、とか? できるわけない。
 いつも体温低めの怜のあんなに鬼気迫るような姿、あれが冗談だなんて絶対にありえない。怜がああまで感情を露わにするところを奏は初めて見た。
 もし、仮に百歩、いや一億歩譲って冗談だって言うのなら、こんなに真摯に謝罪をしなくてもいいはずだ。練習だった、虫の居所が悪かった、八つ当たりだった、言い訳なんていくらでもある。
 なのに怜は頭を下げ、奏に謝った。そして、奏が気まずくならないよう逃げ道を用意して、幼馴染を続けることを選んだのだ。自分の気持ちをなかったことにして。
 本当にそれでいいのか。
「頭、上げろ。怜」
 静かに頭を上げた怜と視線が交わった瞬間、奏は察した。
 怜はとっくに腹を決めている。下手な同情はいらないと目で叫んでいる。
 怜の意思が、望みが、テレパシーのように伝わってきて、奏は膝の上で拳を握りしめた。

「……アイス」
 ぶっきらぼうに言う。
「あとでアイス奢れ。……もうすんなよ。次はねーから」
 それが奏の精一杯の意思表示だった。忘れてほしいという怜の気持ちを汲む、という。
 怜も察したようで、ようやく表情を少し崩した。
「ありがとう」
「……次はないからな」
「うん。さんま食べるの上手くなったね」
「……怜が昔教えてくれたから」
 怜とこの家で、この場所で食事を共にしていたとき、怜があまりにさんまを上手く捌くのに感動して、やり方を教えてもらったのだ。一度じゃ覚えられなくて何度も、何度も聞いた。そのたびに怜は自分の食べる手を止めて、どこの身をほぐしたらいいのかきちんと教えてくれて。
「懐かしいな」
 奏が今まさに思っていたことを怜がそのまま口にする。
「よくここで一緒にご飯を食べさせてもらってたなって。朝も、夜も」
「……おれも今、そう思ってた」
「そっか」
 昨日と今日の世界は違う。でも、おれたちが幼馴染であることは変わらない。昨日も、今日も、明日も、これから先も、何があっても、ずっと。
 他でもない、怜がそれを望む限り。