脳内がぼんやりした状態で、わたくしは殿下に案内された一室に座っていた。
いくつかわたくしの好きそうな書籍を準備してもらったのだけど、手に取る気になれない。
たまに長くて美しい銀色の髪に触れてみるものの実感がなく、落ち着かない。
脳内では理解をしていても、自分自身に起きていることが未だ理解できず、ただただあっという間に過ぎゆく時間を過ごしていた。
寝ても覚めても、今が何時なのかよくわからない。
お空がとても良く晴れていて、青空が広がっているからお昼なのだろうとは思う。
たまに殿下が顔を出してくださるのだけど、彼もわたくしも改めて二人きりになるのは久しぶりのため会話が続かず、またくるから、と言って彼は執務に出ていったきりだ。
心が少し、ざわめいていた。
それでも殿下が用意してくれたカモミールティーの香りが唯一心に平穏をもたらせてくれる。
「いい香り」
そして、懐かしい光景を思い起こさせた。
夕刻になるまでぼーっと過ごし、はっとしたときには夕日が西の空に沈もうとしている姿が目に入った。
これが、シルヴィアーナとしての毎日なのだ。そう悟るのに少し時間がかかった。
「シルヴィ、入るね」
コンコン、とノックの音がして、殿下が扉の向こうから顔を出したとき、心なしかほっとした。
「これ、返しておかないとと思って」
夕食の時間を告げに来てくれたのかと思ったけどそうではなく、彼が差し出してきたのは一冊のノートだった。
「こ……これは……」
「ノエルの使っていたノートだよ」
「ノエルの?」
「そう。ノエルの」
膝を付き、視線を合わせてくれる殿下はわたくしと目が合うなり柔らかく微笑んでくれる。
嬉しいことなのに、この微笑みをこの距離で堪能してもいいのかと思えるくらい眩しくて、直視できない。
「正式には、レディ・カモミールの使っていたもの、かな」
殿下の手に収まるそのピンク色のノートはずいぶん使い込まれていて、すみの方はボロボロだった。
手を伸ばし、それに触れた途端、不思議と胸が弾んだ。
(書きたい!)
その思いでいっぱいになるのだ。
ページをめくるたび、胸がドキドキしてきて、徐々にめくる速度も上がっていく。
中には一文字一文字丁寧な文字で物語が綴られていた。
わたくしもよく知っている。
ノエルがいつも読んでくれていた、いえ、わたくしが書いていたレディ・カモミールの手記である。
大切に大切に一文一文を綴っている。
ノエルがこの時間をとても慈しんでいたのがよくわかる。
たくさんたくさん考えて築き上げてきた彼女の歴史である。
「あっ……」
だけど、最後に書かれたページだけは違っていた。
物凄い勢いで、殴り書きと言っても過言ではないくらい凄まじい筆圧で文字を書き込んでいた。
(あ……)
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして……』
最後に書かれた一文はほとんど崩れていて、他の人なら読めない人もいるかもしれない。そんな文字で綴られていた。
(ああ、だから……)
あのとき、キルギー扮する偽の怪盗バロニスに突然囚われてしまったのは、わたくしがノエルの書き綴ったシルヴィアーナ自身だったからなのだ。
そして、続く言葉に息を呑む。
「殿下……」
「ん? なんだい?」
「アイリーン様やグレイス様の他に、わたくしがノエルだったということをご存知だった方はいらっしゃるのですか?」
「……いないよ。君が、告げているのだったら別だけど」
少し考えたように、それでもヘイデン様はまた優しい笑みを作る。
「あの……どうして、これを……?」
「拾ったんだよ。わたしが君に与えた加護の力を追ったとき、すでに遅くて、残されたのはそのノートだけだったんだ」
「それでも、どうして……今……」
「だって」
殿下は驚いたように肩をすくめる。
「今日は新月だからね」
わたしだってこんなことは言いたくないけど、と苦笑しながら。
(し……しん……げ……つ……)
改めて窓の外に目をやると、月のない漆黒の闇が広がっていた。
「今日だけだよ」
「えっ……」
「行っておいで」
どこへ?とは聞かない。
だって、わたくしは知っていた。
「そうだね。君が最も信頼した、騎士のもとへ……とでも言うべきかな」
ああ、とてもとても行かせたくないけど……と彼は大袈裟に言うものの、その動作は、『さっ、立って』と言わんばかりにわたくしを導いてくれる。
「で、でも……」
言いかけて、涙がこぼれ落ちたことに気づく。
「ああもう、君にそんな顔はさせたくない」
「で、殿下……あの……」
スマートに取り出したハンカチでわたくしの頬を拭ってくれる殿下に、わたくしは声を震わせ、訪ねていた。
「こ、この……このお方は……本当に……本当に、実在するのですか……」
(またわたくしが、わたくしが作り上げたのではなくて……このお方は……)
「行かせたくない気持ちでいっぱいのわたしはもう答えないよ」
そっと手を取り、殿下の笑みが暖かくその事実を告げてくれる。
(ああ……)
拭っても拭っても止まらない大粒の涙が頬を伝った。
「す、すぐに戻ります」
「本当に、約束だよ」
「新作はないから、怒られてしまうかもしれませんが……」
「そうしたらわたしがすぐに君を救いに行くからね」
行っておいで……、と殿下はわたくしの頬に口づけ、言ってくれた。
わたくしは顔を上げる。
一度ノートを机に置き、深呼吸をする。
(ああ……)
目で追って事実を確認する。
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして、彼女が最も信頼する騎士が現れたのは、その時だった』
そこには、こう書かれていた。
(そ、そうよ)
行かなくてはいけない。
(今日は、行かなくてはならない)
新月の夜は、彼が待っている。
わたくしの最も信頼する騎士で、そして、ノエルの一番の友が、あの木の下で。
いくつかわたくしの好きそうな書籍を準備してもらったのだけど、手に取る気になれない。
たまに長くて美しい銀色の髪に触れてみるものの実感がなく、落ち着かない。
脳内では理解をしていても、自分自身に起きていることが未だ理解できず、ただただあっという間に過ぎゆく時間を過ごしていた。
寝ても覚めても、今が何時なのかよくわからない。
お空がとても良く晴れていて、青空が広がっているからお昼なのだろうとは思う。
たまに殿下が顔を出してくださるのだけど、彼もわたくしも改めて二人きりになるのは久しぶりのため会話が続かず、またくるから、と言って彼は執務に出ていったきりだ。
心が少し、ざわめいていた。
それでも殿下が用意してくれたカモミールティーの香りが唯一心に平穏をもたらせてくれる。
「いい香り」
そして、懐かしい光景を思い起こさせた。
夕刻になるまでぼーっと過ごし、はっとしたときには夕日が西の空に沈もうとしている姿が目に入った。
これが、シルヴィアーナとしての毎日なのだ。そう悟るのに少し時間がかかった。
「シルヴィ、入るね」
コンコン、とノックの音がして、殿下が扉の向こうから顔を出したとき、心なしかほっとした。
「これ、返しておかないとと思って」
夕食の時間を告げに来てくれたのかと思ったけどそうではなく、彼が差し出してきたのは一冊のノートだった。
「こ……これは……」
「ノエルの使っていたノートだよ」
「ノエルの?」
「そう。ノエルの」
膝を付き、視線を合わせてくれる殿下はわたくしと目が合うなり柔らかく微笑んでくれる。
嬉しいことなのに、この微笑みをこの距離で堪能してもいいのかと思えるくらい眩しくて、直視できない。
「正式には、レディ・カモミールの使っていたもの、かな」
殿下の手に収まるそのピンク色のノートはずいぶん使い込まれていて、すみの方はボロボロだった。
手を伸ばし、それに触れた途端、不思議と胸が弾んだ。
(書きたい!)
その思いでいっぱいになるのだ。
ページをめくるたび、胸がドキドキしてきて、徐々にめくる速度も上がっていく。
中には一文字一文字丁寧な文字で物語が綴られていた。
わたくしもよく知っている。
ノエルがいつも読んでくれていた、いえ、わたくしが書いていたレディ・カモミールの手記である。
大切に大切に一文一文を綴っている。
ノエルがこの時間をとても慈しんでいたのがよくわかる。
たくさんたくさん考えて築き上げてきた彼女の歴史である。
「あっ……」
だけど、最後に書かれたページだけは違っていた。
物凄い勢いで、殴り書きと言っても過言ではないくらい凄まじい筆圧で文字を書き込んでいた。
(あ……)
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして……』
最後に書かれた一文はほとんど崩れていて、他の人なら読めない人もいるかもしれない。そんな文字で綴られていた。
(ああ、だから……)
あのとき、キルギー扮する偽の怪盗バロニスに突然囚われてしまったのは、わたくしがノエルの書き綴ったシルヴィアーナ自身だったからなのだ。
そして、続く言葉に息を呑む。
「殿下……」
「ん? なんだい?」
「アイリーン様やグレイス様の他に、わたくしがノエルだったということをご存知だった方はいらっしゃるのですか?」
「……いないよ。君が、告げているのだったら別だけど」
少し考えたように、それでもヘイデン様はまた優しい笑みを作る。
「あの……どうして、これを……?」
「拾ったんだよ。わたしが君に与えた加護の力を追ったとき、すでに遅くて、残されたのはそのノートだけだったんだ」
「それでも、どうして……今……」
「だって」
殿下は驚いたように肩をすくめる。
「今日は新月だからね」
わたしだってこんなことは言いたくないけど、と苦笑しながら。
(し……しん……げ……つ……)
改めて窓の外に目をやると、月のない漆黒の闇が広がっていた。
「今日だけだよ」
「えっ……」
「行っておいで」
どこへ?とは聞かない。
だって、わたくしは知っていた。
「そうだね。君が最も信頼した、騎士のもとへ……とでも言うべきかな」
ああ、とてもとても行かせたくないけど……と彼は大袈裟に言うものの、その動作は、『さっ、立って』と言わんばかりにわたくしを導いてくれる。
「で、でも……」
言いかけて、涙がこぼれ落ちたことに気づく。
「ああもう、君にそんな顔はさせたくない」
「で、殿下……あの……」
スマートに取り出したハンカチでわたくしの頬を拭ってくれる殿下に、わたくしは声を震わせ、訪ねていた。
「こ、この……このお方は……本当に……本当に、実在するのですか……」
(またわたくしが、わたくしが作り上げたのではなくて……このお方は……)
「行かせたくない気持ちでいっぱいのわたしはもう答えないよ」
そっと手を取り、殿下の笑みが暖かくその事実を告げてくれる。
(ああ……)
拭っても拭っても止まらない大粒の涙が頬を伝った。
「す、すぐに戻ります」
「本当に、約束だよ」
「新作はないから、怒られてしまうかもしれませんが……」
「そうしたらわたしがすぐに君を救いに行くからね」
行っておいで……、と殿下はわたくしの頬に口づけ、言ってくれた。
わたくしは顔を上げる。
一度ノートを机に置き、深呼吸をする。
(ああ……)
目で追って事実を確認する。
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして、彼女が最も信頼する騎士が現れたのは、その時だった』
そこには、こう書かれていた。
(そ、そうよ)
行かなくてはいけない。
(今日は、行かなくてはならない)
新月の夜は、彼が待っている。
わたくしの最も信頼する騎士で、そして、ノエルの一番の友が、あの木の下で。