「あ……あの、殿下……」

 遠くに聞こえた声は、やがてはっきりと一つの音に変わる。

「あっ……」

(こ、この声は……)

 この声は、わ、わたし(ノエル)の声ではない。

 わたくし、シルヴィアーナ・ランバドルの声だ。

(ああ、あなたが、シルヴィアーナさ……ま……)

 脳裏の奥で小さな声が消えていく。

 大切な、大切な声が。

「う、うそ……わ、わた……わたくし……」

「悪いのは、君じゃない」

 ぎゅっと抱き寄せてくれるヘイデン様の腕にまた力がこもる。

「わたしのせいだ。わたしが、君を傷つけたから」

 ごめんね、とまた彼は切ない声を出す。

 涙でぼやける世界にぼんやりと浮かぶのは、手を繋いで花畑を駆け回るふたりの幼い子どもの姿だ。

(ああ……)

 ふたりは楽しそうに毎日を過ごしていた。

(この光景は、知っている……)

 絵を描いたり、ともに本を読んだり。

 床に伏せがちな男の子のもとに訪れた女の子がいつも、ありとあらゆることを試みては、男の子を笑わせようとしていた。

『お姉様に教えていただいたの』

 ある日、そう言って彼女が持ってきたのは作りたての白詰草の冠で、それを男の子の頭に乗せると、まるで絵本に出てくる王子様のようね、と笑った。

 彼女のそばをふんわり舞う存在は妖精たちで、キラキラと輝くその姿はいつも女の子の姿を明るくしてみせた。

 最後に見た光景は、ふたりが楽しそうに駆けている姿だった。

 女の子が、男の子の手をつかみ、楽しそうに案内をしているようにも見える。

 その周りには小さな声が光がふんわり舞い、後を追う。

『ここが、わたくしの大切なお庭よ』

 ぜひ、見てほしい!と言わんばかりに、彼女は笑う。

『これが、カモミールのお花なの』

 お花のような笑顔を浮かべる彼女に、

『ああ、きれいだね……』

 初めて男の子が声を発したとき、彼は、バランスを崩して倒れ込んだ。

『で、殿下! ヘイデン様!!』

 どこからともなく声がして、男の子を取り囲み、この世のものとは思えないおどろおどろしい声を上げる大人たちが見えた。

 そして、画面は真っ暗になった。

(ああ……これは……)

 わたくしの、記憶だ。

 これは、わたくしと……

「君は気にしなくていいんだ」

 大丈夫、と優しい声に包まれる。

「わたしの体が弱かったんだよ。本当は人並みに走ることができなかったのに、ついつい君と同じ世界を見たくなった。それで、療養先から王宮へ連れ戻された」

 まるで誰かに説明をしてくれているように優しく、そしてゆっくりと彼は言葉を紡いでいく。

「君が兄上ではなく、わたしの婚約者に名乗り出てくれたことを知ったのは、あれから幾年も経ってからのことだった」

 君には、と彼が言葉を詰まらせるのを前にいろんな記憶が少しずつ結び向いていく。

(ああ……)

「あとは、君もよく知っていると思うよ」

 薄紫色の瞳がつらそうに伏せられ、すべてがすべて、点が線を描くように繋がった。

(そうよ。そうだった……)

 彼の言うとおりだ。

 ええ、よく知っている。

 よく知っていたのだ。

 わたくしは王宮に連れてこられ、閉じ込められている『鳥籠の姫君』ではない。

 わたくし自ら、ここへ来たのだ。

 国中誰もが認め、祝福してくれたというのに、ただひとり、断固として受け入れてくれないという、ネイデルマーク国の第四王子様の元へ。

 そして、言われたのだった。

 君は必要ないのだと。