結末のないモブキャラは仕方がないので王宮のありとあらゆるネタを駆使してベストセラー作家始めます

 ぐるぐる回って吐き気のするような異空間を巡り、気づいた時には暗い夜道に放り出されていた。

 容赦なく凍りついた地面に肩から叩きつけられ、寒さも加わってこれ以上にない痛みが右肩を襲った。

(こ、ここは……)

 見たこともない建物が立ち並んでいて、煙突から煙は出ているから人はいるのだろうけど、どの家も不在なのか寝ているのか真っ暗に明かりを落としている。

 今まで王宮しか知らなかった人間(脇役モブ)が、人生初めて別の世界へ飛ばされたのだ。

 驚きのあまりあたりを眺めてあんぐり口を開く。

 見たこともなかった世界観にいささか胸をときめかせるものの、寒さがあまりにも容赦なくて、のんきに珍しい光景に見入っている余裕はない。

(ええ、季節が悪かったわ)

 何のためにあの男がわたしをここへ飛ばしたのかはわからない。

 ネイデルマール城から引き離したかったのか。凍死させたいのであれば絶好の場所だ。

「いっ、たたたた……」

 わたしは痛む腕をさすりながら立ち上がる。

 ネイデルマール城は今、一体どうなっているのだろうか。

 考えるまでもなくみなさんがいたら大丈夫だとは思う。なによりまずは自分がどうやって帰ったらいいのか、考える必要がありそうだ。

「あ……そうだ!」

 ポケットを漁るも、目的のものは出てこない。

「う、うそ……」

 アイリーン様のアイシャドウだ。

 もしかしたらこの場所からでもヘイデン様の書庫へ導いてくれるかもしれない、と思ったのに、いつの間に落としてしまったのか、どれだけポケットを探っても見つからない。

 貴重なものだったのに、と悔やんでしまう。

 どうやって戻ろうかと途方に暮れる。

 そして、目の前をうようよと歩く人ならぬ影にさらに途方にくれることとなった。

(な、なんでわたしがこんな目に……)

 思わずにはいられない。

 うごめくその影は、先ほど目にしたものと同じだったのだから。

 それもひとつやふたつじゃない。

 うじゃうじゃいるのだ。

(ああ……)

 まさに敵の本拠地へ送られたのだと悟るにはそう時間はかからなかった。

 寒さなのか恐怖なのか、震える体をさすりながらその光景を眺める。

 いや、眺めるしかないのだ。

 今度こそ何も持ち合わせていないわたしは、もう立ち向かうすべがないのだ。

 そして逃げる時間もないだろう。

(ここまでしてネタなんて欲しくないわよ)

 書けなくなったらせっかくのネタだって意味を持たなくなる。盛大にため息が出た。

 時間の問題だろうと思っていたけど、思ったよりも早くそのうごめく影たちはわたしの存在に気づき、うようよとした状態でゆっくりと近づいてくる。

(ああ……)

 どうやってやられるのだろうか。

 考えただけでも絶望的だった。

 シャーッと人ならぬ不気味に広がった大きな口を開けて影たちが近づいてきたとき、今度こそもう無理だと拳を握り、ギュッと目を閉じた。

 キーン!と何かと何かがぶつかり合う大きな音がした。

 またも運命の瞬間を迎える前に、何事かと目を開くと、

「こっちよ!」

 という女の子の声がした。

「えっ……」

 長い黒髪を背になびかせた女の子に手を引かれ、彼女の後ろへ庇われるように誘導される。

 ぱっと手のひらで空に円を書くような素振りをした彼女の動きに虹色の光が続く。

(けっ……結界……)

 こんな光ではなかったけど、見たことはある。

 どこのどなたかは存じ上げないけど、助けてもらったことを悟る。

 そして、勇ましい音のする方には大きな剣をぶんぶん振り回し、影たちを一体一体撃退している青年の姿が見える。

 彼が動くたび、キラッとした何かが瞬き、その後を追う。

(な、なんなの……この人たち……)

 知っているような気がする。

 でも、思い出せない。

「ミコト、頼めるか?」

 ギッタンバッタンとそれはもう見事なほどに容赦なく影を切り裂いていくその青年は、ある程度影の動きが減り始めたところでわたしの前で結界を張り、余裕の笑みを浮かべている彼女に声をかける。

「ここの魔物たちは驚くほど弱かったからよかったわね」

 ミコトと呼ばれた彼女は、ふふっと微笑みながら、胸元のペンダントを握る。

 その後、何かを唱えたかと思えばそのままそれを離すと、ぼわっとした色をまとい、ペンダントが光に変わり、ぱぁーっと頭上に飛び散る。

 そして、まるで空に傘がかかったようにまばゆい光が地面に向かって降り注がれる。

 じゅわっとその光に吸い込まれるようにして影がひとつ、またひとつと消えていく。

 不思議なもので、不安と恐怖でガチガチになっていたわたしの心もほんわかとあたたかさが蘇ってきたような気がした。

(えっとぉ……)

 目の前に広がる光景があまりにも新しい展開すぎて、わたしは不安の取り除かれた心で、今までと違うなにか新しいことがおこりそうな気持ちになって胸をわくわくさせた。
「まだ影たちが知能を持っていなかったからな。早い段階で倒せてよかったよ」

 弱かったからよかったわね、などと言うミコトの言葉に、神妙な面持ちで頷きながら青年も腰元に剣をしまう。

 驚いたことに、あるべき場所に戻された剣はしゅんと縮まったかのように彼の腰元に収まるサイズに形を変えた。

(一体……この人たち……)

 わたしが決死の覚悟で臨んだ影に対して弱かっただの知能を持っていなかったからだの自由なことを言い合ってくれちゃって、唖然とさせられる。

「大丈夫でしたか?」

 青年がわたしの方に顔を向ける。

 その容姿にびっくり仰天。

 暗闇でも映える明るい金色の髪に淡く薄い緑の瞳を持った彼は、あまりにも神々しい。

 一刻も早く、レディ・カモミールの手記を握りたくなるほど、美しく絵になる容姿をしていたのだ。

 この男も、主役になるべく生まれた存在なのだろうなとただならぬオーラにぼんやりと思いを馳せる。

 ミコトはどちらかというと小動物のようで可愛くて(わたしには言われたくないだろうけど)親しみやすいその雰囲気から油断をしていたけど、いきなり予想外の方向から見た目光線で攻撃をされた気分だ。

 ヘイデン様、アイリーン様、それこそロジオンまでも……彼らから感じられるオーラをひしひしと感じられる。

(いやはや、美しいものって楽しい!)

 創作の意欲を掻き立ててくれる。

 とはいえ、レディ・カモミールの手記はどこかへ飛ばされてしまったからもうつかえないかもしれないけど。(誰かに拾われませんように)

「ここは、魔族の息のかかった場所です」

「え?」

「だから、夜道の独り歩きは……」

 言いかけて、形の輪郭に指先を添え、驚いた、というように大きく瞳を見開く。

「もしかして……あなたは、どこか遠くからいらしたのですか?」

 わたしの衣装や身なりを見てそう思ったのだろう。

 さり気なく自分の着ている上着をわたしに差し出し(なにこの人、性格まで完璧なの?)、彼は不思議そうな顔をした。

「魔物に襲われて……」

 さすがにネイデルマール城の出来事だということは伏せることにする。

 ないとは思うけど、お城の人間ということでまた人質に取られたらたまったものじゃない。(うん、ないとは思うんだけど)

「それで、この地へ飛ばされたんです。あの……ここは、どこなんですか……?」

 まさか、先日読んだばかりの『異世界』などという世界へ飛ばされ(転生させられ)たのではないだろうか。

 あまりにも今まで見ていた環境との違いに心配になってくる。

 王宮と街と、それは違うに決まっているのだけど、外の世界を見たことのないわたしには異空間だった。

「ここは、ナイラスという街です」

「ナイラス……」

 どこかで聞いたような、そう思い、顔をあげる。

「こ、この前、魔物たちに襲われたという……」

「ええ。そうですよ」

「どうやらここは魔物たちの通り道らしくって、やつらが姿を表さなくなるまで浄化して浄化して浄化しまくってるってわけ」

 青年を次いでミコトがペンダントをかざして見せる。

「わたしはミコト! あなたの名前は?」

「の、ノエルです。ノエル・ヴィンヤード」

「そう。とっても美しい髪の毛ね。夜道では目立つから気をつけなくっちゃ」

「は、はぁ……ありがとうございます」

 生まれてこの方、髪の毛なんて褒められたことなんてないから驚きつつも、次に夜道を歩くときは絶対に帽子をかぶろうと心に決める。

「俺はテオルド。ミコトとふたりで魔物退治の旅をしているんだ」

「えっ……おふたりで?」

 こらこら。

 なんて楽しくて美味しいシチュエーションなんだ……なんて思っている場合ではない。

「テオルドは勇者なのよ」

「ええっ!!」

 素直に驚いた。

 確かに、主役級のオーラを放っているとは思っていたけど、まさか本物の勇者様にお会いできちゃうなんて……そんな最高の展開、ある? 

 今すぐにでもロジオンに伝えに行きたい!

 そう思いつつ、帰るすべがわからず、改めて途方に暮れる。

 このままじゃ、二度と会えない気がしてならない。

「わたしはこことは違う世界から来たんだけど、どうやらこの国では『巫女』と呼ばれる立場の存在らしくって、このペンダントを使えば街の様子や魔物たちでさえ浄化することが可能だから、彼についてこの世界をまわっているってわけ」

「あっ!」

「え?」

 あっけらかんと答えるミコトの話で、どこかで見たことがあると思っていた彼らが、わたしがロジオンと出会うきっかけとなった作品、『王宮浪漫日和(ロマンスデイズ) 〜失われた時間と勇者の伝説~』の作品に登場させたキャラクターたちとよく似ているのだ。

(これもまた、誰かの記憶に入り込んで見てしまったのかしら?)

 もはや自分自身宣創作能力を信じられなくなっているわたしだけど、こんなにも完璧な設定を世界の狭い空間だ生きるわたしが想像したのかと思うと不思議でならない。

 かといって、勇者と関わってそうな人間は身近にはいそうにないわけで、疑問は深まる一方である。

 なにより、あれからずいぶんたくさんの作品を書き続けるようになったため、処女作の記憶が曖昧なのは仕方がない。

 また読み返してみよう、と密かに思う。

 きっとまた、改めて思い出すことが増えるだろう。

 読み返してみよう。

 王宮に帰れたら、きっと。
「あああっ、勇者様方……今宵も、ありがとうございます!!」

 どこからともなく現れたのはこの街の人間たちなのだろう。

 口々に勇者と巫女に感謝の言葉を述べている。

 一緒にここに存在しているわたしのことなんて眼中にもない様子だ。(まぁ、慣れっこだからいいけどね)

「いえ、それが俺たちの役目ですから」

 勇者は薄い緑の瞳を柔らかく細めた。

(ああ、グレイス様の瞳の方が濃い色ね)

 なぁんで思ってしまうのは、職業病なのだろう。

 人様の容姿ばかり見てしまって、その際の表現に最も合う言葉を探している。

 そんなこんなで普段はあまり人様と触れ合うことがないだけとても新鮮な機会でもあった。

「ねぇねぇ、ママぁ~、もうお外に出てもいい?」

 小さな女の子が母親のスカートを引っ張り、愛らしい声を出す。

「まだ何が起こるかわからないから、もう少し中で様子を見たほうがいいと思うわ」

「ええ〜、あたしたちがお迎えしてあげないと、バロニス様が迷っちゃうじゃないのぉ!」

「そうねぇ……」

「えっ!」

 そんな微笑ましい会話だったのに、それを遮るようにわたしは割り込んでしまう。

 今、その名前はトラウマのひとつだ。

「ば、バロニス様って……」

 それでも勇気を振り絞り、その名を口にする。

 魔物の本拠地にあの(魔物)も帰ってきて、なおかつこの街ではいい顔をしてるしてるとでもいうの?

 考えただけでもぞっとする。

「なんでも、この街に物資を届けてくれる謎のお助けキャラらしいのよね」

「えっ? お助け……?」

「あ、こっちの世界ではお助けキャラって言わないのか。なんて言ったらわかるだろう? 魔物に襲われた街だったり、生活能力が伴っていなかったり、そんな街へ有志で支援を行っているらしいの。シルクハットにタキシード姿のわけわからない姿なんだけどね……」

 ミコトがなにやらぶつぶつ言いながらも説明をしてくれる。

 言っていることは理解できたのだけど、本当にそれがわたしの知るそのわけのわからない姿の男のことなのだろうか?

 名前とスタイルだけ同じで、別人なのだろうか?

 それともいざというとき信者が作れるように、偽善者ぶって活動をしているとか?

 いずれにせよ、その男が今夜も来るであろうことは間違いなかった。

「だ、大丈夫なんでしょうか?」

 思わず聞いてしまう。

 しかしながら、さすがに自分を襲ってきた人間はその人なのだと言うわけにもいかない。

「俺たちも待機していますから」

「そうよ。悪意のあるものは弾き飛ばせるようにわたしも対策は練っているのよ」

 たしかに、勇者と巫女という絶対的ポジションにあり、魔物さえも虫けらのように軽々しく扱うおふたりだけに、何かあっても大丈夫な気はしたけど、あまりの偶然が必然に思えてならない。

 加えて、ある怪盗の物語と設定と似ている気もするのだ。

 確実に油断はならない。

「わ、わたしも見張らせてもらうわ」

 正直なところ、二度と会いたくないし、名前さえも聞きたくない。

 考えるだけで恐怖心を与えてくるその存在だけど、いたいけなる子供が関わるとなると別だ。

「いや、ノエルさんは怪我をしているようだし、まずは室内で手当をしてもらって休んだほうがいいわよ」

 言われてみるとそうなのだけど、一日中気を張って起きていた分、あたたかい室内に行って、気を緩めたらすぐにでも眠ってしまいそうだ。そんな気がする。
 みんなが心配しているだろうな、と思いつつ、帰り方は明日また考えることとして、今日はこの街の宿で一晩お世話になることにした。

 体中がヘトヘトなのだ。

 きっとゆっくり休めるはずだとミコトが勧めてくれた。

 ここでこの勇者と巫女と名乗るお二人がまたまた敵で、わたしを陥れようとして優しくしてくれているのなら、わたしはもう完全な人間不信に陥ってしまいそうだけど、どちらにしても助かる見込みがないのなら、最後くらいは穏やかな環境で楽しんでやりたいと思う気持ちもある。

 だからわたしは、怪盗バロニスが本当にやってくるかだけ見届けて、ゆっくり休ませてもらうことに決めた。

 時刻はもうすぐ、日付が変わるころだった。

 ミコトのおすすめをしてくれた高台に登り、街やその奥にも広がる景色を膝を抱えてぼんやり眺めていた。

 わたしは、生まれてこの方、街を出たことがなかった。

 生まれたときからずっと王宮にいて、外に行く必要もなく、そして、こんなにも自由な世界を見ることはなかった。

 もちろん、今の生活が嫌なわけではない。

 全然心を開いてくれないシルヴィアーナ様に胸をいためることもあったりするけど、それでもあのお方に仕えることはわたしの誇りだし、生きがいだと思えた。

「ふぅっ……」

 吐く息が白く染まる。

 それでもミコトが彼女の力で体に暖を送り込んでくれたから過ごしやすく、ぬくぬくしてこの場に収まっている。

 だけど、思う。

(世界は、こんなにも広いのね)

 本を読んで何でも知ったかぶりをしていたし、その受け売りでシルヴィアーナ様にも外の世界について語り続けてきた。

 だけど、目にする実物はもっと大きくて、わたしの想像なんかじゃとてもじゃないけど追いつかないものであった。

(ああ、眠い……)

 いつもの習慣からか、日付が回る頃にはまぶたがだんだん重たくなってくる。

(ああ、ダメよ……)

 起きてなきゃいけないのに、気を抜いたら今にも眠ってしまいそうだ。

(ダメよ、怪盗バロニスが来るまでは……)

 本物かどうか確かめなくてはいけないのだから。

 気持ちとは裏腹に、まぶたはどんどん重みを増していく。

(やばい……)

 気づいたらストン、と体から力が抜けていく感覚を味わい、わたしは抗うことをやめ、瞳を閉じる。

 地面に倒れ込むだろうな、そう思っていたけど思っていたほど衝撃はなく、わたしはそのまま意識が遠のくのを感じていた。

 誰かが、わたしの体を受け止めてくれたという事実に気づくことなく。

 わたしは、深い眠りに落ちた。
 わたくしは、もう自由よ。

 あの方の手なんて、もう借りない。

 わたくしは……

『これが』

 わたくしの声に、誰かの声が重なる。

『これが、君の見たかった世界なのかい?』

 マントを翻し

 その人はわたくしを抱え直す。

 その指先に

 とてもとても強い力を込めて。

 引き寄せられて

 陽の光のようにキラキラとした髪の毛が

 わたくしの頬をくすぐる。

 隠された仮面の下で

 切なげに揺れる薄紫色の双方は

 わたくしがずっと見たかった色だ。

『あなたの瞳には、

 わたくしが映っていないじゃない』

 そんなに

 美しい輝きを放っているのに。

『だから

 わたくしは自由になるのよ。

 悲しみのない世界へ行きたいの』

 そう告げると

 あなたはやっぱり悲しそうな顔をして

 ごめんね、と言う。

 いつもいつも、いつもそうなのだ。

 謝るくらいなら

 開放してほしいのよ。

 誰もわたくしのことを知らない世界まで。

 言い切ったら

 こらえていた涙があふれた。

 握りしめた白詰草が

 パラパラと地面へ落ちる。

 ごめんね、とまた彼はつぶやき

 わたくしの唇に

 そっと自分のそれを寄せ

 そしてゆっくりと重ねた。

『何よりも、君を想う』

 嘘つき……

 声にならないかわりにわたしは

 涙を流し続ける。

『愛してるよ、シルヴィ……』 





 ああ、そして今日もまた

 あなたはわたくしに嘘をつく。

 かけてくれた優しい言葉も、

 大切そうに添えてくれるその腕も

 重ねらた熱も、何もかも。
 目覚めたとき、わたしは王宮の一室に寝かされていて、目が冷めた途端、そばに控えていたロジオンから雷のごとく、凄まじい勢いで怒られることとなった。

「えっ……わ、わたし……どうして?」

 わたしの記憶では、眠りにつく前のわたしはナイラスの街で勇者や巫女に出会った……そんな覚えがある。

「じゃあ、あの記憶は……すべて夢ってこと?」

 わたしの体験した出来事を事細かにロジオンに伝えたものの、返ってきたのはさらに激しい怒濤の言葉で、すべて打ち消された。

「何言ってるの? あの魔物に消されてすぐさまアイリーン様が君を連れ戻し、ここに寝かせたんだよ。まったく動かないし、生きた心地がしなかったよ!」

 そう叫ぶように声を荒げるロジオンは本当に心配してくれたようだ。今までこんな彼を見たことがなかっただけに、申し訳なく思う。

「僕が、どんな気持ちで……」

「ごめんなさい、ロジオン……」

 謝っても足りないと思う。

「約束を破ってしまって……」

 そして、彼にも怪我をおわせ、たくさん心配もさせた。

「本当だよ。絶対に許さないからね」

 そう言いながらもロジオンが強く抱きしめて来て、わたしもそれに応じるように瞳を閉じる。

「ごめんなさい。そして、助けに来てくれてありがとう……」

 感謝をしてもしきれない。

 彼はまっさきに助けに来てくれて、そして身を挺して守ってくれたのだ。

「いや、あの、そのことなんだけど……」

「ん?」

 ロジオンが何かを言いかけたところで扉が両サイドにバン!と開き、それはもう絵画からできたかのように麗しいお姫様が大きなリボンつけてフリルを揺らしながらそこに立っていたのだ。

「え、エヴェレナ様……」

 ほんの数秒の間もなく、彼はあわてて立ち上がり、彼女のもとに急ぐ。

 なんて忠誠心なんだろうかと、改めて笑えてくる。

 それにしても……

「わたくしはエヴェレナと申します!」

 なんて可愛らしいのだろうか。

 噂に聞いていた『妖精姫』はその名のとおり、ただそこにいるだけで春の光を盛大に放ち、背景を色とりどりのお花畑に変えていた。

 初めてこんなにもお近くで拝見して、圧倒されてしまう。

(さすがはヘイデン様の妹姫様……)

 こんな人間が、この世にいていいのか……などと思い、続く言葉に耳を疑った。

「はじめまして、ノエル、お会いしたかったのよ」

「へっ?」

 こんな麗しいお姫様の前にどこまでも間抜けな顔を晒すのだろうか、そう思えるほどわたしの顔は間抜けなものだったに違いない。

(えっ、えっとぉ……)

「お兄様からもロジオンからもよく伺っているわ。このたびは、あなたの無事を心からお喜び申し上げます」

 優雅に一礼するその姿までも美しく、見惚れるわたしはなにか返事して!と背中を全力でつついてくるロジオンにはっとして、立ち上がろうとする。……ものの、ふらついてまたベッドに逆戻りしてしまう。

「も、申し訳ございません、エヴェレナ様……」

「いいのよ。楽にしてちょうだい。あなたが大変だったことはわたくしもよく知っていましてよ」

 その頬は、なんとなくほんのり染まっている。

「ロジオン、あなたもいちゃついている暇があるのなら、わたくしにもご紹介してちょうだいっていつも言っているのに……」

「い、いちゃついてなんていませんよ!」

 そこまで必死になるか?と思うほどロジオンは全力否定をし、じとっとにらみつけるわたしに咳払いをして、

「ノエル、エヴェレナ様も君のことをとても心配してくれていたんだよ」

 とエヴェレナ様にだらしのない笑顔を向けつつ、説明をしてくれる。

(たしかに、こんなお姫様にならロジオンがデレデレしてしまうのもわかる気はするわね)

 考えただけでわたしも頬が緩んだ。

「エヴェレナ様、こんな状態であることをお許しください。わたくしは、シルヴィアーナ様にお仕えする侍女の……」

 そう言いかけて、ぞわっとした。

「ロジオン!」

 ここは、エヴェレナ様の御前だというのにそんなことさえすっかり忘れて、わたしは我を忘れたように叫んでいた。

「ねぇ、シルヴィアーナ様は? シルヴィアーナ様はどうなさったのよ!!」

 声を荒げるわたしに驚いたようにロジオンは瞳を見開いたけど、その口がわたしの聞きたい回答を述べるまでの間ももどかしく、一生分の長い時間に感じられた。
「シルヴィアーナ様は無事よ」

「えっ……」

 代わりに答えてくれたのは、妖精姫だった。

「お兄様が、それはもう大切そうに抱きかかえて戻ってらしたわ」

「えっ……そうなんですか?」

(へ、ヘイデン様が……)

「ええ。もうべったりね。お兄様は初恋を拗らせていますから、その想いが今頃爆発したみたいにシルヴィアーナ様にくっついて、医師たちが様態を見たいと訴えてもなかなか離して差し上げなかったのよ」

「な、なんと……」

 夢で見た光景とその情景が重なり、思わず頬が緩む。

「わ、わたくしも見てみたかったです……」

 思わず漏らしてしまって、胸がトクンと痛んだ。

「ええ。お見せしたかったわ。お兄様が初めて本物の王子様に見えたのよ」

 エヴェレナ様は楽しそうに笑う。

(初めても何も……)

 あの方は間違いなく、完璧な王子様そうなのだ。

 アイリーン様やグレイス様の他にもヘイデン様のことをぞんざいに扱う人間がいることを知り、思わず声を上げて笑ってしまいそうになった。

 妖精姫と呼ばれたお方がこんなにもはっきりした性格というのも知らなかったから、なんだか楽しくなった。

(レディ・カモミールの恋愛小説を読んで頬を染めているか弱いお姫様だと思っていたけど)

 彼女は彼女で、とても素敵な性格をしてらっしゃる。

「それで、シルヴィアーナ様は今……」

「あの方も先ほど目を冷ましたと聞いているわ。もちろんお兄様はしばらくお近づきになれないようにアイリーン様が結界を張ってくださったそうなのだけど」

「えっ? け、結界を?」

「だって、お兄様がいきなり優しくしてもシルヴィアーナ様は怯えられるだけだと思うし、何よりもシルヴィアーナ様から離れてくださらなければ彼女の健康状態を医師たちが確認できないわよ」

 あまりに展開にわたしはさらに締まりの無い顔をしていたに違いない。

 ロジオンがあまり面白くなさそうな顔をしていたり、胸の奥がトクントクンと痛んでいたけど、あまり気にすることはなく、わたしは心のなかで呟いていた。

『よかったですね、シルヴィアーナ様』と。
「それで、キルギーさんの処罰はどうなったの?」

 エヴェレナ様の突撃訪問が終了したあと、わたしは少しずつ気になったことをロジオンに聞いていく。

 もちろん、わたしだって言わなくてはいけないことはたくさんある。

「彼は今、牢獄にいるよ。彼は怪盗バロニスの名を語った偽物だよ」

「偽物?」

「そうだよ。僕らを素っ裸にして可憐に犯行に及んだ本物の怪盗バロニスはもっと紳士的だったからね。盗んだものは本当にくだらないものだったけど」

「素っ裸にしてって……な、なんだか言葉だけで聞いてるとずいぶんといかがわしく聞こえるわね」

 一体、怪盗バロニスに何をされたんだ。

 加えて、そのくだらない盗難物も気になる。

 しかもそのくだらないもののためにロジオンのいう素っ裸にされた近衛団のことを思うと、いささか同情したくもなる。

 いろいろと勘ぐってしまうのは、わたしがただ単に他の人よりも想像力が優れているからではないはずだ。

「あれは怪盗バロニスではないと僕も思っていたんだよ」

 と腕を組みながらひとりでうんうんとロジオンは続ける。

 実は、怪盗バロニスのファンなのではないかと思える語りっぷりだ。

「それでもね、魔物に操られていたと言ってもね。彼が怪盗バロニスに扮して街で行っていたことは本当だったんだよ」

「えっ……」

「その弱い気持ちを魔物に付け込まれたんだろうねって言われているよ」

「そ、そんな……どうして、あの明るくて裏表のなさそうだったキルギーさんが……」

 まったくもって信じられなかった。

「アイリーン様の想い人に嫉妬した、とかなんとか」

「え? アイリーン様の?」

 想い人といえば、ヘイデン様ではなくって……彼女が身につけていた淡い緑色の瞳を持つ……

(あれ?)

 すこぶる目つきの悪い淡い緑色の瞳を想像して、そのあとすぐになにかもうひとつ思い出しかけたような気がしたけど、続くロジオンの言葉にかき消された。

「いや、キルギーさんの思い違いだよ。いつもお側にいるヘイデン様とアイリーン様の関係を疑って、彼女が薄紫の毛糸を手に入れないように犯罪に手を染めてしまったらしいよ」

「なっ、なんてバカな……」

「僕もそう思うよ。だけど、アイリーン様を想って想って想い、恋焦がれて焦がれて、そんな彼の気持ちが、彼自身を変えてしまったんだろうね。人は強い理性のもと、善悪を判断して生きているつもりだろうけど、人間なんて弱い生き物だからね。ふとしたときにいつ僕らの心を悪の心が占領するか、わかったもんじゃないと思うんだよ。きっかけがあるかないか、その違いじゃないかな」

 そんなことで……と思わず言ってしまいそうになったわたしは、ロジオンの深い言葉に何も言えなくなって口をつぐむ。

 たしかに、そのとおりだ。

 人は弱い。

 弱い生き物なのだ。

 わたしは、本気の恋をしたことなんてないけど、もしもキルギーさんのような立場になったら、その誘惑に打ち勝つことができるのだろうか。考えてしまって、胸が痛んだ。

「大丈夫だよ。ノエル」

「え?」

「君がもし、道を外しそうになっても、君のことは僕が止めてあげることができる。ヘイデン様もアイリーン様も、間違いなくね」

 だから、と彼は瞳を細める。

「君はもう少し、周りの人に遠慮することなく自由に生きるといいと思うんだ」

「そ、そうかしら」

 その言葉があまりにも嬉しくて、くすぐったくて、わたしはロジオンの顔が見れない。

 でもきっと、わたしは大丈夫だ。

 彼の言ってくれたとおり、何かあったらすぐにでも叱って止めてくれる仲間がいる。

「まさか、エヴェレナ様まで君に心を開いているとは思わなかったよ」

 僕はそこまで君の話をしていないよ、本当だよ!とロジオンは必死に言い訳を繰り返す。

「みんな、君の魅力に惹かれていくよね」

 すごいことだよ、とロジオンは肩をすくめる。

『これからもどうぞよろしく!』

 と柔らかな笑顔を浮かべて何回も何回も握手を求められたのだ。

 この手は二度と洗えないのではないかと思えるくらい良い香りがしたし、ロジオンが羨ましくてたまらないといった顔をしていたから吹き出しそうになった。

「まさか、エヴェレナ様と握手が叶うなんて……わたしの幸運がこれで……」

 言いかけて、見つめた手のひらに違和感を覚えて目を凝らす。

「ね、ねぇ、ロジオン……これ……」

「ん?」

 差し出したわたしの手をまじまじと眺め、ロジオンは口をあんぐりあけた。

 それもそのはず、わたしの指のあたりが微かに黒く汚れていた。

 それは、インクの黒なのだろうとわたしもロジオンもよくわかっている。

「ま、まさか……」

 口をわなわなさせて動揺するロジオンは、あのとき勇ましく魔物に立ち向かった男とはまるで別人のようだ。

「まさか、エヴェレナ様が……」

 疑惑は疑惑のままだ。

 その真実は、本人のみぞ知る。

 だけどわたしはまた、エヴェレナ様とお話ができる機会がありそうだと心を弾ませたのだった。
 そっと隠していた一冊の書籍を取り出す。

 『王宮浪漫日和(ロマンスデイズ) 
    〜怪盗モーヴ、今宵も参上〜』


 本当は捨てようと思っていた。

 キルギーさんは怪盗バロニスの偽物だったということは王宮内にも広がっていたし、本物の怪盗バロニスは風評被害というか、いい迷惑としか言えない事件であったけど、未だにその名を聞くと震え上がるわたしがいる。

 シルヴィアーナ様がどのように捉えられていたかはわからないけど、ヘイデン様が助けに行ってくださるまでの間、ずいぶん怖い思いをなさっただろう。

 その気持ちは計り知れない。

 だから、嫌な思い出を思い起こすものはすべて捨ててしまおうと思った。でも……

「夢か現実か……」

 夢の中で見たナイラスでの出来事。

 そこで聞いた怪盗バロニスの素顔は、レディ・カモミールの書いた物語の設定によく似ていた。

「これは、夢か、現実なのか……」

 わたしはずっと考えていた。

 もちろん、大切なことだ。

 このことはロジオンにもちゃんと相談した。

 もちろんもちろん、隠していたことはとても怒られたし、何そのタイトル!すっごくダサい!とダメ出しのオンパレードで、挙句の果てには誤字脱字までネチネチネチネチと指導を受ける羽目となったのはここだけの話だ。

 わたしが、わたしだけが目を通して読むから問題ないのだと言い返してやりたかったが、ロジオンの怒るのもごもっともだったので、大人になってぐっとこらえた。

 そして、やっぱりわたしの能力に関係するのだろうという結論になった。

『君が書きたいものを書けばいい』

 ロジオンはそう言ってくれた。

『ヘイデン様をこれ以上になくキラキラと言葉で飾り立てた王宮ラブストーリーでも、この上なくダサすぎるタイトルの怪盗の物語でも、君が書くものなら僕も大好きになると思うし、全力で応援するから』と。

 ところどころで蹴りを入れたくなるところはあったけど、それは愛情の裏返しと思うことで聞かなかったことにしてあげた。

 だから、わたしはこれからも変わることなくレディ・カモミールになり、物語を書き続けることを決めた。

 そして、叶うことならば、魔物に対してうまく行かなかったわたしの能力とやらも、少しは実践に使えるようになりたいと思う。

 あれから、さらなる結界に加え、王宮から出入りする人間にもずいぶん厳しいチェックが行われることとなったため、夜な夜な抜け出すことのできなくなったヘイデン様はぶつぶつと苦言を繰り返していたほどだ。

 そして、ほんの少し、少しずつお心を開き出したというシルヴィアーナ様は、別邸から違う場所へ移されたのだと聞く。

 本格的に心のカウンセリングを行われるそうだ。

 もちろん、ヘイデン様はこれまたアイリーン様の結界に阻まれてシルヴィアーナ様にお会いすることも敵わないそうで、素敵なお顔が台無しだと言わんばかりにふくれっ面をつくっていたほどだ。

 だから、わたしもしばらくは安静にするということで寝込んでいたとはいえ、あの事件以来、シルヴィアーナ様とお会いできておらず、申したいこと、謝りたいことは山ほどあるのに伝えることは叶わず、もやもやとした日々を送っていた。

 王宮での暮らしが一転するように変わってしまった。

 だけど、それはすべて、何があってもわたしたち王宮内の人間に危害が及ばないようにするため。

 近衛団のみなさんも術師のみなさんもずいぶん疲弊しながらも日々の鍛錬に励んでくれているのだという。

 だからわたしたち侍女たちも、わたしたちにできることを全力で頑張ろうと決めていた。

『いいですか。今年の星夜祭は、これまでの出来事でお心を痛められた王宮のみなさまのお心を癒してさしあげる。その精神で臨むわよ!』

 週末に迫った星夜祭への意気込みも、例年とは違う熱いものが垣間見れたほどだった。

 レディ・カモミールの失ってしまった手記は結局戻らなかったけど、わたしは新しいノートに1ページに、ペンを走らせた。