『音もなく、その男は現れた』
必死にペンを走らせる。
『シルクハットにタキシードを身にまとっている。背にはマントをなびかせて、そこに立っていた』
状況を一生懸命綴っていく。
描写がいつも以上に浮かんでこない。
集中力がうまく続かない。
こんなの、ただ書いているだけだ。
いい作品なんて生まれないのに。
(ゾーンはどうしたのよ)
『誰だ! と言う声が響く』
でも、仕方がない。
『その姿は人々の恐怖を煽る』
こんな緊急事態に落ち着いてペンを走らせられるほど、わたしは大人ではない。
『彼は、間違いなくその男だったからだ。誰もが息を飲んだ』
誰もが、というよりも『わたしが』だけど。
『怪盗バロニス』
ゴクリと息を呑み、続ける。
『彼こそが、怪盗バロニス。大泥棒だ』
怪盗が来たって竜が来たって魔王が来たって天災が来たって怖くない。
だって、この世界での最強は作家なのだから。
作家の表現ひとつで世界は変わる。
怪盗だって捕まえてやるし、竜だって退治するし、魔王はまた封印すればいいし、天災も魔術師の力でどうにかすればいい。
作家がそう綴ってピリオドを打てば世界の平和は守られるのだ。
(レディ・カモミールがわたしの魔力であるのなら)
お願い!!と切に願う。
『風の向きが変わる』
そう。風がやんだ。
『彼が現れたのだ』
彼の名は……
「怪盗バロニス」
「えっ?」
「今宵も参上」
わたしを前にその男は優雅に一礼をする。
あまりにも人間離れをしたそのしなやかな動きに圧倒される。
「お初にお目にかかります。ノエル・ヴィンヤード……いえ、レディ・カモミール」
(えっ……)
シルクハットにタキシードを身にまとう男。
『彼の名は……』
指が止まる。
「今から無礼を働くことをお許し願いたい」
「はぁ?」
五十代?
いや、四十代?
三十代? ……いや、もっと……
「あなたにこれ以上物語を綴られると困るんですよ」
男は淡々とそう述べ、口を大きく開けた。
「あ、あなた……」
恐怖よりも怒りが勝った。
「シルヴィアーナ様をどこにやったの?」
自分でも驚くほどの金切り声が出た。
「あのお方を返しなさい! あの方に何かあったら、ただじゃおかないわよ!」
「おお、怖い」
だけどわたしの威嚇なんて一切の恐怖さえも与えることはできず、彼は楽しそうにくくっと笑う。
異様に大きな口が不気味に写った。
「あなたの書くものは、この世界の脅威でしかない」
「なんですって?」
「世界を変える」
レディ・カモミールの文章が、ということだろうか。目を見張る。
「だったらなおさらよ!」
この男の言いたいことは、わたしが思っていたことと同じなのだろう。
「お望み通り、ピリオドを打ってやるまでよ!」
ただの脇役だと思ってバカにしないでよ。
「自分ことさえ何もわかっていないあなたに、何ができる」
(挑発なんてくそくらえよ!)
わたしは構わず紙に向かう。
『月が雲を晴らす』
ピリオドとともに、明るい満月がゆっくりと顔を出す。
「おお、驚いたなぁ……」
その様子を、男は嬉しそうに眺める。
『その光は』
ゴールは決まっているのに、そこまでの道のりが決まらない。
一体どの道筋で完結まで持っていったらいいのか、迷っている暇もないのに指が迷う。
(シルヴィアーナ様っ!)
「お転婆なお嬢さんだ……」
「!!」
彼がすっと手を掲げると、突如として凄まじい暴風がわたしを襲う。
(な、なんなの、こいつ……)
この男は、何者なのだろうか。
ただの怪盗ではないというのか。
(術師?)
そう。今、男がわたしに向けているものは、アイリーン様やロジオンが使用していてよく目にする魔術師のものだ。
暴風の次はチラチラと振り始めた雪の結晶が氷の刃となって一斉に襲いかかってくる。
(あ、あんなの当たったら、ひとたまりもない……)
レディ・カモミールの手記とペンだけは絶対に離すものかと握り締め、瞳を閉じる。
(ここまでか……)
あまりに無力だ。
結局、何もできなかった。
悔しくて、歯を食いしばるしかできず、終わりを迎えるべく、わたしはその時を待った。
(ん?)
それでも、いっせいに体内を貫くだろうと思っていた氷の刃の感覚がなく、そっと目を開く。
そのタイミングで、シャラシャラシャラ……という音を立てて、宙に浮いた氷の刃は地面に落ちる。
「えっ……」
自分の体がぼんやり光を放っていることに気づいて目を見開く。
(これは……)
このあたたかい光には覚えがあった。
『ノエル……』
その声は、脳裏の向こうから聞こえた。
『ノエル、逃げてくれ、お願いだから……』
(ああ……)
「なんと、加護の力か」
わたしが答えを告げるよりも前に、男が呟いた。
「面白い」
再びあげられた彼の手には先程とは比べ物にならないほど禍々しい色の光を宿していて、とてもじゃないけど、あんなもので攻撃されたらただではすまないだろう。
『ほんの少しの時間稼ぎならできるから』
ロジオンの声が聞こえた。
(ロジオン、ありがとう……)
『その光は……』
わたしは再び、レディ・カモミールの手記にペンを添える。
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして……』
(お願い……)
この男を前に、最後のピリオドを打つことは困難だろうと考えなくてもわかる。
(誰か……)
『彼女が最も信頼する騎士が現れたのは、その時だった』
それでも、わたしにできることがないなら、できる人を呼ぶまでよ。
その一文にピリオドを打つか打たないときだった。
「きゃっ!!」
突然、わたしの体がまた先程とは別の光に包まれて吸い込まれるように男の腕に引き寄せられる。
(な、なんで……)
「ははっ、どうやら勝負あったようだ」
男は高らかに笑った。
必死にペンを走らせる。
『シルクハットにタキシードを身にまとっている。背にはマントをなびかせて、そこに立っていた』
状況を一生懸命綴っていく。
描写がいつも以上に浮かんでこない。
集中力がうまく続かない。
こんなの、ただ書いているだけだ。
いい作品なんて生まれないのに。
(ゾーンはどうしたのよ)
『誰だ! と言う声が響く』
でも、仕方がない。
『その姿は人々の恐怖を煽る』
こんな緊急事態に落ち着いてペンを走らせられるほど、わたしは大人ではない。
『彼は、間違いなくその男だったからだ。誰もが息を飲んだ』
誰もが、というよりも『わたしが』だけど。
『怪盗バロニス』
ゴクリと息を呑み、続ける。
『彼こそが、怪盗バロニス。大泥棒だ』
怪盗が来たって竜が来たって魔王が来たって天災が来たって怖くない。
だって、この世界での最強は作家なのだから。
作家の表現ひとつで世界は変わる。
怪盗だって捕まえてやるし、竜だって退治するし、魔王はまた封印すればいいし、天災も魔術師の力でどうにかすればいい。
作家がそう綴ってピリオドを打てば世界の平和は守られるのだ。
(レディ・カモミールがわたしの魔力であるのなら)
お願い!!と切に願う。
『風の向きが変わる』
そう。風がやんだ。
『彼が現れたのだ』
彼の名は……
「怪盗バロニス」
「えっ?」
「今宵も参上」
わたしを前にその男は優雅に一礼をする。
あまりにも人間離れをしたそのしなやかな動きに圧倒される。
「お初にお目にかかります。ノエル・ヴィンヤード……いえ、レディ・カモミール」
(えっ……)
シルクハットにタキシードを身にまとう男。
『彼の名は……』
指が止まる。
「今から無礼を働くことをお許し願いたい」
「はぁ?」
五十代?
いや、四十代?
三十代? ……いや、もっと……
「あなたにこれ以上物語を綴られると困るんですよ」
男は淡々とそう述べ、口を大きく開けた。
「あ、あなた……」
恐怖よりも怒りが勝った。
「シルヴィアーナ様をどこにやったの?」
自分でも驚くほどの金切り声が出た。
「あのお方を返しなさい! あの方に何かあったら、ただじゃおかないわよ!」
「おお、怖い」
だけどわたしの威嚇なんて一切の恐怖さえも与えることはできず、彼は楽しそうにくくっと笑う。
異様に大きな口が不気味に写った。
「あなたの書くものは、この世界の脅威でしかない」
「なんですって?」
「世界を変える」
レディ・カモミールの文章が、ということだろうか。目を見張る。
「だったらなおさらよ!」
この男の言いたいことは、わたしが思っていたことと同じなのだろう。
「お望み通り、ピリオドを打ってやるまでよ!」
ただの脇役だと思ってバカにしないでよ。
「自分ことさえ何もわかっていないあなたに、何ができる」
(挑発なんてくそくらえよ!)
わたしは構わず紙に向かう。
『月が雲を晴らす』
ピリオドとともに、明るい満月がゆっくりと顔を出す。
「おお、驚いたなぁ……」
その様子を、男は嬉しそうに眺める。
『その光は』
ゴールは決まっているのに、そこまでの道のりが決まらない。
一体どの道筋で完結まで持っていったらいいのか、迷っている暇もないのに指が迷う。
(シルヴィアーナ様っ!)
「お転婆なお嬢さんだ……」
「!!」
彼がすっと手を掲げると、突如として凄まじい暴風がわたしを襲う。
(な、なんなの、こいつ……)
この男は、何者なのだろうか。
ただの怪盗ではないというのか。
(術師?)
そう。今、男がわたしに向けているものは、アイリーン様やロジオンが使用していてよく目にする魔術師のものだ。
暴風の次はチラチラと振り始めた雪の結晶が氷の刃となって一斉に襲いかかってくる。
(あ、あんなの当たったら、ひとたまりもない……)
レディ・カモミールの手記とペンだけは絶対に離すものかと握り締め、瞳を閉じる。
(ここまでか……)
あまりに無力だ。
結局、何もできなかった。
悔しくて、歯を食いしばるしかできず、終わりを迎えるべく、わたしはその時を待った。
(ん?)
それでも、いっせいに体内を貫くだろうと思っていた氷の刃の感覚がなく、そっと目を開く。
そのタイミングで、シャラシャラシャラ……という音を立てて、宙に浮いた氷の刃は地面に落ちる。
「えっ……」
自分の体がぼんやり光を放っていることに気づいて目を見開く。
(これは……)
このあたたかい光には覚えがあった。
『ノエル……』
その声は、脳裏の向こうから聞こえた。
『ノエル、逃げてくれ、お願いだから……』
(ああ……)
「なんと、加護の力か」
わたしが答えを告げるよりも前に、男が呟いた。
「面白い」
再びあげられた彼の手には先程とは比べ物にならないほど禍々しい色の光を宿していて、とてもじゃないけど、あんなもので攻撃されたらただではすまないだろう。
『ほんの少しの時間稼ぎならできるから』
ロジオンの声が聞こえた。
(ロジオン、ありがとう……)
『その光は……』
わたしは再び、レディ・カモミールの手記にペンを添える。
『シルヴィアーナ姫を抱え、高笑いをするその男の姿を照らす。そして……』
(お願い……)
この男を前に、最後のピリオドを打つことは困難だろうと考えなくてもわかる。
(誰か……)
『彼女が最も信頼する騎士が現れたのは、その時だった』
それでも、わたしにできることがないなら、できる人を呼ぶまでよ。
その一文にピリオドを打つか打たないときだった。
「きゃっ!!」
突然、わたしの体がまた先程とは別の光に包まれて吸い込まれるように男の腕に引き寄せられる。
(な、なんで……)
「ははっ、どうやら勝負あったようだ」
男は高らかに笑った。