「美しいな」

 光の波がゆっくり夜の闇に彩りを与える。

 これは王宮の選ばれし術師の皆さんによって施された魔術のひとつなのだろう。

「本当ですね」

 素直に頷き、この情景を文章に表すとしたらどのような表現になるのだろうかと胸に手を当て、自分の正直な気持ちに問いかけてしまう。

 時を忘れてしまいそうなほど、素晴らしい光景だ。

 こんな絶景を前に、あまりスキャンダラスな展開の背景には選びたくないな、と思う。

「過ごしやすくてとても良い季節ですね」

 無難な言葉を選んでヘイデン様の後ろにおとなしく続く。

 わたしとなんてこんな素敵な景色の中を歩いて楽しいのだろうか。

 夜の闇が徐々に深くなるこの季節。

 あと二ヶ月もすればあたり一面真っ白な雪景色を堪能できる季節がやってくるだろう。

 薄着でゆったりと過ごせるのも今だけなのだと思うと、やはりこうして外の様子を堪能しながら歩く時間も大切なのかもしれないとしみじみ思えてくる。

「ここからの季節が一番好きだよ」

 薄紫色の瞳が光を宿し、宝石のようにキラキラと輝きを増す。

 ああ、なんて美しいのかしら。

 こういうとき、改めて語彙力の少なさに気付かされてしまう。

 こんな夜にどちらに行く予定だったのですか?

 そんなヤボな質問はしない。

 過ごしたかった相手がいただろうのに邪魔をしてしまったことは本当に申し訳なく思っている。

 だけど、彼がこうして自由奔放に恋愛小説の新しい1ページ(不貞な行い)を更新し続ける間にも悲しむ人間がいるのは残念な事実だ。

(ああ、罪なお方だわ)

 我らが姫君、シルヴィアーナ様の姿が脳裏をよぎる。

 長い絹糸のような美しい銀色の髪を背に垂らし、窓際ばかり眺めているお姫様の後ろ姿だ。

 ヘイデン様の婚約者で、二年前からこの城に住んでいるお方である。

 いや、住んでいる……という穏やかな表現ではないかもしれない。

 囚われている……と言う人もいる。

 小国・ランバドル王国の姫君だったシルヴィアーナ様は、わたしたちの住むネイデルマーク国と自国との架け橋となり、この国へやってきたと言われている。

 本当のところ、ランバドル王国としては大切なシルヴィアーナ姫の婚約のお相手に、第二王子であるルイス殿下を所望されていたようだけど、ネイデルマーク国としてはもとより小国との結びつきには深い関心を持っておらず、なかなか折り合いがつかないまま、送り込まれるような形で彼女はやってきたのだった。

 送り込まれたのか連れてこられたのかは実際のことはわからない。

 使用人のわたしたちには到底知り得ないことのため、好き勝手に言うべきではないことはわかっているが、知らないことほど知りたくなるのが人の性《さが》である。

 きっといろんな憶測が面白おかしく変化を遂げて語り継いがれてきたのだろう。

 本当に様々な説がある。

 わたしもすべては噂話から知ったことで、どこまでが本当なのかは知る由もない。

 それでもシルヴィアーナ様は幼少時代にヘイデン様の良き遊び相手だったとも聞いていて、そのことに対して、なんて悶えるシチュエーションなの!と空気も読まずに思ったりもしたものだった。

 しかしながら、現実世界は物語のようにすべてがハッピーエンドとは限らない。

 兄王子の代わりに押し付けられるように充てがわれたご婚約を心良く思っていなかったヘイデン様と想いが通じ合わず、ネイデルマーク国に来るなり、シルヴィアーナ様はそのまま自室にこもりきりになってしまっていた。

 そして、ヘイデン様はヘイデン様でそんなシルヴィアーナ様のことを気にするでもなく、今までと変わらない自由な暮らしを堪能しているように見えた。

 どちらにせよ政略結婚のために無理矢理連れてこられ、それ以降王宮の一室に人知れず閉じ込められている彼女は、『鳥籠の姫君』と密かに呼ばれている孤独なお姫様だった。

 わたしはそんな彼女の側についてお世話係の一人として遣わされていた。

 身寄りのないわたしにはもってこいのお仕事だと言われていたけど、わたしはあの方にお遣えできたことに満足している。

 もとよりそのお姿を一度でも目にした者は口を揃えて彼女のことを『生きている宝石』と例える者が多く、そう簡単にお近づきになれるお方ではなかったからだ。

 これ以上にない光栄な立場である。

「こんなに美しい景色を堪能できたら日頃の疲れも吹き飛びそうだ」

 そう無邪気に笑うその笑顔を、あの『鳥籠の姫君』にみせてあげてくれればいいのに。

 悲しげな後ろ姿が脳裏をよぎる。

 だけどあえてそう口にしないのは、彼らはわたしとは別の世界にいる人間だからだ。

 光を浴びる世界。

 彼らはそこに住む人たち。

 生まれながらにして主役の座を与えられた彼らの日々は、もしかしたらなんらかのきっかけで奇跡が起きることもあるはずだ。

 劇的な何かが起こることだってあるだろうし、起こりうる出来事の選択肢の可能性は無限大なのだ。

 そう。物語のように。

 彼らとわたしの間には、境界線がある。

 だから、お節介にもわたしがわざわざ力添えする必要なんてない。

 物語の文字数にも貢献できないだろう。

 わたしはそのことを知っている。

 だからこそ、ノエル……いえ、レディ・カモミールとしてはその劇的瞬間(何かが起こるその時)を見逃すことなくペンを持ち、彼らの物語を綴るべくその日を待ち構えていればいいのだ。

 まばゆい笑顔で笑うシルヴィアーナ様を物語の中に描けたら、それはもう素敵な作品になるに違いないのに。

 美しい登場人物がいるだけで物語の印象はガラリと変わる。

 まばゆい光の道をぼんやり眺めてふと思う。

 美しい人を、最高の表現で彩る。

 そんな物語は理想的だ。

 いつでも思う。

 あの美しい銀色の髪を靡かせ、彼女が振り返ってくれることを。

 そうしたらわたしは、最高の表現とともにあの方の物語を綴ることができるというのに。

 パチン!

「……っ」

 わたしが考え終わるのを待っていてくれたかのように、どこかで何かが弾けるような音がして、顔をあげる。

 次の瞬間、両サイドから艶やかな光が波のように盛大にあたりを彩っていく。

 淡い音色を奏でながら右へ左へと流れ始める。まるで光が踊っている。

「えっ……」

 その光はわたしたちを囲むようにして演習されているようにも感じられた。

 光の流れる方に視線を動かし、思わず息を呑む。

 まるで、お出迎えしてくれたみたいだ。

 はぁ……と、ヘイデン様のため息が聞こえたのはすぐあとのことで、彼が降参したように両手を上げた。

「アイリーンか……」

「えっ?」

「十分だ。素晴らしい夜をありがとう」

 わけも分からずヘイデン様が声をかける方に目を向け、その視線の先にある女性の姿に目を疑った。

 そこに誰かいるだなんて、想像さえもしていなくて驚いた。

「あ、アイリーン様……」

 ゆっくりこちらに向かって足を進めてくる彼女は、ヘイデン様に仕える魔術師のひとりだ。

 見事な足取りでわたし達の前に姿を表した彼女は、静かに頭を下げる。

 その動き一つ一つの完璧なこと。

 惚れ惚れしてしまう。

 そして、ゆっくり顔を上げた彼女は柔らかく瞳を細める。

「ご満足いただけたのなら光栄ですわ」

 相変わらずの美貌に目を奪われる。

 雪のように白い肌と白金色のボブヘアーを揺らし、琥珀色の瞳を不敵に細める。

 すっと伸びた手足は長く、まるで神話に出てくる女神様のようだ。

 同じ人間とは思えないほど儚げで美しい。

「ご満足されたのであれば、そろそろお部屋ヘ戻られてはいかがですか? ちょうどグレイスの怒りもピークに達した頃でございます」

 淡々と述べる彼女の美貌はあたりを彩る輝きさえ背景に変えて見せる。

「あいつがピークの状態にのこのこと帰りたいと思う者がいると思うか」

 困惑した状態で反論するヘイデン様。

 眉をひそめていても立ち振舞から絵になる彼とアイリーン様が並ぶと、まるで神秘的な絵画のようだ。

「殿下が油断も隙もございませんから」

 程々にしてくださいませ、と彼女が左手をあげると、シャラシャラという音がして光の道がゆっくりと空に向かって伸び始める。

「どうぞ。最短ルートをご用意しておりますから」

 有無を言わせないのは、彼女の笑顔は作られた結晶のように完璧で、それだけに圧を感じられるからだろうか。

 背景に同化して、ただ黙ってその光景を眺める。

 不服そうではあるが、また大きなため息を吐いてヘイデン様はその光に足をかける。

「ノエルは?」

「え?」

「夜道は危険だ」

「わ、わたしは大丈夫です! ここからはお部屋も近いので、ひ、一人で戻れます」

 こんなわたしにまで気を使ってくれるこの王子様は、一気にわたしの熱まで上昇させて、本当に罪なお方だ。

「加護をつけておくわね」

 彼の声とともにアイリーン様も振り返り、わたしの肩に軽く触れる。

 いつもの帰り道だから平気だと言おうとしたのだけど、それよりも先に触れられた部分から小さな光がゆっくりわたしの体を包み始める。

(あ、あたたかい……)

 なんとなくそう思ってしまった。

「これで大丈夫」

「あ、ありがとうございます」

「ノエル、良い夜をありがとう」

「は、はぁ……」

 漆黒色の夜の闇を華やかに彩られた光の中でヘイデン様とアイリーン様がより一層眩しい輝きを放って見えた。

 美しいという表現の最上級の言葉は何なのだろうか。真剣に考えたくなる。

 就寝前にはあまりにも刺激的なご尊顔を同時に目にすることになり、心の中で目を覆いたくなる。

「お気をつけてお帰なさいね」

 アイリーン様は穏やかにその美しい口角を上げる。

 わたしにまでそんな素敵な微笑みを見せてくれるだなんて、尊くて、そして有難い。

 まぬけな顔で見とれてしまって思わず朝までここでぼんやり突っ立ってしまいそうだったけど、勢いよく頭を振る。

「は、はい! 殿下も、アイリーン様も、お気をつけて!」

 気をつけるも何もアイリーン様の扱う魔術は絶対で、光の道は無事にヘイデン様を彼の自室まで送り届けてくれることだろう。

 それでもわたしは大きな声で返事をし、地面めがけて勢いよく頭を下げていた。

 それからゆっくりと光に包まれて姿が遠ざかっていくヘイデン様とアイリーン様の姿を眺める。

 う、麗しい。

 麗しすぎる光景だ。

 こういった状況を前にすると自身の語彙力の少なさに改めて気付かされる。

 切ない色を含んだシルヴィアーナ様の物語て脳裏をいっぱいにしていたにも関わらず、今度は溌剌とした輝きに満ちたアイリーン様の物語で頭がいっぱいになった。

 か、完璧である。

 どちらの物語も、書き始めたら超大作になるのは間違いないだろう。

 やはり物語には美人の存在が必要不可欠だ!筆がどこまででも進みそうだ。

 ずいぶん時間は立ってしまったもののいつにも増して元気いっぱいになったわたしは、今度こそ自室へ向かって駆け出したのだった。