彼女の妹が骨肉腫による痛みで入院し始めて2週間が経った。最初意識がしばらく無い状態だったのが、今では意識の喪失はなくなって容態が安定し始めた。容態が安定したとはいっても、あくまで寿命に限りがある人間にしては、である。
 彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないまま彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないままだったため、彼女の妹は彼女に家で休むように気遣ったけれど、彼女は普段の冷静さを欠いた様子でその提案を拒否した。そんな日々が続いていたある日、彼女はあることを提案してきた。
「ひなの、湖に行こう」
 突然の提案に彼女の妹は最初困惑していたけれど、しばらく思案した後神妙な面持ちで頷いた。
「湖?」
 僕が訊ねると、彼女は少し悪い顔色をこちらに向けて言った。
「昔、家族でよく鏡の湖に行ってたの」
「鏡の湖?」
「空を映す湖。朝も昼も夜も、信じられないくらいに綺麗だった」
 彼女は自分にとって大切で愛おしい記憶に想いを馳せているはずなのに、どことなく憂いを帯びた顔をした。何故だろうかと思ったけれど、瞬時にその疑問もとい興味は霧散した。
 彼女は、自分の気持ちと妹の気持ちを擦り合わせるためにもう一度確認した。
「ひなのは私としか行ったことないけど、本当にいい?」
 彼女の妹は、彼女から目を離さずに頷いた。
「行きたい。お姉ちゃんが私と一緒に行きたいと思った場所に、私は行きたい」
「……そっか。ありがとう、ひなの」
 彼女は目を赤くしながら彼女の妹を抱きしめた。最近、彼女の涙をよく見かける。彼女の妹の最期が近いことで、何か思うところがあるといったところだろう。
 彼女が知ったら激怒するだろうけど、寿命が僅かな彼女の妹を見ていると、契約をしたくて仕方がなくなる。目の前にご馳走があるにもかかわらず、お預けを喰らっているようなものだ。ただ、残念ながら彼女と契約している以上、他の命と契約を結ぶことはできない。
 その後、彼女の妹は医者からの外出許可を得た。
 僕たちは一旦彼女の家に戻り、身支度をした。彼女がキャリーバッグに着替えなどを詰める傍で、彼女の妹は楽しそうにはしゃぎながら小さなリュックに必要な物を入れている。
「お姉ちゃんと旅行するなんて、いつぶりだろう」
 彼女の妹の言葉に僕は驚いた。
「随分な大荷物だと思っていたけど、泊まりがけなんだ」
 僕が確認すると、彼女は頷いた。
「その湖はここから遠く離れてるから、日帰りは無理よ」
「……僕、旅費がないよ。君から離れることもできないから……もしかして、僕は野宿?」
 最近、夏の暑さや湿気から影響を受けなくなっていた。死神化が進んでいるのだろうか。野宿してもなんら問題はない。
 そんなことを考えていると、彼女が突然笑い出した。
「流石に私もそんな鬼じゃないよ。真面目な顔でそんなこと言わないでよ」
「……え、でも旅費が」
「それくらいなら出すよ。親戚のお金だけど。一応、生活費とは別で余った分は貯金させてもらってるから」
「……君がいいなら」
「どうせあと僅かな命なんだし」
「……そうだね」
 僕が頷くと、彼女は諦めたような笑みを浮かべた。彼女の妹は先程まで軽やかだった手つきが急に鉛をぶら下げたみたいに重くなった。そして、沈んだ表情で身支度を続けた。
 そんな二人の様子を見て、分かりきっていることになにを感傷的になる必要があるのだろう、と思った。
翌日から早速、僕たちは新幹線に乗って目的地を目指した。彼女の貯金にあやかって指定席を確保することができた。学生の長期休暇と重ならない平日であったため、車内は空いている。彼女の手筈で予約された湖の近くにあるホテルは十五時からチェックインを受け付けている。僕たちはちょうどその時間を目指した。
 座席は通路を隔てて彼女と彼女の妹が隣り合って座り、僕は二人から孤立した席の通路側に座って隣にはサラリーマンが涎を垂らしながら眠っている。
 彼女の妹は窓に手をつきながらはしゃいでいた。その様子を微笑ましそうに眺める彼女の横顔が目に入った。彼女は自分の膝の上に鞄を置いており、その中から薬がいくつか覗いている。彼女の妹がまた痛みを訴えた時の処方薬もとい気休めだった。
 しばらくすると、彼女の妹ははしゃぎつかれたのか眠ってしまった。彼女は仕方なさそうに自分の肩にのしかかる彼女の妹の頭を撫でた。彼女は僕と目が合うと、困ったように笑った。
 目的の駅に到着すると、起こされた彼女の妹は眠い目をこすりながら彼女に手を引かれた状態で新幹線を降りた。僕はその後に続く。彼女の歩みには淀みがなく、おそらくは湖に行った時にホテルに泊まることが恒例だったのだろう。足取りが思い出を記憶しているようだった。
 駅からさらにローカル線の各停電車に揺られた。1時間以上掛けて向かう電車の窓には田園風景が絶えず続いた。目的の駅に着いて改札をくぐると、余計なものが何もないような場所に出たものだと思わず辺りを見まわした。こんなところにホテルなんてあるのだろうか、というのが本音だった。
「ここ、田舎だけど湖を観光する人が多いから、湖の近くに立派なホテルがあるの。他の建物に比べて規模があまりに異質だから、違和感を持つと思う」
 彼女はいつもよりも声のトーンを高くして言った。きっと、上機嫌なのだろう。彼女は逸る気持ちを抑えられないといった様子で歩き出した。そんな彼女を見て、僕も嬉しくなった。
 ……嬉しい? どうして彼女が嬉しいと、僕も嬉しくなるのだろう。他人の感情と自分の感情に相関関係はないはずだ。僕は自分がおかしなことを思ったものだと首を傾げた。
 彼女の先導のもと、僕たちは20分ほど掛けて歩いた。途中、傾斜している丘の麓に辿り着いた。一面が草原になっている。僕は巨大な丘に圧倒されながら見惚れた。
「この丘を登って中央に例の湖があるの」
 彼女も丘を見上げながら僕に言った。
「夜はすごいんだよ! 湖がね、空を切り抜いたみたいに星が綺麗なんだぁ」
 彼女の妹は昔ここに訪れたときのことを思い出しながら、胸元に手をかざした。僕は想像のつかない光景を楽しみにすることにした。
 駅から30分足らずでホテルに辿り着いた。彼女は部屋を二つ予約しており、当然一つは彼女と彼女の妹が共同で使い、もう一つは僕が単独で使用することになった。部屋に荷物を置き、今すぐに使うわけでもないクローゼットの中を無意味に開けてみたり、お風呂の中を確認したりと、部屋の散策を行った。窓に掛かったカーテンを両端に開くと、少し離れたところに丘が見えた。ホテルの7階からの景色であるため、広大な丘の全域が見えた。中央の湖を囲うように木が小さな森をつくって隣立している。湖は青空と雲を映していて、遠目から見ても驚くほど綺麗だった。彼女の妹が表現した通りまるで空を切り抜いたみたいで、丘の中央に落下してそのままにされてあるみたいだ。部屋の窓からの光景に見入っていると、部屋のドアがノックされた。
 急いでドアを開けると、彼女が部屋の前にいた。
「様子を見に来たんだけど、私たちの部屋と違うところはあったりするかな」
 彼女は僕の部屋に入り込んで辺りを見回した。
「特に違いはないみたいね」
「まぁ、同じホテルの部屋だからね」
 彼女は全開になった窓に気付いた。窓に近付いて、丘を眺めた。しばらくしてこちらを振り返ると、彼女は僕に言った。
「綺麗でしょ」
 僕は素直に頷いた。
「思った以上だった。夜が楽しみだよ」
「夜はカーテン開けちゃダメだよ。丘に登る前に見ちゃったら、もったいないから」
「肝に銘じるよ」
 僕が言うと、彼女は笑った。
 その後は何故か彼女と彼女の妹が僕の部屋に入り浸ってテレビを観始めた。彼女の妹は未だ僕を警戒しているようで、彼女の腕にしがみついた状態だった。僕が一人になろうと、カードキーを借りて代わりに彼女の部屋に入ってテレビを観ていると、しばらくして二人がこちらの部屋にやってきた。結局、その部屋で一緒になってテレビを観た。
 夕食の時間になって食事処に向かった。ビュッフェ形式になっていて、空いている丸テーブルの席に腰掛けた。僕は人間の食事はもはや全く受け付けなくなってしまったため、二人がビュッフェに向かう間の席取り係に徹した。正直、この空間に漂う料理の臭いで気分が悪かった。それでも耐えていると、お盆いっぱいに料理をのせて二人が戻ってきた。
「ローストビーフ、三枚も取ってきちゃった。取りすぎかな?」
 彼女は珍しく興奮した様子で言った。
「あ、ひなのもそれ食べたい!」
「あ、ビーフシチュー? 一緒に食べよう」
「君、ビーフばっかりじゃん」
「……うるさい」
 僕の指摘に、彼女は少し顔を赤らめて睨んだ。けれど上機嫌が僕に味方したのか、さして気にすることもなく食事を始めた。二人は幸せそうに口を動かした。
 それにしても、ビーフか。なんともおぞましい。こんなものを平気で食べることができる二人を見て正気なのだろうかと不思議に思った。けれど、つい半年前ほどには僕も好んで牛肉は食べていた。味を思い出すだけでも吐き気がした。形があるものを自分の身体に入れるというのは、もはや想像することさえタブーに感じられるほど、僕は人間の食事を受け付けなくなっていた。
 夕食を済ませた後、僕は満足そうな二人の顔と一緒にホテルを出た。辺りは暗くなっており、田舎ということもあって空気が澄んでいるからか、夜空に瞬く星々が異常なまでにはっきりと視認できた。二人も夜空にご執心だった。
 汗を掻きながら丘を登る。旅行シーズンでもない平日の夜が無人の静寂を辺りに散らしていた。彼女の妹は心細そうに彼女の手を握ったまま丘を登った。暗闇は、人間に本能的な恐怖心を与える。けれど、死神となった僕からすれば、昼間の明るさの方がよほど怖い。だからといって普段昼が怖いかと訊かれれば、そうでもない。人間も現代社会において普段から夜に恐怖することがないように、僕も昼に特別な怖さを見出しているわけではない。ただ、人間が改めて夜や暗闇について考えてみれば怖いと感じるのと似ている。死神の本能によって起こる感情なのだろうか。
 きっと、人間が夜を怖がるのは闇に紛れて得体の知れない何かが潜んでいるのではないかと疑うからだ。一方で死神は、むしろ闇に紛れることで安寧を得ることができる存在であるため、光に照らされると落ち着かなくなる。自分が存在してはいけないことを自覚している分、浄玻璃の鏡に晒されるような罪悪感がどこからともなく湧いてきて、光に炙り出されたコンプレックスが自分の存在を否定してくる。本物の死神なら、開き直ってそんな葛藤など起こらないのだろうか。袋小路に迷い込んだ死神もどきの僕だけが持つ醜い劣等感なのだろうか。
「どうしたの? 難しい顔してるけど」
 彼女が心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。僕は至近距離に彼女の顔があったことに少したじろいで身を引いた。
「なんでもないよ」
 かろうじてそう答えると、彼女は疑わしげに目を細めてから「そっか」と言った。
 緩やかなのにもかかわらずそれなりに高度のある丘をのぼりきると、巨大な星空のドームに囲まれている錯覚を覚えた。プラネタリウムみたいに人工的につくられた光なんじゃないかと思えるほどはっきりと無数の星が四方八方に見えた。こんなにも空が近くに見えるのは初めてだった。
「……綺麗」
 彼女は、掠れた声で呟いた。言葉にするつもりもなかったのに、意に反して思わずこぼしたものだろう。放心したように夜空を見上げていた。先程まではしゃいでいた彼女の妹も圧巻の星空に言葉を失った様子だった。口をあんぐりと開けたまま後頭部が背中にくっつくんじゃないかと思うほど、目が上空に捕らわれている。
 しばらくして正気に戻った二人と本命の湖に向かった。木が茂る箇所を通過すると、丘の中央部分に無数の白い点が映っていた。最初、水中で大量のプランクトンが発光しているのかと思ったけれど、彼女の説明で星空を鏡みたいに映した湖であることが分かった。事前に鏡の湖のことを聞いていたにもかかわらず、僕は目の前に広がる光景が夜空を映したものだとまるで気が付かなかった。何故かこのまま湖の上を歩いても平気だと思えるほど、目前に広がる湖は美しい。
「正直、思っていた以上だよ」
「そうでしょ」
 僕の素直な反応に、彼女は得意げに笑みを浮かべた。それから彼女は口角を徐々に下げて、湖を無表情で眺めた。
「吸い込まれそう」
 彼女の言葉に、僕は頷いた。
「確かに、綺麗だもんね」
「そこに、思い出も映し出されたらいいのに」
 彼女の言葉に僕は思わず振り返った。彼女の妹は何故か不安そうに彼女の手を握りながら、彼女の顔を見上げている。
「私を置いて行かないで、お姉ちゃん」
 泣きそうになりながら、震えた声で彼女の妹が言った。彼女はハッとした様子でしゃがみこみ、彼女の妹の背丈に合わせて視線を合わせた。
「ごめんごめん。私が言った思い出の中には、ひなのもちゃんといるよ」
「……本当?」
「うん、本当」
 彼女は笑顔を浮かべて彼女の妹の髪の毛をくしゃくしゃにした。彼女の妹は涙を流しながら笑った。そして、突然彼女に抱きついた。
「お姉ちゃん、怖い。死ぬのが怖い」
「…………ひなの」
「こんな綺麗な世界から消えなきゃいけないのは、私が汚いから?」
「そんなことない! 聞いて、ひなの。人は、死んだら星になるの」
「……星?」
 彼女の妹が、彼女から少し顔を引いて見上げた。
「この空に広がっている星は、今まで亡くなった人たちが天国に帰った姿」
「……みんな、綺麗」
「ひなのも綺麗だから、ちゃんと星になれる。私も、ひなのの隣に浮かぶ星になるから」
「……お姉ちゃん」
 二人は強く抱きしめ合った。僕は二人に近づいた。彼女の言葉を訂正するために。
「君は何を言ってるの? 人は死んだら、跡形もなく消える。無になるだけだよ」
 僕の言葉に、二人は動きをぴたりと止めた。
 氷漬けにされたみたいにしばらく静止していた二人だったけれど、やがて彼女の妹が取り乱すように泣き喚いた。すると、彼女が立ち上がって僕を睨んだ。
「あんた、どういうつもり?」
「いや、君の発言に間違いがあったから訂正しただけだよ」
「……なんで、わざわざ訂正なんか」
「特に日本では火葬が採用されているから、強いて言えば灰になる。残された骨もいずれ消滅する」
「……望むことすら、私たちには許されてないの? せめて常世では報われてほしいと願ったって、誰にも文句を言われる筋合いなんてない」
「…………それって、慰め合いってこと?」
 乾いた音が、無駄に丘の上で響き渡った。続いて僕の左頬に遅発的に痛みがやってきた。僕は思わず手で頬を押さえた。
「…………サイッテー」
「……何か気に障ったなら謝るよ。僕はただ、夜空に浮かぶ星は恒星で、水素の原子核が互いに融合してヘリウム原子核を発生させる核融合反応を起こしているから人間とはまるで関係がないってことを伝えたかったんだ。人間は死ぬとただの死肉になるんだから」
「…………小鳥遊さんの話を聞いて、気を許した私が馬鹿だった。あんたって最低最悪ね」
 僕は、彼女が口にした名前に心当たりがなかった。だから、彼女に訊いた。
「…………小鳥遊さんって、誰?」
 彼女は心底驚いたように目を見開いた。彼女は怯えたようにこちらを見ながら言った。まるで、死神でも見たみたいな表情だった。
「……あんた、誰」
「オイラは、死神さ」
「……オイラ?」
 彼女が怪訝そうに首を傾げた。その瞬間、記憶の隅に追いやられていた人間だった頃の情景が突然主張を始めた。
 教室で静かに俯きながら授業を受ける少女。お弁当を一緒に食べる時だけ笑顔だった少女。ラーメンを食べて幸せそうな顔をする少女。ぎこちなく抱きついてきた少女。顔を赤らめた少女。僕は、彼女に何度も心を揺さぶられた。
 ……驚いた。僕は、小鳥遊さんのことを忘れていたのか。僕が死神になるきっかけとなった人物のことが分からなくなっていたのか。そのことに一切の疑問を持たずに、僕は目の前にいる二人の少女を傷つけていたのか。自分が先程口にした言葉の数々を思い出して血の気が引いた。僕が、僕じゃないみたいだった。ここにきて初めて、僕は自分の言動に違和感を覚えた。
「……ごめん。一人にしてほしい」
 僕はなんとかそう言葉を振り絞ってホテルに戻った。二人を振り返ることはできなかった。
 部屋に戻った僕は、ベッドに倒れ込んだ。一旦、何もかも思考を放棄してしまいたかった。僕は、現実逃避するために目を閉じた。頭の中がぐるぐると渦巻くようだった。
 夢の中で気が付いた時には、僕は眠っていた。懐かしい夢だ。僕が死神になって間も無く、初めて人間と契約を交わした時の夢だった。