「そんなに意外? 俺、結構嘘つき呼ばわりされるけど、こればっかりは本当だよ」
「情報……? 何かの情報を売って生活しているって、本気で言っているのか?」
「そうそう、フィクションに囚われがちの、立派な職業だ」
シグマはそう言ってからかうように笑う。銀色の前髪からのぞくアンバーの瞳は、どこか仄暗い色を浮かべていた。
「ちなみにマサキは情報が欲しいって言って一年前にここに来た。最初は断ったんだけど、直後にひったくり犯を協力して捕まえたことで仲良くなっちゃってさぁ、オンボロ船だったけど乗ることにしたんだ」
「……さすがに嘘だよな?」
「やだなぁ、事実だって。そんなに気になるなら、そこの大通りを出た交差点近くの交番の前を通ってみなよ。岩島のオッサンが元気かーって声かけてくるから。それくらいアンタはこの辺ではちょっとした有名人」
あの後処理が一番大変だったんだから。と懐かしそうに笑いながらシグマはココアを一口含んだ。一瞬だけ柔らかい表情を見せたのも束の間、すぐにぎらりと目を光らせた。
「基本的には行方不明の飼い猫の目撃情報から素行調査まで。必要とあれば、警察の操作ばりに尾行するし、証拠品探しだって引き受けるよ」
「それはもう探偵の領域では……? とにかく、君の話が本当だと仮定するなら、俺は君に何かの情報を依頼したってことだよな。その内容は?」
「それは守秘義務だから、いくらマサキでも話せないんだよなぁ」
「その依頼人本人が開示しろって言ってんだよ!」
「うげっ……そんなところ普通突いてくる? やっぱり記憶あるんじゃない?」
「ないから聞いているんだって!」
思ってもみない言葉に、真崎は大きく溜息をついた。まさか自分が、情報屋なんて平凡な日常と全く関わりのない人種と接触していたなんて、容易に飲み込めるわけがない。
ケラケラと嗤うシグマに対しての苛立ちを抑えながら、真崎はマグカップのココアを煽った。ほんのりとした甘さが飲みやすい。
「でも残念。マサキが持ってきた依頼に関係する書類は、アンタが俺に黙って全部燃やしちゃってさ、何も残ってないんだよね」
「はぁ!?」
シグマの話によると、初めて依頼を受けた際に、後ほど逆恨みされないよう、自衛のために誓約書を用意しており、この部屋に厳重に保管しているらしい。しかしつい最近、真崎がやってきて「依頼事体をなかったことにしたい」と言い出したという。すでに情報は真崎に渡した後だったこともあり、シグマは反論したが、翌日少し留守にしたタイミングで誓約書を燃やされてしまったという。
「そんな簡単に燃やしていいものじゃないだろ!? 適当な管理で自営業が成り立ってたまるか!」
「いやぁ、合鍵を渡しておいたのが失敗だったよな」
「止めろよ! それかせめてコピーもデータ保管もできただろ! 時代はペーパーレス化だぞ!」
「もちろん管理は万全だった。それでもマサキは俺がやること全部お見通しだったのか、誓約書の原本やそのコピー、データ化した控え、さらに俺が用意した資料全部を破棄したんだ。……褒めてやってもいいよ? アンタは証拠隠滅のプロになれる素質があるかもね」
「全然褒められている気がしない……! じゃあ、君が覚えている範囲で教えてくれ。忘れたとは言わせないぞ」
「あのさぁ、怒ってんのはアンタだけじゃないって、そろそろ気付けよ」
途端、先程までのケラケラと笑うシグマは一瞬にして冷めた表情で真崎を睨みつける。八つ当たりのように問い詰めていた真崎も、ようやく自分が無茶苦茶なことを言っていることに気付いた。それでもシグマは苛立っている声で続ける。
「つい数時間前まで一緒に居た奴が、急に行方不明になったこっちの身にもなってくんない? しかも記憶喪失? ふざけるのもいい加減にしろよ。勝手に一人で行きやがって」
「……なんだ、君は」
そんな顔もできるんじゃないか、と口から出そうになった言葉を飲み込む。どうして今、この状況でそんなことを思ったのか、不思議で仕方がない。
(まるでずっと前から知っているような――)
それは信頼というより、心配と言い換えたほうがしっくりきた。
自分でも言い過ぎたと感じたのか、シグマはハッとして視線を泳がせた。互いにどう話せばいいのかわからなくなり、沈黙が流れる。
「――と、とにかく!」
先に沈黙を破ったのは、明るい声色に戻ったシグマだった。
「その様子だと本業もなくなったんだろ? どう? ここでしばらく俺の手伝いをする気はない? もちろん、お給料もちゃーんと支払うよ」
「……自宅警備を?」
「ある意味そう。大丈夫、危険な目には俺が遭わせたりしない」
ソファから立ち上がると、シグマは意味深に真崎の肩を掴んだ。
「会社を倒産にまで追い込んでクビにされ、殺人犯の容疑もかけられている、傍から見ていても最悪な現状。記憶喪失だから否定できる材料がないし、証拠もない。何をしたって報われないよなぁ! ……でも、これだけは言える。アンタは誰かに嵌められた。アンタだってそう思っているから、思い出したいと足掻いているんだろう?」
彼の言葉に真崎は目を見開く。
決して隠そうとしていたわけではないが、シグマは土足で踏み込んできただけでなく、強引に真崎の醜い部分を引っ張り出そうとしているのがわかった。
わかったからこそ、食らいつきたくなる。
「何が言いたい?」
「順調な人生を送っている奴を陥れたい奴は山ほどいる。どん底人生に落とされたままでいいのか? ――大逆転、したくない?」
にやりと浮かぶ口元が、まるで誘惑を囁く悪魔のように見える。
提案なんかじゃない。これは、脅しだ。
「しようよ、犯人捜し。マサキが白だってことは俺がこの世界で一番よくわかってる。お人好しで正義感の塊みたいな真崎大翔が、悪に手を染めるはずがない。会社を倒産させた疑惑だって、濡れ衣を着せられた可能性のほうが高い。腕に掴まれた血痕が他人のものだって、お前に助けを求めようとした時に付着したかもしれない。そうだろ?」
「それは……」
「ここに居れば、記憶を取り戻せる近道になると思うし、どうしてこうなったのか、何に巻き込まれたかもわかるかもしれない。お互いに利害が一致していると思わない?」
「……確実にそう言い切れる根拠は?」
じろっと睨みつけると、シグマはソファにどんと構えながら堂々と宣言する。
「ないよ。でも俺がアンタを利用するように、アンタは俺を利用すればいい。たったそれだけのことさ」
シグマの言い分ももっともだ。家族も会社も頼れない今、自分の無実と過去の記憶を取り戻すには、彼の近くにいたほうが一番手っ取り早い。
(あくまで記憶を取り戻す手がかりとして、俺はコイツを利用する……!)
「……わかった。君の話、ひとまず信じるよ」
自分の感覚を信じてそう告げると、シグマは途端に目を輝かせた。
「本当? わっはーっ! マサキ最高!」
「いっだ!? 力強すぎっ……離せ!」
「わざわざ怪我をしていない肩にしてあげたじゃん。ちょっとくらいよくない?」
「言っておくけど、まだ完全に君を信用したわけじゃないぞ。現段階で信用できるものが少なすぎるから、お試し期間みたいなもので……」
「それでもいいさ! それじゃあ早速、仕事の準備だ」
「絶対わかってない……って、仕事?」
真崎が首を傾げると同時に、路地裏に繋がっているドアが開かれ、バサバサと物音を立てた。
雨に濡れたカラスでも入ってきたのかと思って見れば、スーツ姿の男性が、折り畳み傘の水滴を払っていたところだった。周りの床がびしょ濡れで、自分のスーツにもかかってしまっている。
あまりにも雑な払い方に真崎が驚いていると、彼がこちらに気付いた。三十代後半くらいだろうか、撫でつけた黒髪を整えながら見える目の下の隈がはっきりと浮かんでいる。そしてなぜか、真崎と同様に驚いた顔を浮かべた。
「マサキ? なんでここに……」
「……どなた?」
唐突に現れた男性に「マサキ」と呼ばれ、目を丸くする。それは彼も同じだったようで、気まずい沈黙が流れた。
「早瀬さん、雫を払うなら外でやれってー。コンクリートだからそのうち歪むよって、いつも言っているじゃん」
重い空気を割って入ってきたのは、言わずもがなシグマだった。手には新しいタオルがあり、早瀬と呼んだ男性に投げ渡す。
「どうしても傘を畳むのだけが上手くできなくてね。ところでシグマ、どうして彼がここにいる?」
「外で拾った」
「捨て猫みたいに言うな。……まさか、病室に突撃して攫ってきたとか」
「そんなそんな、さすがの俺も怪我人に横暴なことはしないって」
(いきなり罵倒してきた奴が言うな!)
思わず怒鳴りそうになるのをぐっとこらえると、真崎は早瀬に問う。
「あ、あの、あなたは……?」
「え? ああ、そうか。記憶がないんだったな。俺は早瀬俊。よろしく」
そう言って差し出したのは名刺だった。不覚にも慣れた手つきで受け取り、まじまじと見る。『警部補』と書かれたそれが作り物ではないとわかると、一気に血の気が引いた。
「警察って……シグマ! 君は一体何をした!?」
「俺が警察のご厄介になっているとでも? 冗談でもいうなよ、相棒」
「記憶を失っている奴にそう思われても仕方がないってことだ。……残念だが」
小さく呟いた「残念」の言葉は真崎にしか聞こえていなかったが、それでも警察に厄介者扱いをされているのは目に見えてわかった。
しかし、シグマと早瀬のやり取りを見ていると、もっと近しい存在のようにも感じられた。じっと二人の様子を見ていた真崎に、早瀬は問う。
「それで、マサキはどうしてここに? 本当に拾われたのか?」
「あ、あながち間違ってはいない、です。あの、どうして俺のことを?」
「知り合いであり、警察だからだ。顔と名前を覚えるのは職業柄、得意でな。……そうか。真面目人間のお前がそう言うなら、本当のことなんだな」
「早瀬さん、俺のこと嘘つき野郎って思ってないー?」
「そう思わせる変人ムーブしているシグマが悪い。……まぁ、ざっくり話すと、俺は警察では手に入れられない情報を入手するための手段としてここに来ている。マサキ、お前との関わりも同様だ。コンテナに監禁されていたことも両方から聞いている。だが、第三者の血痕が見つかったのは想定外だ。記憶がない以上、お前は事件の容疑者の一人として認知されていることを忘れるな」
早瀬は淡々と答えながらジャケットをコート掛けに投げると、慣れたように一人用ソファに座った。どうやら彼の定位置らしい。
その一方で、真崎は頭を抱えた。
(一体どうなっているんだ、三年後の俺がいた環境は!?)
この一日で好成績を残してきた会社をクビになり、自称相棒に煽られ、さらに警察と関わりがあり、誰かに手を下した可能性は捨てきられれず容疑者の一人としてマークされている現状……すでに真崎の頭の中はキャパオーバーだ。
「それにしても、コンテナで見つかったのがお前だと聞いた時は心臓が止まるかと思った。……生きていてくれて、よかった」
「早瀬、さん……!」
真崎は未だに自分が何に巻き込まれたのか、どういった状態で発見されたのかを曖昧なままでいた。無残な姿だったことは聞きかじっていたが、実際に「生きていてくれてよかった」と言われてしまうと、死に際まで追いやられていたことを改めて実感する。
「ともかく、シグマと合流できたってことは、俺の仕事も随分楽になる。悪いが、体を二つに分裂できるほど俺は暇じゃないからな」
早瀬はココアを一気に煽ったシグマに向けて問う。
「シグマ、先に話していたんだろう。マサキは何か覚えていたか?」
「全部忘れているっぽい。感覚は覚えている印象かな。ただ、無関係だと決めつけるには不十分だな」
「俺も同じだ。マサキが巻き込まれた事件と今回が別件なら、それを裏付ける証拠が必要だ。頼めるか?」
そう言いながら早瀬は鞄から取り出した紙の束をテーブルにたたきつける。表紙には【極秘】と書かれている。
「そ、それって……捜査資料!?」
真崎はサーッと血の気が引いていくのを感じた。対してシグマはにやりと口元を緩め、わざとらしく両手を広げた。
「もちろん! 相棒が戻ってきた俺は最強で最高さ! ……その前に腹減ったからメシ行かない?」
「ああ、今日はサフランのビーフシチューが売り切れていないといいんだが……」
「……頼むから、二人で会話しないでくれぇぇえ!」
悲痛の叫びがビル全体に響き渡る。それを見て、シグマはどこか嬉しそうに笑った。
「情報……? 何かの情報を売って生活しているって、本気で言っているのか?」
「そうそう、フィクションに囚われがちの、立派な職業だ」
シグマはそう言ってからかうように笑う。銀色の前髪からのぞくアンバーの瞳は、どこか仄暗い色を浮かべていた。
「ちなみにマサキは情報が欲しいって言って一年前にここに来た。最初は断ったんだけど、直後にひったくり犯を協力して捕まえたことで仲良くなっちゃってさぁ、オンボロ船だったけど乗ることにしたんだ」
「……さすがに嘘だよな?」
「やだなぁ、事実だって。そんなに気になるなら、そこの大通りを出た交差点近くの交番の前を通ってみなよ。岩島のオッサンが元気かーって声かけてくるから。それくらいアンタはこの辺ではちょっとした有名人」
あの後処理が一番大変だったんだから。と懐かしそうに笑いながらシグマはココアを一口含んだ。一瞬だけ柔らかい表情を見せたのも束の間、すぐにぎらりと目を光らせた。
「基本的には行方不明の飼い猫の目撃情報から素行調査まで。必要とあれば、警察の操作ばりに尾行するし、証拠品探しだって引き受けるよ」
「それはもう探偵の領域では……? とにかく、君の話が本当だと仮定するなら、俺は君に何かの情報を依頼したってことだよな。その内容は?」
「それは守秘義務だから、いくらマサキでも話せないんだよなぁ」
「その依頼人本人が開示しろって言ってんだよ!」
「うげっ……そんなところ普通突いてくる? やっぱり記憶あるんじゃない?」
「ないから聞いているんだって!」
思ってもみない言葉に、真崎は大きく溜息をついた。まさか自分が、情報屋なんて平凡な日常と全く関わりのない人種と接触していたなんて、容易に飲み込めるわけがない。
ケラケラと嗤うシグマに対しての苛立ちを抑えながら、真崎はマグカップのココアを煽った。ほんのりとした甘さが飲みやすい。
「でも残念。マサキが持ってきた依頼に関係する書類は、アンタが俺に黙って全部燃やしちゃってさ、何も残ってないんだよね」
「はぁ!?」
シグマの話によると、初めて依頼を受けた際に、後ほど逆恨みされないよう、自衛のために誓約書を用意しており、この部屋に厳重に保管しているらしい。しかしつい最近、真崎がやってきて「依頼事体をなかったことにしたい」と言い出したという。すでに情報は真崎に渡した後だったこともあり、シグマは反論したが、翌日少し留守にしたタイミングで誓約書を燃やされてしまったという。
「そんな簡単に燃やしていいものじゃないだろ!? 適当な管理で自営業が成り立ってたまるか!」
「いやぁ、合鍵を渡しておいたのが失敗だったよな」
「止めろよ! それかせめてコピーもデータ保管もできただろ! 時代はペーパーレス化だぞ!」
「もちろん管理は万全だった。それでもマサキは俺がやること全部お見通しだったのか、誓約書の原本やそのコピー、データ化した控え、さらに俺が用意した資料全部を破棄したんだ。……褒めてやってもいいよ? アンタは証拠隠滅のプロになれる素質があるかもね」
「全然褒められている気がしない……! じゃあ、君が覚えている範囲で教えてくれ。忘れたとは言わせないぞ」
「あのさぁ、怒ってんのはアンタだけじゃないって、そろそろ気付けよ」
途端、先程までのケラケラと笑うシグマは一瞬にして冷めた表情で真崎を睨みつける。八つ当たりのように問い詰めていた真崎も、ようやく自分が無茶苦茶なことを言っていることに気付いた。それでもシグマは苛立っている声で続ける。
「つい数時間前まで一緒に居た奴が、急に行方不明になったこっちの身にもなってくんない? しかも記憶喪失? ふざけるのもいい加減にしろよ。勝手に一人で行きやがって」
「……なんだ、君は」
そんな顔もできるんじゃないか、と口から出そうになった言葉を飲み込む。どうして今、この状況でそんなことを思ったのか、不思議で仕方がない。
(まるでずっと前から知っているような――)
それは信頼というより、心配と言い換えたほうがしっくりきた。
自分でも言い過ぎたと感じたのか、シグマはハッとして視線を泳がせた。互いにどう話せばいいのかわからなくなり、沈黙が流れる。
「――と、とにかく!」
先に沈黙を破ったのは、明るい声色に戻ったシグマだった。
「その様子だと本業もなくなったんだろ? どう? ここでしばらく俺の手伝いをする気はない? もちろん、お給料もちゃーんと支払うよ」
「……自宅警備を?」
「ある意味そう。大丈夫、危険な目には俺が遭わせたりしない」
ソファから立ち上がると、シグマは意味深に真崎の肩を掴んだ。
「会社を倒産にまで追い込んでクビにされ、殺人犯の容疑もかけられている、傍から見ていても最悪な現状。記憶喪失だから否定できる材料がないし、証拠もない。何をしたって報われないよなぁ! ……でも、これだけは言える。アンタは誰かに嵌められた。アンタだってそう思っているから、思い出したいと足掻いているんだろう?」
彼の言葉に真崎は目を見開く。
決して隠そうとしていたわけではないが、シグマは土足で踏み込んできただけでなく、強引に真崎の醜い部分を引っ張り出そうとしているのがわかった。
わかったからこそ、食らいつきたくなる。
「何が言いたい?」
「順調な人生を送っている奴を陥れたい奴は山ほどいる。どん底人生に落とされたままでいいのか? ――大逆転、したくない?」
にやりと浮かぶ口元が、まるで誘惑を囁く悪魔のように見える。
提案なんかじゃない。これは、脅しだ。
「しようよ、犯人捜し。マサキが白だってことは俺がこの世界で一番よくわかってる。お人好しで正義感の塊みたいな真崎大翔が、悪に手を染めるはずがない。会社を倒産させた疑惑だって、濡れ衣を着せられた可能性のほうが高い。腕に掴まれた血痕が他人のものだって、お前に助けを求めようとした時に付着したかもしれない。そうだろ?」
「それは……」
「ここに居れば、記憶を取り戻せる近道になると思うし、どうしてこうなったのか、何に巻き込まれたかもわかるかもしれない。お互いに利害が一致していると思わない?」
「……確実にそう言い切れる根拠は?」
じろっと睨みつけると、シグマはソファにどんと構えながら堂々と宣言する。
「ないよ。でも俺がアンタを利用するように、アンタは俺を利用すればいい。たったそれだけのことさ」
シグマの言い分ももっともだ。家族も会社も頼れない今、自分の無実と過去の記憶を取り戻すには、彼の近くにいたほうが一番手っ取り早い。
(あくまで記憶を取り戻す手がかりとして、俺はコイツを利用する……!)
「……わかった。君の話、ひとまず信じるよ」
自分の感覚を信じてそう告げると、シグマは途端に目を輝かせた。
「本当? わっはーっ! マサキ最高!」
「いっだ!? 力強すぎっ……離せ!」
「わざわざ怪我をしていない肩にしてあげたじゃん。ちょっとくらいよくない?」
「言っておくけど、まだ完全に君を信用したわけじゃないぞ。現段階で信用できるものが少なすぎるから、お試し期間みたいなもので……」
「それでもいいさ! それじゃあ早速、仕事の準備だ」
「絶対わかってない……って、仕事?」
真崎が首を傾げると同時に、路地裏に繋がっているドアが開かれ、バサバサと物音を立てた。
雨に濡れたカラスでも入ってきたのかと思って見れば、スーツ姿の男性が、折り畳み傘の水滴を払っていたところだった。周りの床がびしょ濡れで、自分のスーツにもかかってしまっている。
あまりにも雑な払い方に真崎が驚いていると、彼がこちらに気付いた。三十代後半くらいだろうか、撫でつけた黒髪を整えながら見える目の下の隈がはっきりと浮かんでいる。そしてなぜか、真崎と同様に驚いた顔を浮かべた。
「マサキ? なんでここに……」
「……どなた?」
唐突に現れた男性に「マサキ」と呼ばれ、目を丸くする。それは彼も同じだったようで、気まずい沈黙が流れた。
「早瀬さん、雫を払うなら外でやれってー。コンクリートだからそのうち歪むよって、いつも言っているじゃん」
重い空気を割って入ってきたのは、言わずもがなシグマだった。手には新しいタオルがあり、早瀬と呼んだ男性に投げ渡す。
「どうしても傘を畳むのだけが上手くできなくてね。ところでシグマ、どうして彼がここにいる?」
「外で拾った」
「捨て猫みたいに言うな。……まさか、病室に突撃して攫ってきたとか」
「そんなそんな、さすがの俺も怪我人に横暴なことはしないって」
(いきなり罵倒してきた奴が言うな!)
思わず怒鳴りそうになるのをぐっとこらえると、真崎は早瀬に問う。
「あ、あの、あなたは……?」
「え? ああ、そうか。記憶がないんだったな。俺は早瀬俊。よろしく」
そう言って差し出したのは名刺だった。不覚にも慣れた手つきで受け取り、まじまじと見る。『警部補』と書かれたそれが作り物ではないとわかると、一気に血の気が引いた。
「警察って……シグマ! 君は一体何をした!?」
「俺が警察のご厄介になっているとでも? 冗談でもいうなよ、相棒」
「記憶を失っている奴にそう思われても仕方がないってことだ。……残念だが」
小さく呟いた「残念」の言葉は真崎にしか聞こえていなかったが、それでも警察に厄介者扱いをされているのは目に見えてわかった。
しかし、シグマと早瀬のやり取りを見ていると、もっと近しい存在のようにも感じられた。じっと二人の様子を見ていた真崎に、早瀬は問う。
「それで、マサキはどうしてここに? 本当に拾われたのか?」
「あ、あながち間違ってはいない、です。あの、どうして俺のことを?」
「知り合いであり、警察だからだ。顔と名前を覚えるのは職業柄、得意でな。……そうか。真面目人間のお前がそう言うなら、本当のことなんだな」
「早瀬さん、俺のこと嘘つき野郎って思ってないー?」
「そう思わせる変人ムーブしているシグマが悪い。……まぁ、ざっくり話すと、俺は警察では手に入れられない情報を入手するための手段としてここに来ている。マサキ、お前との関わりも同様だ。コンテナに監禁されていたことも両方から聞いている。だが、第三者の血痕が見つかったのは想定外だ。記憶がない以上、お前は事件の容疑者の一人として認知されていることを忘れるな」
早瀬は淡々と答えながらジャケットをコート掛けに投げると、慣れたように一人用ソファに座った。どうやら彼の定位置らしい。
その一方で、真崎は頭を抱えた。
(一体どうなっているんだ、三年後の俺がいた環境は!?)
この一日で好成績を残してきた会社をクビになり、自称相棒に煽られ、さらに警察と関わりがあり、誰かに手を下した可能性は捨てきられれず容疑者の一人としてマークされている現状……すでに真崎の頭の中はキャパオーバーだ。
「それにしても、コンテナで見つかったのがお前だと聞いた時は心臓が止まるかと思った。……生きていてくれて、よかった」
「早瀬、さん……!」
真崎は未だに自分が何に巻き込まれたのか、どういった状態で発見されたのかを曖昧なままでいた。無残な姿だったことは聞きかじっていたが、実際に「生きていてくれてよかった」と言われてしまうと、死に際まで追いやられていたことを改めて実感する。
「ともかく、シグマと合流できたってことは、俺の仕事も随分楽になる。悪いが、体を二つに分裂できるほど俺は暇じゃないからな」
早瀬はココアを一気に煽ったシグマに向けて問う。
「シグマ、先に話していたんだろう。マサキは何か覚えていたか?」
「全部忘れているっぽい。感覚は覚えている印象かな。ただ、無関係だと決めつけるには不十分だな」
「俺も同じだ。マサキが巻き込まれた事件と今回が別件なら、それを裏付ける証拠が必要だ。頼めるか?」
そう言いながら早瀬は鞄から取り出した紙の束をテーブルにたたきつける。表紙には【極秘】と書かれている。
「そ、それって……捜査資料!?」
真崎はサーッと血の気が引いていくのを感じた。対してシグマはにやりと口元を緩め、わざとらしく両手を広げた。
「もちろん! 相棒が戻ってきた俺は最強で最高さ! ……その前に腹減ったからメシ行かない?」
「ああ、今日はサフランのビーフシチューが売り切れていないといいんだが……」
「……頼むから、二人で会話しないでくれぇぇえ!」
悲痛の叫びがビル全体に響き渡る。それを見て、シグマはどこか嬉しそうに笑った。