出原と箕輪が病院を訪れた日から数日経ったある日。退院の許可が下りた真崎は、少ない荷物を抱え、警察から教えてもらった自宅の住所に向かった。
病院から最寄り駅まで五駅ほど離れ、さらに徒歩で五分。急坂を登り切ったところにある五階建てのマンションだった。
入社当初は自宅から通っていたのは覚えていたが、半年くらい経った頃に一人暮らしを始めたらしい。
ちなみに実家の両親に退院したことを連絡したら、こっぴどく叱られた。それに加えて会社が倒産した件も併せて伝えると、家系や周囲からの評価を大切にする父親は「恥さらしが!」と電話越しで激怒し、一方的に通話を切られてしまった。
(あの感じだと勘当に近いけど、まぁいいか)
幼少期から父親とは折り合いが悪かったのだ。離れて清々しさまで感じる。
今はそれよりも自分のことを思い出さなければ、と足を進める。記憶は忘れているのに、生活の基本的なことや自宅への道順を身体が覚えているのは、なんとも不思議な感覚だった。
しっかりとした足取りで「三〇五」と表記された部屋に着くと、事前に受け取っていた鍵を差し込む。なんの障害もなく鍵がまわった。
「…………」
ずっとここにいたような懐かしい感覚。鼓動の早い心臓を落ち着かせるために一度深呼吸をしてから、おそるおそるドアを開けた。
近くにあった蛍光灯をつけると、そこには何とも殺風景な光景が広がっていた。しばらく使われていなかったようで、キッチンのシンクや風呂場といった水回りは綺麗に片付いており、種類別に細かく分かれたゴミ箱は、真新しいゴミ袋だけが入っているだけで中は空っぽ。寝室のベッドも綺麗に整えられ、ローテーブルには何も置かれていない。
ソファに腰を下ろすと、心地よい弾力で沈んでいくのがわかった。白い壁紙に合わせた家具は少々こだわっていたのかもしれない。
部屋をよく見渡せば、ブラウンのカラーボックスに詰められた小難しい教材や資料、辞書がずらりと並んでいる。初めて入ったはずなのに、どこかしっくりくる。この部屋は実際に自分が住んでいるのだと確信した。
それと同時に、気味が悪かった。
出原から生真面目な性格と言われていたことを踏まえると、本棚や部屋の整理がなされているのはまだ納得できるかもしれないが、それにしたって綺麗すぎる。少なくとも入院していた数週間、埃が一つも積もらないわけがない。警察が一度、この家に立ち入っているとはいえ、あまりにも整いすぎていた。
(まるで生前整理でもしていたみたいだ)
拭いきれない違和感に項垂れる。何も思い出せない今、考えても仕方がないのはわかっているのに。
切り替えてこれからどうするか考えていると、新しく買い替えたスマートフォンにメッセージが届いた。箕輪からだった。
『会社の件でお話があります。お手数ですが明日、会社の近くまで来ていただくことは可能でしょうか?』
倒産に追い込んだ疑惑は、今も疑われたままだ。
これ以上自分ができることはないので、会社の判断に任せることを伝えたのはつい先週の話。急な頭痛に襲われた後は何も話せなかったので、看護師経由で伝えてもらった。
真崎は了承の返事を帰して、ソファに横になった。
ゆっくりと覚えていることを頭に浮かべれば、何かわかるかもしれない。そう思って目を瞑るも、いつの間にか睡魔に襲われ、そのまま寝落ちてしまった。
翌日の昼過ぎ、箕輪に指定された場所は、ワルトの社員がよく利用しているという駅ビルのカフェだった。店内に入ると、すでに座っていた彼女が片手をあげて真崎を呼んだ。テーブルの上に広げられたノートパソコンと資料を慌ててまとめながら、通りすがりの店員にコーヒーを注文する。真崎が到着するまで仕事をしていたらしい。
「呼び出してごめんなさい。昨日、退院したばかりでしたよね? 大丈夫でした?」
「おかげさまで。それよりも箕輪さんのほうが忙しいんじゃ……?」
「ええ。実はグループ会社にそれぞれ異動になりまして、多くの社員が引っ越し作業に追われているんです」
なんて待遇の良い会社だろうと感心した。ただでさえ日本は働き口が少ないのに、次の勤務先まで面倒を見てくれる会社は早々無いのではないだろうか。これなら自分も次の勤務先を保証してくれるのではと、淡い期待を抱いてしまう。
(疑われている奴に、そんな待遇はないだろうけど)
「それで、お話というのは」
「……あなたの、処分について。本当は出原部長の役目なのですが、他の対応に追われていて動けないため、私からお渡しすることになりました。後ほど連絡があるかと思いますが、今はご了承ください」
そう前置きすると、箕輪は鞄から一枚の封筒を取り出して真崎に差し出した。その瞳は不安げで、小さく震えているようにも思える。
真崎は受け取って封筒を開く。中には『解雇通知書』と大々的に書かれた用紙が入っていた。
目を伏せて息を小さくついた。
(やっぱりな)
どこかで覚悟はしていた。記憶がないとはいえ、不審な動きをしている自分の行動が倒産に繋がったとなれば、たとえ無実だったとしても立ち去るべきだと。
どれだけ成果を上げようが、疑われ、信用を失えばすべて無と化してしまう。
ふと箕輪を見れば、悔しそうに唇を噛んでいた。もしかしたら、真崎とともに多くの仕事をこなしてきたからこその表情だったのかもしれない。
真崎はそれを横目に、ショルダーバッグからボールペンと印鑑を取り出した。ある程度想定して持ってきたとはいえ、いざ目の前にするとくるものがある。
必要な項目を書き込んで捺印を終えると、彼女に向けて深く頭を下げた。
「お世話になりましたと、お伝えください」
入社して三年、営業部のエースまで昇り詰めた真崎大翔は、この日を境に無職になった。
箕輪と別れ、真崎はゆく当てもなくふらふらと歩いていた。
会社に置いていた真崎の荷物は、今の住所に送ってもらうことになっている。彼女は最後に何か言いたげな様子だったが、無理やり作った笑みを浮かべ、そのまま立ち去っていった。
(さて、これからどうするか)
真崎は自宅のあるマンションへ足を向けていながらも遠回りをしていた。道順を完全に思い出したわけではない。直感に身を任せているだけで、特に深い意味はなかった。
待ち合わせのカフェへ行く前に銀行で貯金額を確認したが、あまり金を使うことをしていなかったようで、当分働かなくても生活はできるだろう。しかし、怪我が完全に治るまでだとしても、再就職はしなければならない。
出原曰く、記憶を失う前の真崎は営業部で実績を積んできたと言っていたし、おそらくどの職業に応募しても大概採用されるだろう。だが、今の自分に同じことができるかと問われたら、何とも言えない。少なくとも、倒産に加担した疑惑がある限り、同じように働けるとは到底思えなかった。
ここは地道にアルバイトからと思い、スマートフォンで求人サイトを開く。すると突然、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「……最悪だな」
先程まで晴れていた青空に灰色の雲が覆う。夕立ちのようだが、生憎近くには傘を買えるようなコンビニも、雨宿りができる屋根もなかった。周囲は人通りの少ないコンクリートの塀に囲まれた家ばかり。遠回りして歩いていたものの、気付かぬうちに迷い込んでいたようだ。
(そもそも記憶自体ないんだけどさ)
自嘲気味に笑うと、真崎は雨に自ら打たれるように見上げた。
退院の手続きの際、対応してくれた看護師から、発見されてから十日以上も経過していることを教えてくれた。「よく頑張りましたね」と励ましてくれたが、真崎がしたことといえば、長時間の検査に耐え、薄味の病院食と苦い薬を胃に入れたことくらいだ。
結局、どんなに時間をかけて脳の検査をしても、何一つ思い出せていない。
それでもいろんな人から話を聞く限りでは、真崎大翔という人間は平凡ながらも絶好調な人生を送っていたようだった。真面目で、人に好かれやすいタイプ――気付かないうちに天狗にでもなったのかもしれない。それが突然足をすくわれ、崖の上から突き落とされたようにあっという間に人生が暗転した。
記憶喪失にならなければ。事件に巻き込まれなければ。理に反した自分を止めていれば――職や実績だけでなく、人としての信頼も失わなかったかもしれない。薬品臭いベッドの中で、真崎は毎晩同じことを考えていた。
次第に雨は本格的に降り出した。その場に立ち止っていた真崎は、すでに全身ずぶ濡れの状態だった。このまま気絶して倒れたら、高熱でも出たら記憶が戻るんじゃないかと、ふざけた考えが頭を過ぎる。
「……なぁ、俺は何者なんだ?」
問いかける声は、雨がコンクリートを打ち付ける音でかき消されていく。
諦め半分で目を伏せた――その瞬間。
「――みーぃつけた」
身体を打ち付けるように降る雨が止んだ。いや、目をそっと開けば、頭の上に何かが覆いかぶさっていた。どこにでも売っている黒い傘だ。
振り向けば、大学生くらいだろうか、自分より頭一つ分くらい低い青年が小さく笑って立っていた。
年季の入った革ジャンの中に目立つ赤いパーカー。黒のチノパンと、登山用に等しい安全靴。かぶっている黒のニット帽にはカラフルな缶バッジが二つ付いており、銀髪から覗かせた猫目のアンバーの瞳は今にも吸い込まれそうで、異質な雰囲気を醸し出していた。
茫然と見入る真崎に、青年は「ハハッ」と笑った。
「幽霊でも見たような顔すんなよ。さすがの俺も傷つくって」
真崎は彼から目が離せなかった。幼い顔つきも、浮かべた笑みもいたって普通だ。それなのにアンバーの瞳だけは、獲物に狙いを定めた獣の殺気を感じ取った。しかし、初対面にも関わらず、その鋭い目にどこか懐かしさを覚える。
すると、青年は真崎の顔を覗き込むようにしてじっと見つめると、すぐに鼻で嘲笑った。
「というか、ここにいるってことは記憶が戻ったってこと? なんだぁ、さっさと連絡してこいって」
「……れん、らく?」
「あれ? その様子だと思い出した感じでもないのか。そりゃそうか、雨に打たれただけで思い出せたら、割に合わねぇもんな」
大人っぽい低音で繰り出される毒舌。まさか初対面でそこまでずけずけと踏み込まれるとは思っていなかった真崎は、圧倒されたままぽかんと口が開いたままだった。
「そもそも、高熱だけでは脳に異常が起きたら、ほとんどの子どもは記憶を飛ばしているって。期待するだけ無駄。実践するだけ無駄なんだから、そんなものに縋るなよ」
「……せぇよ」
「ん?」
「うるせぇ! 初対面相手だからって人のデリケートな部分を勝手に踏み荒らしてくるな!」
真崎は思わず彼を指さしながら、感情のまま怒鳴り散らした。記憶を失ってから――いや、こんなに声を荒げたのは生まれて初めてかもしれない。
苛立ちが収まらない。辛うじて覚えている入社前、出原や他の先輩社員に歓迎された時、これからともに働く新しい日々を確かに楽しみにしていたはずだった。
それなのに、次に目を覚ました時には三年も月日は流れていて、知らぬ間に自分が窮地に立たされている現実を、理不尽にも暴力的に叩きつけられた。
自分の記憶も職も、存在意義も全部、すぐ近くにあったものはすべて、何も無くなってしまった。虚しさと苛立ちが溢れ、絶望と化している。
だからこそ今の真崎には、過去の自分に向けた怒りの矛先をどこにも向けられない。自分が悪いのだから、誰かに向けてはいけないと、必死に抑えることしかできない。
貯水されたダムのように、捌け口がわずかでもあれば、醜い感情は外へ溢れ出してしまう。
「人間誰しも、立ち寄らせない境界線(ボーダーライン)ってのがあるんだよ! 他人だからって土足で踏み込んでくるな! こっちがどんな思いでここにいるのか、一ミリも知らないくせに!」
「感情ぐちゃぐちゃ! 情緒不安定かよ。でも元気そうじゃん」
「全っ然よくない! こちとら退院したばかりの怪我人だっつーの! もっと丁寧に扱え!」
青年はニヤニヤと笑みを浮かべるばかりで、全く話を聞いてもらえそうになかった。質(たち)の悪いカツアゲというわけでもないらしい。
「何が目的だ? 俺を揺すったところで夢も希望も出てこねぇぞ!」
「自分で言って悲しくない? 大分痛いよ」
「笑いたければ笑えばいい! 君がしっかり仕事して稼いだ金が全部、努力の結晶だって胸張って言えるならな!」
「うわぁ……そんなマイナスに開き直るなって。こうなったマ(・)サ(・)キ(・)って面倒なんだよなぁ……」
「大体君は……ん?」
待てよ? と真崎は一度言葉を飲み込んだ。
(コイツ今……俺のことをマサキって呼んだ? シンザキじゃなくて?)
読み間違われることが多い苗字ではあるが、この青年はさも当然のように真崎のことを「マサキ」と呼んだ。名前を知っていること自体おかしい話だが、もしかしたら事故に遭う前の自分に会っていたのではないかと憶測がよぎる。
それだけではない。
(なんで俺が記憶喪失であることを知っているんだ?)
コンテナに閉じ込められていた件はニュースにもなったが、真崎の容姿を含む個人情報は一切公開されていない。むしろ警察でしか取り扱われていない現状で、外部の人間が知るはずがないのだ。
単にこの青年が真崎に接触してきたのが昔の友人であるならば、懐かしいと思ってしまったこの感覚にも納得するが――
(……いやいやまさか。そんな偶然があるわけがない)
ましてや人を言葉で蹴り飛ばすような、感動とは程遠い最悪の再会があってたまるかと首を振った。
その顔色を見て察したのか、青年は口元をまたにやりと歪めた。
「安心しなよ、俺達はちゃーんと深い繋がりを持つ者同士だ。例えるなら……そう、親友とか? いや、友人の類は距離があるな。かといって兄弟のような間柄でもないし……」
「君は一体……?」
「ああ、そうだ。これが一番しっくりくる」
青年がぱぁっと顔を上げると同時に、急に振り出した雨が次第に弱まった。不気味な灰色の雲が遠くへ流れていき、淡い夕空が視界いっぱいに広がる。まるで自分の周辺だけ時間が止まったような気がした。
青年は傘を降ろすと、まるで歓迎するかのように両腕を広げた。
「俺はシグマ。待っていたよ――相棒」
喧嘩を吹っ掛けられるようにして果たした最悪の再会。真崎にとっては初対面のはずなのに、不思議と心が震えた。
シグマと名乗る青年に連れられ、古びたビルが並ぶ大通りの路地裏に入った。
雨が上がってすぐの湿った空気に混ざって、泥臭い匂いが強く漂っている。思わず鼻と口を覆いたくなったが、ガラクタが多くて足の踏み場がない場所では、手を壁に触れていないと転びそうになった。
目的のビルに着くと、非常階段を登っていく。二人分の足音が響く中、ふと遠くに見えた光に目を向ける。どうやら路地を抜けた先は大通りのようで、近くにある立て看板の前に二人組の女性が楽しそうに話しているのが見えた。まるで異世界に迷い込んだかと錯覚するほどの温度差だ。
それでも抵抗なく歩き慣れているのは、以前にも真崎自身がここを訪れたことがあるからだろうか。現に、路地裏では左右に分けられるようにして捨てられたガラクタを踏みつけることなく、たどたどしさはあったが上手くかい潜っていった。記憶は忘れていても、身体は覚えているという話は本当かもしれない。
階段を登りきってドアを開けると、そこにはコンクリートで囲まれた一室があった。パーテーションで区切られ、中央にはシックな黒いソファとローテーブルだけが置かれている。向こう側にはシグマの作業スペースなのか、何かの資料が散らかしっぱなしになっている机が見えた。
靴は脱がずに入るスタイルのようで、シグマは濡れた靴裏など気にすることもなく、平然と部屋の奥に入っていく。
どうすればいいか視線を泳がせていると、奥から戻ってきたシグマからバスタオルと替えの服を押し付けられた。
「ほら、風邪をひく前にさっさと行って」
「え? 行くって……」
「風呂場だよ。ここをまっすぐ行ったところにあるから。そのズボンとシャツはマサキが置いていったやつだから、ちゃんとサイズは合うと思うよ」
シグマに比べてずぶ濡れだった真崎は、ひとまず言われた通りに風呂場を使わせてもらうことにした。
背中に湯が当たると、傷口は完全に塞がったはずなのにじんじんと痛む。退院したとはいえ、未だ痛みは残っているようで、早めに出ることにした。
先程渡された服は真崎にぴったりだった。細身のシグマにしては大きすぎるので、やはり自分が持ってきたものだと察する。
(彼の言っていることは本当なのか? それとも……)
使ったタオルは、洗濯機の上に置かれたカゴにためらいもなく突っ込んだ。無意識にした行動に、真崎はこの場所を知っていると確信が持てたような気がした。
風呂場を出ると、ラフな格好になったシグマが二つのマグカップを持って戻ってきたところだった。銀髪を隠すようにしてかぶっていたニット帽は、白いビーニーに変わっている。
シグマは真崎をソファに座るように促してから、テーブルにマグカップを置いた。ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐる。どうやら温かいココアらしい。
「マサキ、ここに来るとこれしか飲んでなかったから同じものを持ってきたけど、飲める?」
「俺が、ここで? でも甘い物はそこまで得意じゃ……」
「忘れているのは三年間分の記憶だっけ。俺とアンタが出会ったのは今から一年前。最初は甘いのは苦手って言っていたけど、『サフラン』のココアは甘さ控えめだから飲めるって言ってた。まぁ物は試しでどう?」
「ありがとう。……さふらんって?」
「この事務所の下にある喫茶店。純喫茶『サフラン』」
「まさか、そこからくすねてきたんじゃ……」
「ちゃんと金払っているって。なにこのデジャヴ」
どうやら以前にも同じことを言ったらしい。シグマは楽しそうにケラケラと笑う。
「懐かしいなぁ。マサキが初めてここに来た時も、今と同じ顔をしていたっけ」
「……本当に、君と俺は知り合いだったのか? それに君は何者なんだ? どうして俺が記憶喪失だって知っている?」
目の前に座るこの青年は、真崎との関係を「相棒」だと言った。
同業者にしては奇抜な見た目をしているし、もし同じように営業してまわっていたら――記憶喪失で忘れていることは差し引いても――きっと話題になっているだろう。
かといって、友人の類にしては不思議がられそうな組み合わせだ。これもおそらく可能性は低い。この事務所が妙に懐かしい雰囲気を漂わせていることから、記憶を失う前の自分との関連はある気がする。確証はないけれど。
しかめ面でじっと見つめてくる真崎に、シグマはけろっとした様子で答える。
「とっても仲良しだったよ。俺の仕事も手伝ってくれていたこともあったし、現にここに来るまでの道のり、身体が勝手に覚えていただろ? それが答えさ」
「……仕事? なら俺が受け持っていた取引先に?」
「ちーがうよ、この容姿で普通に就職できると思う? 黒染めも効かなかった銀髪だぜ?」
(できないこともないと思うけど、これじゃあ絞り切れない!)
シグマのペースに乗せられていては、いつまで経っても埒が明かない。
ショート寸前の頭を落ち着かせるべく、一度深呼吸をして切り替える。真崎は「俺が今から聞く質問だけに答えてくれ」と前置きしたうえでシグマに問う。
「君の名前と年齢は?」
「本名は内緒。記憶を失う前のアンタは『シグマ』って呼んでいたよ。年齢は……アンタが二十八歳だから、十個下かな」
「十八!? 年下とは思っていたけど、未成年だったとは……」
「つい最近、十八歳以上が成人枠に改定されたじゃん。酒や煙草はできないけど、立派な大人の仲間入り済みだって」
「……ってことは、高校生? それとも大学に入学したばかりか?」
「通信で大学に通っているけど、合間は自宅警備やったりネットで家でお小遣い稼ぎしたり。ごく普通の日常を送ってる」
いろいろ突っ込みたいことはあるが、一旦置いておく。
「本来の職業は?」
「学生?」
「君のことだ。本業は別にあるんだろう? 今言わないともっと嫌そうな顔をするぞ」
「……情報屋」
「……はい?」
情報屋――そう聞こえた自分の耳を疑った。それでもシグマはいたって平然と続ける。
「そんなに意外? 俺、結構嘘つき呼ばわりされるけど、こればっかりは本当だよ」
「情報……? 何かの情報を売って生活しているって、本気で言っているのか?」
「そうそう、フィクションに囚われがちの、立派な職業だ」
シグマはそう言ってからかうように笑う。銀色の前髪からのぞくアンバーの瞳は、どこか仄暗い色を浮かべていた。
「ちなみにマサキは情報が欲しいって言って一年前にここに来た。最初は断ったんだけど、直後にひったくり犯を協力して捕まえたことで仲良くなっちゃってさぁ、オンボロ船だったけど乗ることにしたんだ」
「……さすがに嘘だよな?」
「やだなぁ、事実だって。そんなに気になるなら、そこの大通りを出た交差点近くの交番の前を通ってみなよ。岩島のオッサンが元気かーって声かけてくるから。それくらいアンタはこの辺ではちょっとした有名人」
あの後処理が一番大変だったんだから。と懐かしそうに笑いながらシグマはココアを一口含んだ。一瞬だけ柔らかい表情を見せたのも束の間、すぐにぎらりと目を光らせた。
「基本的には行方不明の飼い猫の目撃情報から素行調査まで。必要とあれば、警察の操作ばりに尾行するし、証拠品探しだって引き受けるよ」
「それはもう探偵の領域では……? とにかく、君の話が本当だと仮定するなら、俺は君に何かの情報を依頼したってことだよな。その内容は?」
「それは守秘義務だから、いくらマサキでも話せないんだよなぁ」
「その依頼人本人が開示しろって言ってんだよ!」
「うげっ……そんなところ普通突いてくる? やっぱり記憶あるんじゃない?」
「ないから聞いているんだって!」
思ってもみない言葉に、真崎は大きく溜息をついた。まさか自分が、情報屋なんて平凡な日常と全く関わりのない人種と接触していたなんて、容易に飲み込めるわけがない。
ケラケラと嗤うシグマに対しての苛立ちを抑えながら、真崎はマグカップのココアを煽った。ほんのりとした甘さが飲みやすい。
「でも残念。マサキが持ってきた依頼に関係する書類は、アンタが俺に黙って全部燃やしちゃってさ、何も残ってないんだよね」
「はぁ!?」
シグマの話によると、初めて依頼を受けた際に、後ほど逆恨みされないよう、自衛のために誓約書を用意しており、この部屋に厳重に保管しているらしい。しかしつい最近、真崎がやってきて「依頼事体をなかったことにしたい」と言い出したという。すでに情報は真崎に渡した後だったこともあり、シグマは反論したが、翌日少し留守にしたタイミングで誓約書を燃やされてしまったという。
「そんな簡単に燃やしていいものじゃないだろ!? 適当な管理で自営業が成り立ってたまるか!」
「いやぁ、合鍵を渡しておいたのが失敗だったよな」
「止めろよ! それかせめてコピーもデータ保管もできただろ! 時代はペーパーレス化だぞ!」
「もちろん管理は万全だった。それでもマサキは俺がやること全部お見通しだったのか、誓約書の原本やそのコピー、データ化した控え、さらに俺が用意した資料全部を破棄したんだ。……褒めてやってもいいよ? アンタは証拠隠滅のプロになれる素質があるかもね」
「全然褒められている気がしない……! じゃあ、君が覚えている範囲で教えてくれ。忘れたとは言わせないぞ」
「あのさぁ、怒ってんのはアンタだけじゃないって、そろそろ気付けよ」
途端、先程までのケラケラと笑うシグマは一瞬にして冷めた表情で真崎を睨みつける。八つ当たりのように問い詰めていた真崎も、ようやく自分が無茶苦茶なことを言っていることに気付いた。それでもシグマは苛立っている声で続ける。
「つい数時間前まで一緒に居た奴が、急に行方不明になったこっちの身にもなってくんない? しかも記憶喪失? ふざけるのもいい加減にしろよ。勝手に一人で行きやがって」
「……なんだ、君は」
そんな顔もできるんじゃないか、と口から出そうになった言葉を飲み込む。どうして今、この状況でそんなことを思ったのか、不思議で仕方がない。
(まるでずっと前から知っているような――)
それは信頼というより、心配と言い換えたほうがしっくりきた。
自分でも言い過ぎたと感じたのか、シグマはハッとして視線を泳がせた。互いにどう話せばいいのかわからなくなり、沈黙が流れる。
「――と、とにかく!」
先に沈黙を破ったのは、明るい声色に戻ったシグマだった。
「その様子だと本業もなくなったんだろ? どう? ここでしばらく俺の手伝いをする気はない? もちろん、お給料もちゃーんと支払うよ」
「……自宅警備を?」
「ある意味そう。大丈夫、危険な目には俺が遭わせたりしない」
ソファから立ち上がると、シグマは意味深に真崎の肩を掴んだ。
「会社を倒産にまで追い込んでクビにされ、殺人犯の容疑もかけられている、傍から見ていても最悪な現状。記憶喪失だから否定できる材料がないし、証拠もない。何をしたって報われないよなぁ! ……でも、これだけは言える。アンタは誰かに嵌められた。アンタだってそう思っているから、思い出したいと足掻いているんだろう?」
彼の言葉に真崎は目を見開く。
決して隠そうとしていたわけではないが、シグマは土足で踏み込んできただけでなく、強引に真崎の醜い部分を引っ張り出そうとしているのがわかった。
わかったからこそ、食らいつきたくなる。
「何が言いたい?」
「順調な人生を送っている奴を陥れたい奴は山ほどいる。どん底人生に落とされたままでいいのか? ――大逆転、したくない?」
にやりと浮かぶ口元が、まるで誘惑を囁く悪魔のように見える。
提案なんかじゃない。これは、脅しだ。
「しようよ、犯人捜し。マサキが白だってことは俺がこの世界で一番よくわかってる。お人好しで正義感の塊みたいな真崎大翔が、悪に手を染めるはずがない。会社を倒産させた疑惑だって、濡れ衣を着せられた可能性のほうが高い。腕に掴まれた血痕が他人のものだって、お前に助けを求めようとした時に付着したかもしれない。そうだろ?」
「それは……」
「ここに居れば、記憶を取り戻せる近道になると思うし、どうしてこうなったのか、何に巻き込まれたかもわかるかもしれない。お互いに利害が一致していると思わない?」
「……確実にそう言い切れる根拠は?」
じろっと睨みつけると、シグマはソファにどんと構えながら堂々と宣言する。
「ないよ。でも俺がアンタを利用するように、アンタは俺を利用すればいい。たったそれだけのことさ」
シグマの言い分ももっともだ。家族も会社も頼れない今、自分の無実と過去の記憶を取り戻すには、彼の近くにいたほうが一番手っ取り早い。
(あくまで記憶を取り戻す手がかりとして、俺はコイツを利用する……!)
「……わかった。君の話、ひとまず信じるよ」
自分の感覚を信じてそう告げると、シグマは途端に目を輝かせた。
「本当? わっはーっ! マサキ最高!」
「いっだ!? 力強すぎっ……離せ!」
「わざわざ怪我をしていない肩にしてあげたじゃん。ちょっとくらいよくない?」
「言っておくけど、まだ完全に君を信用したわけじゃないぞ。現段階で信用できるものが少なすぎるから、お試し期間みたいなもので……」
「それでもいいさ! それじゃあ早速、仕事の準備だ」
「絶対わかってない……って、仕事?」
真崎が首を傾げると同時に、路地裏に繋がっているドアが開かれ、バサバサと物音を立てた。
雨に濡れたカラスでも入ってきたのかと思って見れば、スーツ姿の男性が、折り畳み傘の水滴を払っていたところだった。周りの床がびしょ濡れで、自分のスーツにもかかってしまっている。
あまりにも雑な払い方に真崎が驚いていると、彼がこちらに気付いた。三十代後半くらいだろうか、撫でつけた黒髪を整えながら見える目の下の隈がはっきりと浮かんでいる。そしてなぜか、真崎と同様に驚いた顔を浮かべた。
「マサキ? なんでここに……」
「……どなた?」
唐突に現れた男性に「マサキ」と呼ばれ、目を丸くする。それは彼も同じだったようで、気まずい沈黙が流れた。
「早瀬さん、雫を払うなら外でやれってー。コンクリートだからそのうち歪むよって、いつも言っているじゃん」
重い空気を割って入ってきたのは、言わずもがなシグマだった。手には新しいタオルがあり、早瀬と呼んだ男性に投げ渡す。
「どうしても傘を畳むのだけが上手くできなくてね。ところでシグマ、どうして彼がここにいる?」
「外で拾った」
「捨て猫みたいに言うな。……まさか、病室に突撃して攫ってきたとか」
「そんなそんな、さすがの俺も怪我人に横暴なことはしないって」
(いきなり罵倒してきた奴が言うな!)
思わず怒鳴りそうになるのをぐっとこらえると、真崎は早瀬に問う。
「あ、あの、あなたは……?」
「え? ああ、そうか。記憶がないんだったな。俺は早瀬俊。よろしく」
そう言って差し出したのは名刺だった。不覚にも慣れた手つきで受け取り、まじまじと見る。『警部補』と書かれたそれが作り物ではないとわかると、一気に血の気が引いた。
「警察って……シグマ! 君は一体何をした!?」
「俺が警察のご厄介になっているとでも? 冗談でもいうなよ、相棒」
「記憶を失っている奴にそう思われても仕方がないってことだ。……残念だが」
小さく呟いた「残念」の言葉は真崎にしか聞こえていなかったが、それでも警察に厄介者扱いをされているのは目に見えてわかった。
しかし、シグマと早瀬のやり取りを見ていると、もっと近しい存在のようにも感じられた。じっと二人の様子を見ていた真崎に、早瀬は問う。
「それで、マサキはどうしてここに? 本当に拾われたのか?」
「あ、あながち間違ってはいない、です。あの、どうして俺のことを?」
「知り合いであり、警察だからだ。顔と名前を覚えるのは職業柄、得意でな。……そうか。真面目人間のお前がそう言うなら、本当のことなんだな」
「早瀬さん、俺のこと嘘つき野郎って思ってないー?」
「そう思わせる変人ムーブしているシグマが悪い。……まぁ、ざっくり話すと、俺は警察では手に入れられない情報を入手するための手段としてここに来ている。マサキ、お前との関わりも同様だ。コンテナに監禁されていたことも両方から聞いている。だが、第三者の血痕が見つかったのは想定外だ。記憶がない以上、お前は事件の容疑者の一人として認知されていることを忘れるな」
早瀬は淡々と答えながらジャケットをコート掛けに投げると、慣れたように一人用ソファに座った。どうやら彼の定位置らしい。
その一方で、真崎は頭を抱えた。
(一体どうなっているんだ、三年後の俺がいた環境は!?)
この一日で好成績を残してきた会社をクビになり、自称相棒に煽られ、さらに警察と関わりがあり、誰かに手を下した可能性は捨てきられれず容疑者の一人としてマークされている現状……すでに真崎の頭の中はキャパオーバーだ。
「それにしても、コンテナで見つかったのがお前だと聞いた時は心臓が止まるかと思った。……生きていてくれて、よかった」
「早瀬、さん……!」
真崎は未だに自分が何に巻き込まれたのか、どういった状態で発見されたのかを曖昧なままでいた。無残な姿だったことは聞きかじっていたが、実際に「生きていてくれてよかった」と言われてしまうと、死に際まで追いやられていたことを改めて実感する。
「ともかく、シグマと合流できたってことは、俺の仕事も随分楽になる。悪いが、体を二つに分裂できるほど俺は暇じゃないからな」
早瀬はココアを一気に煽ったシグマに向けて問う。
「シグマ、先に話していたんだろう。マサキは何か覚えていたか?」
「全部忘れているっぽい。感覚は覚えている印象かな。ただ、無関係だと決めつけるには不十分だな」
「俺も同じだ。マサキが巻き込まれた事件と今回が別件なら、それを裏付ける証拠が必要だ。頼めるか?」
そう言いながら早瀬は鞄から取り出した紙の束をテーブルにたたきつける。表紙には【極秘】と書かれている。
「そ、それって……捜査資料!?」
真崎はサーッと血の気が引いていくのを感じた。対してシグマはにやりと口元を緩め、わざとらしく両手を広げた。
「もちろん! 相棒が戻ってきた俺は最強で最高さ! ……その前に腹減ったからメシ行かない?」
「ああ、今日はサフランのビーフシチューが売り切れていないといいんだが……」
「……頼むから、二人で会話しないでくれぇぇえ!」
悲痛の叫びがビル全体に響き渡る。それを見て、シグマはどこか嬉しそうに笑った。
『放火ドッキリチャンネル@パウンド』という配信者が投稿した、ある悪戯動画がとても悪い意味で世間の注目を集めていた。
チャンネルが開設されたのは、二ヵ月も前のこと。投稿されている内容は、主に化学薬品を組み合わせて生成された火薬を爆破させる実験の様子だった。
最初は作る工程と、人けのない場所での破裂シーンの投稿が多かったのも束の間、しばらくして捕獲したスズメやカラスからむしり取った羽や、ネズミを火薬の上にわざと置くと、バチン! と爆竹のような破裂音とともに着火する、残虐非道な動画が連日投稿されるようになった。
運営側はすぐに動画を強制的に非公開にし、アカウントを凍結させたが、パウンドは性懲りもなく再び新しいアカウントを作成、投稿を何度も繰り返した。
次第にそれは、人の住む住宅街へ仕掛ける、悪質なドッキリ動画と化していった。死傷者は出ていないものの、器物破損の被害が多数報告されている。動画の本数が増えていくうちに、いつしか近隣住民や建物の所有者らが団結し、警察に被害届を提出され、捜査が開始された。
しかし、警察の調べで、パウンドが使用しているアカウントは凍結されたものも含めて、個人情報がすべて異なった。それぞれの連絡先に事実確認をするも、投稿アカウントだけでなく、SNSやメールアドレスはすべて、何らかの理由で現在は使われていないものだったことが判明。そのうち一人は借金を返済するために売ったとまで言っている。電話番号も足がつかないようにされており、特定は難しいという。
そんな最中、住宅街でボヤ騒ぎが起こった。
ある一軒家の庭に爆竹を投げ入れられ、屋外に置かれていた灯油のボトル近くで破裂、そこから地面に垂れていた灯油に引火したようだ。
この日は夜になるにつれて空気が乾燥しており、強い風が吹いていた。広がった炎の勢いは明け方まで落ち着くことはなかったという。幸い、家主は家族そろって旅行中で中に人はおらず、隣の家に燃え移ることもなかったため、死傷者は一人も出すこともなく鎮火されたという。
その後、警察の調べで出荷近くにパウンドが使う火薬の煤と同じ物が検出された。近辺で警察が聞き込みしていたところ、焼失した家を不審に覗き込む男を見つけた。右目から頬にかけて火傷の痕が残る男は、にやりと嘲笑ってこう言った。
『やっと気付いたか、パウンドの偉業さに』
男改め、火伏昭はそう言って警察官に暴行、公務執行妨害罪で逮捕に至った。
その後、火伏の自宅を調べたところ、パウンドが使用する火薬の材料やパソコンに投稿されていた動画の元データが残されていたのが決定打となり、正式に放火の疑いで逮捕。事件は一見、解決したかと思われた。
しかし、テレビ局各所でパウンド逮捕のニュースが流れると、次に模倣犯が現れ、ボヤ騒ぎが加速。どれも未遂で終わっているものの、立て続けに起こる悪質な悪戯に、警察は今も対応に追われている。
◇
「つまり、早瀬さんはその模倣犯の潜伏先を探るべく、シグマに聞きに来たってことですか?」
下の階にある喫茶『サフラン』で夕食を終え、優雅にコーヒーを飲んでから事務所に戻ってくると、さっそく早瀬の依頼内容が明らかになった。
巷で『パウンド連続放火事件』と題して各局がトピックスとして取り上げていたことは、入院中だった真崎もよく覚えている。昼時に放送されたご意見番タレントが集まる番組で、パウンドとして逮捕された火伏について人相が悪いだの、顔の火傷は過去の火遊びが原因だのと、家庭環境等も番組スタッフが調べたものを並べ、好き勝手言っていた。
すでに犯人は捕まっているため、てっきり解決したものだと思っていたが、実際はこれで終わりにはならなかったらしい。
(テレビもネットも、話題が欲しいがまま報道したニュースの結末なんて、金にならないとでも思っているんだろうか)
それとも、結果を伏せたまま、誰にも届かずひっそりとどこかに載せるのは、ネットでの検索率を上げるための施策だろうか。なんにせよ、世間に少しでも流したのならば、最後はどうなったのかを簡潔に述べてから終わらせて欲しいものだ。
しかし、真崎の問いかけに早瀬は首を横に振った。
「模倣犯への対策は別の捜査チームが編成されて動いている。俺が今日、シグマに頼みにきたのは、ある情報を調達してほしいからだ」
「それって俺も知らない情報って前提で聞いていることになるけど? 舐めてんの?」
ソファに足を投げ出し、だらけた格好で早瀬に問うシグマは、ムッとした表情をしている。だてに情報屋として動いているわけではないようで、挑発的に聞こえたらしい。
早瀬は気にすることなく続ける。
「持っていたら大金星だろうが、抜け穴だと思うぞ」
「どういうこと?」
「俺が欲しいのは、本物のパウンド(・・・・・・・)の情報だ」
本物――その言葉を聞いて、シグマは目を細めた。
真崎は早瀬の言葉の意味が飲み込めず、おそるおそる片手を挙げた。
「あの、パウンドはもう捕まっていますよね?」
「パウンドと名乗る男は逮捕した。――が、それが本物であることは現在調査中だ」
訳がわからなくなってきた。真崎の顔がさらに険しくなったのを見て、早瀬は「順に説明するから」となだめた。
「つまり、逮捕されて事情聴取を受けている火伏は白なんじゃないかってこと」
「そう思う理由はなんですか?」
「……その前に、パウンドと模倣犯との見分け方を伝えておこう」
早瀬曰く、パウンドが使う爆竹は、市販品とは異なる火薬を使用しているという。
現在日本で一般的に使用されている爆竹は輸入されたもので、燃焼速度が非常に早く、黒色火薬よりも少量で大きな爆発音を出す「アルミ爆」と呼ばれる火薬からなるものだ。
しかし、パウンドが作るのは「三ヨウ化窒素」と呼ばれる化合物。衝撃に敏感で、軽く触れただけで爆発し、市販の爆竹のような破裂音がする。これは、生成時でも扱いを一つ間違えればその場で爆発する可能性が高く、非常に不安定で危険なものである。
「パウンドはこれを、動画内で市販の爆竹が破裂したように見せる撮り方をしていた。爆破を楽しむ快楽劇ではなく、本物そっくりに似せる自分の実力を見せびらかす承認欲求―
―それが目的だと、捜査本部は見ている」
「動画内でどうやって市販と手製を見分けるんですか? 徹底的に隠していたとして、さすがにわかる人も出てくるんじゃ……?」
「動画ではまず市販の爆竹を見せているが、その後は動画事体が編集されていることがわかっている。それに、火薬の成分は科捜研で調べれば一発で見分けはつく。使っている薬品もすぐに足がつくだろう。だから今、事件関係者と理工学部や爆弾関係に詳しく、今までボヤ騒ぎがあった場所を中心に割り出した範囲に住む住民を中心に、しらみつぶしに捜索している。……ただ、問題はここからなんだ」
早瀬はそう言って、さらに三本の指を立てて順番に続ける。
「一つ、パウンドが火薬、破裂による発火にこだわる理由。放火なら、ライターでもマッチでも、いくらでも方法があるはずだ。しかし、奴は頑なに破裂によって引火する方法を選んでいる。しかも扱いが困難な三ヨウ化窒素ときた。触れただけで破裂するほど危ないものだし、ストックもできない」
「ただ火遊びがしたいだけならかえってリスキーですよね。ストックができないってことは、その場で生成しているってことですし。でも効率がすごく悪いのに、どうして今まで目撃証言もなかったんですか?」
「発火の痕跡があった場所は人通りが少なく、防犯カメラがない場所だ。一番近いカメラでも不審な車や人の出入りは確認されておらず、引き続き情報を集めてはいるが、これと言って確実な情報は掴めていない」
特に現在の日本は、数年前に流行した感染症の対策の名残で、未だマスクをつけて出歩く人も少なくない。顔認証もそう簡単に使えるものではないだろう。
「そして二つ目、すでに逮捕されたパウンドと名乗る火伏昭のこと。自分でやったという証言として、火薬を作る際に使った道具、材料が自宅から押収された。……が、テーブルの上といった、一目で目に付く場所にまとめられて置かれていた」
「それは普通なのでは? すぐに出せるように、ひとまとめにして置くのは効率がいいし、特におかしいとは思いませんけど……」
「だったら見てみるか? ほらっ」
そう言ってシグマが真崎に資料を投げ渡す。極秘と書いてあるだけあって、一般市民の自分が見ていいものではないと躊躇いつつも、ページを捲っていく。
丁寧にまとめられた資料の中には、その火伏という人物の自宅を撮影した画像がいくつか貼られていた。IHコンロが二口あるキッチン、黒カビ一つも見当たらない綺麗な風呂場。そして、ほとんど物のないリビングに、ぽつんと置かれた煤まみれの段ボールには、なにやら薬品らしいものがいくつか入っている。
「なんか……すごく違和感のある写真だな」
「警察で部屋中をくまなく調べたが、犯行に行く前に掃除をしていたのか、とても綺麗に整理整頓されていた。そんな部屋の中心に、薄汚い段ボールを置くとは思えなくてな。誰かが火伏に濡れ衣を着せようとしているんじゃないかとも思ったんだ。そして、ラストの三つ目は――マサキ、お前に関係している」
早瀬が真崎をまっすぐ見据え、続ける。
「お前が監禁されていたレンタルコンテナの近くで、パウンドが作ったものと同等の三ヨウ化窒素の火薬がわずかに見つかった。おそらく破裂した際に飛び散った火薬の残りだろう。コンテナの側面の一点に集中しているほか、近くのものは焦げ、火薬を載せていたであろう、ろ紙の燃え残った破片が見つかっている。ただ、すぐに雨が降ったことや、山奥だったという点から、誰も気付いていなかった。そしてこれが一番の謎なんだが……破壊されたお前が着ていた服に、微量だが火薬が付着していた。焦げた跡はなく、火薬のままついていたようだから、おそらく効果が切れた残りだろう」
「……は?」
「もし、パウンドが本気で火遊び(・)をしていたら……今頃、コンテナはどうなっているか、言わなくてもわかるだろう」
途端、真崎は全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
何も思い出していないはずなのに、完治したはずの背中の打撲痕がじわじわと痛む。冷や汗も出てきて、呼吸が止まりそうになるのを押さえつけるように胸に手を当てた。
何者かに暴行され、パウンドの火遊びに巻き込まれ、コンテナとともに灰と化していたかもしれない――最悪な結末が頭をよぎるだけで、身体の震えが止まらない。
そうしていくうちにふと、一つの疑問が浮かんだ。
「で、でもパウンドは、俺が発見される前に逮捕されていますよね?」
パウンドを逮捕したという報道は、真崎が発見される少し前のことだ。ニュースとして流れたのはそれから時間が経っているが、パウンドの犯行ではなく、模倣犯が実行した可能性だってある。
「いくら動画で市販の爆竹を見せびらかせていたとしても、一般的な爆竹には使われていない紫色の煙で、市販品と同じ物ではないと模倣犯が気付いてもおかしくはないはずです。わかっていてやっている人もいるんじゃ……」
「確かに、今まで逮捕した模倣犯の中にはパウンドと同じ三ヨウ化窒素を作っている奴がいた。しかし、アリバイが成立している以上、まだ捕まっていない奴らの中にパウンドがいてもおかしくはない。そして、一番の理由はこれだ」
早瀬は真崎の持つ資料に手を伸ばし、あるページまで捲ると、とんとん、とある画像を示す。
そこには、火元となった場所の写真が貼られていた。公園の隅に配置され、ベンチ替わりになっているタイヤ、ビル街の路地裏、空き家の壁など、比較的目立たない場所ばかりだ。そのどれもが一か所に黒い焦げがまとまっており、破裂に巻き込まれた草花の残骸や、鳥のバラバラになった羽が散らばっている。
しかし、その中で奇妙な物が一つだけあった。
散らばった灰の中に、赤いビニールが混ざっている。目視できる限りでわかるのは、うっすらと「べっこう」と書かれているだけ。
「べっこう飴の包み紙だ。個包装になっていて、大袋で売っているタイプで、珍しいものじゃない。風で舞ったゴミが偶然灯油に落ちて誘爆させた可能性も充分あるが……」
「まさかそれが、パウンドが仕組んだ現場すべてにあったとでも? そんな偶然が」
「あったから警察が黙っているんだってー。いったん落ち着けって」
前のめりになりながら早瀬に問う真崎を、シグマが言葉で引き留める。ソファに足を投げ出し、気怠そうな体勢には腹が立つが、シグマの表情はいたって真剣そのものだった。
「ニュースでも報道されていないってことは、警察が意図的に隠しているってこと。犯人しか知りえない情報を公にして、模倣犯との区別がつかなくなっても困るからな。そしてその飴玉の包み紙は、マサキが監禁されていたコンテナ付近の焦げ跡にも残されていた、と」
「……それって、まさか」
反動で聞いてしまったことを、真崎はひどく後悔した。
まさか自分が巻き込まれた事件と並行して、世間を騒がせる放火魔に殺されていたかもしれないと思うと、途端に寒気がした。
そんな真崎のことなどお構いなしに、早瀬は残酷に告げる。
「放火魔パウンドは、ネットの世界では確保できただろうが、現実では野放しのままだ。そして、マサキがコンテナに監禁されていた件がパウンドとどう関係しているのか。二人に接点があるかすら怪しいが、無関係であればパウンドがマサキを、もくしはマサキがパウンドを目撃したことで口封じに打って出た可能性もある。だから必要なんだ――真の放火魔を引っ張り出す、餌がね」
残酷な話を告げる早瀬の目は真剣そのもので、ふざけた冗談を言っているようには見えなかった。
その眼差しを素直に受け取るには、今の真崎にとって荷が重い話だ。
何者かに襲われ生死を彷徨い、目が覚めたら三年分の記憶を失くしていた。記憶を失った分、自分の立ち位置を確かめようと画策している現状で、最も衝撃な言葉だったと思う。
「……パウンドが、俺がコンテナに監禁されていた件と何か関係しているってことですか?」
「あくまで可能性の話だ。現時点で関係性は低いが、お前の服に火薬が付着していたことはどうも気になる。たまたま風に乗って付着していたなんて、できすぎていると思わないか?」
「早瀬さんの勘は当たらないけど掠るんだよねぇ。けどまぁ、引っかかるのもよくわかる」
資料を片手に気の抜けた声で答えるシグマは、「要はあれでしょ」とさらに続けた。
「俺とマサキを組ませることでまとめて早瀬さんの監視下に置く。そうすれば、獣が美味しい匂いに誘われて一網打尽! ……そんなところでしょ。人権を考えないお偉いさんらしい」
「捕獲用の鉄格子内に吊るしてある肉みたいな言い方するなよ……」
「いいね、自分が餌だって自覚あるんだ?」
へらっと笑うシグマに、真崎は深い溜息をついた。自分の置かれている状況を前にしてもなぜ能天気に笑えているのか、と。尊敬と苛立ちを追い越して呆れてしまう。
そんなシグマが立ち上がって早瀬の前に行くと、【極秘】と書かれた資料を掲げながら問う。
「警察の資料を見せるくらいってことは、もうそんなに時間がないってことでしょ。特急料金は高くつくよ?」
「……上司には、好きなようにしろと言われている。それに拘留期間は最大二十三日間。あと五日間も残されていない」
眉間に皺を寄せた早瀬の表情を品定めるようにじっと見入ってから、シグマはにやりと口元を緩める。
「オッケー。じゃあ交渉成立。明日から動くからよろしく。そんじゃおやすみー」
「えっ! ちょっとシグマ!?」
シグマは資料を抱えたまま、あまりにも自然な流れでデスクの向こう側にある部屋に入っていく。引き留めようとするも、バタンと音を立てて閉じられてしまった。
今、事務所と呼ばれたコンクリートの部屋に早瀬と真崎のみ。警察と一緒だと思うと、悪いことをしていないはずなのに動悸がする。
「居心地が悪いか?」
「へっ!? い、いやその!」
それが伝わったのか、早瀬は小さく笑った。
「気を張りすぎだ。ここはお前にとっても第二の家のようなものだから、ゆっくりすればいい」
「お前にとっても……?」
「おいおい、『第二の家』に引っかかったと思ったらそっちかよ。相変わらず変なところに目がつく……本当、記憶は忘れてもマサキはマサキだな」
ふっと笑みを浮かべると、ソファから立ち上がった。仕事の話をしている時とはちがった、柔らかい表情をしている。
早瀬は慣れたようにラックから毛布を引っ張り出しながら続けた。
「ここは元々、俺の祖父さんが使っていた事務所なんだ。俺が中学校に上がってすぐの頃に顔を出したら、いつの間にかシグマが一緒に暮らしていた。今は引退して、田舎で米作りを楽しんでいるよ」
「引退、ということは自営業でも?」
「さぁ、俺も詳しいことは知らない。わかるのは、地元民に愛されるなんでも屋だったってことくらいか」
毛布のひとつを真崎に投げ渡す。どうやらここで雑魚寝するらしい。
「アイツは俺が初めて会った時から『シグマ』だと名乗っていたし、何を考えているのか未だつかめない。そんな昼行燈な奴だよ」
「……早瀬さんは、俺がシグマに依頼した内容を知っていますか?」
真崎の問いに、ふと早瀬の手が止まる。
警察で入手できない情報をシグマからもらっていると言っていた。それはシグマも同じで、警察内部の情報は早瀬から入手するはずだ。だから真崎が持ってきた依頼内容を早瀬に共有しているかもしれないと思ったのだ。
しかし早瀬はすぐに首を振った。
「悪いが、何も聞いていないし、情報を渡した覚えもない。もしかしたら、俺じゃなくて別の警察協力者に話していることもあるかもしれないが……シグマと繋がっているのは俺が知る限り俺だけだ」
「そう、ですか……」
抜かりなく根回しされているのか、それともたまたまか。がっくりと肩を落とした真崎を横目に、ソファをリクライニングの形にして毛布にくるまった。
「あまり急ぐなよ。急に記憶を失ったんだ。ゆっくり思い出せばいい」
「でも、俺が記憶を失った理由のひとつがパウンドだったとしたら……!」
「なんでもかんでも最悪なケースを思い浮かべるなって。それより、明日からシグマと一緒に行動するんだろう? 運転させられるから、しっかり寝ておけ」
「運転? 遠出をするんですか?」
「多分な。アイツは免許持ってないから、お前は足になるってことだ。それじゃ、おやすみ」
早瀬はそう言って、欠伸をしながら布団に繭のように丸まる。寝息が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
(早すぎる……警察の中でも忙しい人なんだろうな)
これ以上追及することも、自分の中で整理するのも難しいと思った真崎は、部屋の照明を落として同じようにソファに寝転んだ。早瀬のように背もたれをリクライニングさせることも考えたが、面倒くさくなってやめた。
コンクリートの天井にぼんやりと残る照明の残像。それを見つめながら、今日一日で聞かされたとんでもない現状の重要さに大きな溜息をついた。
一般企業の社会人――すでに無職と化したが――がなぜ関わっているのか、一番有力な情報を持っているであろう人物は、どうやら真崎本人に知られたくないように感じられた。
(シグマが何を隠しているのか。彼と過ごしていた真崎大翔という人物は何者なのか。――そして、本当にパウンドに狙われるほどの人物だったのか)
疑問をいくつか並べているうちに、睡魔が襲ってきた。
(今日一日で入ってきた情報量が多すぎた……さすがに、眠い)
天井を見ていた視界がぼんやりと薄れていく。気付けばストンと眠りに落ちていった。
――き、マサキ、起きろー!
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。グラグラと脳が揺れているように思えるのは、誰かが真崎の肩を容赦なく揺らしているからだろう。
ゆっくりと目を開くと、そこには昨晩のように白いビーニーをかぶったシグマの姿があった。テーブルの向こう側にはぼーっとどこか遠くを見つめている早瀬が、毛布にくるまった状態でゆらゆらと揺れている。
「おーい? 起きた? おはよう」
「……おはよう、何時?」
「八時半過ぎ。よく眠れた? ああ、早瀬さんはここで寝る時はいつもこんな感じだから気にすんな」
「は、はぁ……それよりどうしたの?」
「リリィがメシできたって。早瀬さんは要らないって言っているから後でコーヒーをもらってくる。マサキは食べられるよな? 下に行くぞ」
(リリィ?)
初めて聞く名前に首を傾げる。そんな真崎など気にも留めず、シグマがさっさと行ってしまう。後を追うように事務所から店内に繋がる階段を降りて行った。
ドアを開けた途端、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。レトロな内装にコーヒーと少しばかりの煙草の苦い香りが混ざった、いかにも昔ながらの喫茶店らしい空間だ。開店前にも関わらずクラシックが流れており、優雅で落ち着いた雰囲気はまるで時間が止まっているようだった。
(やっぱり懐かしい感じはするけど、はっきりとは思い出せないな)
昨晩もシグマ、早瀬とともに夕食をここでとったが、特に何かを思い出した様子はない。
しいて言えば、早瀬が楽しみにしていたビーフシチューはこの日も売り切れており、これでもかというほど大きく肩を落としていたのを見て、デジャヴを感じた。当初の硬派な第一印象からかけ離れていたが、ギャップがあってより印象的に見えたのかもしれない。
「あら、珍しい人がいるわね。あなたはコーヒー? それともミルクたっぷりの紅茶がいいかしら?」
店内を見渡していると、カウンター越しから声をかけられる。
視線を向けると、思わず目を見張った。声をかけてきたのは、フランス人形のような美少女だったからだ。金髪のツインテールに青い瞳の顔立ち。年期の入っている丸眼鏡は少し歪に曲がっている。片手には淹れたてのコーヒーが入ったコーヒーサーバーがあり、ちょうどマグカップに注いだものがシグマの前に置かれたところだった。
そのシグマはというと、カウンター席でトーストをかじりながら、行儀悪くスマートフォンを操作している。
「何よ、さっさと座れば?」
「え、えっと……は、はい」
口ぶりから真崎のことは知っているようで、金髪の少女が怪訝そうに首を傾げる。真崎の記憶では金髪の少女など思い当たらないから、おそらく失った三年間の中で会ったことがあるのだろう。
眉をひそめる真崎に対し、金髪の少女は「……まさか」とむっとした表情で呟いた。
「シグマ、もしかして私のことを説明してないの?」
「あー……忘れていたかも。昨日、ここで夕飯食べていたけど会ってなかったっけ?」
「昨日はずっとキッチンで仕込みをしていたの。ディナータイムなんだから、ずっとハンバーグをこねっぱなしよ。……ああ、なんてこと。私のことを伝えていないどころか、存在自体を忘れられているなんて!」
「悪いって、悪気はないよ?」
「悪気の問題じゃないわ。って、ちゃんと野菜も食べなさいよ!」
金髪の少女はそう言って、脇に置いてあったレタスをシグマの皿に載せる。どうやら真崎の分として用意されていた、サラダとベーコンエッグが載せられたワンプレートにシグマがこっそり自分の分の野菜を移していたらしい。
シグマと少女の言い争いが続く。真崎はすでに蚊帳の外だ。
(全然似ていないのに……兄妹喧嘩みたいだ)
昼行燈な兄に世話焼きの妹――そんな構図を見ていると、不思議と懐かしく思えた。
「もう! シグマのせいでもう一度説明しないといけないじゃない!」
用意されたカウンター席に真崎が座ると、金髪の少女は眼鏡をくいっと上げた。
「私にはリリィってとっても素敵な名前があるの。記憶失くしたからって、その気持ち悪い敬語と態度はやめてくれると嬉しいわ。これからよろしくね、マサキ(・・・)」
「きもっ……!?」
「ああもう吐き気がする!」とキッチンの奥へ入ってしまうリリィ。
朝一でこれは心が痛い。真崎はなぜか少しだけ泣きそうになった。
◇
朝食を終え、少しメンタルがえぐられた真崎が事務所を出ると、快晴の空が広がっていた。
それでもまた夜に雨が少し降ったのか、湿った匂いがする。気温が急激に上がったこともあって、地面はぬかるんでいた。
レンタカーを借りてシグマとともに向かう先は、真崎が見つかった野外トランクルームだ。
大学進学のため、上京前に免許を取ったはいいものの、すぐに就職活動に入ったこともあって教習所以来での運転になる。それでも営業部ということもあってか、運転はお手の物だったらしい。レンタカーでもハンドルが手によく馴染んでいるような気がした。
助手席では、目立つ黄色のパーカーに黒ジャケット姿のシグマが、朝食の場でのことを未だに思い出してはケラケラと笑っている。
「リリィの奴、朝から最高だったなーあー笑った。朝からこんなに笑ったのは久しぶりだ」
「……シグマ、君は彼女に悪気はないと言っていたけど、それも嘘だろ」
そもそも、事務所と繋がっている時点でサフランの店員が真崎のことを知っていてもおかしくはないのだが、記憶喪失のまま、予定外に事務所で一晩を過ごすことになった真崎がそこまで気を回せるわけがない。かといって、状況を知っているシグマがリリィに共有していないのは、彼らしい悪戯心からだろう。
ちなみにリリィはアルバイトではなく、単純に店を手伝っているだけらしい。詳しいことはシグマの口から出なかった。
真崎がじろりと睨みつけても、シグマは笑いを抑えながら言う。
「ただでさえ君の職種は特殊なんだ、他にもいたら承知しないぞ!」
「さぁ、どうだろうなー? 下手したらお前をコンテナに突っ込んだ奴とか、案外近くに居たりして」
「怖いこと言うなって! もう少し人の気持ちを考えろよバカ!」
「はーい、安全運転でお願いしまーす」
前を向け、と手のひらを払う仕草をするシグマ。
それでも真崎の中で、昨日に比べるとそこまで絶望感がないのは、こうやってシグマが気を紛らわせようと悪戯したり、ややこしい遠回しをしてくれているからだ。
だからこそ、気になることもある。
「ところで、どうして君は俺のことを『マサキ』と呼ぶんだ?」
よく読み間違われるフルネームは、自分でも気に入っている名前だからこそ、誰に対しても「シンザキヒロト」と強調するまでがセットだった。それは企業相手でも名刺を渡す際でも変わらなかっただろう。
しかし、シグマは自分のことを知ったうえでわざと「マサキ」と呼んでくる。
「早瀬さんもリリィも、意図的に呼んでいるのは君の仕業か? それに、君が自分のことを『シグマ』と呼ばせているのも、本名を知られないようにするため?」
「俺の本名なんて知る必要ある?」
スマホを操作しながらシグマは続ける。
「もちろん、俺はアンタのフルネームを知っているし、シンザキさんって呼んでもよかったんだけど、相棒にしては他人行儀すぎるだろ。前のアイツから許可はもらっていたし、問題ないっしょ」
「そっか……ごめん」
どこか拗ねた口調のシグマに、萎縮して無意識に謝罪を口にする。記憶を失う前の自分が許していたのなら、きっと何か、シグマを信頼するきっかけがあったのだろう。今は目の前にある情報を信じるしかない。
「それと、俺のフルネームはアンタにも早瀬さんにも教えたことはない。唯一知っているリリィには呼ぶなと口止めをしている」
「え?」
「俺の近くにいる人が、嫌いな名前を呼んでほしくないからさ」
『シグマ』は数学で二つ以上の数の総和を表す記号。または統計学で標準偏差を表す記号とされている。過程を経て出た答えを提示するそれは、探偵のような振舞いをする彼にふさわしい名なのかもしれない。
情報屋などと不可解な職を生業とし、全部諦めたかのように笑う彼が、真崎には少し気の毒に思えた。
住宅街からは五キロメートルほど離れた場所にあるトランクルームは、フェンスに囲まれて、ひっそりと鎮座していた。入口に『お手頃価格で保管します! トランクたけなか』と掛けられた看板がなければ、大半の人が廃れた工場と見間違えてもおかしくはない。フェンスの向こうには、さびついた大型コンテナがいくつか見えた。
すでに警察の規制線は無くなっており、誰でも自由に出入りできるようになっているものの、人けが感じられない。
車を降りた二人は、さっそく管理人室へ向かう。アポイントは事前に取っているとはいえ、ひと声かけることになっている。
「ここが……俺がいた場所」
周囲を見渡しながら、真崎は思わず呟く。
「しみじみしてんな。何か思い出した?」
「急かすなよ……ただ、懐かしさはないな」
三年分の記憶を失ってから、馴染みのある場所に赴くたびにどこか懐かしさを感じていた。それは自宅でも、シグマの事務所でもそうだ。しかし、このコンテナには懐かしさどころか、恐怖も感じられない。
(まだ入り口だし、中に入ったら何か思い出すかもしれないけど……)
足を踏み入れた途端、蘇るのは絶望ではないかと思うとなかなか乗り気にはなれないが、飄々と先を行くシグマの後を追うのに精一杯だった。
すると、シグマが途端に足を止めたので、真崎もつられて立ち止まる。
「……あれ、ちゃんと起動してると思う?」
目線の先には防犯カメラがあった。青いランプが点滅していることから、電気が通っているのは明白だ。すでに警察が記録をすべて確認しているはずだが、シグマは訝しげにカメラを見つめている。
「管理人さんに映像を見せてもらうよう頼んでみる?」
「無理でしょ。情報屋なんてフィクションの中だけでも充分お腹いっぱいの設定なんだって、ここに来る前に説明しただろ? しかも早瀬さんから『大っぴらに動くな』って制限オプションまでつけられている。どうやって一般市民を信用させるわけ?」
「うっ……」
それを承知の上で彼の相棒になることを決めたのだから、シグマに従うのが筋というもの。真崎は苦い顔を浮かべながら「それもそうだね」と頷く。
内心は全く腑に落ちていないが。
「ま、早瀬さんにも共有だけはしておくか。片手間で調べてくれるかもしれないし」
「……シグマ、早瀬さんのこと便利屋だと思ってない?」
「そうだけど」
何か? と小首を傾げるシグマに、真崎は散々振り回されている早瀬に同情した。
管理人室に着くと、中からバタバタと足を立てて六十代の男性が出てきた。白髪のオールバックに整えた髪に黒縁の眼鏡、薄緑色の作業着と白い長靴はところどころ泥にまみれている。
「お待たせいたしました。管理人の巣鴨です」
「お電話差し上げた真崎と申します。お忙しい中、お時間いただきありがとうございます」
真崎はジャケットのポケットから『梶浦出版 真崎大翔』と書かれた名刺を巣鴨利夫に差し出した。
情報屋という、一般的に怪しまれやすい皮を被った詐欺師になることを、シグマは真崎に一番に伝えた。情報屋をそう簡単に受け入れてくれる相手はほとんどいないこともあり、素性を知らせないことにしている。もちろん、梶浦出版など存在しない。
最初は反対した真崎だったが、シグマに「前のアンタだったら仕方がないって協力してくれた。もう片棒は担がされている」と言い包められ、いつの間にか用意されていた名刺――もしかしたらずっと前からストックがあったのかもしれない――とボイスレコーダー、さらには革靴までそろえたスーツ一式をしぶしぶ受け取ることになった。
巣鴨は名刺を見ながらほう、と頷きながら笑って「随分お若いんですね」と返した。
連絡した際はかなり渋った様子だったが、「御社には事前に許可をいただいております。利用者が減るのを防ぐには、これを話題性に切り替える必要があると思うんです!」と真崎の熱弁が相当効いたらしい。営業部のエースと呼ばれていた経験は、記憶を失った今もなお役に立っている。
「いやはや、困ったものです。コンテナで人が監禁されていたなんて……ニュースではこの場所について大きく出ませんでしたが、SNSやネットは有能でね、事件がこのコンテナで起こったことはすぐにばれて、出鱈目な情報も混ざった内容を拡散されたんです。そのせいで解約する人が増えまして……このままでは閉鎖せざるを得ない状況です」
「んぐっ……そ、そうですね。大変苦労なされたとお察します」
「結局、あの中にいた人はどうなったんでしょうか。警察の方に伺った時はまだ目を覚ましていないと聞いただけで……」
「ど、どうでしょう……我々も追及しているのですが、警察は口が堅くて」
「無事だといいのですが……」と巣鴨は視線を逸らす。
早瀬から事前に聞いていた話だと、通報したのは巣鴨だと言う。しかし、コンテナの中で倒れていた真崎を目の前にしても、当時の真崎は、頬が腫れるなど外傷が多かったこともあり、どうやら巣鴨には同一人物と認識されていないようだった。
(本人が目の前にいるとは、口が裂けても言えない……!)
「そ、それで、巣鴨さんが通報されたと伺ったのですが、第一発見者もあなたなんですよね?」
インタビューの詳しいことなど知らないが、見様見真似で話を聞く。ポケットのメモ帳とペンを取り出しながら、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「いえ、実は私が巡回中に、ここの利用者さんが半開きのコンテナを見つけてくれたんです。あのコンテナより奥にあるものを利用されているトランクルームなんですけどね、隙間を通り抜けたほうが早いんで、よくここの道から入るらしいんです」
コンテナ同士の間は三十センチほどの幅がある。一人であれば充分通り抜けられる広さだ。
「その人の名前は?」
「それは……個人情報なので、さすがにお教えいたしかねます」
申し訳なさそうに笑う巣鴨。いくら廃れた場所の管理人でも、個人情報の管理は徹底されている。ここは無理に聞かないほうがいいだろう。
「では、防犯カメラはどうでしょう? 二十四時間体制だとホームページには記載がありましたが、犯人の姿は映っていたのですか?」
「ええ、いくつか設置されています」
巣鴨が近くのポールに向かって指しながら言う。敷地内には廃棄予定の十八個のコンテナがあり、六個分を二つのカメラで監視している。
しかしおかしなことに、事件当時の防犯カメラはすべて止められていたという。
「たとえ落雷などの停電があったとしても、予備バッテリーが作動するようになっています。カメラの停止、記録の管理は社員のIDが必要です。この場所の管理は私だけなので、機材の操作も会社の人間以外であれば私しかできません。それに先月点検したばかりだったんですよ? その時は何も異常はなかったのに……」
「何か心当たりはありませんか? 同じ会社の人が遠隔で動かしたとか」
「そういった操作ができるとは聞いたことはありませんね。会社は各々の責任者に管理を投げっぱなしなので。それに、こんな山奥に上の人間が来るわけないでしょう。ただでさえ動物も虫も湧いて出てくるし、なによりガソリン代が勿体ないですよ」
フン! と鼻を鳴らす巣鴨の言葉には怒りが込められていた。
もし彼が意図的に電源を落とし、パウンドの放火騒ぎを利用しようとしていたら、会社への怨恨が動機に繋がるかもしれないが、現段階では何も言えない。
事前に共有された情報によると、巣鴨利夫は防犯カメラが停止していた深夜一時から三時の間は自宅で寝ていたらしい。同じ部屋で寝ていた妻の証言であるため、信用しきれない部分はあるものの、数週間前に孫の風邪をもらった際、病院から処方された薬の副作用が眠気に強いものらしく、滅多に夜中に起きることはないという。
だが、もし薬を飲むフリをしてこっそり家を出てきたとしても、巣鴨がパウンドを模倣する理由がわからない。
「真崎さん? どうかしましたか?」
巣鴨の声でハッとする。どうやら自分の世界に入り込んでいたらしい。
「いえ、なんでも。ありがとうございました。それじゃあ、焦げ跡とコンテナを見させていただきます」
「構いませんが、もう何もありませんよ? 警察がここを撤収して時間が経っていますから、煤などはもう流れてしまっています」
そう言って案内されたのは、さびれたコンテナが並ぶ中でも奥にある一つだった。
曰く、劣化して解体にまわされるコンテナが順番に置かれており、件のコンテナは近々解体される予定だったそうだ。
さびついた側面のすぐ下に、煤をこすったような跡がある。周囲の雑草も焼きちぎれたような跡が残っていた。
「ここが、破裂させた場所っぽいな」
さすがにろ紙や飴玉の包み紙の破片は回収されており、手がかりになりそうなものは見当たらない。すでに数週間も経っていることもあって、これ以上の痕跡を辿るのは難しいだろう。
「それにしても、随分難しい立地にトランクルームなんて、よく作りましたよね。久しぶりに出したら虫が湧いて出たってクレーム入ってもおかしくないほど山が近い。動物被害も多そうだ」
「シグマ、もっと言葉を選んで!」
「ああ、いいんですよ、この場所に廃棄予定のコンテナを置いたのは会社なので。近くの工場で解体することもあって、都合がいいみたいです」
デリカシーのないシグマの問いに、巣鴨は嫌な顔をせず、親切に答えてくれた。
この町の特徴だろうか、住宅街が並ぶすぐ近くに大きな山が続いている。野生動物が棲みついて降りてくることも日常茶飯事だという。
「あとは……コンテナですね。今開けます」
巣鴨がポケットに入れていた鍵でコンテナを開く。ギィ、とぎこちない音とともに扉が開かれると、真崎は息をのんだ。
室内外の湿度のせいか、生ぬるい空気を全身で受け取った。不気味な雰囲気が漂う中、真崎はゆっくりとコンテナに足を踏み入れる。
誰も使われていないだけあって、中は空っぽだった。さびついた鉄の匂いは、真崎が流した血液だけではないかもしれない。廃棄予定のコンテナということもあって、繋ぎ目に数センチの隙間があったり、大きな物を引きずった跡が見受けられた。光はそこまで入ってこないので、用意していたペンライトで周囲を確認する。
すると、壁が続くコンテナの奥の端に、べったりとついた血痕が固まって張り付いているのを見つけた。
「そこですよ、人が倒れていたのは」
立ち止まった真崎に、不気味がってコンテナの外で待機している巣鴨が言う。
「そこで手と足を縛られていて、体中傷だらけでした。壁に寄りかかって座り込んでいたかな。正直、今でもたまに思い出すことがあります。警察が来るまで中には誰も入っていませんから、余計に人間に見えなかったのかもしれません」
ライトを照らしながら、壁から床に向かって赤黒く残った血痕がわかる。やはりここに自分が閉じ込められていたのだろうか。
真崎が痕を辿っていくのを横目に、シグマが尋ねる。
「巣鴨さん、このコンテナの所有者は?」
「最近倒産された会社が使用していました。数ヶ月前に手放しているので、鍵は管理人室で厳重に保管されています。当日の朝も鍵があることはチェックしましたし、管理人室に私以外が入っていないことも確認しています。ですが、警察の話だとこじ開けられた形跡はなかったようです」
「その倒産した会社が、スペアキーを作っていた可能性は?」
「本部を通じて問い合わせたのですが、その事実はないのと、倒産される前に鍵は返しているのだから、管理責任はそちらにあるのでは、と言われてしまって」
「あちゃ~返り討ちに遭ったか。管理人も大変っすね、巣鴨さん」
「あ、ははは……耳が痛い話です」
シグマと巣鴨が世間話のように当時の状況を聞き込む間、真崎は注意深くコンテナの中を見渡した。
(本当に自分がここにいた……?)
澱んだ空気、血の匂い、閉鎖的な空間――トラウマになりそうな環境がここまでそろっていて、何も思い出せない。
ふいに顔を上げたその瞬間、視界がぐらついた。
「っ……!?」
慌てて踏みとどまろうとしても遅く、真崎はその場に座り込んでしまった。ただの立ち眩みではない。ガンガンと頭に警報が鳴っているのが嫌でもわかった。
ここにいるのは、危険だと。
――■■■■■■い!
「えっ……?」
真っ暗な視界の中で、誰かの声が聞こえた。
性別どころか、怒っているかも泣いているのかもわからない。まるで水の中で聞いているかのような、音がこもっていて判別できない謎の声。途端、動画の巻き戻しするように、認識できないほどの速さで再生される音声が真崎の頭を駆け巡る。
(なんだ、これは)
――俺が、■■なん■。
――■■そが正■■■の■■■■■■■!
(誰だ?)
唯一聞こえたその声が、誰のものかまではわからない。それでもはっきりと、壁を隔てたこの場所で聞こえた気がした。
「――マサキ?」
途端、後ろからかけられた声にハッと我に返る。
それと同時に歪んだ視界はクリアになり、謎の声も聞こえなくなった。声のしたほうへ振り返れば、入口で扉を背にして抑えていたシグマが眉をひそめて立っていた。
「……シグマ?」
「何度か声かけたのに、全部無視されるのは、さすがの俺でも結構傷つくんだけど」
「え……そ、そうだった?」
何が起こったのか、自分でもわかっていない。少なくとも背中を伝う嫌な汗は、コンテナ内の空気が悪いだけではないだろう。
それはシグマにも伝わったのか、茶化すような口調から一転、低い声色で問う。
「何を思い出した?」
「……ごめん、わからない」
謎の声が聞こえた途端、何か見えた気がしたのだが、一瞬だったこともあって言葉にするには難しい。果たしてあれは、記憶を失う前の記憶だったのだろうか。
「他のコンテナも確認しておきたい。ついてくるか?」
「ああ、もう大丈夫。行こう」
真崎はゆっくり立ち上がり、コンテナを出る。
(俺の頭に流れてきたのが失った記憶の一部なら、あの声は誰のものだったんだ?)
できればもう二度と入りたくないと、自分が倒れていたであろう隅に残った血痕の痕を横目で見つめた。
コンテナの側面についていた煤を最初に発見したのは、一番奥にあるトランクルームを借りている大学生だった。
管理人の巣鴨は最後まで大学生の個人情報を教えることはしなかったが、そこはシグマがどこからか情報を持ってきたようだ。
真崎が記者を装って事前に取材がしたい旨を連絡すると、すぐに「一時間程度であれば可能。大学の近くまで来てほしい」と返答があった。『トランクたけなか』から指定されたカフェまでは車で三十分程度の道のりだ。
「マサキ、一人で行ってきてくんない?」
指定されたカフェの近くにある駐車場に停めると、シグマがシートベルトを緩めながらさも当然のようにさらりと告げる。
「え、俺だけ!?」
「なんだよ、不満か?」
「当たり前だろ! シグマから見たら知り合った頃から知っている真崎大翔だろうけど、今の俺は三年前の平凡な新卒で止まっているんだって!」
「だって俺、早瀬さんに呼び出されちゃったし」
そう言ってひらひらとスマホの画面を見せつけてくる。確かに早瀬からの着信が三件ほど溜まっていた。時間帯的にコンテナ付近を確認していた頃だから、電波の悪さで断念したのかもしれない。
「早瀬さんを引き合いに出せば俺が簡単に了承すると思うなよ? 記憶を失くしても、冷静な判断はできるほうだからな!」
「面倒くさっ! 大丈夫だって、別に話を聞くだけじゃん? 出版社の人間だって気付かれても、どこかの連中が興味本位で探ってんなーくらいにしか思わないって」
「それはお前だからできることであって――」
「じゃ、あとはよろしく!」
そう言ってシグマはウィンクを投げると、車から降りて颯爽と駐車場を出て行った。逃げ足が速いというべきか、真崎が後を追って駐車場を出た頃にはすでに姿は見えなかった。
「……あの野郎!」
不満が募って吐いた言葉は思っていた以上に大きかったようで、横切る通行人が若干引いた目で真崎を見ていた。
そんな痛い視線を浴びながら、真崎は仕方なしに歩き出す。ただでさえ相手は予定が詰まっているのだ。貴重な時間を割いてまで作ってもらったのだから、遅れるわけにはいかない。
指定されたカフェに入ると、土井悠聖は真崎よりも先に席についていた。
大学生で起業し、あるアプリが人命救助の功績をたたき出した会社の社長でもある彼は、カジュアルな恰好ながらも小綺麗にしていた。すらりとした長身、緩いウェーブがかかった黒髪は、顔を上げるとさらりと揺れた。
「お待たせして申し訳ございません。土井さんですね? 梶浦出版の真崎と申します」
「わざわざありがとうございます。土井です。梶浦出版……すみません、存じ上げておらず」
「お気になさらないでください。最近できたばかりで認知度は低いもので……はは、恐縮です」
慣れた手つきで名刺を交換すると、土井は何やらじっと見つめてくる。存在しない企業名に怪しんでいるのか、それとも――
(名刺と照らし合わせている……?)
わずかだが、目線が真崎と手元の名刺に向けられているような気がする。勘ぐっているような目つきに、真崎は悟られないように問う。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……珍しい読み方だなと思って。間違えられることはありませんか?」
「ええ、よく『マサキ』とも呼ばれたりします」
「そうですよね、先に名刺だけ渡されたら僕もそう呼んでしまいそうです。思わず見入ってしまいました。すみません」
にっこりと微笑む土井はそう言うと、通りがかった店員にコーヒーを二つ注文する。どうやら真崎の分と一緒に飲み終えた自分の分も注文したらしい。
その行動が少し違和感を覚えた。相手の視線、口元、頬の引きつり方――一瞬だけ、動揺しているようにも見えたが、すぐに平然を持ち直した。
(気にしすぎか?)
意識をしていなくとも情報として真崎の脳に入ってくるのは、以前の自分が細かく相手を観察する癖を身につけていた積み重ねによるものだろうか。心なしか冷静に土井との会話に耳を傾けている自分がいることに、内心驚いている。
このペースを崩さぬよう、早速本題に入ることにした。
「それで、今日お伺いしたいのは――」
「あのコンテナのことですよね? 警察の人には話したんですけど」
「我々は、警察とは別の角度で調べたうえで記事にしたいと考えております。何度も恐縮ですが、お話いただけますか?」
「そうっすね……事件があった日、僕は自転車を取り出しにきたんです。友人とサイクリングしようと計画をしていて、直接合流する予定でした。僕が借りているトランクルームは、コンテナの間を通り抜けたほうが近いので、その日も同じ道を通って入ったら、不気味に半開きになっているコンテナと、爆竹が破裂した時の焦げ臭いが気になって……ちょうどそこに、巡回していた巣鴨さんに知らせたんです」
土井がトランクルームを借りたのは三年前、大学に入ってすぐのこと。アパートを借りたものの、荷物が想定していたより入りきらなかったそうで、安い料金で借りられるレンタルサービスを探していたところ、『トランクたけなか』に辿り着いたという。
「ご自宅はここから近いんですか?」
「いいえ、当時は近かったのですが、水漏れ騒ぎで引っ越しまして、今は駅に近いアパートを借りて住んでいます。とはいえ、大型のマウンテンバイクは中に入れられなくって。だから、今も利用させてもらっているんです」
「なるほど。それでは、自転車を取りに来たあなたはご自身のコンテナに向かう道中に、側面の煤や周りに焦げた跡を見つけて巡回中の管理人さんを呼んだ、と。どうしてパウンドの仕業だと思ったのですか?」
「実はアプリ開発のためにパウンドの動画は見ていました。周囲の燃え残り方とか、覚えるくらいには、見ていたと思います。……でもまさか、実在するとは思っていませんでした。どこか、誰かの悪意のある悪戯だろうと、少しだけ思っていたのかもしれません」
「アプリ開発……というと、これのことですね?」
真崎がスマートフォンを操作し、あるアプリを起動させる。画面にオレンジ色の拡声器の絵柄が入ったアプリは、すぐに日本列島に各地の天気予報が書かれたイラストが表示されていた。
これは土井が在籍中に作り上げ、企業までした代表的な火災危機対策アプリ――通称『サイレンくん』だ。このアプリでは、主に天候、湿度、空気の乾燥具合、風向き等、GPS機能と連携して自分の住んでいる地域で発火しやすい場所を特定、アプリ利用者に通達するという。
第一発見者が土井だとわかったタイミングで、シグマが半ば強引に真崎のスマートフォンにダウンロードさせたものだ。カフェに向かう道中である程度いじったが、細かい情報もわかりやすく組み込まれており、真崎は思わず関心してしまった。
「人災も災害も、用心していても起きてしまうのが現実です。きっとどれだけ科学が発展しても未然に防ぐことはできないでしょう。でも被害を防ぐ環境を整えることは誰でもできる、そう思って、天気予報をもとによりわかりやすいアプリを開発しました」
仕様としては、アプリに登録した自宅周辺の天候を予測したものを前日と当日の午前中に配信。一週間分も告知はするが、人の思い通りにはいかない自然界は自由だ。真逆な天候になる可能性は充分にある。
天気予報と異なるのは、自分のいる場所の天候がピンポイントでわかることだ。
特にテレビの天気予報ではある程度栄えている市や町はわかっても、小さな村まではピックアップされず、一番近い市や町の天気をみて判断する。さらに山に囲まれた地域では、天気予報が当てにならないことも少なくない。特に年配者はわざわざネットで天気を検索するようなことはほぼしない。パッとみた場所から推測して田んぼの様子や畑の水やりを行うのだ。
「僕が住んでいた場所は山が多い田舎でして、よく山火事騒ぎがあったんですよ。と言っても、すぐに消防団が駆けつけて消火作業してくれたので、燃え広がることはなかったんですけど。その時の慌ただしい様子が、パウンドの放火で怯えている人の声を聞いて思い出したんです。だからこれは、ご年配の方々でも上手く操作ができるよう、簡単な操作しかつけていません」
「簡単な操作というと、ボタン一つでわかる、くらいの?」
「ええ。例えばですが、実際に自分の手に負えないほどの火災が目の前で起きたら、消防署に連絡しますよね? アプリの表示画面に確実に火災が発生したのが衛生上でわかれば、そのまま消防署へ連絡が行きます。もちろん、電話もつながる仕様です」
「利用者の中には、ご年配の方もいらっしゃるんですよね? 誤送することもあるのではないのですか?」
「最初はありましたが、通報以外は電話ができないように設定しています。多くの情報の中から火災現場を特定し、アプリ利用者が近辺にいない限り、開くことはできない仕様です。かなり強引ではありますが、誤送や悪戯を防ぐために、これから改良を検討しています。近々、アップデートを予定しているんです」
実際にパウンドの模倣犯が増えてきた最近は、都会でもダウンロードする人が増えていることもあり、誤送や悪質な電話がかかってくるのは消防署も大変だろう。
「パウンドが逮捕されたとはいえ、模倣犯による放火やボヤ騒ぎについて過敏になっている人はここ数ヶ月で増えてきています。警察がSNSを監視して情報元の特定を急いでいるらしいですが、その間にパウンドが逃げないとも言い切れない。僕が作ったアプリが、少しでも不安やストレスを解消するツールになればと、思っています。それより、コーヒーを飲みましょうよ。ここのブレンド、僕のおすすめです」
小さく笑みを浮かべた土井はそう言って、コーヒーを一気に煽る。
それまでじっと土井の表情や言葉を集中して聞き込んでいた真崎も、店員が運んできたコーヒーを口に運ぶが、淹れられたばかりで思っていたより熱く、一口も満たない量で一度口を離した。
「あちっ……」
「猫舌ですか?」
「ええ、まぁ……あまり飲み慣れていなくて。少し前までは飲めていた気がするんですけど」
と言っても、今の真崎にとっては大学生の頃の記憶で止まっている。社会人になっても飲めていたはずだが、やはりシグマが用意したココアを体が覚えているからだろうか。
ふーっと息を吹いて冷ましながらもう一度飲み込む。深煎り独特のすっきりとした苦味がちょうど良い。
(それにしても、なんか変だ)
事件発覚から数日も経っているとはいえ、土井の意気揚々とした様子に違和感を覚えた。
実際に開発されたアプリ『サイレンくん』は、パウンドのボヤ騒ぎよりも前に配信されており、放火が増えてきた頃に一気に売り上げを勝ち取っている。
パウンドを商売の売り文句として使っているのは、果たして良いものなのか。
「土井さんは、パウンドをどう思っていますか?」
今までよりもふわっとした質問だったと思う。土井は目をぱちくりさせると、首を傾げた。
「どう、とは? 僕個人の感覚のことですか?」
「あなたは先程、アプリ開発のためにパウンドの動画を見たとおっしゃった。だからこそ被害を減らすためのアプリへ改良していったのでしょう? それでもパウンドは止まらない。その点についてはどうお考えですか? あなた個人の意見で構いません」
真崎は、自分でも皮肉な問いかけをしたと思った。ただ笑っているだけの土井は、未だ本心を出そうとはしない。笑顔を張りつけた仮面の下はどんな顔をしているのか、好奇心で聞いてみただけだったのに。
すると土井は、少し悩む仕草をしてから口を開いた。
「パウンドは『異常者』だと、そういう声をよく聞きます。でも結局は人であることに変わりはなくて、どこかで道を踏み間違えただけなんですよ。人間って、そういうもんじゃないですか」
「まるで、パウンドを知っているような口ぶりですね」
「ええ。知っています」
は? と思わず声が出ると同時に前のめりになる。食いつくように見入る真崎を前に、土井は笑みをたたえた。
「実は、逮捕されたパウンドと名乗っている火伏とは、幼馴染なんです」
土井の話によると、拘留中の火伏昭とは同じ田舎の出身で、中学校まで一緒に育ったという。大人しく消極的な性格で、教室でも端のほうにいるような影の薄い存在だった。
さらに土井は少し躊躇いながら、先程よりも小声で話し出した。
「アイツ、実は火遊びが好きだったんです」
「火遊び?」
「彼の家は両親の仲が悪かったみたいで。さらに反抗期が重なったから、余計に拗らせちゃったみたいで。彼の目の下にある火傷の痕はその名残です。中学生の頃、火遊びを止めようとしたら、誤って竹に引火して破裂して……僕は止められなかった」
悔しそうに唇を噛み、手の甲に爪が食い込むほど強く握る。
「正直、僕にとって火伏は脅威でしかありません。だからパウンドの動画を見てすぐ、火伏だとわかりました。怖くて警察に申し出ることはできなかったけど……捕まってくれて、本当に良かった」
安堵するように、はぁ、と大きく息をついた。
「もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね」
「友達を助けたかった、という後悔ですか?」
真崎が尋ねると、土井は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに胡散臭そうに笑う。
「もちろん、人を助けるなんて善意ですよ。そして同時に金儲けができる。――正直、パウンドには感謝しかありませんね」