シグマと名乗る青年に連れられ、古びたビルが並ぶ大通りの路地裏に入った。
雨が上がってすぐの湿った空気に混ざって、泥臭い匂いが強く漂っている。思わず鼻と口を覆いたくなったが、ガラクタが多くて足の踏み場がない場所では、手を壁に触れていないと転びそうになった。
目的のビルに着くと、非常階段を登っていく。二人分の足音が響く中、ふと遠くに見えた光に目を向ける。どうやら路地を抜けた先は大通りのようで、近くにある立て看板の前に二人組の女性が楽しそうに話しているのが見えた。まるで異世界に迷い込んだかと錯覚するほどの温度差だ。
それでも抵抗なく歩き慣れているのは、以前にも真崎自身がここを訪れたことがあるからだろうか。現に、路地裏では左右に分けられるようにして捨てられたガラクタを踏みつけることなく、たどたどしさはあったが上手くかい潜っていった。記憶は忘れていても、身体は覚えているという話は本当かもしれない。
階段を登りきってドアを開けると、そこにはコンクリートで囲まれた一室があった。パーテーションで区切られ、中央にはシックな黒いソファとローテーブルだけが置かれている。向こう側にはシグマの作業スペースなのか、何かの資料が散らかしっぱなしになっている机が見えた。
靴は脱がずに入るスタイルのようで、シグマは濡れた靴裏など気にすることもなく、平然と部屋の奥に入っていく。
どうすればいいか視線を泳がせていると、奥から戻ってきたシグマからバスタオルと替えの服を押し付けられた。
「ほら、風邪をひく前にさっさと行って」
「え? 行くって……」
「風呂場だよ。ここをまっすぐ行ったところにあるから。そのズボンとシャツはマサキが置いていったやつだから、ちゃんとサイズは合うと思うよ」
シグマに比べてずぶ濡れだった真崎は、ひとまず言われた通りに風呂場を使わせてもらうことにした。
背中に湯が当たると、傷口は完全に塞がったはずなのにじんじんと痛む。退院したとはいえ、未だ痛みは残っているようで、早めに出ることにした。
先程渡された服は真崎にぴったりだった。細身のシグマにしては大きすぎるので、やはり自分が持ってきたものだと察する。
(彼の言っていることは本当なのか? それとも……)
使ったタオルは、洗濯機の上に置かれたカゴにためらいもなく突っ込んだ。無意識にした行動に、真崎はこの場所を知っていると確信が持てたような気がした。
風呂場を出ると、ラフな格好になったシグマが二つのマグカップを持って戻ってきたところだった。銀髪を隠すようにしてかぶっていたニット帽は、白いビーニーに変わっている。
シグマは真崎をソファに座るように促してから、テーブルにマグカップを置いた。ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐる。どうやら温かいココアらしい。
「マサキ、ここに来るとこれしか飲んでなかったから同じものを持ってきたけど、飲める?」
「俺が、ここで? でも甘い物はそこまで得意じゃ……」
「忘れているのは三年間分の記憶だっけ。俺とアンタが出会ったのは今から一年前。最初は甘いのは苦手って言っていたけど、『サフラン』のココアは甘さ控えめだから飲めるって言ってた。まぁ物は試しでどう?」
「ありがとう。……さふらんって?」
「この事務所の下にある喫茶店。純喫茶『サフラン』」
「まさか、そこからくすねてきたんじゃ……」
「ちゃんと金払っているって。なにこのデジャヴ」
どうやら以前にも同じことを言ったらしい。シグマは楽しそうにケラケラと笑う。
「懐かしいなぁ。マサキが初めてここに来た時も、今と同じ顔をしていたっけ」
「……本当に、君と俺は知り合いだったのか? それに君は何者なんだ? どうして俺が記憶喪失だって知っている?」
目の前に座るこの青年は、真崎との関係を「相棒」だと言った。
同業者にしては奇抜な見た目をしているし、もし同じように営業してまわっていたら――記憶喪失で忘れていることは差し引いても――きっと話題になっているだろう。
かといって、友人の類にしては不思議がられそうな組み合わせだ。これもおそらく可能性は低い。この事務所が妙に懐かしい雰囲気を漂わせていることから、記憶を失う前の自分との関連はある気がする。確証はないけれど。
しかめ面でじっと見つめてくる真崎に、シグマはけろっとした様子で答える。
「とっても仲良しだったよ。俺の仕事も手伝ってくれていたこともあったし、現にここに来るまでの道のり、身体が勝手に覚えていただろ? それが答えさ」
「……仕事? なら俺が受け持っていた取引先に?」
「ちーがうよ、この容姿で普通に就職できると思う? 黒染めも効かなかった銀髪だぜ?」
(できないこともないと思うけど、これじゃあ絞り切れない!)
シグマのペースに乗せられていては、いつまで経っても埒が明かない。
ショート寸前の頭を落ち着かせるべく、一度深呼吸をして切り替える。真崎は「俺が今から聞く質問だけに答えてくれ」と前置きしたうえでシグマに問う。
「君の名前と年齢は?」
「本名は内緒。記憶を失う前のアンタは『シグマ』って呼んでいたよ。年齢は……アンタが二十八歳だから、十個下かな」
「十八!? 年下とは思っていたけど、未成年だったとは……」
「つい最近、十八歳以上が成人枠に改定されたじゃん。酒や煙草はできないけど、立派な大人の仲間入り済みだって」
「……ってことは、高校生? それとも大学に入学したばかりか?」
「通信で大学に通っているけど、合間は自宅警備やったりネットで家でお小遣い稼ぎしたり。ごく普通の日常を送ってる」
いろいろ突っ込みたいことはあるが、一旦置いておく。
「本来の職業は?」
「学生?」
「君のことだ。本業は別にあるんだろう? 今言わないともっと嫌そうな顔をするぞ」
「……情報屋」
「……はい?」
情報屋――そう聞こえた自分の耳を疑った。それでもシグマはいたって平然と続ける。
雨が上がってすぐの湿った空気に混ざって、泥臭い匂いが強く漂っている。思わず鼻と口を覆いたくなったが、ガラクタが多くて足の踏み場がない場所では、手を壁に触れていないと転びそうになった。
目的のビルに着くと、非常階段を登っていく。二人分の足音が響く中、ふと遠くに見えた光に目を向ける。どうやら路地を抜けた先は大通りのようで、近くにある立て看板の前に二人組の女性が楽しそうに話しているのが見えた。まるで異世界に迷い込んだかと錯覚するほどの温度差だ。
それでも抵抗なく歩き慣れているのは、以前にも真崎自身がここを訪れたことがあるからだろうか。現に、路地裏では左右に分けられるようにして捨てられたガラクタを踏みつけることなく、たどたどしさはあったが上手くかい潜っていった。記憶は忘れていても、身体は覚えているという話は本当かもしれない。
階段を登りきってドアを開けると、そこにはコンクリートで囲まれた一室があった。パーテーションで区切られ、中央にはシックな黒いソファとローテーブルだけが置かれている。向こう側にはシグマの作業スペースなのか、何かの資料が散らかしっぱなしになっている机が見えた。
靴は脱がずに入るスタイルのようで、シグマは濡れた靴裏など気にすることもなく、平然と部屋の奥に入っていく。
どうすればいいか視線を泳がせていると、奥から戻ってきたシグマからバスタオルと替えの服を押し付けられた。
「ほら、風邪をひく前にさっさと行って」
「え? 行くって……」
「風呂場だよ。ここをまっすぐ行ったところにあるから。そのズボンとシャツはマサキが置いていったやつだから、ちゃんとサイズは合うと思うよ」
シグマに比べてずぶ濡れだった真崎は、ひとまず言われた通りに風呂場を使わせてもらうことにした。
背中に湯が当たると、傷口は完全に塞がったはずなのにじんじんと痛む。退院したとはいえ、未だ痛みは残っているようで、早めに出ることにした。
先程渡された服は真崎にぴったりだった。細身のシグマにしては大きすぎるので、やはり自分が持ってきたものだと察する。
(彼の言っていることは本当なのか? それとも……)
使ったタオルは、洗濯機の上に置かれたカゴにためらいもなく突っ込んだ。無意識にした行動に、真崎はこの場所を知っていると確信が持てたような気がした。
風呂場を出ると、ラフな格好になったシグマが二つのマグカップを持って戻ってきたところだった。銀髪を隠すようにしてかぶっていたニット帽は、白いビーニーに変わっている。
シグマは真崎をソファに座るように促してから、テーブルにマグカップを置いた。ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐる。どうやら温かいココアらしい。
「マサキ、ここに来るとこれしか飲んでなかったから同じものを持ってきたけど、飲める?」
「俺が、ここで? でも甘い物はそこまで得意じゃ……」
「忘れているのは三年間分の記憶だっけ。俺とアンタが出会ったのは今から一年前。最初は甘いのは苦手って言っていたけど、『サフラン』のココアは甘さ控えめだから飲めるって言ってた。まぁ物は試しでどう?」
「ありがとう。……さふらんって?」
「この事務所の下にある喫茶店。純喫茶『サフラン』」
「まさか、そこからくすねてきたんじゃ……」
「ちゃんと金払っているって。なにこのデジャヴ」
どうやら以前にも同じことを言ったらしい。シグマは楽しそうにケラケラと笑う。
「懐かしいなぁ。マサキが初めてここに来た時も、今と同じ顔をしていたっけ」
「……本当に、君と俺は知り合いだったのか? それに君は何者なんだ? どうして俺が記憶喪失だって知っている?」
目の前に座るこの青年は、真崎との関係を「相棒」だと言った。
同業者にしては奇抜な見た目をしているし、もし同じように営業してまわっていたら――記憶喪失で忘れていることは差し引いても――きっと話題になっているだろう。
かといって、友人の類にしては不思議がられそうな組み合わせだ。これもおそらく可能性は低い。この事務所が妙に懐かしい雰囲気を漂わせていることから、記憶を失う前の自分との関連はある気がする。確証はないけれど。
しかめ面でじっと見つめてくる真崎に、シグマはけろっとした様子で答える。
「とっても仲良しだったよ。俺の仕事も手伝ってくれていたこともあったし、現にここに来るまでの道のり、身体が勝手に覚えていただろ? それが答えさ」
「……仕事? なら俺が受け持っていた取引先に?」
「ちーがうよ、この容姿で普通に就職できると思う? 黒染めも効かなかった銀髪だぜ?」
(できないこともないと思うけど、これじゃあ絞り切れない!)
シグマのペースに乗せられていては、いつまで経っても埒が明かない。
ショート寸前の頭を落ち着かせるべく、一度深呼吸をして切り替える。真崎は「俺が今から聞く質問だけに答えてくれ」と前置きしたうえでシグマに問う。
「君の名前と年齢は?」
「本名は内緒。記憶を失う前のアンタは『シグマ』って呼んでいたよ。年齢は……アンタが二十八歳だから、十個下かな」
「十八!? 年下とは思っていたけど、未成年だったとは……」
「つい最近、十八歳以上が成人枠に改定されたじゃん。酒や煙草はできないけど、立派な大人の仲間入り済みだって」
「……ってことは、高校生? それとも大学に入学したばかりか?」
「通信で大学に通っているけど、合間は自宅警備やったりネットで家でお小遣い稼ぎしたり。ごく普通の日常を送ってる」
いろいろ突っ込みたいことはあるが、一旦置いておく。
「本来の職業は?」
「学生?」
「君のことだ。本業は別にあるんだろう? 今言わないともっと嫌そうな顔をするぞ」
「……情報屋」
「……はい?」
情報屋――そう聞こえた自分の耳を疑った。それでもシグマはいたって平然と続ける。