途端、資料を捲っていたシグマの手が止まる。それでも真崎のほうへ目を向けることはない。
「土井も祢占も、俺にバクリープを飲ませたことで効果を観察しようとしていた。だったら、廃棄予定のコンテナに運ばず、その辺に転がすだけで良かったはずだ。土井だって、あのコンテナの中に俺がいることに気付いていなかった。移動させたのが能面の誰かだとしても、わかるはずだろう? ……だから、第三者が眠っている俺をコンテナに移動させたんじゃないかって思った」
 シグマは真崎の持っているボールペンに、ボイスレコーダーが仕込まれていることを知っていた。のちに早瀬から聞いたところ、他にも発信機がついているほど高性能で、それを作ったのはシグマ本人だと。
「シグマ、俺が黙って事務所を出た後に、俺の後を追ってきたんじゃないか? 今回みたいに、探知機を頼りにしてさ」
「……仮に俺がアンタを移動させたとして、どうしてわざわざコンテナに?」
「それは……」
 資料から真崎へ視線を向けるアンバーの瞳は、いつになく冷ややかだった。それでも真崎は意を決して続ける。
「警察に通報させるため。社会からの信頼性が低い情報屋、しかも未成年が早瀬さんに連絡したところで、警察は大きく動いてくれない。だからあえて事件として取り扱ってもらえるように、わざと状況を作った。バクリープを大々的に世間に広めるために」
 つまり、シグマは真崎をバクリープの広告塔にしようとしたのだ。瀕死の相棒を放って、あくまで自分が追う事件の真相解明のために。
 真崎だって、こんな推測を思いつきたくはなかった。それでも、シグマは他にも隠しているような気がしてならない。
 どう返してくるかと身構えるも、シグマはフッと鼻で笑った。
「さぁね。解釈はご自由に」
 挑発的な言い方だったが、シグマの表情が微笑んでいるのに、どこか寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
 真崎はそれを見て、追及してはいけないのだと思った。あくまでシグマとはビジネス。お互いの利益のためならば、利用し合うこともあるのだと。
 すると、ドアが開く音が聞こえた。「邪魔するよ」と入ってきたのは、珍しくスーツ姿ではなく、シャツにチノパンという、ラフな格好をした早瀬だった。
 連日の捜査と後始末がようやく終わりを迎えたそうで、昨日と今日で有給休暇を使い、睡眠に費やすつもりだと聞いていた。しっかり眠れたのだろうか、いつもより顔の血色が良く、幾分すっきりした表情を浮かべている。
「あれ? 今日来るって聞いてないんだけど」
「仕事じゃないからな。休みくらいどこにいたっていいだろう。それで、何か話していたのか?」
「い、いやっ! 何も!」
 どうやら壁の向こうまで声は届いていなかったようで、先程の話は早瀬の耳には入っていないようだった。何も知らない早瀬は、いつものように中に入って定位置のソファに座った。
「仕事じゃないのは確かだが、火伏からの伝言をマサキに渡すのは仕事に入るかもな」
「伝言?」
「『もう一度頑張ってくる』ってさ」
「っ……!」
「拘置所に入ってからずっと、眉間に皺を寄せていたらしい。片っ端から本も読み始めて、今は大学の参考書を読みふけているみたいだ。自分のしたいことを見つけるためだって、看守に話していたそうだよ」
 早瀬はそう言って真崎をまっすぐ見る。決して口にはしなかったが、まるで真崎のおかげだと言いたげな、優しい表情をしていた。
 それは真崎も感じ取ったようで、ホッと胸を撫でおろした。
「そっか。……よかった」
 彼にとって前を向くきっかけになれたのなら。最悪な方向へ歩き出すその前に止められたのだと、真崎は小さく唇を噛みしめた。
 その仕草に嬉しさがこみ上げてきたものだと察したシグマは、ソファから立ち上がった。
「腹減ったー。マサキ、下でメシ食おうぜ。早瀬さんが奢ってくれるってさ」
「はぁ!? そんなこと俺は一言も……」
「ほら、早く行くぞマサキ!」
「うわっ!」
 シグマがそう言って真崎の腕を引っ張って、慌ただしい足取りでされるがまま、喫茶店へ繋がる通路に向かう。
 何を食べようかと考えているシグマの後ろ姿を見て、真崎は不思議に思う。
 真崎は、事件のこと以外のシグマを知らない。この先、なにかのタイミングで思い出したとしても、コンテナ監禁事件に仕立てた張本人だったとしても、自分は彼の隣にいられるのだろうか。
 そんなことをふと考えていると、シグマが振り返って問う。
「マサキは何食べる? リリィが作るカツサンド、結構美味いよ」
「……知ってるよ。一年前の俺も感動して涙したからね」
 失った三年間分の記憶を取り戻したとき、シグマのことも、自分が巻き込まれた事件もすべて解明できるのか。
 そのとき、自分の居場所はここにまだあるのか。
 もし、すべてを思い出したとしても。シグマを恨むようなことになっても、きっと自分はシグマの隣に立つだろう。
「マサキ?」
 珍しく心配そうに顔を覗き込んでくるシグマに、真崎は「なんでもない」と笑って返した。

【ボーダーライン~俺の都合がいいので相棒にします~ 了】