本物の放火魔パウンドが逮捕されて二週間。真崎は未だ上の空のままだった。
シグマが営む事務所の共有スペースを何度掃き掃除しても、頭に浮かぶのは無実の罪を着せられていた火伏昭の虚しい後ろ姿だ。
土井悠聖は放火の疑いと教唆罪で逮捕、父親である苑田議員は責任を取って辞職することになったが、火伏も身代わり出頭したことで犯人隠避罪に問われている。
真崎の中では未だ納得していない。もっと自分にできることがあったのではないかと、そればかり頭の中を駆け巡っている。
それだけならまだよかったことだろう。本当の放火魔パウンドは捕まったが、八年前の赤い花事件、コンテナ監禁事件を含む、バクリープを取り扱う運び屋・祢占は一向に行方をくらませたままだ。
翁の面を持っていた土井だが、能面については一切覚えていないと自供している。コンテナでべっこう飴の包み紙が見つかり、包んでいた内側に微量に残っていた成分を分析したところ、真崎の服についていたバクリープの倍はある睡眠導入剤や、幻覚誘発剤が検出された。
まだ憶測の段階だが、土井が暴れ出したのは、べっこう飴の包み紙に入っていたオリジナルのバクリープだったのかもしれない。暴れるだけ暴れた後は深い眠りにつき、嫌なことは忘れる。
(もしくは、能面の集団だけの記憶を消す、とか?)
考えれば考えるほど寒気がする。
とはいえ、真崎もバクリープを服用してしまった一人だ。
病院から目が覚めてからというものの、三年前の記憶がまるっと消えていることに変わりはなかった。正確には、一年前に箕輪の不審な行動を調べるようになってから工場で能面の人物と鬼ごっこをしたことは思い出せたものの、それ以外のことは全く思い出せいのだ。
ただ身近に人がいないのであればそれでいい。だが、ワルトで働いていた時のことも思い出せないとはどういう了見か。
(なんてややこしい! 全部思い出せっての!)
苛立ちながら箒で同じ場所を何度も掃う。
簡単に戻るものではないとは思っていたが、少しでも思い出してしまったが故に歯痒い思いだ。
「マサキ、ずっとそこ掃除してるけど大丈夫? 夏バテ?」
ソファの上で寝転がって資料を読み漁っているのは、紺色のビーニーを被ったシグマだ。
ずっと真崎が同じ場所を掃除しているから呆れた様子でみていたらしい。まるで猫のように伸びをする姿に、どこか幼さを感じられた。
「やりすぎるとコンクリート削れるからほどほどにしてくんない?」
「あ、ああ……うん、ごめん。そこまでやってるつもりはなかったんだけど」
「ちゃんとメシ食ってる? 食べてないから頭も回ってないんじゃない?」
「君だけには言われたくない」
シグマとの出会いを思い出したことで、事務所の勝手もわかるようになったが、その中でもシグマの食生活は呆れるほど酷く、まともな食事をしていなかったことに大きな溜息をついた。
朝ごはんはリリィが用意するモーニングプレートだが、野菜嫌いで半分以上残すし、昼や夜は仕事が詰まっているときは二リットルのペットボトルに入った水を脇に置いて、気が向いたら飲むだけ。暇なときでも固形物をとっている姿を見たことがない。
「君の空腹中枢は壊れているのか?」
「失礼だな、俺だって腹は空くよ。ただリリィが作るのは野菜が多いし、調べものしているときは空いていること自体忘れるっていうか……」
「本当に失礼な奴だな。リリィに謝れ」
事務所と通じていることから真崎も何度かリリィが用意したものを食べているが、喫茶店で働いていることもあってどれも美味しかった。しいて言えば、肉や魚よりも気にはならない程度に野菜が多いことだろう。
「シグマのことを思って作ってくれているんだから、食べなきゃ失礼だろ」
「食べたって! ……レタス三枚くらいは」
「その一枚はちぎられたサイズの一枚だろ。レタスの葉一枚分はいつも載っている量の三分の一くらいだからな?」
「ぐっ……」
珍しく真崎が言い包めると、シグマはぐっと苦い顔で言葉を詰まらせた。まだ十八歳らしい、子どもっぽい一面が垣間見えるとどこかホッとする。
「そ、そんなことよりさぁ! マサキのその夏バテはなんなの? 火伏のことまだ引きずってんの?」
失恋したてのメンヘラ彼氏か! と謎の突っ込みが飛んでくるが、真崎は無視して掃除道具を片付ける。なぜそこまで飄々としているのか。
「火伏もそうだけど、結局俺がコンテナに監禁されていた理由も、工場から移動させた理由もわかっていないだろう?」
土井に記憶がない以上、祢占を探すしかないのだが、今のところ手がかりはない。シグマの方針としては、祢占の行方を調べながら他の情報も仕入れるしかないという。
「考えたってわかんないんだから、ちょっとはだらけたら? ちょっとは気を抜かないと、パンクするよ」
存分にだらけているシグマには、すでに火伏のことも、パウンドの放火事件のことも頭から抜けているようだった。
気持ちの切り替えが大事なのは、真崎もよくわかっている。だからこそ、一つだけ明らかにしなければならないことがあった。
「シグマ」
「ん?」
「重症の俺を廃棄予定のコンテナに運んだのは、君なんじゃないか?」
シグマが営む事務所の共有スペースを何度掃き掃除しても、頭に浮かぶのは無実の罪を着せられていた火伏昭の虚しい後ろ姿だ。
土井悠聖は放火の疑いと教唆罪で逮捕、父親である苑田議員は責任を取って辞職することになったが、火伏も身代わり出頭したことで犯人隠避罪に問われている。
真崎の中では未だ納得していない。もっと自分にできることがあったのではないかと、そればかり頭の中を駆け巡っている。
それだけならまだよかったことだろう。本当の放火魔パウンドは捕まったが、八年前の赤い花事件、コンテナ監禁事件を含む、バクリープを取り扱う運び屋・祢占は一向に行方をくらませたままだ。
翁の面を持っていた土井だが、能面については一切覚えていないと自供している。コンテナでべっこう飴の包み紙が見つかり、包んでいた内側に微量に残っていた成分を分析したところ、真崎の服についていたバクリープの倍はある睡眠導入剤や、幻覚誘発剤が検出された。
まだ憶測の段階だが、土井が暴れ出したのは、べっこう飴の包み紙に入っていたオリジナルのバクリープだったのかもしれない。暴れるだけ暴れた後は深い眠りにつき、嫌なことは忘れる。
(もしくは、能面の集団だけの記憶を消す、とか?)
考えれば考えるほど寒気がする。
とはいえ、真崎もバクリープを服用してしまった一人だ。
病院から目が覚めてからというものの、三年前の記憶がまるっと消えていることに変わりはなかった。正確には、一年前に箕輪の不審な行動を調べるようになってから工場で能面の人物と鬼ごっこをしたことは思い出せたものの、それ以外のことは全く思い出せいのだ。
ただ身近に人がいないのであればそれでいい。だが、ワルトで働いていた時のことも思い出せないとはどういう了見か。
(なんてややこしい! 全部思い出せっての!)
苛立ちながら箒で同じ場所を何度も掃う。
簡単に戻るものではないとは思っていたが、少しでも思い出してしまったが故に歯痒い思いだ。
「マサキ、ずっとそこ掃除してるけど大丈夫? 夏バテ?」
ソファの上で寝転がって資料を読み漁っているのは、紺色のビーニーを被ったシグマだ。
ずっと真崎が同じ場所を掃除しているから呆れた様子でみていたらしい。まるで猫のように伸びをする姿に、どこか幼さを感じられた。
「やりすぎるとコンクリート削れるからほどほどにしてくんない?」
「あ、ああ……うん、ごめん。そこまでやってるつもりはなかったんだけど」
「ちゃんとメシ食ってる? 食べてないから頭も回ってないんじゃない?」
「君だけには言われたくない」
シグマとの出会いを思い出したことで、事務所の勝手もわかるようになったが、その中でもシグマの食生活は呆れるほど酷く、まともな食事をしていなかったことに大きな溜息をついた。
朝ごはんはリリィが用意するモーニングプレートだが、野菜嫌いで半分以上残すし、昼や夜は仕事が詰まっているときは二リットルのペットボトルに入った水を脇に置いて、気が向いたら飲むだけ。暇なときでも固形物をとっている姿を見たことがない。
「君の空腹中枢は壊れているのか?」
「失礼だな、俺だって腹は空くよ。ただリリィが作るのは野菜が多いし、調べものしているときは空いていること自体忘れるっていうか……」
「本当に失礼な奴だな。リリィに謝れ」
事務所と通じていることから真崎も何度かリリィが用意したものを食べているが、喫茶店で働いていることもあってどれも美味しかった。しいて言えば、肉や魚よりも気にはならない程度に野菜が多いことだろう。
「シグマのことを思って作ってくれているんだから、食べなきゃ失礼だろ」
「食べたって! ……レタス三枚くらいは」
「その一枚はちぎられたサイズの一枚だろ。レタスの葉一枚分はいつも載っている量の三分の一くらいだからな?」
「ぐっ……」
珍しく真崎が言い包めると、シグマはぐっと苦い顔で言葉を詰まらせた。まだ十八歳らしい、子どもっぽい一面が垣間見えるとどこかホッとする。
「そ、そんなことよりさぁ! マサキのその夏バテはなんなの? 火伏のことまだ引きずってんの?」
失恋したてのメンヘラ彼氏か! と謎の突っ込みが飛んでくるが、真崎は無視して掃除道具を片付ける。なぜそこまで飄々としているのか。
「火伏もそうだけど、結局俺がコンテナに監禁されていた理由も、工場から移動させた理由もわかっていないだろう?」
土井に記憶がない以上、祢占を探すしかないのだが、今のところ手がかりはない。シグマの方針としては、祢占の行方を調べながら他の情報も仕入れるしかないという。
「考えたってわかんないんだから、ちょっとはだらけたら? ちょっとは気を抜かないと、パンクするよ」
存分にだらけているシグマには、すでに火伏のことも、パウンドの放火事件のことも頭から抜けているようだった。
気持ちの切り替えが大事なのは、真崎もよくわかっている。だからこそ、一つだけ明らかにしなければならないことがあった。
「シグマ」
「ん?」
「重症の俺を廃棄予定のコンテナに運んだのは、君なんじゃないか?」