真崎が目を覚ましたのは、倒れてから丸一日経った日の朝だった。
やけに周囲が騒がしいと思って目を開くと、そこにはシグマとリリィの言い合いを仲裁する早瀬がいた。何で喧嘩をしているのかは知らないが、「うるさい」とかすれた声が届いたのか、三人はすぐに顔を見合わせる。
途端、真っ先に真崎に抱きついたのはリリィだった。
「リリィ……?」
「マサキのバカ! どうしていつも無茶するのよ! 私のこと子ども扱いして、本当にむかつく!」
「ご、ごめんって!」
ぐりぐりと頭を押しつけると、すぐに顔を上げたリリィは頭ごなしに怒鳴った。フレームの歪んだ丸眼鏡の奥の瞳は、真っ赤に腫れていた。随分心配させたのだろう。
リリィの向こうでは、胸を撫でおろす早瀬と、部屋の壁にずるずると座り込んで頭を抱えるシグマの姿があった。
真崎はゆっくりベッドから起き上がると、シグマの前に屈んだ。
「シグマ」
「…………」
頭を抱えた手にそっと触れる。態度とは裏腹に、震えているのが分かった。
「助けに来てくれてありがとう」
「…………おせぇ」
「だからごめんって」
ぶっきらぼうな言葉でも、お互いの安心材料だ。素直に顔を上げたがらないのは、泣き顔を見られたくないからか。床にぽたぽたと涙がこぼれた痕が見えた。
「シグマ、もう少し俺に付き合ってくれる? 会いに行かないといけない人がいるんだ」
「……だと思った。俺にどうのこうの言う前に、アンタの頑固なところを直すべきじゃない?」
袖でぐしぐしと目元を拭ったシグマは、真崎を見て、いつものようににやりと笑みを浮かべた。
◇
火伏昭は犯人隠避罪で起訴され、拘置所へ移送されることになった。
警察官に先導されながら移送車が停まっている裏口まで行くと、ふと足が止まった。
待っていたのは、いつかの取り調べを担当した異例の一般人だった。確か、真崎といっただろうか。額や腕に怪我の処置がされているところを見ると、また何かに巻き込まれたようだ。その隣にいるニット帽をかぶった銀髪の青年は、興味なさげにそっぽを向いていた。
「移送されると聞いて、挨拶に」
「……ようやく起訴されるんだ。惨めだなって笑いにきたのか?」
「いいや、悲しいよ。君は被らなくていい罪を自ら請け負ってしまった。もっと自分を大切にすべきだった」
皮肉そうに言われたことに火伏は苛立つが、真崎の目を見て言葉を飲み込んだ。彼はただ、まっすぐに火伏を見ようとしている。
ああ、これが彼の本心なんだ。そう思うと、短気な自分が子どものようで笑ってしまう。
火伏は彼に問う。
「どうして、俺が火恐怖症だとわかった?」
「……君と初めてあった取調室、煙草の匂いが充満していただろう? 煙草を吸わない人にとってみれば、すぐに気付く」
席を別の刑事と入れ替わる際にも香るほど、取調室は煙草の匂いが立ち込めていた。普段の日常でも煙草を煙たく思う人は少なくないだろう。特に火が苦手な火伏には、恐怖の対象になっていたのかもしれない。
その時、真崎は思ったのだ。火伏は苛立っているのではなく、怖がっているのだと。
「それと、君が借りている部屋のキッチンはIHコンロ。パウンドは破裂からの引火を好んでいたけど、別に火が怖いわけではない。……火を見ずに調理ができるIHを選んだ、そんな君に放火なんて無理だと思った」
「そうか。じゃあもう全部終わりだな」
がっくりと肩を大きく落とす。火伏はもう何も望めないのだ。すると、真崎がゆっくりと火伏に近付いてきた。警察官が止めようとする前で立ち止まる。
「火伏、あの放火事件で君が土井の代わりに出頭したのは、お母さんの手術費のためだったんじゃないか」
「……こっわ。どこまで調べてんの?」
「君は仕事を探しに彼咲村から出てきた。しばらくしてすぐにパウンドが有名になって、動画を見かけたのかな、すぐにパウンドが土井だとわかって、数年ぶりに会おうとしたんじゃないか。『サイレンくん』のアプリで乾燥注意報を確認しながら、あの住宅街へ行った」
しかし、火伏が何を言っても土井は耳を傾けることはなかった。旅行中で空けていた一軒家で動画を取ろうとして火薬の調合を始めた土井を止めようとしているうちに、誤って火薬が破裂、運悪く灯油に引火してしまった。
これには土井の自供も含まれている。すべて言い当てられた火伏は、ぎりっと歯ぎしりをした。
「……はいはい、そうですよー。全部親のため。……そのためにアイツの話に乗ったのに、このザマだ」
「他になかったのか。国の制度を利用することだって……」
「さっきからなんなんだよ! 他人事だと思って平気でベラベラと!」
途端、火伏が声を荒げた。警察官が抑えようとするも、火伏は襲い掛かるといった不要なことはせず、ただ真崎を睨みつけた。
「この火傷のせいで受けられるものも受けられなかった! やってもいない罪を押しつけられて、村では悪人扱いだ! 母親の入院費も手術費も、俺一人の金じゃ到底足りなかった。親戚の奴らに頼んでも苦い顔されて……そしたら土井が、俺が代わりに罪を被ったら、母親の手術費を払うって持ち掛けてきた。実際、俺は引火の瞬間に立ち会ってしまった。どのみち犯罪に加担した。でも手術が成功したって話を、早瀬っていう刑事から聞いて、アイツは約束を守ってくれたんだとホッとした。だから、俺に本当の前科がついてもいいって……」
「火伏、土井は何もしていない」
「……は?」
真崎の言葉に、火伏は目を向ける。悲しそうに眉を下げた顔が、意を決して口を開いたのを見て悟った。
「土井からの入金なんてなかった。お母さんの手術費を払ったのは、君の遠い親戚であり、同級生の小峰芹夏のお祖父さんだ」
「……嘘だ、芹夏の祖父さんが? いや、だって土井は俺を裏切らないって……目の前で土下座までして!」
「本当だよ。ちゃんと病院で、警察が確認してくれた。お祖父さんにも確認済みだ」
念のためにと調べていた土井の口座には、誰かを補助できるほどの金銭的余裕はなかったらしい。それはそうだろう、アプリで売り上げた会社の金は、私用と混同して使っていたのだから。
果たして、火伏が目にした彼の土下座には、どのくらいの価値があったのだろうか。そしてそれを信じた火伏が費やした時間は、一体なんだったのか。
「……そう、か。そうか……俺は……一体、何に縋って……?」
事実を知らされた火伏は、その場に力なく崩れ落ちた。たった一人のエゴによって振り回されてきたこの十数年間、すべて水の泡となってしまった。
「土井は越えてはならない一線を、自分の身勝手な欲のために越えてしまった。でも君はまだ間に合う。しっかりあったことを話しておいで」
「……お前に何がわかる? 今日までずっと騙されて生きてきた俺が、情けない自分をずっと抱えて生きていかないといけない俺に、この先に希望なんてない!」
「君は!」
途端、真崎が火伏の両肩を掴んで、目線を合わせた。
「君は辛い過去を背負ってもなお、前を向いてきたじゃないか。その火傷だって、今の医療なら治せるはずなのに、今も残しているのは罪を背負うためか? 違うだろ、お母さんの治療費に全額当てるために自分のことなんて放っておいたからだろう!」
「……っ!」
「お母さんはもう大丈夫。小峰さんがちゃんと診てくれているし、君が戻るまで待っているって。だから……だから、今度は自分のために、もう一度考えてみて」
脱力した火伏を、警察官の二人が抱えるようにしてその場を後にする。虚しい後ろ姿を見送る真崎は何とも言えない思いで見つめていた。
「お手柄じゃん、マサキ」
沈んだ空気の中、唯一シグマだけがいつもと変わらない飄々と真崎の背中を軽く叩く。空気を読まないとはまさにこのことかと、真崎は小さく溜息をついた。
「火伏は、これからどうなる?」
「まぁ、捜査をかく乱させたことも罪に問われるだろうけど、そこまで厳しいものにはならないと思う。……どちらかというと、社会復帰ができるかが問題だな」
「火伏には、信じられる相手がいなかったのかな」
彼の近くに止めてくれる人がいたら。それが、土井ではなくちゃんと寄り添ってくれる人だったら。火伏は今とは全く異なる人生を送っていたかもしれない。
(彼はやり直せる……と思う)
無理だと思うなら今はそれでもいい。でも希望くらい自分で掴んだっていいと思うことから始めてほしい。
火伏が乗り込んだ移送車が動き出す。車が見えなくなるまで、真崎はずっと見つめていた。
やけに周囲が騒がしいと思って目を開くと、そこにはシグマとリリィの言い合いを仲裁する早瀬がいた。何で喧嘩をしているのかは知らないが、「うるさい」とかすれた声が届いたのか、三人はすぐに顔を見合わせる。
途端、真っ先に真崎に抱きついたのはリリィだった。
「リリィ……?」
「マサキのバカ! どうしていつも無茶するのよ! 私のこと子ども扱いして、本当にむかつく!」
「ご、ごめんって!」
ぐりぐりと頭を押しつけると、すぐに顔を上げたリリィは頭ごなしに怒鳴った。フレームの歪んだ丸眼鏡の奥の瞳は、真っ赤に腫れていた。随分心配させたのだろう。
リリィの向こうでは、胸を撫でおろす早瀬と、部屋の壁にずるずると座り込んで頭を抱えるシグマの姿があった。
真崎はゆっくりベッドから起き上がると、シグマの前に屈んだ。
「シグマ」
「…………」
頭を抱えた手にそっと触れる。態度とは裏腹に、震えているのが分かった。
「助けに来てくれてありがとう」
「…………おせぇ」
「だからごめんって」
ぶっきらぼうな言葉でも、お互いの安心材料だ。素直に顔を上げたがらないのは、泣き顔を見られたくないからか。床にぽたぽたと涙がこぼれた痕が見えた。
「シグマ、もう少し俺に付き合ってくれる? 会いに行かないといけない人がいるんだ」
「……だと思った。俺にどうのこうの言う前に、アンタの頑固なところを直すべきじゃない?」
袖でぐしぐしと目元を拭ったシグマは、真崎を見て、いつものようににやりと笑みを浮かべた。
◇
火伏昭は犯人隠避罪で起訴され、拘置所へ移送されることになった。
警察官に先導されながら移送車が停まっている裏口まで行くと、ふと足が止まった。
待っていたのは、いつかの取り調べを担当した異例の一般人だった。確か、真崎といっただろうか。額や腕に怪我の処置がされているところを見ると、また何かに巻き込まれたようだ。その隣にいるニット帽をかぶった銀髪の青年は、興味なさげにそっぽを向いていた。
「移送されると聞いて、挨拶に」
「……ようやく起訴されるんだ。惨めだなって笑いにきたのか?」
「いいや、悲しいよ。君は被らなくていい罪を自ら請け負ってしまった。もっと自分を大切にすべきだった」
皮肉そうに言われたことに火伏は苛立つが、真崎の目を見て言葉を飲み込んだ。彼はただ、まっすぐに火伏を見ようとしている。
ああ、これが彼の本心なんだ。そう思うと、短気な自分が子どものようで笑ってしまう。
火伏は彼に問う。
「どうして、俺が火恐怖症だとわかった?」
「……君と初めてあった取調室、煙草の匂いが充満していただろう? 煙草を吸わない人にとってみれば、すぐに気付く」
席を別の刑事と入れ替わる際にも香るほど、取調室は煙草の匂いが立ち込めていた。普段の日常でも煙草を煙たく思う人は少なくないだろう。特に火が苦手な火伏には、恐怖の対象になっていたのかもしれない。
その時、真崎は思ったのだ。火伏は苛立っているのではなく、怖がっているのだと。
「それと、君が借りている部屋のキッチンはIHコンロ。パウンドは破裂からの引火を好んでいたけど、別に火が怖いわけではない。……火を見ずに調理ができるIHを選んだ、そんな君に放火なんて無理だと思った」
「そうか。じゃあもう全部終わりだな」
がっくりと肩を大きく落とす。火伏はもう何も望めないのだ。すると、真崎がゆっくりと火伏に近付いてきた。警察官が止めようとする前で立ち止まる。
「火伏、あの放火事件で君が土井の代わりに出頭したのは、お母さんの手術費のためだったんじゃないか」
「……こっわ。どこまで調べてんの?」
「君は仕事を探しに彼咲村から出てきた。しばらくしてすぐにパウンドが有名になって、動画を見かけたのかな、すぐにパウンドが土井だとわかって、数年ぶりに会おうとしたんじゃないか。『サイレンくん』のアプリで乾燥注意報を確認しながら、あの住宅街へ行った」
しかし、火伏が何を言っても土井は耳を傾けることはなかった。旅行中で空けていた一軒家で動画を取ろうとして火薬の調合を始めた土井を止めようとしているうちに、誤って火薬が破裂、運悪く灯油に引火してしまった。
これには土井の自供も含まれている。すべて言い当てられた火伏は、ぎりっと歯ぎしりをした。
「……はいはい、そうですよー。全部親のため。……そのためにアイツの話に乗ったのに、このザマだ」
「他になかったのか。国の制度を利用することだって……」
「さっきからなんなんだよ! 他人事だと思って平気でベラベラと!」
途端、火伏が声を荒げた。警察官が抑えようとするも、火伏は襲い掛かるといった不要なことはせず、ただ真崎を睨みつけた。
「この火傷のせいで受けられるものも受けられなかった! やってもいない罪を押しつけられて、村では悪人扱いだ! 母親の入院費も手術費も、俺一人の金じゃ到底足りなかった。親戚の奴らに頼んでも苦い顔されて……そしたら土井が、俺が代わりに罪を被ったら、母親の手術費を払うって持ち掛けてきた。実際、俺は引火の瞬間に立ち会ってしまった。どのみち犯罪に加担した。でも手術が成功したって話を、早瀬っていう刑事から聞いて、アイツは約束を守ってくれたんだとホッとした。だから、俺に本当の前科がついてもいいって……」
「火伏、土井は何もしていない」
「……は?」
真崎の言葉に、火伏は目を向ける。悲しそうに眉を下げた顔が、意を決して口を開いたのを見て悟った。
「土井からの入金なんてなかった。お母さんの手術費を払ったのは、君の遠い親戚であり、同級生の小峰芹夏のお祖父さんだ」
「……嘘だ、芹夏の祖父さんが? いや、だって土井は俺を裏切らないって……目の前で土下座までして!」
「本当だよ。ちゃんと病院で、警察が確認してくれた。お祖父さんにも確認済みだ」
念のためにと調べていた土井の口座には、誰かを補助できるほどの金銭的余裕はなかったらしい。それはそうだろう、アプリで売り上げた会社の金は、私用と混同して使っていたのだから。
果たして、火伏が目にした彼の土下座には、どのくらいの価値があったのだろうか。そしてそれを信じた火伏が費やした時間は、一体なんだったのか。
「……そう、か。そうか……俺は……一体、何に縋って……?」
事実を知らされた火伏は、その場に力なく崩れ落ちた。たった一人のエゴによって振り回されてきたこの十数年間、すべて水の泡となってしまった。
「土井は越えてはならない一線を、自分の身勝手な欲のために越えてしまった。でも君はまだ間に合う。しっかりあったことを話しておいで」
「……お前に何がわかる? 今日までずっと騙されて生きてきた俺が、情けない自分をずっと抱えて生きていかないといけない俺に、この先に希望なんてない!」
「君は!」
途端、真崎が火伏の両肩を掴んで、目線を合わせた。
「君は辛い過去を背負ってもなお、前を向いてきたじゃないか。その火傷だって、今の医療なら治せるはずなのに、今も残しているのは罪を背負うためか? 違うだろ、お母さんの治療費に全額当てるために自分のことなんて放っておいたからだろう!」
「……っ!」
「お母さんはもう大丈夫。小峰さんがちゃんと診てくれているし、君が戻るまで待っているって。だから……だから、今度は自分のために、もう一度考えてみて」
脱力した火伏を、警察官の二人が抱えるようにしてその場を後にする。虚しい後ろ姿を見送る真崎は何とも言えない思いで見つめていた。
「お手柄じゃん、マサキ」
沈んだ空気の中、唯一シグマだけがいつもと変わらない飄々と真崎の背中を軽く叩く。空気を読まないとはまさにこのことかと、真崎は小さく溜息をついた。
「火伏は、これからどうなる?」
「まぁ、捜査をかく乱させたことも罪に問われるだろうけど、そこまで厳しいものにはならないと思う。……どちらかというと、社会復帰ができるかが問題だな」
「火伏には、信じられる相手がいなかったのかな」
彼の近くに止めてくれる人がいたら。それが、土井ではなくちゃんと寄り添ってくれる人だったら。火伏は今とは全く異なる人生を送っていたかもしれない。
(彼はやり直せる……と思う)
無理だと思うなら今はそれでもいい。でも希望くらい自分で掴んだっていいと思うことから始めてほしい。
火伏が乗り込んだ移送車が動き出す。車が見えなくなるまで、真崎はずっと見つめていた。