「捕まえ――」
 飛び掛かるようにして伸ばした手は、すぐに祢占の左腕に届いた。しっかり掴んだ途端、祢占は突然、がくんと下に沈んだ。
 見れば下は崖となっていた。工場は『トランクたけなか』より奥の、小高い場所にある。下には生い茂った木が覆われており、地面は見えない。おそらく自然にできた崖崩れのようなものだろう。
 祢占はわかっていて飛び降りたのか、慌てた様子はなく、代わりに真崎の腕に負荷がかかって地面に寝そべる形で踏ん張った。ここで離したら、祢占を捕まえるどころではなくなってしまう。
「マサキ!」
 すると、真崎とは別の手が祢占の腕を掴んだ。別ルートで挟み撃ちをしようとしていたシグマだ。二人がかりで引っ張り上げようとすると、祢占が身体を左右に揺らし始めた。
 意地でも落ちようとしている。
「動くなって!」
「ほらほら、さっさと腕を離さないと、あなた達も巻き添えになりますよ?」
 崖の下から祢占が諭す。表情はわからないが、それでもどこか呆れた様子なのは伝わってくる。
「アンタに勝手に死なれたらこっちが困るんだ! 捕まえることも、バクリープの製造を止めることもできない!」
「捕まえたところで、私は何も言いませんよ」
「じゃあ、箕輪さんは? どうして彼女を引き込んだ? どうして殺した!」
「……箕輪輪子については、私も非常に残念なんですよ。どうしてこちらに来てしまったのか、悲しくて仕方がない」
「だったらなんで!」
「言ったでしょう? 私は、夢の運び屋だって」
 その時、能面の下でフッと笑みを浮かべたような気がした。真崎はふと、本当に祢占は悪者なのかと疑ってしまった。
 同僚を殺したのに、シグマとリリィの人生を狂わせた人物なのに!
「……何が夢だ。あなた達がいなかったら、バクリープさえなかったら、シグマやリリィは他の子と同じ普通のそれぞれの人生を送れたかもしれない。犯罪まがいなことに手を出すこともなかったかもしれない。……箕輪さんだって、売り子なんてしてお金をもらうことも、俺を庇って無残に死ぬこともなかったはずだ!」
 ぐちゃぐちゃな感情の中で、怒りや憎しみが大きく膨れ上がっていくのがわかる。
 助けられたかもしれない人生がいくつもあったはずなのに、自分にはできなかったことを祢占にはできたかもしれない。可能性ばかりがいくつも浮かんでくるのに、どれも実現はできなかったのは、自分のせいだけじゃないとわかっていても悔やんでしまう。
 だからこそ、真崎は祢占の腕を掴む手にさらに力がこめた。シグマもそれに合わせて一気に引っ張り上げる。祢占の身体を安全な場所まで持ってくると、腕を掴んだまま、真崎は祢占の胸倉を掴んだ。
「あなたには生きてもらう。生きて、死んだ後も償ってもらう」
「……それは夢を運ぶ私にとって、とても地獄ですねぇ」
「いいじゃん。後悔という地獄を運んで死ねよ」
 シグマが冷たく吐き捨てると、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。どうやら先んじて通報していたらしい。
 祢占はふう、と息をつく。
「残念ですが、あなた達はまだわかっていない。バクリープの新の効力も、我々が開発しているものが何なのかも」
「え?」
「人には越えてはならない境界線(ボーダーライン)がある。……いつか、あなた達が越える日が楽しみですね」
「……っ、マサキ!」
 何かを企んでいるような、含みのある言い方に嫌な予感がしたシグマだったが、一歩遅かった。
 祢占は一瞬の隙をついて二人から遠ざかり、崖へ向かって走っていく。そして宙に浮いて振り返ると、恵比寿の能面を外して、箕輪輪子の顔のまま、皮肉に笑った。
「――ゲームオーバーです。またお会いしましょう」
 二人が駆け寄った時には、すでに祢占は崖から飛び降りた後だった。木々で覆われた奥に落ちていくのが見えた。
「シグマ、すぐに下、へ――っ!」
 不意に顔を上げた途端、真崎の頭に激痛が走った。
(しまった、バクリープの……!)
 いつもとは違う、後ろからハンマーで殴られたような鈍痛。周囲の音も聞こえなくなって、朦朧とする意識の中、最後に見たのは焦った表情を浮かべるシグマの顔だった。

 早瀬が率いるパトカーが廃墟の工場に到着すると、そこは異様な空気に包まれていた。
 工場内のある一室で土井悠聖が拘束された状態で気絶しており、近くには翁の面が割れて散らばっていた。
 崖下に落ちたとされる祢占の捜索は、真夜中にも関わらず捜索隊が組まれて捜索にあたったが、死体どころか痕跡さえも見つからなかった。生い茂った木々がクッション替わりとなり、助かった可能性も踏まえて周囲を徹底的に捜索したが、手がかりは見つかっていない。
 その代わり、森の中で腐敗が始まっている死体が見つかった。調べた結果、箕輪輪子自身であることが発覚。身体に複数の弾痕があり、すでに二十日以上前に死亡していたことが、警察の調べでわかった。

 目が覚めた土井はすべてを自供し、その場で逮捕。
 火伏昭は放火容疑から犯人隠避罪として起訴されることになった。望み通りの起訴だというのに、すべてを聞かされた火伏の表情は曇ったままだった。