「随分ご機嫌だな。この状況、わかってんの?」
「ええわかっています、わかっていますとも! この絶妙な追い詰められた感覚……堪りませんねぇ」
 面をつけてからより活き活きとしている彼、あるいは彼女を見て、真崎は目を疑う。
 追い詰められて楽しい? そんなはずがない。シグマに正体を暴かれて後がないだけでなく、仲間の土井は意気消沈。警察ももうすぐ到着する。どう考えても不利な状況下なのに、恵比寿の面の下では恍惚の笑みでも浮かべているようだった。
「あなたは、自分が何をしているのかわかっているんですか?」
「私は嫌な記憶を消すお薬を配っている、優しい易しい運び屋さんですよ。世間には、辛い記憶に悩み苦しみ、夜も眠れない人が数多くいます。今、この瞬間を最前線で見ているそこのあなたも! 辛い過去、忘れたいワンシーン、ありますよね? ありますよねぇ! そんな迷える子羊を導いてやるのが、夢の運び屋・()(じめ)と呼ばれる私の使命です」
 祢占と名乗った人物は、まるで選挙の演説のように身振り手振りをしながらも雄弁に語る。そして協調するのだ。すべて自分がしてあげているのだと。
 真崎は拳を振り上げそうになるのをぐっとこらえた。本心は今すぐにでも殴り飛ばしてやりたい。
 そっとシグマのほうを見る。表情は変わらず飄々としているが、アンバーの瞳にやけに怒りが滲んでいるように思えた。
「祢占とか言ったな。いつから俺達の情報を集めていた? ここ数年の話じゃねぇだろ」
「ええ、ええ! お察しの通り、あなたが我々に気付くずーっと前からですよ。八年前、私もあの実験には立ち会いました。未完成のバクリープを長期間、少しずつ体内に取り込むためには、日常としてウォーターサーバーや加湿器が手っ取り早かったのです。対象は子どもでしたからね。おかげで良い研究データが取れました。それを元に作ったのが、真崎くんに飲んでもらった液体バクリープなのですよ。飲ませてから一週間のこん睡状態、目が覚めたら三年前の自分に戻っていた、新世界を見たような新鮮さ! ……楽しかったでしょう? 自分の知らない未来は」
「は……?」
 祢占の言葉に、真崎の中でプチンと切れた。
 記憶喪失になったことが新しい世界へのはじまりだとでも言いたいのか。
 自分はあんなに悩んでいたのに、苦しんでいたのに!
「ふざけるな! あなたがしていることは、多くの人を自分の欲のために巻き込んだだけだ!」
「欲のため? 悩み苦しむ者が何かに縋るのも欲ではありませんか? 楽になりたい、自由になりたい、逃れたい……バクリープがあればすべて解決です。あなただって、三年間ほど失くした記憶の中にバクリープの事実を知って酷く苦しんだではありませんか。だからシグマくんだけでなく、リリィちゃんや早瀬警部補までも裏切って、箕輪輪子を連れ戻そうとしたんでしょ? あなたの、自己満足にすぎない、ちっぽけな正義感で!」
「……まさか、アンタ達が求めているバクリープって」
 シグマの絶望した声が響く。
 嫌な予感がした。そして、真崎にもシグマと同じ事実が頭に浮かんでいる。
 眠ったら嫌な記憶を忘れる――つまり、その人物が強いストレスを感じた記憶を思い出した時、薬が反応する仕組みだとしたら。
 リリィはいつも、気持ちが昂ると寝落ちてしまう。真崎も思い出す兆しがあると頭痛がした。もしそれが、薬の効果が発揮された瞬間だとしたら?
 顔が引きつっているのを見て、祢占は能面の下でにたりと笑った気がした。
「ご安心ください。彼女に手を出すことも、城之崎夫妻を消すことも致しません。これはお約束できます」
「そのふざけた格好で、戯言を信用できると?」
「していただかなくては困ります。我々にとってもバクリープを改良していくには、城之崎夫妻の力が必要なのです。……逆を言えば、彼らさえ生きていれば、私はただの捨て駒に過ぎないということ」
 そう言って祢占がポケットからスマートフォンを取り出して、画面を真崎らに向ける。
 表示されていたのは「スタート」の緑色のボタン。
 何かを察したシグマは、すぐに祢占に飛びかかった――が。
「私、夢も面白みもないのは好まない主義ですので」
 指が画面に触れる。ボタンが押されたと同時に、スマートフォンの画面が煌々と光り出した。最高出力の明るさはスタングレネード並みの発光で、その場にいた彼らは咄嗟に目を伏せた。さらに耳の奥がキーンと耳鳴りが惑わせる。
 視覚と聴覚を一瞬で奪われ、シグマは掴んでいたはずの祢占のスーツを離してしまう。立ち往生している間に、祢占は横を通り抜けて部屋から出ていった。
 それにいち早く気付いたのは真崎だった。
「――っ、待て!」
 先程まで拘束されていた手足が若干しびれていたが、構っていられない。チカチカする視界を振り切って祢占の後を追う。
 走り抜けるたびに舞い上がる埃も、無造作に転がっている機材を踏みつけて飛び越えるのも、死に物狂いで逃げたあの日の光景が脳裏に浮かぶ。
 真っ暗な中、一人でバクリープを渡さないようにするのに必死だったが、あの時と比べてなぜか心が軽い。
 後ろから聞こえてくる足音が、自分の相棒のものだとわかっているからだろう。
「おいオッサン、記憶戻ってすぐに走っていいワケ?」
「オッサン言うな! 土井は!?」
「さっきの光で気絶したから縛り付けておいた! それよりあのふざけた野郎を絶対に逃がすな! 事件のことを全部聞き出す!」
「わかってるって!」
 そう言ってシグマが別ルートへ向かっていく。それを横目で見届けると、真崎はさらに加速させた。
 工場から出て、裏側に向かっている背中は、手を伸ばせばすぐそこだ。