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 目を覚ましてから数日後、真崎が検査から病室へ戻ってくると、見知らぬ男女が待っていた。
 一人は紺色のスーツと赤いネクタイでかっちりと着こなした中年男性で、真崎の姿が視界に入った途端においおい泣き出した。
「し、真崎ぃ! お前、よく無事で……ああ、よかった、よかった!」
「え? あの……」
「俺は信じていたぞ、真崎! お前はどんな顧客にも粘り強く接し、遠慮を知らない強い奴だ。理不尽に厄介ごとに巻き込まれてもしぶとく生きていると、俺は信じていたぞ!」
 褒められているのか、はたまた貶されているのか。両肩をがっしりと掴まれ、されるがままに揺らされる。そのたびにムスクの香りが強く漂うと、彼が自分の上司だったことを思い出した。
 深い彫りの顔つきに人情に熱く涙して語るこの男性……確か、営業部長の(いで)(はら)(いり)()といっただろうか。入社してすぐの歓迎会で歓喜のあまり泣きながら歌っていたような、ぼんやりとした記憶がふと浮かんだ。
「部長、落ち着いてください。病院なんですから。それに彼は怪我人です。安静にしていないとダメなんですって」
 泣き崩れる出原を真崎から引き離したのは、グレーのパンツスーツ姿の女性だった。黒のショートボブにパッチリとした目元、口元にほくろが印象的だが、顔を見ても思い出せない。
「検査でお疲れのところごめんなさい。私、(みの)()(りん)()といいます。株式会社ワルトの営業部であなたの同僚です。こちらは部長の出原。……私達のこと、覚えていませんか?」
 箕輪と名乗った女性は、顔色を伺うようにじっと見てくる。
 株式会社ワルトの名前は聞いたことがあった。大学生の頃、いくつか受けた会社で唯一受かった会社で、その営業部に配属されたのも覚えている。
 しかし、同僚だと言ってくれた彼女のことは一切わからなかった。大人しそうな見た目だが、出原を力ずくで引き離していたところを見ると、かなり強引なタイプなのかもしれない。
「えっと……すみません。出原部長はなんとなく覚えているのですが……」
「いいえ、こちらこそ押しかけてしまってごめんなさい。意識が戻ったと聞いてから、部長がそわそわして仕事が手に付かずにいて……」
「え? 箕輪さん、俺のせいにするの? 君だって見舞いの品に悩ませていたじゃないか!」
「お見舞いなんですから、お花かお菓子かで迷って当然でしょう。ああ、お花にさせていただきました。ここに置かせていただきますね。それより、検査はどうでした?」
 箕輪は一瞬複雑そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。営業らしい接客スキルというべきか、とても切り替えが早い。
「記憶障害と打撲以外は特に問題はないみたいで……早ければ来週にも退院できるかと」
「なんて回復力だ……。お前は仕事も早かったから、早く復帰したいと本能的に訴えでもしているのかい?」
 自分はそんなに社畜三昧な日々を送っていたのだろうか。
 思わず苦笑いすると、出原は「冗談だよ」と軽くあしらった。
「でも驚いたよ。君が突然、長く有給休暇を取りたいって言うから、何事かと思っていたけど……まさか事件に巻き込まれていたなんて」
「有休を? あの、俺が休みに入る前に何をしていたか、詳しく教えてくれませんか? それと、会社に勤めていた時の、自分のことも……」
 何か意図があって休みを取ったのはいいとして、働いていた会社の二人が揃って病院に来たことになぜか違和感を覚えた。見舞いというには何か裏があるような、そんな気がしてならない。
 二人は顔を見合わせると、出原は持ってきていたペットボトルの水をぐいっと煽ってから、先程まで泣きじゃくっていた人物とは思えないほど、真剣な眼差しと丁寧な口調で話し始めた。
 株式会社ワルトは、紙を主流とする専門メーカーの一般企業だ。中でも真崎大翔は入社三年目ながら、営業部のエースとして活躍。社内でも真面目で、まっすぐな人物だったという。何事も真剣に取り組み、プレゼンの資料はとても見やすく、発言力も備わっていた。
 そんな真崎が溜まっていた有休を一気に消化したいと出原に申し出たのは、五月のゴールデンウィークが明けた頃のこと。再就職先を探すのかと思いきや、旅行がしたいとのことで会社側から了承を得ると、軽く引継ぎをし、定時通りに会社を出たのを最後に連絡が取れなくなっていたという。
 真崎は話を聞きながら、メモ用紙に書き出していく。何か思い出すきっかけになればと思うが、聞いていても自分とは程遠く、他人のような気がしてならない。
「まだ一ヶ月も経っていないのに懐かしいな。君が辞めるかもと噂が流れた途端、営業部総出で引き留めたものだ。それほど君は立派に働いてくれていた」
「はぁ……」
「でも過去のことより、今の自分を大切にしたほうがいい。次の就職先だって考えないと」
「……どういう意味ですか?」
 メモを取る手を止めて問うと、途端に箕輪が視線を逸らした。出原も躊躇いながらも口を開く。
「実は、株式会社ワルトは今月末で倒産が決まった」
「倒産? なぜですか?」
「取引先が倒産した影響がこちらにも来たんだ。連鎖倒産というものだな。社長の横領で経営不振、さらに放漫経営といった、組織全体が()(さん)な会社だった。その取引先をとってきたのは真崎、お前だ」
「……え?」
「現にその取引先の担当者と連絡がつかない。社内ではお前が手引きしたと言い出す者も現れた。……俺達は真崎のことを信じている。だからその確認をしたくてここに来た」
 出原の話に、真崎は心臓を掴まれたような息苦しさを覚える。ペンを握る手が汗で滑るのをぐっと力を込めた。
「倒産は決定事項だ。それは覆せないし、だからと言って内通者をつるし上げようとするつもりはない。ただこうなった以上、私には上司として部下の行動を把握できなかった責任がある。記憶を失っているところ悪いが、思い出してくれ。お前はどっちの味方だ?」
 視界が大きく歪むほど強い眩暈がした。倒産するのは自分のせいだと、遠回しに言われているそれは、出原にとって純粋な問いかけだったのかもしれない。しかし、彼が問いかける目の前の真崎大翔は、出原とともに働いていた人物ではない。
「……うっ⁉」
 すると突然、後頭部に強い痛みが走った。頭を両手で押さえても、内側からハンマーで何度もガンガンと叩かれるような激痛が襲う。さらにこみ上げてくる吐き気に耐え切れず、床に座り込んだ。
「いっ……!」
「真崎! 箕輪さん、ドクターを!」
「は、はい! 真崎くん、もう少し待っててね!」
 出原と箕輪の焦った声が聞こえてくるが、真崎の意識はだんだん遠のいていく。
(なんでもいい。何か思い出せ、否定できる何かを――)
 霞む意識の中、うっすらと頭に浮かんだのは真っ黒な空間だけで、何もなかった。