忘れるはずがない。見間違えるはずがない。
 あの日、確かに真崎は自身の目で、箕輪輪子が息絶えていくのを見届けたはずだった。
 彼女に双子がいるなんて聞いたことはないし、そっくりな人でもないとすれば、ドッペルゲンガーか。普通では考えないような突飛な想像が繰り出されてしまう。
 しかし、目の前で微笑む彼女は眉を下げて、少し寂しそうに言う。
「お化けでも見たような顔をしないでよ。私達、良い仕事仲間だったじゃない。私のミスをいつもカバーしてくれたのはあなただったでしょう?」
「だって、あの時撃たれて……」
「いつ死んだ、生き延びたかなんてどうでもいいわ。私が恵比寿の面を持っている……もうわかるでしょう? ずっとあの名探偵気取りのお子ちゃまに付き合っていたんだから、鈍いあなたでもわかるわよね」
「……もしそれが真実だったとしても、信じられない。あの日、確かに俺は君が倒れ、地面が血だまりになっていくのを見た。話を脚色しているわけでも、妄想でもない。あれは現実で起こったことだ!」
 真崎は、困惑する頭を振り切ってはっきりと告げる。死んだ人間は元には戻らない。生き返ることはないのだと。
 それを聞いた箕輪は残念そうに肩をすくめた。
「真崎くん、あなたが今見ているものこそリアルなの。現実逃避をしたい気持ちはわからなくはないけど」
「だったらなんでここにいる? どうして、君がそちら側の人間なんだ?」
 箕輪は自ら、バクリープの受け子だと自供した。病気がちの父親のために金が必要だったと、泣きながら真崎に縋りながらも、自分が死んでも逃げろと押し出したのだ。
「その能面は、八年前の赤い花事件の実行犯も同じものをしていたと目撃した人がいる。奴らの目的もバクリープが絡んでいる。君がその面を持っているということは、君もその一員なのか?」
「ふふっ……真実の端くれを掴んだ程度の情報を、さも当然のように正義だと振りかざすその言動……虫唾が走りますねぇ」
 苛立ちが声に込められているような、今まで聞いた中でも一番低い箕輪の声に、真崎はびくっと肩を震わせた。
 それと同時に疑問に思った。本当に目のお前にいるのは箕輪輪子なのか、と。
 確かに彼女の言動や声で、おかしいところはない。しかし、苛立ちのこもったその声色が、微かに二重になって聞こえた気がしたのだ。
 ただの気のせいならそれでもいい。しかし、不思議に思う点が多いからこそ、見逃してはいけないと思った。
 そんな真崎の考えを他所に、箕輪は続ける。
「記憶が戻ったのなら、ここがどこかわかるかしら。あなたとあの晩、鬼ごっこをした場所よ。まさか、トランクルームから走っても十分はかかる坂を駆け上がって、廃墟の工場に立てこもるなんて想定外だったわ。人数がいるとはいえ、すばしっこいんだもの。土井、あなた確か『ウサギみたい』って言っていたわよね?」
「だってその通りじゃないですか。他の奴らが撃った弾も間一髪で全部避けやがった」
 ずっと黙っていた土井がようやく会話に入ってきた。折りたたみ式のナイフを開いては閉じて、を繰り返している。この状況に飽きてきたのかもしれない。
 そうしてナイフを開いた状態にすると、空いている片手で真崎の胸倉を掴んだ。何をするかは一目瞭然で、土井はナイフを持つ手を大きく振りかぶった。
「もういいですよね? コイツ、終わりにさせましょうよ。生かしておいても意味ないって」
「待っ――!」
 ナイフが自分に向かって落ちてくる。真崎がぎゅっと目を瞑ったのと同時に、バタンと大きなものが地面に叩きつけられた音がした。
 そっと目を開くと、ナイフは顔の寸前で止まったまま、土井が音のしたほうに顔を向けてわなわなと震えている。
「誰だ! せっかく僕が――」
 土井が怒鳴りかけたその瞬間、ドアの向こうから跳んできた小さな椅子が土井に命中し、その勢いのまま真崎から離れ、向こうの壁に叩きつけられた。
 真崎がドアのほうを見れば、地面に倒れたのがドア本体で、中心に足跡のようなものが見える。
「ああ、痛かった? 暗いから加減なんて知らないからさぁ」
 そう言ってゆっくり入ってきたのは、銀髪をニット帽で隠した青年だった。
 唖然とする箕輪と土井とは裏腹に、真崎は頬の緩みが止まらない。
 本当は信じてはいけないと思った。自分から裏切ったのだから。
 それでもヒーローは遅れてやってくる。目の前で不敵な笑みを浮かべるシグマを見て、胸の奥につかえていたものが無くなった気がした。
「よぉ、マサキ。随分いい恰好してるじゃん。写真撮って早瀬さんに送ってやろーっと」
「悪用すんな! 人質記念とかいいから解いてくれ」
「えー……もうちょっとだけこのままでいてくれない?」
「ふざけんな!」
 急に賑やかになった室内に、箕輪と土井は眉をひそめた。なぜここにシグマがいるのか。
 今の真崎は手足を拘束され、身動きは一切取れないだけでなく、スマートフォンなどの持ち物も、ネクタイやベルトを含む装飾品もすべて没収されている。外部との連絡手段は絶たれているはずだ。
「どうしてここがわかったの? 発信機の類はすべて捨てたはずよ」
 箕輪の問いに、真崎の拘束を解きながら、シグマはにやりと口元を歪ませて答える。
「あっれぇ? もしかして誰も発信機の場所がわからなかった感じ? でもそうか、革靴のヒールの中に埋め込んでいるなんて気付かないか。ついでに金属探知機も電波妨害も対策済み。すぐに見つからないってわけ」
 見た目ではわからないが、触れてみるとわずかに踵の底面の一部にくぼんでいるような跡があった。いつの間に、と言葉を漏らしそうになった真崎だが、よく考えれば革靴はスーツ一式と一緒にシグマが用意したものだ。その時からすでに仕込まれていたのかもしれない。
 以前、カフェで土井の話を聞いた後に道端で頭痛に倒れた時も、すぐにシグマが駆けつけることができたのも頷ける。
「……ちょっと待てシグマ。発信機なんて、俺は一言も聞いてないんだけど!」
「嘘つき野郎に教える必要ある?」
 ロープを解き終えたシグマは、舌を出して真崎を煽る。言い返す言葉も見当たらない。
 すべて思い出したとはいえ、真崎がしてきたことはすべてシグマを裏切ってきたことと変わりはないのだ。横に立つ資格もない。
「ごめん、シグマ。俺は君に顔向けができない」
「だったら、その分返しに来いよ。――今から、お前に濡れ衣を着せようとした奴らの化けの皮を剥がすんだ。汚名返上しないとな」
 シグマのその言葉に、真崎と土井は目を見張った。
 会社が連鎖倒産したことも、自分以外の血液がついていたことで殺人の容疑をかけられたことも、記憶喪失という欠陥により、真崎は無実を証明することができずにいた。
 それが今、不敵な笑みを浮かべるシグマの口から「濡れ衣」という言葉が出てきた。この場を逆転できる何かをシグマはすでに掴んでいる。
「濡れ衣? 何の話かしら?」
「そう急かすなよ。偽者サン。何か急ぎの用事でもあんの? だったら俺らの話を聞いてくれたってよくない?」
 偽者? と首を傾げる真崎に、シグマは告げる。
「アンタ、箕輪輪子じゃないだろ」