◇

『真崎くん、心配してくれるのは嬉しいけど、私は大丈夫よ』
 一年前、同僚の箕輪輪子は真崎に申し訳なさそうに笑って言った。
 営業周りをしていた真崎は偶然、箕輪が不審な人物と何かを取引をする場面を目撃した。
 相手は上下ともに真っ黒な服装で顔をマスクやサングラスで隠すほどの徹底ぶり。これを不審に思わないわけがない。何かを手渡しした際、相手が鋭いナイフを彼女の前でちらつかせて脅すような素振りも見受けられた。
 真崎はすぐに彼女に問い詰めたが、頑なに何も言おうとしなかった。それでも真崎は、ここ最近の箕輪の行動に違和感を覚えていた。
 仕事の愚痴を言い合うことも意見することもあった。それはこの仕事に情熱をかけている人だと、同期ながら感心していた部分もある。できることなら力になりたいとも思った。
 しかしある日、偶然開きっぱなしになっていた彼女のパソコンの画面に、謎のチェックリストが表示されているのを見てしまった。名前と住所、身長や体重など、個人の特徴について細かく書かれている。担当先の情報をまとめたものかと思ったが、それにしては一般人が多すぎた。
 そして先日見かけた不審者との取引現場……真崎の中で、不安がよぎる。
 子供のころから正義感が強いほうだった。
(もし彼女が困っているなら、もし彼女の抱えている件が会社に関係していることなら――黙って見過ごせない)
 取り越し苦労だったらそれでいい。お節介に近い親切心で探りを入れ始めたものの、なかなか情報が集まらない。
 そこで駆け込んだのは、警察署だった。しかし一瞬見ただけの話は、誰も取り合ってくれない。
 諦めていたその時、ちょうど別件で警察署に来ていた早瀬が声をかけてくれた。
『なんとかしてくれるかも』と半信半疑でついていくと、そこは小さな事務所のような場所で、まだ高校生くらいの青年がソファに足を投げ出し、気怠そうな目で真崎を見据えていた。
 もちろん、最初は『無理。帰れ』と一蹴されてしまった。
(この青年に本当に頼んでいいのか? 情報屋なんて悪いイメージしかないし……)
 悩みながらもシグマの後を追っていたところ、スクーターに乗ったひったくり犯と鉢合わせしてしまう。
 思うがまま動き出してしまった真崎とは違って、シグマは障害物を伝い、ひったくり犯だけを半ば強引にスクーターから離し、確保と事故を防ぐことに成功。
 自分にはない何かがある。そして、彼と一緒にいれば、真実に辿り着けることができる。
 ――彼に自分のすべてを賭けよう、そう決めた瞬間だった。

 いつの間にか事務所へ入り浸る機会が増え、リリィや早瀬とも言葉を交わすようになり、シグマの相棒として情報を集めて一年、ようやく真相に近付いた。
 箕輪と不審者の密会は、二週間に一度という比較的早いスパンで繰り返されていた。
 一度だけ不審者にわざと出くわしたものの、逃げ足が速く取り逃がしてしまったが、ぶつかった際に地面に落ちたリストを、真崎は見逃さなかった。以前、箕輪のパソコンに表示されていたものとよく似ている。
 真崎はシグマにリストのことは伏せたまま、独自で調べて見ると、そのリストがある薬の顧客リストであることがわかった。
 さらに調べていくうちに、その薬がバクリープであり、開発者がリリィの実の両親であることまで突き止めてしまったのだ。
 当時の真崎にも赤い花事件のことは伝えられており、シグマ自身が被害者である事件を調べていることを知っている。
 重要な手がかりだと思って連絡しようとしたが、ふと、リリィの寝落ちのことが頭をよぎった。
 そして気付いてしまった。彼らのいた児童養護施設事体が、バクリープを完成させる人体実験のために用意された施設だったのではないか、と。
(……ダメだ)
 いくら真相を求めていたとしても、知らないほうが幸せだったと思うことは今も、これから先もたくさん出てくる。シグマの決意は充分伝わっている。哀しいくらい同情した。
 だからこそ、過去の世界が残酷だったと、施設での思い出がすべてハリボテだったことを思ってほしくない。
 自分でも無茶苦茶なことをしたと思う。
 シグマの留守を狙って事務所に侵入し、最初に交わした誓約書や今まで調べてきた資料を破棄した。パソコンやクラウドに保存されたものまで復元できないようにプログラムまで組んだ。
『……何してんの、マサキ』
 粗方処理を終えたところで、シグマが帰ってきた。相棒がしていたことを察したようで、怒りが混じった、哀しそうな顔をしていた。
 無言で立ち去ろうとする真崎に、シグマは声を震わせて叫んだ。
『俺は、お前の相棒だぞ!』
 真崎は何も言わなかった。足を止めることを許してはいけないと思った。
 背を向けたまま、事務所を後にする。今夜、箕輪が不審者と密会をすることがわかっている。そこに乗り込んで直接彼女を止めるつもりだ。
 事務所にはもう自分の痕跡は残っていない。万が一、自分が死んだとしてもシグマやリリィ、早瀬に迷惑はかからないはずだ。自宅はある程度整理してきた。戻ってこられたら奇跡かもしれない。
 すべて置いて真崎は目的地へ向かう。
 ふと頭をよぎるのは、最後に見た相棒の顔。その顔を一生忘れてはいけないと、強く思った。

 夜も更けた頃、密会場所となっていた山奥の野外トランクルームにやってきた真崎は、周囲を警戒しながら入ってきた箕輪を引き留めた。仕事と同じスーツ姿に、ジュラルミンケースを持っている。
 突如現れた真崎に、箕輪は困惑した。
『真崎くん!? どうして……』
『……そのジュラルミンケースの中身、全部バクリープなのか?』
 その言葉に、箕輪は視線を泳がせる。どうやら当たりらしい。観念したのか、諦めたようにぽつぽつと話し始めた。
 最初は小遣い稼ぎとして詐欺の受け子をしていたらしい。バクリープを運ぶようになったのは、ここ一年でのことだと言う。悪いことをしている自覚はあったものの、病気の父への仕送りをしなければならなかった箕輪は、足を洗うことをできずにいた。
『やめようと思っても、父のことを言われてしまって……私、どうしたらいい?』
『……今日で終わりにしよう、警察に行って、すべて話すんだ。バクリープがいかに危険なものかも含めて、全部終わらせようよ! 箕輪さんはまだ引き返せるはずだ!』
『――それは難しい話ですね』
 途端、箕輪の後ろから声が聞こえたと同時に、真崎の頬に赤い液体が飛び散った。
 一体何が起こったのか、状況を把握するよりも先に、箕輪が着ていた白いシャツがじわりと赤い染みが滲んできた。震える手で触れて、手のひらに付いたそれが、自分の血だとわかるのに、そう時間はかからなかった。
『……箕輪さん?』
 立ち崩れる箕輪を抱き留める。赤い染みがどんどん広がっていく。
 顔を上げると、そこには能面をつけたスーツ姿の人物が複数いた。その中の一人、恵比寿の面をかけた人物の手には、サイレンサー付きの銃が握られている。
『彼女が運んでいた薬はこの先、国にとって重要となる大切なものなのですよ。欲しい人の手元に届かないとなると、我々の信用もガタ落ち。それはとても困るんですよねぇ』
『……なんで、なんで彼女を撃った!?』
『規約違反ですから。ばれたら終わり。……ゲームオーバーです』
 そう言って真崎に銃が向けられる。
 ああ、次は自分が死ぬ番だ。――そう思った時、真崎の袖口をぎゅっと掴まれた気がした。見ると箕輪が、ジュラルミンケースを押し付けるようにして真崎に渡す。
『……行って』
『で、でも』
『行って、あなただけなら逃げられるから!』
 浅い呼吸で、立っているのもやっとな状態なはずなのに、真崎を力いっぱい押し出す。
 その瞬間、今度は般若の面の男が引き金を引いた。途端に箕輪が倒れた場所から、じわりと血液が地面に流れていく。
 目の前に広がる光景を目の当たりにして、真崎は抱えさせられたジュラルミンケースに目をやる。
 これを渡したところで、口封じのために自分は殺されるだろうと思った。きっと、相手もそのつもりだ。
(――じゃあ、俺がしてきたことって何だったんだろう)
 相棒を裏切ってまで調べてきたはずなのに、結果的に箕輪を死なせてしまった。自分が今までしてきたことは、すべて水の泡だ。
 すべて諦めようとしたその時、ふと頭をよぎったのは置いてきたシグマの顔だった。
 過去の事件を明らかにするために、未成年ながらも社会に出て情報集めに徹し、危ない橋を渡ってきた相棒。ただでさえ真っ当な道ではないのに、もし自分が生きて帰らなかったら。復讐に走るような、人としての道を外れてしまわないだろうか。
(……なんて、自分を過大評価しすぎだな)
 乾いた笑いが零れる。そしてキッと彼らを見据えた。すでに銃口は真崎に向けられている。
(ここで、止めなきゃいけない)
 失うものなんて何もない。でも、もしこの場を切り抜けて、街まで出てしまえば、バクリープを警察に届けることができる。そうしたら赤い花事件だって解決できるかもしれない。シグマには悪いが、彼らの知らないところで勝手に解決したらいい。
 般若の面をかけた男が引き金を引くのと同時に、ジュラルミンケースを盾に真崎は立ち上がり、後退していった。
 いくら頑丈なケースだからとはいえ、万が一、中に入っている大事な商品が壊れでもしたら意味がない。
 能面をつけた彼らが躊躇った一瞬の隙を見逃さず、真崎は颯爽と走り出し、入り組んだ工場の中へと入っていった。
 生き延びるために。生きて、相棒の元へ帰るために。

 ◇

「……シグマを、あんな顔にしたのは、俺だった。俺があの日、行かなければ……彼女も死なずに済んだかもしれない……!」
 ぶつぶつと呟く真崎に、土井はさらに眉をひそめる。その言動はまるで、つい先程の自分を見ているかのようだった。
 嫌な予感がした土井は、翁の面をかけるとポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
 早く息の音を止めるべきだと思った、その時――

「――ようやく思い出してくれましたか、真崎くん」

 入口から声が聞こえた。よく聞き馴染んだ声だ。
 二人は思わずそちらに顔を向けると、目を見開いて驚いた。
 恵比寿の面をつけた、スーツ姿の人物がいつの間にか部屋に入ってきていたのだ。体型からして女性だろうか。窓からこぼれた外の光でかろうじて見える黒のショートボブも、能面をしていてもわかる。
 恵比寿の面をつけた人物は土井を押し退けて真崎に近付くと、目の前で面を外す。
「あなたは悪くない。あなたを巻き込んだのは、私だから」
 面を外した人物――箕輪輪子はそうやって微笑んだ。