微かに焦げ臭いがして目を覚ました真崎は、自分が置かれている状況を見て思案に暮れていた。
手足をロープで拘束され、椅子に座らせられている。大きく身体を揺らしたところで動くことはできない。しかし、口だけが封じられていないところを見ると、この空間は声を上げても届かない場所に放置されているのだろう。
窓は木の板が複数貼り付けられていて、外の光はほとんど入ってこない。微かな光と、暗闇に慣れてきた眼で辺りを見渡す。乱雑に荷物が置かれており、埃もかぶっている。見たことのない機材ばかりのところを見ると、何かの工場のようだ。
「廃棄寸前のコンテナの次は廃墟になった工場かよ……最悪」
自分の不遇さに大きく溜息をついたところで、頭をフル回転させる。
眠る直前、自分は何をしていたのか、と。
(確か土井さんが急に暴れ始めて、押さえつけられて……)
『捕まっちゃったねぇ、ウサギさん』
土井の声は初めて会った時からどこかで聞いたことがあるような気がしていた。メディアやSNSといった発信される類のものではなく、どこかで同じ単語を聞いたのだ。すぐ近くで、頭の上から呆れた声で。
それが全く思い出せないのは、失くした三年間の記憶の中にあるからなのか。
途端、遮るように激痛が襲う。気を逸らそうとしているのか、それとも思い出してはいけないと、自分の脳が警告しているのか。今までも何度か同じようなことがあり、そのたびに真崎は気を失っていた。
(まるでリリィと同じだ)
リリィは過去の話をして気持ちが昂ると、途端に切れたように倒れ、深く眠ってしまう。目が覚めるとあまりよく覚えていないと言っていた。
その原因は定かではないが、リリィの寝落ちは児童養護施設で起こった赤い花事件があった後から続いているという。
(頭痛、いつの間にか眠っている……眠り?)
ふと、赤い花事件の概要を思い出す。シグマが帰ってきたら、施設で暮らす児童と職員全員がその場に倒れ、眠っていたのだと。
「――ああ、起きましたぁ?」
頭痛をこらえながら声のする方へ顔を向ける。そこには翁の面を大切そうに持った土井悠聖の姿があった。血走った目ではなかったが、真崎に近付くとにたりと不気味に笑った。
「乱暴に扱ったことは謝りますが、あなたが悪いんですよ? 僕らの神聖な場所まで踏み入れるなんてことしなければ、平穏な日常を送れたのに」
「……人けのない場所に連れてきた、ということは、俺を殺す気ですか?」
土井の地雷に触れない程度に煽りを入れて問いかける。口調は落ち着いていても、顔つきはどこかおかしい。不安定な今なら、思いがけないおこぼれがもらえるかもしれない。
すると土井は鼻で嘲笑った。
「それもいいかもしれない。あの日、あなたをようやく捕まえたかと思ったら、実験体に使うからって止められたんですよねぇ……」
「実験体?」
「記憶、ないんでしょ? 僕達が奪ったからね」
おこぼれどころなんかじゃない。土井には一度も自分が記憶喪失になっていることを話したことはない。そして、コンテナで豹変した際に執拗に狙われた背中の打撲痕……。
真崎が目を見開いたのを、土井はわざと翁の面を揺らしながら続けた。
「眠っている間に記憶を忘れる薬があるんですよ。最近ようやく完成にこぎつけたようで。もう忘れていると思うので教えますが、あなたは単身で我々の密会場所にやってきて、返り討ちに遭い、殺されることなく、薬の実験体になってもらうことにしたんです。だって記憶がなければ、自分の手を血で染める必要ないですからね」
「ふざけるな。薬で記憶喪失になる例はあるけど、意図的に引き起こすなんてありえない」
「できちゃったんですよ。八年前の養護施設では失敗したみたいですけど、ようやく完成させてくれた研究者がいるんですよぉ」
八年前、養護施設、薬――その単語が一気に真崎の頭を駆け巡った。それと同時に頭に激痛が走る。脳天に鉄骨でも刺さったのか、ぐわんぐわんと頭の中が反響する。
「――っ!」
声も出せないほどの激痛に真崎はぐっと目を瞑り俯いた。すると次の瞬間、頭の中に何かの映像が流れ込んできた。まるで映画のフィルムのように、コマ送りのように見えてくる。視点からして、真崎が見た光景が映し出されているようだった。
赤い花事件の資料、同僚の誤魔化すように笑う顔、不審なやり取り――それから少しフィルムが早送りになり、映し出されたのは見慣れた事務所だった。妙にへこんだ本棚の角、そして絶望した表情を浮かべるシグマの姿。
『俺は、お前の――』
(……ああ、そうか)
ようやく思い出した。自分がしてきたことも、失った記憶も、全部。
頭痛が止んで顔を上げると、土井が首を傾げながら残念そうに言う。
「もう思い出しちゃいました? 泣きたくなるほど辛い記憶でした?」
土井に言われて初めて、頬に涙が伝っているのに気付いた。
背中の傷なんてどうでもいい、頭痛なんてただの騒音だ。
すべてを思い出した真崎の脳裏に浮かぶのは、ただただ取り返しがつかない後悔ばかりだった。
手足をロープで拘束され、椅子に座らせられている。大きく身体を揺らしたところで動くことはできない。しかし、口だけが封じられていないところを見ると、この空間は声を上げても届かない場所に放置されているのだろう。
窓は木の板が複数貼り付けられていて、外の光はほとんど入ってこない。微かな光と、暗闇に慣れてきた眼で辺りを見渡す。乱雑に荷物が置かれており、埃もかぶっている。見たことのない機材ばかりのところを見ると、何かの工場のようだ。
「廃棄寸前のコンテナの次は廃墟になった工場かよ……最悪」
自分の不遇さに大きく溜息をついたところで、頭をフル回転させる。
眠る直前、自分は何をしていたのか、と。
(確か土井さんが急に暴れ始めて、押さえつけられて……)
『捕まっちゃったねぇ、ウサギさん』
土井の声は初めて会った時からどこかで聞いたことがあるような気がしていた。メディアやSNSといった発信される類のものではなく、どこかで同じ単語を聞いたのだ。すぐ近くで、頭の上から呆れた声で。
それが全く思い出せないのは、失くした三年間の記憶の中にあるからなのか。
途端、遮るように激痛が襲う。気を逸らそうとしているのか、それとも思い出してはいけないと、自分の脳が警告しているのか。今までも何度か同じようなことがあり、そのたびに真崎は気を失っていた。
(まるでリリィと同じだ)
リリィは過去の話をして気持ちが昂ると、途端に切れたように倒れ、深く眠ってしまう。目が覚めるとあまりよく覚えていないと言っていた。
その原因は定かではないが、リリィの寝落ちは児童養護施設で起こった赤い花事件があった後から続いているという。
(頭痛、いつの間にか眠っている……眠り?)
ふと、赤い花事件の概要を思い出す。シグマが帰ってきたら、施設で暮らす児童と職員全員がその場に倒れ、眠っていたのだと。
「――ああ、起きましたぁ?」
頭痛をこらえながら声のする方へ顔を向ける。そこには翁の面を大切そうに持った土井悠聖の姿があった。血走った目ではなかったが、真崎に近付くとにたりと不気味に笑った。
「乱暴に扱ったことは謝りますが、あなたが悪いんですよ? 僕らの神聖な場所まで踏み入れるなんてことしなければ、平穏な日常を送れたのに」
「……人けのない場所に連れてきた、ということは、俺を殺す気ですか?」
土井の地雷に触れない程度に煽りを入れて問いかける。口調は落ち着いていても、顔つきはどこかおかしい。不安定な今なら、思いがけないおこぼれがもらえるかもしれない。
すると土井は鼻で嘲笑った。
「それもいいかもしれない。あの日、あなたをようやく捕まえたかと思ったら、実験体に使うからって止められたんですよねぇ……」
「実験体?」
「記憶、ないんでしょ? 僕達が奪ったからね」
おこぼれどころなんかじゃない。土井には一度も自分が記憶喪失になっていることを話したことはない。そして、コンテナで豹変した際に執拗に狙われた背中の打撲痕……。
真崎が目を見開いたのを、土井はわざと翁の面を揺らしながら続けた。
「眠っている間に記憶を忘れる薬があるんですよ。最近ようやく完成にこぎつけたようで。もう忘れていると思うので教えますが、あなたは単身で我々の密会場所にやってきて、返り討ちに遭い、殺されることなく、薬の実験体になってもらうことにしたんです。だって記憶がなければ、自分の手を血で染める必要ないですからね」
「ふざけるな。薬で記憶喪失になる例はあるけど、意図的に引き起こすなんてありえない」
「できちゃったんですよ。八年前の養護施設では失敗したみたいですけど、ようやく完成させてくれた研究者がいるんですよぉ」
八年前、養護施設、薬――その単語が一気に真崎の頭を駆け巡った。それと同時に頭に激痛が走る。脳天に鉄骨でも刺さったのか、ぐわんぐわんと頭の中が反響する。
「――っ!」
声も出せないほどの激痛に真崎はぐっと目を瞑り俯いた。すると次の瞬間、頭の中に何かの映像が流れ込んできた。まるで映画のフィルムのように、コマ送りのように見えてくる。視点からして、真崎が見た光景が映し出されているようだった。
赤い花事件の資料、同僚の誤魔化すように笑う顔、不審なやり取り――それから少しフィルムが早送りになり、映し出されたのは見慣れた事務所だった。妙にへこんだ本棚の角、そして絶望した表情を浮かべるシグマの姿。
『俺は、お前の――』
(……ああ、そうか)
ようやく思い出した。自分がしてきたことも、失った記憶も、全部。
頭痛が止んで顔を上げると、土井が首を傾げながら残念そうに言う。
「もう思い出しちゃいました? 泣きたくなるほど辛い記憶でした?」
土井に言われて初めて、頬に涙が伝っているのに気付いた。
背中の傷なんてどうでもいい、頭痛なんてただの騒音だ。
すべてを思い出した真崎の脳裏に浮かぶのは、ただただ取り返しがつかない後悔ばかりだった。