しわくちゃにした資料ごと、シグマの服を掴んで必死に訴えてくる。その剣幕は早瀬も初めて見るほど緊迫していて、思わずリリィの制止に入った。息を整えて落ち着かせながら、早瀬は言う。
「シグマ、ちゃんと説明してくれないか。俺が警察だからと言えないこともあるかもしれない。でも俺は、マサキのように上手く空気を読んでやれない」
 リリィがなぜこんなに必死に否定したいのか。シグマが言い返せないのは何か理由があるのか。真崎よりも一番近くにいたはずなのに、早瀬は何も知らない。
 初めて会った時から人と一線を引いていたシグマに近付くことができたのは、まだ出会って一年程度の真崎だけだったから。
「教えてくれ、バクリープって何なんだ?」
 真剣な眼差しを向ける早瀬に、シグマは観念したかのように肩を落とすと、リリィをソファに座らせながら告げた。早瀬の顔を見ることはできなかった。
「バクリープの開発に携わっていた二人――()()(さき)(まさ)(ひこ)とメアリーは、リリィの両親だ」
「……なんてことだ」
 早瀬は絶望した声を漏らす。偶然の可能性が高いとしても、まさかバクリープの被害者であるリリィが、その元凶を作った研究者の子どもだったなんて。
「あの日、マサキが俺達の前から姿をくらませたのは、これを知ったからだと思う」
 シグマがゆっくりと顔を上げると、玄関へ向かっていく。途中で手に取った缶バッジがついた黒のニット帽をかぶると、早瀬のほうを振り返ってへらっと皮肉に笑った。
「真崎大翔の依頼は、元々早瀬さんが持ってきたものだった。でもアンタが自分を責める必要はないよ。ここまで大事になるとは、誰も思わなかったんだから」
 困惑する早瀬を置いて、シグマは事務所を飛び出した。
 行先はわかっている。ジャケットのポケットに入れたスマートフォンの画面を見れば、真崎に取り付けたGPSが点滅しながら動いていた。
「あーあ。やっぱり巻き込まれたか」
 真崎が「パウンドと直接話がしたい」と言い出す前から感じていた嫌な予感。現実になってほしくはないと思っていたが、記憶を失ってもなお自分の軸がぶれない真崎を甘く見てしまった。
「記憶がなくても、変わらないものなんだなぁ」

 ◇

『同僚が危ない目に遭っているかもしれないんだ。危険なら今すぐ止めさせたい。だから力を貸してくれないか』
 ――一年前、早瀬に連れられてやってきたスーツ姿の男は、ソファに寝そべるシグマに向かって頭を下げた。警察に持ち込んできた相談だったが、まともに引き受けてくれる課がなかったため、早瀬が見かねて連れてきたのだ。
 馬鹿正直な奴がきたと、当時のシグマは煙たく思った。被害者側だった赤い花事件について調べている最中で、これと言って有力な情報を得られていなかったからだ。
 だから『無理。帰れ』と投げやりで断ったのは、捜査が進まない事件と、自分の力不足からの八つ当たりも込められていたのかもしれない。
 それでも『そこをなんとか!』といつまで経っても食い下がらない男は、気分転換で外に出たシグマの後を追った。
 さすがにストーカー化されても困る。止めさせようとしたのと同じタイミングで、大通りでひったくり事件が発生した。相手はスクーター。体当たりで止めるどころか、むしろこちらが大怪我を負うだろう。
 面倒なことに巻き込まれたくない、そう思ったシグマが端に寄ったところで、何かが自分の横を走り去っていった。見れば、先程までシグマにべったりとついてきた男だった。
 目指す先はスクーターとの合流地点。このまま行けば激突してしまう。
『止まれ! まだ間に合うから!!』
 ――その叫びに、シグマは心臓を掴まれた。
 その行為が危険であることも、人として手に出してはいけないことだと、頭でわかっていても人間は止まらない。本能だなんてふざけた理由で動く奴がシグマは大嫌いだ。それが良いことでも悪いことでも同じだった。
 人の金をひったくり立ち去ろうとする奴も、止めようと鉄の塊に突っ込んでいこうとする奴も、この先どうなろうか、自分が知ったことではないし、知る必要もない。
 それでもつられて走り出してしまったのは、今、彼を失ってはいけないと思ったからだ。
 両手を広げて進路を邪魔する男に、ひったくり犯は容赦なく突っ込もうとしている。シグマは近くにあった障害物を伝ってスクーターの真上に飛び上がると、すぐに運転している人物の肩を掴んで遠心力で横に身体を倒した。当然、人は重みに振られてスクーターから転げ落ちていく。
 無人になったスクーターは急にハンドルが切り替わり、立ちふさがる男を避けてそのまま交番に突っ込んでいった。幸い、巡回中ということもあって中に人はおらず、爆発することもなかったが、周囲は騒然とした。
 ひったくり犯の上に座って身動きが取れないようにしていると、男が駆け寄ってきた。
『君、大丈夫か!? なんて無茶をするんだ!』
 ああ、これはひったくり犯に向かって言っているんだとそっぽを向いた途端、両頬を挟まれ正面を向かされた。すぐ近くに男の心配そうに眉をひそめた顔が来た。
『怪我は? 痛いところはない?』
『……それ、アンタが言う?』
『はぁ? 俺は運よくスクーターが曲がってくれたから……』
『俺が曲げなかったらアンタが一番危なかったんだけど』
『え? ……ああ、そっか。そうだったね。ありがとう』
 そう言ってへらっと笑った男を見て、シグマの中で、いつの間にか抜け落ちていた感情が戻ってきた気がした。
 赤い花事件でずっと一緒に暮らしてきた家族の記憶から抹消され、居場所はあるはずなのに、生きた心地がしなかった。
 早瀬の祖父に拾われるまでひとりぼっちで生きてきたはぐれ者は、自分以外の人間がいなくなっても何とも思っていなかったはずだった。
 誰かが目の前でいなくなること。危ない目に遭うこと――今まで赤い花事件の確信に触れることができていないのは、無意識のうちに臆病な自分を理由にストップをかけていたからではないか。
 目の前で笑う男が飛び出したのを見て、不意にかっこいいとすら思ってしまった。
 憧れを抱いてしまった。自分を投げ出してでも誰かのために動こうと生き急ぐ姿に。
 それと同時に、彼のブレーキは壊れているのだと悟った。平凡な顔をして、自分を犠牲にしてでも助けようとする行動力、相手に同情する共感性の高さ。放っておいたら、とんでもない事件にも巻き込まれそうだとも思った。
 だが、それもいい。
 自分は刺激が欲しかったのだと、不覚にも思い知らされてしまったのだから。
『いいよ。アンタの依頼、受けてあげる。……高くつくよ? マサキ』
 これが、真崎大翔とシグマの最初の出会いだった。

 ◇

 それ以来、事務所に入り浸るようになった真崎は、本業をしながらシグマの助手としても活躍した。無茶苦茶に動くシグマを引き留めるのはいつも真崎だったし、背中を預けられるほど信頼できる仲になっていった。
 その日、シグマは決めたのだ。手の届く範囲でいい、自分を覚えていてくれた人をこれ以上、目の前で失わないと。
「……マサキ、死ぬなよ」
 スマートフォンを仕舞い、シグマはさらに足を速めた。