――時は戻り、同日十二時頃。シグマの事務所にて。
「マサキがいなくなった!?」
何も聞かされずに唐突に呼び出された早瀬とリリィは、いつになく真剣な表情のシグマの言葉に目を見開いた。いつも隠すようにしてかぶっているビーニーを外し、光に当たると輝く銀髪を露わにしている。
シグマがビーニーを外す時は、真面目な話のことが多い。本来の髪を見せるということは、包み隠さず話すことがあるという暗黙の了解をわかっているせいか、二人は妙な胸騒ぎがしていた。それはシグマも同じだった。
「昨日、マサキがパウンドと直接話をさせて欲しいって言ってきた」
「パウンドと直接……? まさか、本物のパウンドがわかったのか?」
目を見開く早瀬に、シグマは要点をかいつまんで話す。パウンド改め、土井悠聖を任意同行するには充分な理由で、早瀬は急いで捜査本部に連絡した。
「でも、それとマサキがいなくなったのとどう関係しているの? まさか、了承したなんてこと……」
「してねぇよ。……死んでもさせるものか」
真崎が直接話をしたいと言い出したあの日――シグマは即座に反対した。今の真崎は、彼らをおびき出す餌として動いている。いくら自分がいるからと言って、準備を怠るわけにはいかない。それでも真崎は食い下がらず、一度は了承してくれたのも束の間、今朝から一向に連絡がつかなくなっていた。
「まさか、本当に会いに行っているのか? なら早く俺達も――」
「その前に話しておきたいと思って、二人に来てもらったんだ。――俺の、推測を」
シグマはそう言って、二人にある資料を見せる。土井が経営する会社の業績をまとめたもので、一ヶ月ごとに棒グラフで表されたものだが、二ヵ月前から突然右肩上がりになっていた。
「アプリの売り上げの他に、妙な金の流れがあった。調べてみたらこの会社、アプリ開発の他に、『バクリープ』を売買していた」
バクリープ――正式名称は、忘却睡眠導入剤。
この薬は、嫌なことを思い出して不安に苦しむ人を対象に開発された薬で、過度なストレスを抱えている人や、過去を忘れたい人の救済措置のようなものだ。悪い夢を食らう「バク」と、睡眠を英語にした際の「sleep」を掛け合わせて名付けられたらしい。
しかし、導入剤にも関わらずその効果は絶大で、長期間利用すると記憶を失う研究データが報告された。よって悪用される可能性を問題視され、開発中止にされることになった――はずだった。
その資料を叩きながら、シグマは続けた。
「俺はずっと、八年前の赤い花事件に使用されたのはバクリープだと思っている。当時はまだ研究段階で、完成したのは事件のあった数ヶ月後。偶然にしてはできすぎているように思ったからだ。……でも、被害者全員を対象に実施された血液検査では、薬物反応はなかった。だから別の線を追っていたんだけど……これを見て確信した」
そう言ってページを捲ると、今度はつい最近起こったコンテナ監禁事件の資料が記載されていた。当時真崎が着ていたシャツには、真崎と不明の二種類の血痕が付着していたが、その後の調べで襟の内側にわずかに別の成分が付着していたことが発覚した。
調べて見ると、服を着ていた真崎の唾液だったのだが、その中にわずかに睡眠導入剤に近い成分が混ざっていたという。
「これは俺の推測だけど、マサキはコンテナに監禁される際、バクリープを飲まされたんだと思う。唾液の中に残っていて、自分から飲み込むとは考えにくいから……おそらく薬は液体で、無抵抗にさせた後に強引に飲ませたとしたら」
「……そうか、上手く飲めなくて口からこぼれるかもしれない!」
口からこぼれた唾液には、睡眠導入剤の成分が含まれている。それが首を伝い、シャツの襟の内側に染み込んだ、というのが、シグマの見解だった。
さらに早瀬が資料を見てハッとする。
「コンテナにマサキを拘束して放置したのは、薬の効果を待っていたのかもしれない。バクリープは飲んでから長時間眠ることで悪い記憶を消すと言われているのが本当なら、それが長ければ長いほど、睡眠が深ければ深いほど、記憶は消えていく」
「もし記憶が無くなっていなくてもコンテナは数日後に廃棄予定だったし、そんなヤバい奴らがコンテナごと海に沈めることも容易にできたはずだ。どのみちマサキは誰かが気付かなければずっと眠っていた。……ってことか」
もはや、目を覚ましたことは奇跡に近かったのかもしれない。そう思うとシグマの握る拳にさらに力がこもる。
「でも、マサキの服から見つかったのがバクリープだったとしても、八年前の事件とは別じゃないか? 児童養護施設では睡眠導入剤どころか、何も検出されなかったはずだ」
「……ねぇ、霧状に撒布された可能性はどうかしら?」
眉をひそめる早瀬の傍らで、資料を食いつくように見入るリリィが、歪んだ眼鏡を上げて言う。
「あの日は確か寒い冬の日で暖房を入れていたから、乾燥しないように加湿器も動いていたわ。もしその水の中にバクリープがずっと混ざっていたとしたら……!」
そう言いかけた途端、ハッとして二人がお互いの顔を見合わせた。
「あの加湿器の水、ただの水じゃなかったわよね? 確か、乾燥に適した水だからって、二リットルのペットボトルに入っていた気がする」
いつも加湿器の水を継ぎ足していたのは、当時の職員達だった。水が少なくなっていると気付いた時には児童らも補充していたが、基本的には常に満杯まで入っていて、水道水ではなく、なぜかペットボトルで一度汲んだ水を注いでいた。
「――ああっ!」
途端、思い出したようにリリィが悲鳴に近い声を上げ、頭を抱えながらその場に蹲った。
「そうよ、どうして忘れていたのかしら……いいえ、忘れさせられていた?」
「リリィ、どういう意味だ?」
リリィは慌てて立ち上がると、本棚の一番下の段に入れてあった、手作り感満載のアルバムを机に広げた。どうやら児童養護施設にいた頃のもののようで、食堂で撮影されたであろう、児童と職員の集合写真で、ページを捲る手を止めた。児童の誕生日会の記念写真のようだ。
「加湿器の水の補充よりも、もっとわかりやすいものがあるわ。……ここを見て」
そう言ってリリィが指さしたのは、人物ではなく端の方にある白いウォーターサーバーだった。一見、どこにでもあるウォーターサーバーのようだが、シグマは手元の資料と見比べてハッとする。
事件の前後で食堂に設置されていたウォーターサーバーが無くなっているのだ。
「俺が帰宅する前に回収された? 一般家庭用サイズだけど、それでも一人で持ち運べるほどのサイズではなかったはず……」
「私の記憶が正しければ、同じ業者が水を運んできていた気がするの。メーカーが全然違うのに入れてもいいのかなって、不思議に思ったのよ!」
「……ああ、そうだ。俺もすっかり忘れていた」
施設のウォーターサーバーは月に二度、業者がきて水の入った段ボールを運びに来ていたのを見かけている。パッケージも何も書かれていない、謎の水だ。
もしその中身がただの水ではなく、バクリープの入った水だとしたら?
そういえば、以前真崎が突然道端で頭を抱えて蹲ったことがあった。その時、差し出された水を叩き捨てたのだ。どこからどう見ても普通の水だったのに。
本能なのか、バクリープの作用なのか。今の段階では何とも言えないが、ある仮説が三人の頭に浮かんだ。
できれば辿り着きたくなかった、とても卑劣で、残酷な仮説だ。
意を決したシグマが、口を開く。
「当時はまだ試作段階で、実験台として児童養護施設の子ども達が選ばれていたとしたら、八年前の赤い花事件は、バクリープを商品化するための実地テストだったということになる。となると、施設の関係者は全員グルだった……?」
「事件が発覚するのを恐れ、警察が立ち入る前にウォーターサーバーを回収したとしても、シグマは帰宅してすぐに警察に通報しているよな? いつ回収した?」
「……施設は入り組んだ場所にあったから、外に出て誘導する必要があった。通報してすぐに外に出て、十五分、いや二十分くらいの空白の時間があったはずだ。もしその間に回収していたとしたら」
同時に頭によぎるのは、黒塗りのワゴン車に乗った、能面をつけた人物。ちょうど車が通る通りに出た時に颯爽と横切っていったのを、今、ようやく思い出した。
(記憶が曖昧だったのは、混乱していたことや恐怖からもあったかもしれない。けど一番は、バクリープを意図せず服用していたからか……!)
長期間飲み続けることでより深く眠り、記憶を忘れていく。研究段階だったとしても、その効果は充分発揮している。
(ということは、俺にはまだ他にも忘れていることがある……?)
「……嘘よね? ただの仮説よね?」
自分に言い聞かせるように呟くリリィは、シグマの服の袖を掴んだ。
「お願い、シグマ……嘘だって言って」
「リリィ……」
「言ってよ! バクリープは、そんなことのために作られたんじゃないわ!」
「マサキがいなくなった!?」
何も聞かされずに唐突に呼び出された早瀬とリリィは、いつになく真剣な表情のシグマの言葉に目を見開いた。いつも隠すようにしてかぶっているビーニーを外し、光に当たると輝く銀髪を露わにしている。
シグマがビーニーを外す時は、真面目な話のことが多い。本来の髪を見せるということは、包み隠さず話すことがあるという暗黙の了解をわかっているせいか、二人は妙な胸騒ぎがしていた。それはシグマも同じだった。
「昨日、マサキがパウンドと直接話をさせて欲しいって言ってきた」
「パウンドと直接……? まさか、本物のパウンドがわかったのか?」
目を見開く早瀬に、シグマは要点をかいつまんで話す。パウンド改め、土井悠聖を任意同行するには充分な理由で、早瀬は急いで捜査本部に連絡した。
「でも、それとマサキがいなくなったのとどう関係しているの? まさか、了承したなんてこと……」
「してねぇよ。……死んでもさせるものか」
真崎が直接話をしたいと言い出したあの日――シグマは即座に反対した。今の真崎は、彼らをおびき出す餌として動いている。いくら自分がいるからと言って、準備を怠るわけにはいかない。それでも真崎は食い下がらず、一度は了承してくれたのも束の間、今朝から一向に連絡がつかなくなっていた。
「まさか、本当に会いに行っているのか? なら早く俺達も――」
「その前に話しておきたいと思って、二人に来てもらったんだ。――俺の、推測を」
シグマはそう言って、二人にある資料を見せる。土井が経営する会社の業績をまとめたもので、一ヶ月ごとに棒グラフで表されたものだが、二ヵ月前から突然右肩上がりになっていた。
「アプリの売り上げの他に、妙な金の流れがあった。調べてみたらこの会社、アプリ開発の他に、『バクリープ』を売買していた」
バクリープ――正式名称は、忘却睡眠導入剤。
この薬は、嫌なことを思い出して不安に苦しむ人を対象に開発された薬で、過度なストレスを抱えている人や、過去を忘れたい人の救済措置のようなものだ。悪い夢を食らう「バク」と、睡眠を英語にした際の「sleep」を掛け合わせて名付けられたらしい。
しかし、導入剤にも関わらずその効果は絶大で、長期間利用すると記憶を失う研究データが報告された。よって悪用される可能性を問題視され、開発中止にされることになった――はずだった。
その資料を叩きながら、シグマは続けた。
「俺はずっと、八年前の赤い花事件に使用されたのはバクリープだと思っている。当時はまだ研究段階で、完成したのは事件のあった数ヶ月後。偶然にしてはできすぎているように思ったからだ。……でも、被害者全員を対象に実施された血液検査では、薬物反応はなかった。だから別の線を追っていたんだけど……これを見て確信した」
そう言ってページを捲ると、今度はつい最近起こったコンテナ監禁事件の資料が記載されていた。当時真崎が着ていたシャツには、真崎と不明の二種類の血痕が付着していたが、その後の調べで襟の内側にわずかに別の成分が付着していたことが発覚した。
調べて見ると、服を着ていた真崎の唾液だったのだが、その中にわずかに睡眠導入剤に近い成分が混ざっていたという。
「これは俺の推測だけど、マサキはコンテナに監禁される際、バクリープを飲まされたんだと思う。唾液の中に残っていて、自分から飲み込むとは考えにくいから……おそらく薬は液体で、無抵抗にさせた後に強引に飲ませたとしたら」
「……そうか、上手く飲めなくて口からこぼれるかもしれない!」
口からこぼれた唾液には、睡眠導入剤の成分が含まれている。それが首を伝い、シャツの襟の内側に染み込んだ、というのが、シグマの見解だった。
さらに早瀬が資料を見てハッとする。
「コンテナにマサキを拘束して放置したのは、薬の効果を待っていたのかもしれない。バクリープは飲んでから長時間眠ることで悪い記憶を消すと言われているのが本当なら、それが長ければ長いほど、睡眠が深ければ深いほど、記憶は消えていく」
「もし記憶が無くなっていなくてもコンテナは数日後に廃棄予定だったし、そんなヤバい奴らがコンテナごと海に沈めることも容易にできたはずだ。どのみちマサキは誰かが気付かなければずっと眠っていた。……ってことか」
もはや、目を覚ましたことは奇跡に近かったのかもしれない。そう思うとシグマの握る拳にさらに力がこもる。
「でも、マサキの服から見つかったのがバクリープだったとしても、八年前の事件とは別じゃないか? 児童養護施設では睡眠導入剤どころか、何も検出されなかったはずだ」
「……ねぇ、霧状に撒布された可能性はどうかしら?」
眉をひそめる早瀬の傍らで、資料を食いつくように見入るリリィが、歪んだ眼鏡を上げて言う。
「あの日は確か寒い冬の日で暖房を入れていたから、乾燥しないように加湿器も動いていたわ。もしその水の中にバクリープがずっと混ざっていたとしたら……!」
そう言いかけた途端、ハッとして二人がお互いの顔を見合わせた。
「あの加湿器の水、ただの水じゃなかったわよね? 確か、乾燥に適した水だからって、二リットルのペットボトルに入っていた気がする」
いつも加湿器の水を継ぎ足していたのは、当時の職員達だった。水が少なくなっていると気付いた時には児童らも補充していたが、基本的には常に満杯まで入っていて、水道水ではなく、なぜかペットボトルで一度汲んだ水を注いでいた。
「――ああっ!」
途端、思い出したようにリリィが悲鳴に近い声を上げ、頭を抱えながらその場に蹲った。
「そうよ、どうして忘れていたのかしら……いいえ、忘れさせられていた?」
「リリィ、どういう意味だ?」
リリィは慌てて立ち上がると、本棚の一番下の段に入れてあった、手作り感満載のアルバムを机に広げた。どうやら児童養護施設にいた頃のもののようで、食堂で撮影されたであろう、児童と職員の集合写真で、ページを捲る手を止めた。児童の誕生日会の記念写真のようだ。
「加湿器の水の補充よりも、もっとわかりやすいものがあるわ。……ここを見て」
そう言ってリリィが指さしたのは、人物ではなく端の方にある白いウォーターサーバーだった。一見、どこにでもあるウォーターサーバーのようだが、シグマは手元の資料と見比べてハッとする。
事件の前後で食堂に設置されていたウォーターサーバーが無くなっているのだ。
「俺が帰宅する前に回収された? 一般家庭用サイズだけど、それでも一人で持ち運べるほどのサイズではなかったはず……」
「私の記憶が正しければ、同じ業者が水を運んできていた気がするの。メーカーが全然違うのに入れてもいいのかなって、不思議に思ったのよ!」
「……ああ、そうだ。俺もすっかり忘れていた」
施設のウォーターサーバーは月に二度、業者がきて水の入った段ボールを運びに来ていたのを見かけている。パッケージも何も書かれていない、謎の水だ。
もしその中身がただの水ではなく、バクリープの入った水だとしたら?
そういえば、以前真崎が突然道端で頭を抱えて蹲ったことがあった。その時、差し出された水を叩き捨てたのだ。どこからどう見ても普通の水だったのに。
本能なのか、バクリープの作用なのか。今の段階では何とも言えないが、ある仮説が三人の頭に浮かんだ。
できれば辿り着きたくなかった、とても卑劣で、残酷な仮説だ。
意を決したシグマが、口を開く。
「当時はまだ試作段階で、実験台として児童養護施設の子ども達が選ばれていたとしたら、八年前の赤い花事件は、バクリープを商品化するための実地テストだったということになる。となると、施設の関係者は全員グルだった……?」
「事件が発覚するのを恐れ、警察が立ち入る前にウォーターサーバーを回収したとしても、シグマは帰宅してすぐに警察に通報しているよな? いつ回収した?」
「……施設は入り組んだ場所にあったから、外に出て誘導する必要があった。通報してすぐに外に出て、十五分、いや二十分くらいの空白の時間があったはずだ。もしその間に回収していたとしたら」
同時に頭によぎるのは、黒塗りのワゴン車に乗った、能面をつけた人物。ちょうど車が通る通りに出た時に颯爽と横切っていったのを、今、ようやく思い出した。
(記憶が曖昧だったのは、混乱していたことや恐怖からもあったかもしれない。けど一番は、バクリープを意図せず服用していたからか……!)
長期間飲み続けることでより深く眠り、記憶を忘れていく。研究段階だったとしても、その効果は充分発揮している。
(ということは、俺にはまだ他にも忘れていることがある……?)
「……嘘よね? ただの仮説よね?」
自分に言い聞かせるように呟くリリィは、シグマの服の袖を掴んだ。
「お願い、シグマ……嘘だって言って」
「リリィ……」
「言ってよ! バクリープは、そんなことのために作られたんじゃないわ!」