翌朝、真崎が目覚めた時にはすでにリリィはいなかった。
話している最中に寝落ちてしまった彼女をどうしたらいいかわからず、ひとまずソファに寝かせ、自分は別のソファで背を向ける形で眠りについた。
『赤い花事件』――自分が覚えている当時のニュース番組の情報の裏で、シグマやリリィがどれほど辛い思いを抱えてきたのか。考えるだけで辛くなる。
ソファに横になってすぐに整理しようとした途端、ふっと眠気が襲い、その日もまた朝までぐっすり寝入ってしまった。
(入院中は寝て治すがメインだったから気にしていなかったけど、こんなに眠気ってくるものだっけ?)
気を張り続けているせいか、いつの間にかストレスになっているのかもしれない。
そんなことを考えながらサフランに降りると、すでにカウンター席で朝食をとっているシグマと、何食わぬ顔で朝の仕込みをしているリリィの姿があった。
「あらマサキ、おはよう。さっさと食べてくれない? 開店と同時にモーニングが始まるんだから、あなた達のお世話をしている暇はないの」
昨晩とは異なる様子に、真崎は唖然としたが、有無を言わさぬ気迫に押されて「ハイ」としか言えなかった。
朝食を終え、すぐにシグマとともにレンタカーに飛び乗った。
行き先は火伏が就職するまで暮らしていたという彼咲村だ。しばらく道なりに車を走らせていると、ずっと口を閉ざしていたシグマが切り出した。
「リリィの奴さ、事件以来、感情が高ぶりすぎるとなんの前触れもなく寝落ちするんだよ」
「……もしかして、話を聞いていたの?」
「俺は人より繊細さんって言ったろ」
「聞いてない……記憶を失う前に言っただろ」
違いねえ! とケラケラ笑うシグマ。それに対し、いつものように記憶を失くしたせいにする自分の言い方に、腹が立つ。
「ごめん。リリィから無理に聞き出すつもりはなかったし、全部を記憶喪失のせいにするのも、よくなかった」
「それは、あれだけ知ってほしくなかった俺の経歴を聞き出したうえでの謝罪? ……いやいや、クソ真面目人間なアンタがしょぼくれるのもわかるけど、退院して数日のアンタに耐えられる情報量じゃない。仕方がないことじゃん?」
「……仕方がない、で済むんだろうか」
「え?」
ハンドルを握る手に力がこもる。
ただ意図もなく発した言葉が、他人にとってどれほど重要なのか。些細なことでも重要で、重要なことでも些細なもので、受け取り方は人それぞれだ。この期に及んで「空気を読みなさい」とは言えないが、それでも真崎は自分の今までの発言が許せなかった。
「記憶喪失だから、以前の俺にはなれない――これは現実逃避をするための言い訳にしかすぎないと思う。シグマや早瀬さん、リリィが俺に寄り添ってくれようとしていたのに、俺は見て見ぬふりをしていた。特にシグマは、俺が罪悪感にのまれないように、わざと仕事に没頭させようとしてくれていたのに」
「……なんだ、ばれてたのか」
「もう言い訳はしない。俺は、俺ができることをやって、真実を掴む。……お互いの利益のために手を組んだんだろう、相棒?」
真崎がそう答えると、隣からふう、と気の抜けた声がした。見ると、あのニマニマと嘲笑う猫のように口元を緩ませたシグマがそこにいた。ホッと安堵したような、我慢していたものが無くなった解放感のような、清々しさまで感じるいつもの笑みだ。
「じゃあ、もう容赦なく行っていいよな? 返事は聞いていないけど!」
「せめてお手柔らかにしてくれる? 言い訳にしないとは言ったけど、記憶喪失で三年間分の知識は抜けたままだからな!?」
やいのやいのと言い合う車内はたいそう賑やかで、真崎は不思議と懐かしく思えた。
車を走らせ四時間、ようやく到着した彼咲村は、山々に囲まれた小さな農村だった。
村のシンボルである彼岸花から由来されているとのことだが、まだ蕾ばかり。九月の開花時期になれば、畑一面に赤い絨毯ができることだろう。
車で村内をぐるりと回りながら、村民の話を聞いていく。火伏の写真を見せると、大抵の人が「ああ、行雄さんのところ!」と懐かしい様子で話してくれた。
「昭くん、いい子だったわよー。よく畑や田んぼの手伝いしてくれたり、自分より小さい子の世話をしたり、面倒見がよかったわ。きっと春江さんの姿見て育ったからね」
「春江さんというと、昭さんのお母様?」
「ええ。あの人、若いころは保育士さんだったのよ。お母さんのお手伝い名目で、よく保育園に顔を出していたのを覚えているわ。……でも結局、顔の火傷は治さなかったのね」
「え?」
長い間村に住んでいるという婦人が、かわいそうにと呟きながら、火伏の写真を見つめる。
それに目をつけたシグマは、すかさず彼女に問う。
「お姉さん、火伏の顔の火傷っていつからあるかわかる?」
「あらアンタ、奇抜な髪色しているけどいい子じゃない! 飴ちゃんあげるわ。顔の火傷ね……そうだ! ちょうどいいところに、昭くんの同級生がいるから、呼んできてあげる」
気をよくした彼女は、「ちょっと待っててねぇ」と言い残してさっさと近くの一軒家に入っていった。ちょうどこの近くだったらしい。
「……媚びてんな」
「レディは褒めて綺麗になるもの。詐欺師は言葉と表情で騙すもの。文句ある?」
ふふん、と鼻を鳴らすシグマはもらった飴を持ち上げるようにして見つめる。
「これ、コンテナの近くにあった燃え残りの包装と似てない?」
「言われてみれば……でも、あれはどこにでも売っている飴だし、犯人に繋がるとは思えないけど」
現場に残されていたべっこう飴の包み紙。文字の入れ方もよく似ているが、以前見たものと比べると、印字が綺麗な気がする。
「……この包み紙、中身が飴じゃないことってあるかな」
真崎が問うと、シグマはもらった飴玉をじっと見つめる。
「ないとは言い切れないな。飴の代わりに大変な薬が入っていたら大問題だ」
念のためと早瀬に連絡をしていると、しばらくして婦人が連れてきたのは、火伏と幼馴染である小峰芹夏という女性だった。ポニーテールにした黒髪に、小麦色の肌。動きやすいジャージにエプロンという、仕事を抜け出してきたような恰好だ。
特に婦人から聞かされず連れてこられたようで、真崎が一から説明すると、芹夏は「ありえません!」とひどく動揺した。
「昭がそんなことするなんて絶対ありえない! そんなこと、できる人じゃない……」
「落ち着いて。そう思う根拠があるんですね?」
真崎の問いに、芹夏は少し躊躇いながらぽつぽつと話し始めた。
「昭は……村の人達からの信頼もあるし、学校の成績も優秀で、高校も進学校を狙えるくらい頭もよかったです。……でも、唯一コンプレックスがあるとしたら、新しい出会いが怖かったのかもしれません」
「どういう意味?」
「実は、小学校の頃に火傷を負っているんです。地区の行事で焚火をする機会があって、誰かが悪ふざけで枯れ葉と紛れ込ませた竹が破裂して、火の番をしていたお母さんを庇ったのを私は見ています。大した怪我じゃなくて、数日後には治っていましたけど、それ以来、村の行事に出るのも嫌がっていました」
「焚火で火傷……あれ、じゃあ、顔の火傷はまた別?」
「はい。でもまず、火傷を負う場所なんかに彼が行くとは思えません。これはあまり村の中でも広まっていない話ですが――」
芹夏が口にした内容は、二人にとって盲点だっただろう。それと同時に、真崎が火伏と対面した際に引っかかっていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じた。
それはシグマも同じだったようで、口元をまた緩ませ、もう一つ質問を投げる。
「土井悠聖って奴は知ってる? 同級生だって聞いているんだけど」
「土井……ああ、悠聖くんのことね。二人ともタイプが違うし、一緒にいるイメージはありませんでした。だから二人の仲がいいのを、中学を卒業する直前まで知らなくて」
「同じクラスで、幼馴染なのに?」
不思議そうに首を傾げる真崎を見ながら、芹夏は少し悲しそうに笑って答える。
「この村に学校は小学校と中学校一つずつ。各学年は二十人もいないから一クラスだけで、クラス替えなんてするキャパもない。高校からは一時間に一本あるかもわからない電車に乗って、高校に行きます。皆、中学を出た後は村に戻ってくることはほとんどありません。だから幼馴染でも、互いを深く知る必要はないんですよ。しいて言えば、昭の顔に火傷の痕ができた頃が、ちょうど卒業式の直前でした」
その後、彼咲村の周辺を聞き込み、四時間かけて事務所に戻ると、早瀬がソファに倒れ込んでいた。
声をかけてもピクリとも動かない。真崎がおろおろし始めたところでようやく顔を上げた早瀬だったが、生気でも吸い取られたのか、疲れ切った表情をしていた。
「は、早瀬さん……!? 大丈夫ですか? 水分足りてます!?」
「ちゃんとエナドリ飲んでいるから問題はない」
「エナドリだけで水分補給ができるとか思わないで!?」
「それよりまず先に、お前らは俺に言うことがあるだろ」
早瀬に言われて二人はハッとする。事務所を出る前に、シグマから早瀬に翁の能面をつけた男に襲われたことを報告していたのだ。話を聞いた早瀬は一日中、項垂れるように頭を抱えていたようだ。
「どうしてお前らは俺の仕事を増やすんだ……」
「え、えっと……すみません」
「謝るくらいなら自分が狙われているという自覚をしろ! 昨日のことならどうしてすぐ連絡しない? 犯人を捕まることだってできないじゃないか!」
(それはごもっとも)
こめかみの血管を浮き立たせながら怒鳴り込む早瀬に言い返す言葉も見つからず、思わず目線をそらした。
真崎は背中を強く打っただけでそれ以外は特に大きな怪我はなかったものの、気が抜けてしばらく立ち上がれずにいた。それならシグマが追いかければよかったと思うが、あの時の仄暗い顔を思い出すと、問い詰めるような真似はできない。
しかし、早瀬の怒りも気にすることなく、シグマは「でもさ」と続けた。
「マサキが狙われたってことは、今追っているパウンドの事件か、それともコンテナに監禁された事件のどちらかに関係しているはず。あの時、動けないマサキを一人残しておくのは危ないと判断したうえでの行動なんだけど。なんか間違ったことした?」
「それはそうだが……」
「どのみち、犯人の目星はついた。まとめて捕まえれば問題ないっしょ?」
得意げに笑うシグマは、そう言ってソファから立ち上がると、自分の机から端末を取って早瀬に渡した。
「放火事件当時、自宅に防犯カメラをつけた家があったと思う。その中に一人、巣鴨利夫の家が入っていた。きっと毎日確認はしていると思うけど、警察に届け出なかったのは何か理由があるはずだ」
「巣鴨さんが、俺達に嘘をついたってこと?」
「なんで嘘をついたのかはわからないけど、犯人の姿が映っていたとしたら、話は変わってくる。それに翁の能面野郎の声は、マサキには聞き覚えがあるんじゃないか?」
「……確証は、ないけど」
一人だけ心当たりはあるが、その人物の動機が分からない。なぜこんなややこしいことをしたのか、なぜ真崎を襲ったのか――。
(能面をしている理由は? それに、『赤い花事件』との関連性は一体……?)
真崎が黙々と考えていると、「そうだ」と早瀬が切り出した。
「一応、シグマに言われて土井悠聖について調べたぞ」
「さっすがー早瀬さん。どうだった?」
「お前の睨んだ通り、国会議員の苑田賢生の息子だったよ。土井は母方の姓で、悠聖が高校に入ったタイミングで離婚している」
「苑田って、次期文部科学大臣って言われている? 黒い噂も流れていますよね?」
「ああ。……それを聞いて俺は納得したよ。上層部が嫌な顔をするわけだ。議員のご子息が事件に関わっているなんて、伏せたくもなる」
早瀬が悔しそうに唇を噛む。今までの火伏への取り調べも含め、一番苦い思いをしているのだろう。
「じゃあ、今の関係は? 母方の姓を名乗っているってことは、母親についていったことだろ?」
「ああ。でも起業する際に支援金をもらっていたらしい。ただ、業績は伸びず、倒産間近とも言われている。よくバグって正常に動かないという、レビューが大量に報告されているな」
「バグねぇ……それで、その議員サマと火伏の地元がなんだって?」
呑気なことを呟きながらも、シグマは頬杖を突きながら続きを促す。
「あの地域は苑田議員のお膝元らしい。少しでも議員の噂をすれば報復を受けるような、そんな場所だと。それに田舎特有の情報の広がり方……内緒話もするのも相当気を使ったと思う。……マサキ」
早瀬の声でハッと顔を上げる。いつになく真剣な表情で、真崎を見据えた早瀬はあえて尋ねた。
「パウンドは火伏ではないと、本気で思っているか?」
「はい。この一連の事件、火伏に犯行は不可能です」
「その根拠は?」
「火伏は自分から罪を認め、処罰を受けたいと訴えてきた。もし彼が犯人じゃなければ、相手を庇っているんだと思ったんです。本物のパウンドの罪を自分が着ることによって逃がした。……ただ、それだけにはどうしても思えなくて」
「……死に場所を探していた、とか」
黙って聞いていたシグマが呟くと、真崎は小さく頷いた。
「彼が犯人ではないと断定するには、まだ材料が足りません。これはシグマではなく、正規ルートで調べたほうがいい。早瀬さん、お願いできますか?」
「正規ルート? 何を調べろと?」
「火伏の両親です。特に、母親の火伏春江を調べてください」
「二ヵ月前から入院している母親か。火伏がこっちに出てきたのは、その入院費を稼ぐためだと本人が言っていたが……」
「手術は一週間前に行われて、無事に成功したそうです。気になっているのは、その入院費。近所の人の話によればかなり高額らしく、『息子が頑張ってくれているけど全然届かない』と母親が入院する少し前に話していたようです」
「ちょっと待て……母親の心臓が悪かったのは、周知の事実だったんだよな?」
「ええ。近所の人は皆、下手したら村に住む全員が知っている可能性があります。だから皆、急遽決まった入院にたいそう驚いたそうです。入院先の病院は保証金を前払いする方式。国の制度を使わず、火伏は、どうやって金を手に入れたのでしょうか」
もちろん、留置場にいる火伏昭が口座から金を出すことはできないし、父親が亡き今、火伏家には稼ぐ人間がいない。当然、口座が動くわけもない。母親が入院する二ヵ月前の時点で金額が届いていなかったことが事実であれば、誰かが支払った、または立て替えたことになる。
「火伏の逮捕は母親が入院した後のこと。口座が動いていないのは警察でも確認済み……なら、直接病院に振り込まれた可能性が高い。なるほど、だから正規ルートで調べろ、か。令状が手配できるか怪しいが、なんとかしてみよう。マサキが俺に調べてほしいって言っていたものはまとめてメールで送ってくれ」
「わ、わかりました!」
早瀬は荷物を抱えるようにしていそいそと事務所を出ていった。その後ろ姿を見送っていると、シグマは真崎に尋ねる。
「俺なら速攻で金の流れを調べられるのに、どうして警察に頼んだ?」
「君のルートは違法ギリギリなんだよ……。それに少しは警察に任せないと、連日の取り調べで成果なく終わるのは違うと思うし」
すると、シグマのデスクに置かれたパソコンに通知が入った。早瀬からの転送メールだ。
どうやら真崎の壊れたスマートフォンの解析が完了したらしい。
「それって情報漏洩なんじゃ……」
「今更言いっこなし! えーっとなになに……?」
画面に表示された一覧表を見る。どうやらすべて音声データで、日付はちょうど、真崎が有休を使って休んだ日からずっと残されている。
シグマはすべて自分のスマートフォンにデータをダウンロードすると、自分だけイヤフォンをつけて聞き入った。
「シグマ、俺にも……って聞こえていないな、これ」
呆れていると、今度は真崎のスマートフォンに着信が入った。彼咲村で念のために連絡先を交換しておいた、小峰芹夏だ。
「はい、真崎です」
《も、もしもし、小峰です。今日はありがとうございました。早速ご連絡してしまってすみません……》
「いえ、大丈夫ですよ。何かありましたか?」
《さっきお話できなかったことがあるんです。一緒にいたおばあちゃんの耳に入ると、ちょっと厄介なことになっちゃうから》
「厄介……?」
《はい、実は……》
芹夏の話を聞きながら、情報に押しつぶされ、キャパオーバーしていた真崎の頭がどんどんとクリアになっていくのを感じた。
「……ありがとうございました。また」
電話を終え、真崎はシグマと向き合う。彼は真剣な面持ちでスマートフォンの画面と向き合っていた。そしてイヤフォンを外しながら真崎のほうを見ると、にやりと口元を緩めた。
「何かを決めた顔してんね? なにすんの?」
へらっと笑う彼を前に、真崎は拳を握りしめた。
腹の底から沸々と湧いてくる怒りを抑え込むのに精一杯だ。
「シグマ、俺にパウンドと直接話させて欲しい」
コンテナ監禁事件発覚から十日以上過ぎた、六月某日。
住宅街から離れ、山の近くに設置された『トランクたけなか』にある近々解体予定の廃棄コンテナの前に、一人の男が呼び出された。
この日は今朝がたに降った雨で地面は濡れており、歩くたびに泥が跳ねて靴やズボンにかかる。山に近いということもあって、水はけが悪いらしい。
男は周囲を見渡すも、呼び出した当人は見当たらない。指定された時間通りにきたはずだが、本当に待ち合わせているのかと不安になる。
ポケットからスマートフォンを取り出し、送られていたメッセージを改めて読み直す。
【お話したいことがあります。本日十六時、ここに来てください。】
どこか胡散臭い文章で、届いた時はどこぞの怪盗の予告状かと鼻で笑ったが、次第に襲い掛かってくる不安に煽られ、誘われるかのように来てしまった。
しかし、廃棄予定のコンテナの近辺というものはなかなか気味が悪い。なぜこんな場所に自分だけが呼び出されたのか、皆目見当がつかない。
「すみません、お待たせしました」
突然、後ろから声をかけてきたのは呼び出した張本人――真崎大翔だった。
短髪に切りそろえられた黒髪に紺色のスーツ姿。初めて会った時は梶浦出版という出版社の記者だと名乗っていたが、記者というより営業マンといった装いだ。
「遅くなってしまってすみません……!」
「いえ、お気になさらず。あんなメールをいただいていたので、いても経ってもいられなくなっただけです。それで、話したいこととは一体なんですか?」
「そう、俺、あなたに聞きたいことがあったんです」
「聞きたいこと?」
「はい、だからここに来てもらいました。こちらへどうぞ」
真崎があるコンテナの前に向かう。警察が立ち番をしているわけでも、規制線が張られているわけでもない。ただ、そのコンテナが、誰かが監禁されていたという件のもので、さも平然と扉に手を伸ばそうとする――そんな真崎を気味悪く思った。
発見当時、コンテナの側面にはパウンドが使用する火薬の煤が残っており、中には死にかけの重傷者がいたそうな。不穏なコンテナは、いつになく不気味な雰囲気をまとっているように見える。
「それで、聞きたいことって何ですか?」
コンテナの扉に手をかけた真崎に、男が問う。
人けが少なく、辺りには何もない。こんな気味の悪い場所から、早くここから立ち去りたい。
そんな男の真意とは裏腹に、真崎は「そんなに急かさないでくださいよ」と小さく笑った。
「いろんな人に話を聞いているうちに、ある仮説が浮かび上がりました。ですが、どうしても確証が持てなくて。ぜひあなたにも聞いてほしいんですよ」
「仮説?」
「ええ。これが正しければ、一連の事件の犯人が確定します」
真崎がはっきりと告げると、正面の男を見据えた。不可解な発言に、男は眉を吊り上げる。
「何を言っているんですか、犯人はパウンド――火伏昭で決まりでしょう?」
「火伏は事件当時、刑務所でその日は外に出ることすらしていない。そんな彼が、どうやってデリケートな火薬を仕掛けられるでしょうか?」
丁寧に、ゆっくりとした口調で話しながら、真崎は開きかけた扉を全開にして、手元のライトで奥を照らす。今もうっすらと血痕が残っているのが見えると、男はぞっと体を震わせた。
「このコンテナで起こった監禁事件と、パウンドによる住宅街の放火事件――これは偶然、同じ犯人が関わってしまったものです。そして、留置中の火伏昭は、本物のパウンドによって濡れ衣を着せられた――あなたにね」
男はどきりと心臓が跳ねた。そして真崎の何も感じ取れない笑みを前に、あくまで冷静を保とうとする。
「な、なにを言っているんですか? 本物のパウンドがって、ふざけるのもいい加減にしてくださいよ。記者の真似事までして、何がしたいんです?」
以前、真崎から受け取った名刺にあった梶原出版を調べた限り、そんな出版社は存在しないことがわかった。わざわざ名刺まで用意してまで情報を得ようとするのはなぜか。男が例のメールを受け取って不審に思いながらもここに来たのは、真崎の目的を確かめるためでもあった。
「火伏は平気で建物に火をつける危険な奴です。あの放火事件では、火伏が現場にいて自首したじゃないですか! あなたも知っているでしょう!?」
「留置場の監視カメラの映像、そして事件当夜ともに彼が抜け出した痕跡はなく、むしろ言葉を交わした看守がいました。どうあがいても、彼が留置場から抜け出すことは不可能。火伏にはできない」
「そ、それはそうかもしれませんけど! パウンドを崇拝する共犯者が――」
「共犯者なら可能でしょう。しかし、コンテナの件は逮捕後の話。火伏が外部と連絡が取れる唯一の手段は、留置場での面会です。看守に気付かれないようにすれば話を合わせることができると思って、調べてみました。そしたら弁護士や親戚のほかに、あなたの名前がありましたよ。――土井悠聖さん」
男改め、土井悠聖は思わずヒュッと息をのんだ。この場で初めて名指しされたことが、こんなに心臓を握られるような感覚なのかと、震える手を隠して平然を装った。
「面会に行っただけで、共犯扱いなんて、随分横暴ではありませんか?」
「共犯? いいえ。俺は、あなたが本物のパウンドだと思っています。確証がないのに、こんなところに呼び出すわけがないでしょう?」
若干の煽りがまざった真崎の言葉に、土井はたじろいだ。
そして直感した。ここに来いと言ってきたあのメールは、悪戯でなかったことに!
「さて――ここからは、俺達の推理です」
真崎はネクタイを緩めながら小さく息を一度つくと、改めて土井と向き合ってスマートフォンを差し出した。
画面に表示されたのは、とある家の玄関から門までを映した映像のようで、日付は住宅街でパウンドが放火事件を起こす直前だった。
通常の速度で再生されていると、塀の向こうに二人の人物が言い争いながら画面の端へ消えていった。しかし、夜の時間帯ということもあり、街灯でわずかに体格がわかる程度だ。
「これは、放火現場から近い家の入口に設置された防犯カメラです。音声はありませんが、奥のほうで横切っていくこの二人、話しながら歩いているように見えませんか?」
「……確かに。ですが顔どころか、身体のほとんどが塀で隠れていては特定できないじゃないですか」
「ええ。これだけではあなたがパウンドである証明どころか、人物の特定もできません。……でも、あなたがこの近辺にいたという証明はできます」
「馬鹿馬鹿しい。僕は事件当時、家にいました。現に、GPSは自宅から動いていないはずですよ」
「私用のスマートフォンはね。でも別で社用携帯をお持ちですよね。『サイレンくん』を起動させた履歴がちゃんと残っていましたよ」
『サイレンくん』――土井が開発した天気予測アプリだ。通常の天気予報に加え、細かい地域での気温や気圧なども発信している優れものであり、起動には必ずGPSと連動させる必要がある。
真崎はさらに端末を操作して、当時の天気予報を表示する。
「事件当時、あの住宅街近辺では乾燥注意報が発令されていました。といっても、程度は軽く、誰も気に留めることはなかったでしょう。他にも、今までパウンドが放火未遂した場所を調べると、軽度の乾燥注意報が発令されている場所ばかり。あなたは、あえて微弱な乾燥地帯での放火を、悪戯心から始めたんじゃないんですか?」
乾燥しやすい環境というものは、火災が起きやすい場所でもある。
土井は『サイレンくん』を駆使し、あえて火災の起きにくい場所の情報を得ることで、比較的安全圏を選んだ放火ドッキリを行っていたのだ。
自宅にスマートフォンを置いていた、またはGPSを切っていたため、この場にいたという形跡は証明されていなかったが、もう一つあるなら話は別だ。
なにより、このアプリはGPSと連動してこそ成り立つもの。接続を切ることはできない。
土井が唇を噛みながら睨みつけてくるのをよそに、真崎はさらに続けた。
「あなたは以前、『火伏は火遊びが好きだった』と言っていましたが、それって土井さん自身のことだったんですね。あなたと火伏の出身地である彼咲村で聞いてきました。苑田議員の支配下にある村で、好き勝手やっていたそうじゃないですか」
「……まさか、僕が火遊びの常習犯で、その尻拭いを父にやらせていたとでも? 真崎さん、僕はあの村で山火事を目のあたりにして、少しでも山火事が減らせるようにとあのアプリを作ったとお話したじゃありませんか。そんな僕が自ら火遊びをすると思います?」
「ええ、残念です。せっかく人を助けるために作り上げたのに、己の自己満足のためにしか使えないものに成り下がるなんて」
「捉え方の違いですよ。それに、放火現場近くにいたことがわかったからとはいえ、僕をパウンドだと決めつけるのは時期尚早ではないですか。火をつけた決定的な証拠がない」
「はい。あなたに証拠がないのが、証拠です」
「は?」
「火伏は火をつけることができない。――それが証拠なんです」
真崎はさらに彼の前にあるものを突き出す。手書きで書かれた診断書のようだ。
「これは?」
「九年前、村にある小峰医院で治療を受けたあなたと火伏の診断書です。症状は主に火傷。爆竹のようなものが破裂し、近くの枯れ木に引火。火はすぐに消し止められたものの、あなた達は火傷を負った。……火伏の顔の火傷は、その時にできたものですね」
当時の医院長である小峰芹夏の祖父は、芹夏を通じて真崎に話してくれた。
山に囲まれた村の中では、大きな病院へ運ぶには時間がかかるため、急ぎ手当が必要と緊急で運び込まれた彼らの状態は、とても悲惨なものだった。
特に火伏は右半身の火傷が酷く、顔も元に戻るかわからないほど爛れ、意識も朦朧としていたという。
対して土井は膝から足にかけての火傷と、腕に擦過傷という、火伏に比べると軽傷だった。腕の擦過傷は突き飛ばされた際に地面をこすってできたものだと判断しても、現場の一番近い場所にいたわりには、明らかに二人の負った怪我には差があった。
小峰医院長は二人の状態を見たうえで、火伏が土井を突き飛ばして庇ったのではないか、と告げると、覆いかぶさるように苑田議員は声を荒げた。
『議員である私の息子が火遊びをするわけがない!』――と。
「その発言に、あなたも乗ったそうですね。当時の医院長はよーく覚えていましたよ」
「……それはそうでしょう。あの日僕は、火伏が火薬を作って試しに着火しようとしているのを止めようとしていて、火傷を負ったんです。だから――」
「『止められなくてごめん』と、泣いたんですよね。わざとらしく」
その様子は、きっと誰もが気付いていたはずだった。
村を支配下に置いている議員に逆らったら、追放どころでは済まない。だから誰もが彼らの言葉に従った。火伏が濡れ衣を着せられていることをわかっているのに!
「わざと? ふざけるな! 怪我の差なんて、火伏が逃げ遅れただけで、想像も妄想もいいところだ!」
「怪我だけじゃない。皆、火伏が火遊びをするわけがないってわかっていたんです!」
「何を言って……」
「火伏昭は、火恐怖症なんですよ。あなたと出会う、ずっと前から」
一呼吸を置いて告げた言葉に、土井は目を見開いた。次に繰り出す言葉が喉まで出かかっているのに、頭を殴られたような衝撃で引っ込んでしまった。
わなわなと震える土井に、真崎はさらに続けた。
「小学生の頃、焚火に紛れ込ませた竹が破裂した際、火伏は母親を庇って火傷を負ったそうです。小規模だったので軽傷で済み、痕が残るようなことはありませんでしたが、それ以来、彼は火をつけるどころか、見ることすらできなくなってしまった。心的外傷です」
それに気付いたのは、怪我をしたその日の夕飯時のことだった。家族三人で囲む小さな寄せ鍋で、カセットコンロを置いて常に熱々の状態を保っていたが、リビングに入ってきた火伏昭はそれが視界に入った途端に震え、泣き叫び、胃液を吐いたという。
しばらくは火が通った食事を口にすることも、温かい風呂に入ることも億劫になり、両親はあの手この手を使って火から遠ざけることにした。
横のつながりを大切にする村での祭りは屋台などの火を使うが、そういった場所はなるべく避けて家に引きこもっていたことで、火恐怖症のことは噂が回りやすい村の中でも最小限に留めることができたのだ。
この事実を知っているのは、身内と治療を施した小峰医院長、そして、治療時に偶然居合わせた孫の芹夏だけだった。
だから、苑田議員や土井の言葉は誰も信じていなかったのだ。
「そんな……嘘だ、アイツはそんなこと、一言も……」
「火伏本人も、周囲の人間も言えませんよ。横暴な圧力に抑えられていたら」
離婚したとはいえ、当時の土井悠聖は苑田の名を名乗り、議員の子どもであることを周囲に言いふらしていた。
村を維持するために支配下に置かれていることも、村民は充分承知している。彼の顔に泥を塗ることになれば、村から追い出されるどころか、再就職も難しい――そんなことが頭をよぎったとしたら、穏便に済ませるために、自分の身や家族を守ることを最優先にするだろう。
今まで父親の権力を掲げて好き勝手してきた土井悠聖に、そんな思いなど些細なものでしかないかもしれない。
真崎はさらに続けた。
「ところで、ご存じでしたか? 放火事件の少し前に記録されていたこの映像は、管理人である巣鴨さんのご自宅なんですよ」
「え……?」
「巣鴨さんは、コンテナでのことも含めて、あなたが本当に隠したかったことに気付いてしまって、今まで黙っていたそうです」
コンテナを訪れた際、シグマは敷地内にある防犯カメラについて疑問に思っていた。
点検して数日も経たないうちに電源が落ち、録画データが消えている――そんな状況を作り出す理由のひとつとして、「実際に防犯カメラは設置されていなかった」という見解が上がった。設置されているカメラがすべてダミーなら、映像なんて最初から存在していない。
「本物のカメラは入口と、山に近い場所で外側にのみ配置。コンテナ内にはダミーを置いて、録画を再生させるようにした。そうすることで電気代を節約し、浮いた部分は管理費に回す。それを提案してくれたのは、土井さんだったそうですね」
「…………」
「もう、嘘をつくのは苦しいって、言っていました」
――真崎がコンテナを訪れる数時間前、自宅で防犯カメラの履歴を確認している傍らで、巣鴨は正直に話してくれた。がっくりと肩を落とし、この世の終わりといった顔の彼は、真崎に訴えた。
仕方がなかったのだ、と。
『この年で再就職先なんて絶対見つからない。こうでもしなくちゃ、嘘でもつかなくちゃ、孫にランドセルも贈ってやれないし、歩くのが不自由になってきた妻を老人ホームにだって入れてやれないんだ! でも……でも、いつも動いているカメラが、誰かの手によって止められたのは本当なんです! 信じてください! 私は、何も知らなかったんだぁ……っ!』
おいおいと泣きつく巣鴨の姿に、真崎は背中を擦ることしかできなかった。
家族のために懸命に働いても、現場の環境を改善しようとする本部が見限ればそこまでだ。彼のことを思うとどうしても同情してしまう。
土井は何も思わなかったのだろうか。自分の好きなことを守るためだけに、周囲に重荷を背負わせることを、いとも簡単に投げるような無責任さを、真崎は疑ってやまない。
「土井さん、自分が負うべき責任を他人に押しつけてしまったら、いつか必ず倍になって自分に返ってくる。少し考えたらわかることです」
「僕に説教……ですか、あなたも僕のことを見下しているんですね」
「違います。俺が知りたいのは、あのコンテナであなたが何をしていたのか、です」
真崎が監禁されていたコンテナにはパウンドが使用する火薬が残っていた。それは警察の鑑識も入って、同一のものだと判断されている。
そして土井は以前から同じ敷地内のトランクルームを利用していた。さらに火伏の部屋に不自然に置かれた薬品の入った段ボールにわずかに付着していた土は、このあたりの土の性質と一致したことを踏まえると、おそらく、火薬の材料をトランクルームに隠している。警察の家宅捜索が入れば、パウンドの火薬だけでなく、何かしら出てくることだろう。
実験という名で投稿していた動画の撮影場所も、この山に近い場所なら人目に付かずに撮影できる、絶好の隠し場所だ。
しかし、真崎にはそれだけではないような気がしてならない。
「土井さん、この廃棄予定のコンテナは、何か後ろめたいものを取引する場所だったのではないのですか? 人が寄り付かない、山に近い不気味なトランクルームに足を運ぶ人はそう多くない。巣鴨さんの勤務時間を把握し、正常に動く防犯カメラを入口と山側の二か所にのみ設置したのも、取引現場や時間をばれないようにするためだったのではないですか?」
コンテナ付近の防犯カメラはすべてダミーだった。立地条件からもパウンドの動画撮影だけでなく、知られたくない取引をするのに適しているともいえる。
「すでに削除された動画、火伏の部屋にあるパソコンにいくつか移していますよね。撮影された場所の特定も、あのコンテナの近くだってわかっています。……そして、あのコンテナの中にいた人物の服に微量についていたのは煤ではなく火薬。つまり、あなたはあのコンテナの近くで火薬を調整していたことになる」
「馬鹿馬鹿しい! あなたが言っていることは憶測にすぎない! 大体、コンテナの中にいたあなたにどうやって火薬をつけると? 悪ふざけもほどほどにしてくださいよ!」
苛立ちながら怒鳴り続ける土井。それを見てようやく、真崎は核心が持てた気がした。
「どうして、コンテナの中にいたのが俺だと?」
「え?」
「俺はあなたの前で一言も、コンテナの中にいたことは話していませんが」
そう、真崎は土井の前では一度も、自分がコンテナ監禁事件の被害者であることを口にしていないのだ。それなのになぜ、土井は中にいたのが真崎だと断定して言っているのか。
巣鴨の証言にある、警察が到着するまで誰もコンテナの中に入っていなかったことを踏まえると、真っ暗なコンテナの中で真崎だとわかる人はいなかったはずだ。
「廃棄予定ということは、コンテナとして機能しなくなったものがここに置かれているということ。実験や動画撮影に夢中で気付かなかったのでしょう、角の繋ぎ目に隙間があるんです」
真崎はスマートフォンのライトでコンテナの奥を照らす。確かに、角に一センチ程度の小さな隙間がある。
「このコンテナ付近で焦げ跡がいくつか見つかっています。人が立ち入らないからって、よく監禁中のコンテナの前でやりますよね」
「そ、それは……!」
「まだありますよ。あのトランクルーム付近で能面をかけたスーツ姿の人物で出入りしていたという目撃証言。他にも入口に設置された、唯一動いている防犯カメラの映像にも、不審な車が映っているのも確認済みです。……そして、決め手はこれです」
そう言ってスマートフォンを操作して録音データに切り替えて再生する。
《――誰にも譲らない!》
《俺が、本物なんだ》
《俺こそが正真正銘のパウンドなんだぁああはははは!》
途切れ途切れに聞こえてくるのは、土井の発狂した声。誰もいないことをいいことに、優越感に浸っていたのだろう。
シグマが警察にスマートフォンの修復の他に頼んでいたのは、監禁時に真崎が唯一持っていたボールペンに仕込まれていたボイスレコーダーの解析だった。
真崎もこれを聞くのは初めてだったが、薄らぼんやりと頭の中で響いていたのはこの声だったのかと、あっさりと腑に落ちた。
「このコンテナだけじゃない、あなたのトランクルームも調べれば、火薬の材料や動画撮影の動画がもっと出てくるはずです」
真崎の指摘はすでに土井の耳には入っていないようで、項垂れるようにその場に座り込んだ。
「カメラをダミーにして録画させないようにしたのは、自分がパウンドだと知られないためですか? 他にも後ろめたいことがあるなら、今ならまだ間に合います。自首して、火伏の無実を――」
「……うるさいなぁ!」
途端、大きな溜息とともに気怠そうな声がコンテナ一帯に響いた。
土井の目がぎょろりと真崎に向けられる。
(なんだ、急に……?)
土井の雰囲気ががらりと変わった。隠していた本性なのだろうか、とてつもなく嫌な予感がした真崎は、無意識に一歩後ろに下がって警戒する。
すると、地面にひらりと何かが落ちた。べっこう飴の包み紙だ。
ガリガリと口に何かを頬り込み、かみ砕いた土井は真崎を睨みつけた。
「二人とも、周囲からは除け者扱いされていた奴らだ。僕が再利用してやっただけなのに、どうして僕が咎められなくちゃいけないんだい?」
「利用?」
「火伏の顔は見ただろう? あの火傷の痕に周囲は恐れ、避けていく。最近はあることないこと、悪い噂がよく回るからね。アイツを孤立させるには充分だった。怪我の功名、とでも言っておこうか、その方が見栄えがいい」
目線は遠くに向けられながら、恍惚の笑みを浮かべる土井。やはり小峰医院長の診察通り、火伏が土井を庇ってできた火傷だったのだ。
「火伏もバカだよなぁ。あの日、中学の卒業間際に最後にボヤ騒ぎでも起こしてやろうと思って火薬を作っていたら、火伏が止めに来てよぉ、記録のために回していたスマートフォンが火薬の上に落ちて、一気にボンッ! ……火伏は、僕を突き飛ばして、自ら火の中に飛び込んだんだ」
想像するだけで痛々しい惨状に、真崎は思わず身震いした。それでも土井は笑みを浮かべたままだった。
「アイツはね、根っからのヒーローだったんですよ。年寄りの畑仕事の手伝いをして学校で成績優秀で、母親を守って僕を守って……自分を犠牲にして得た優越感で、僕のことを助けようとするなんて、バッカじゃねーの!」
「そんな……そんな嫉妬のために火伏を傷つけたのか!」
「目が合っただけなのに睨まれたと憤慨する、心が狭い人間だらけ世の中なら、僕はまだ優しいでしょう?」
正気などとっくに失っているのだろうか、不気味に嘲笑う土井はさらに続けた。
「僕は議員の息子だから、父さんだけでなく周りからも認められなきゃ意味がないのに、全部アイツが横取りしていったんですよ。僕の何がダメだった? どうしたらアイツを越えられた? 僕がアイツだったら……父さんは叩くことはなかった?」
笑みを浮かべたままこちらを見る土井の目には、涙があふれていた。
土井悠聖にとって、火伏の存在はコンプレックスだった? それとも、欲しいものを自分で掴み取ってきた火伏に嫉妬していた? 苑田議員は息子を虐待していた?――様々な憶測が飛び交う中、真崎は様子がおかしい土井の行動に注力する。
涙を流しながらも恍惚な笑みを浮かべている土井は、ふらふらとした足取りで、近くに積まれていた鉄パイプを手に取った。
「もう――もうどうでもいい!!」
土井が金切り声を上げながら、鉄パイプを近くのコンテナにたたきつける。鈍い音が辺りに響き、その部分だけへこんでいる。
「もう知らねぇ! アイツ、せっかく仲良くしてやったのに、恩を仇で返しやがって! 誰が金を出してやったと思ってんだ! 俺は議員の息子なんだ、他の奴らは下僕同然、俺に従っていればいいんだよぉ!」
「土井さん、落ち着い――」
これは不味い。真崎が止めようと手を振り上げた――次の瞬間、土井が振り回した鉄パイプが腕をかいくぐり、そのままの勢いで真崎の腹部を叩きつけた。当たり所が悪く、その場に立ち崩れる真崎を土井が足蹴にする。
「だめなんだよぉ……ここで人を殺しちゃうのはだめなんだ、ここで騒ぎを起こしちゃ……薬がもらえなくなる……」
ブツブツと繰り返しながらも、土井は起き上がろうとする真崎の背中を鉄パイプで抑えつけてくる。ちょうど治りかけた打撲痕のあたりを、ピンポイントに狙って。
「この辺なんでしょ? いろんな人に叩かれて、なぶられたところ。あの路地でも無意識に庇っていたもんねぇ。まぁわかっていてやったんだけどさぁ」
いろんな人に叩かれてなぶられた?
急激に変わった態度や暴力性が、元々土井に備わっていたものだとしても、虚ろな表情で口にするには適確すぎる言葉だった。
「まさか……」
あの日の夜と同じ――路地裏に誘い込まれた時と同じ感覚。思い出すのは、翁の能面をかけた人物。
それだけではない。ずっと前に聞こえた、謎の声――
真崎が見上げると、こちらを見つめる土井が、口が裂けるのではと思うほどにんまりとした笑みを浮かべていた。
「捕まっちゃったねぇ、ウサギさん」
――時は戻り、同日十二時頃。シグマの事務所にて。
「マサキがいなくなった!?」
何も聞かされずに唐突に呼び出された早瀬とリリィは、いつになく真剣な表情のシグマの言葉に目を見開いた。いつも隠すようにしてかぶっているビーニーを外し、光に当たると輝く銀髪を露わにしている。
シグマがビーニーを外す時は、真面目な話のことが多い。本来の髪を見せるということは、包み隠さず話すことがあるという暗黙の了解をわかっているせいか、二人は妙な胸騒ぎがしていた。それはシグマも同じだった。
「昨日、マサキがパウンドと直接話をさせて欲しいって言ってきた」
「パウンドと直接……? まさか、本物のパウンドがわかったのか?」
目を見開く早瀬に、シグマは要点をかいつまんで話す。パウンド改め、土井悠聖を任意同行するには充分な理由で、早瀬は急いで捜査本部に連絡した。
「でも、それとマサキがいなくなったのとどう関係しているの? まさか、了承したなんてこと……」
「してねぇよ。……死んでもさせるものか」
真崎が直接話をしたいと言い出したあの日――シグマは即座に反対した。今の真崎は、彼らをおびき出す餌として動いている。いくら自分がいるからと言って、準備を怠るわけにはいかない。それでも真崎は食い下がらず、一度は了承してくれたのも束の間、今朝から一向に連絡がつかなくなっていた。
「まさか、本当に会いに行っているのか? なら早く俺達も――」
「その前に話しておきたいと思って、二人に来てもらったんだ。――俺の、推測を」
シグマはそう言って、二人にある資料を見せる。土井が経営する会社の業績をまとめたもので、一ヶ月ごとに棒グラフで表されたものだが、二ヵ月前から突然右肩上がりになっていた。
「アプリの売り上げの他に、妙な金の流れがあった。調べてみたらこの会社、アプリ開発の他に、『バクリープ』を売買していた」
バクリープ――正式名称は、忘却睡眠導入剤。
この薬は、嫌なことを思い出して不安に苦しむ人を対象に開発された薬で、過度なストレスを抱えている人や、過去を忘れたい人の救済措置のようなものだ。悪い夢を食らう「バク」と、睡眠を英語にした際の「sleep」を掛け合わせて名付けられたらしい。
しかし、導入剤にも関わらずその効果は絶大で、長期間利用すると記憶を失う研究データが報告された。よって悪用される可能性を問題視され、開発中止にされることになった――はずだった。
その資料を叩きながら、シグマは続けた。
「俺はずっと、八年前の赤い花事件に使用されたのはバクリープだと思っている。当時はまだ研究段階で、完成したのは事件のあった数ヶ月後。偶然にしてはできすぎているように思ったからだ。……でも、被害者全員を対象に実施された血液検査では、薬物反応はなかった。だから別の線を追っていたんだけど……これを見て確信した」
そう言ってページを捲ると、今度はつい最近起こったコンテナ監禁事件の資料が記載されていた。当時真崎が着ていたシャツには、真崎と不明の二種類の血痕が付着していたが、その後の調べで襟の内側にわずかに別の成分が付着していたことが発覚した。
調べて見ると、服を着ていた真崎の唾液だったのだが、その中にわずかに睡眠導入剤に近い成分が混ざっていたという。
「これは俺の推測だけど、マサキはコンテナに監禁される際、バクリープを飲まされたんだと思う。唾液の中に残っていて、自分から飲み込むとは考えにくいから……おそらく薬は液体で、無抵抗にさせた後に強引に飲ませたとしたら」
「……そうか、上手く飲めなくて口からこぼれるかもしれない!」
口からこぼれた唾液には、睡眠導入剤の成分が含まれている。それが首を伝い、シャツの襟の内側に染み込んだ、というのが、シグマの見解だった。
さらに早瀬が資料を見てハッとする。
「コンテナにマサキを拘束して放置したのは、薬の効果を待っていたのかもしれない。バクリープは飲んでから長時間眠ることで悪い記憶を消すと言われているのが本当なら、それが長ければ長いほど、睡眠が深ければ深いほど、記憶は消えていく」
「もし記憶が無くなっていなくてもコンテナは数日後に廃棄予定だったし、そんなヤバい奴らがコンテナごと海に沈めることも容易にできたはずだ。どのみちマサキは誰かが気付かなければずっと眠っていた。……ってことか」
もはや、目を覚ましたことは奇跡に近かったのかもしれない。そう思うとシグマの握る拳にさらに力がこもる。
「でも、マサキの服から見つかったのがバクリープだったとしても、八年前の事件とは別じゃないか? 児童養護施設では睡眠導入剤どころか、何も検出されなかったはずだ」
「……ねぇ、霧状に撒布された可能性はどうかしら?」
眉をひそめる早瀬の傍らで、資料を食いつくように見入るリリィが、歪んだ眼鏡を上げて言う。
「あの日は確か寒い冬の日で暖房を入れていたから、乾燥しないように加湿器も動いていたわ。もしその水の中にバクリープがずっと混ざっていたとしたら……!」
そう言いかけた途端、ハッとして二人がお互いの顔を見合わせた。
「あの加湿器の水、ただの水じゃなかったわよね? 確か、乾燥に適した水だからって、二リットルのペットボトルに入っていた気がする」
いつも加湿器の水を継ぎ足していたのは、当時の職員達だった。水が少なくなっていると気付いた時には児童らも補充していたが、基本的には常に満杯まで入っていて、水道水ではなく、なぜかペットボトルで一度汲んだ水を注いでいた。
「――ああっ!」
途端、思い出したようにリリィが悲鳴に近い声を上げ、頭を抱えながらその場に蹲った。
「そうよ、どうして忘れていたのかしら……いいえ、忘れさせられていた?」
「リリィ、どういう意味だ?」
リリィは慌てて立ち上がると、本棚の一番下の段に入れてあった、手作り感満載のアルバムを机に広げた。どうやら児童養護施設にいた頃のもののようで、食堂で撮影されたであろう、児童と職員の集合写真で、ページを捲る手を止めた。児童の誕生日会の記念写真のようだ。
「加湿器の水の補充よりも、もっとわかりやすいものがあるわ。……ここを見て」
そう言ってリリィが指さしたのは、人物ではなく端の方にある白いウォーターサーバーだった。一見、どこにでもあるウォーターサーバーのようだが、シグマは手元の資料と見比べてハッとする。
事件の前後で食堂に設置されていたウォーターサーバーが無くなっているのだ。
「俺が帰宅する前に回収された? 一般家庭用サイズだけど、それでも一人で持ち運べるほどのサイズではなかったはず……」
「私の記憶が正しければ、同じ業者が水を運んできていた気がするの。メーカーが全然違うのに入れてもいいのかなって、不思議に思ったのよ!」
「……ああ、そうだ。俺もすっかり忘れていた」
施設のウォーターサーバーは月に二度、業者がきて水の入った段ボールを運びに来ていたのを見かけている。パッケージも何も書かれていない、謎の水だ。
もしその中身がただの水ではなく、バクリープの入った水だとしたら?
そういえば、以前真崎が突然道端で頭を抱えて蹲ったことがあった。その時、差し出された水を叩き捨てたのだ。どこからどう見ても普通の水だったのに。
本能なのか、バクリープの作用なのか。今の段階では何とも言えないが、ある仮説が三人の頭に浮かんだ。
できれば辿り着きたくなかった、とても卑劣で、残酷な仮説だ。
意を決したシグマが、口を開く。
「当時はまだ試作段階で、実験台として児童養護施設の子ども達が選ばれていたとしたら、八年前の赤い花事件は、バクリープを商品化するための実地テストだったということになる。となると、施設の関係者は全員グルだった……?」
「事件が発覚するのを恐れ、警察が立ち入る前にウォーターサーバーを回収したとしても、シグマは帰宅してすぐに警察に通報しているよな? いつ回収した?」
「……施設は入り組んだ場所にあったから、外に出て誘導する必要があった。通報してすぐに外に出て、十五分、いや二十分くらいの空白の時間があったはずだ。もしその間に回収していたとしたら」
同時に頭によぎるのは、黒塗りのワゴン車に乗った、能面をつけた人物。ちょうど車が通る通りに出た時に颯爽と横切っていったのを、今、ようやく思い出した。
(記憶が曖昧だったのは、混乱していたことや恐怖からもあったかもしれない。けど一番は、バクリープを意図せず服用していたからか……!)
長期間飲み続けることでより深く眠り、記憶を忘れていく。研究段階だったとしても、その効果は充分発揮している。
(ということは、俺にはまだ他にも忘れていることがある……?)
「……嘘よね? ただの仮説よね?」
自分に言い聞かせるように呟くリリィは、シグマの服の袖を掴んだ。
「お願い、シグマ……嘘だって言って」
「リリィ……」
「言ってよ! バクリープは、そんなことのために作られたんじゃないわ!」
しわくちゃにした資料ごと、シグマの服を掴んで必死に訴えてくる。その剣幕は早瀬も初めて見るほど緊迫していて、思わずリリィの制止に入った。息を整えて落ち着かせながら、早瀬は言う。
「シグマ、ちゃんと説明してくれないか。俺が警察だからと言えないこともあるかもしれない。でも俺は、マサキのように上手く空気を読んでやれない」
リリィがなぜこんなに必死に否定したいのか。シグマが言い返せないのは何か理由があるのか。真崎よりも一番近くにいたはずなのに、早瀬は何も知らない。
初めて会った時から人と一線を引いていたシグマに近付くことができたのは、まだ出会って一年程度の真崎だけだったから。
「教えてくれ、バクリープって何なんだ?」
真剣な眼差しを向ける早瀬に、シグマは観念したかのように肩を落とすと、リリィをソファに座らせながら告げた。早瀬の顔を見ることはできなかった。
「バクリープの開発に携わっていた二人――城之崎匡彦とメアリーは、リリィの両親だ」
「……なんてことだ」
早瀬は絶望した声を漏らす。偶然の可能性が高いとしても、まさかバクリープの被害者であるリリィが、その元凶を作った研究者の子どもだったなんて。
「あの日、マサキが俺達の前から姿をくらませたのは、これを知ったからだと思う」
シグマがゆっくりと顔を上げると、玄関へ向かっていく。途中で手に取った缶バッジがついた黒のニット帽をかぶると、早瀬のほうを振り返ってへらっと皮肉に笑った。
「真崎大翔の依頼は、元々早瀬さんが持ってきたものだった。でもアンタが自分を責める必要はないよ。ここまで大事になるとは、誰も思わなかったんだから」
困惑する早瀬を置いて、シグマは事務所を飛び出した。
行先はわかっている。ジャケットのポケットに入れたスマートフォンの画面を見れば、真崎に取り付けたGPSが点滅しながら動いていた。
「あーあ。やっぱり巻き込まれたか」
真崎が「パウンドと直接話がしたい」と言い出す前から感じていた嫌な予感。現実になってほしくはないと思っていたが、記憶を失ってもなお自分の軸がぶれない真崎を甘く見てしまった。
「記憶がなくても、変わらないものなんだなぁ」
◇
『同僚が危ない目に遭っているかもしれないんだ。危険なら今すぐ止めさせたい。だから力を貸してくれないか』
――一年前、早瀬に連れられてやってきたスーツ姿の男は、ソファに寝そべるシグマに向かって頭を下げた。警察に持ち込んできた相談だったが、まともに引き受けてくれる課がなかったため、早瀬が見かねて連れてきたのだ。
馬鹿正直な奴がきたと、当時のシグマは煙たく思った。被害者側だった赤い花事件について調べている最中で、これと言って有力な情報を得られていなかったからだ。
だから『無理。帰れ』と投げやりで断ったのは、捜査が進まない事件と、自分の力不足からの八つ当たりも込められていたのかもしれない。
それでも『そこをなんとか!』といつまで経っても食い下がらない男は、気分転換で外に出たシグマの後を追った。
さすがにストーカー化されても困る。止めさせようとしたのと同じタイミングで、大通りでひったくり事件が発生した。相手はスクーター。体当たりで止めるどころか、むしろこちらが大怪我を負うだろう。
面倒なことに巻き込まれたくない、そう思ったシグマが端に寄ったところで、何かが自分の横を走り去っていった。見れば、先程までシグマにべったりとついてきた男だった。
目指す先はスクーターとの合流地点。このまま行けば激突してしまう。
『止まれ! まだ間に合うから!!』
――その叫びに、シグマは心臓を掴まれた。
その行為が危険であることも、人として手に出してはいけないことだと、頭でわかっていても人間は止まらない。本能だなんてふざけた理由で動く奴がシグマは大嫌いだ。それが良いことでも悪いことでも同じだった。
人の金をひったくり立ち去ろうとする奴も、止めようと鉄の塊に突っ込んでいこうとする奴も、この先どうなろうか、自分が知ったことではないし、知る必要もない。
それでもつられて走り出してしまったのは、今、彼を失ってはいけないと思ったからだ。
両手を広げて進路を邪魔する男に、ひったくり犯は容赦なく突っ込もうとしている。シグマは近くにあった障害物を伝ってスクーターの真上に飛び上がると、すぐに運転している人物の肩を掴んで遠心力で横に身体を倒した。当然、人は重みに振られてスクーターから転げ落ちていく。
無人になったスクーターは急にハンドルが切り替わり、立ちふさがる男を避けてそのまま交番に突っ込んでいった。幸い、巡回中ということもあって中に人はおらず、爆発することもなかったが、周囲は騒然とした。
ひったくり犯の上に座って身動きが取れないようにしていると、男が駆け寄ってきた。
『君、大丈夫か!? なんて無茶をするんだ!』
ああ、これはひったくり犯に向かって言っているんだとそっぽを向いた途端、両頬を挟まれ正面を向かされた。すぐ近くに男の心配そうに眉をひそめた顔が来た。
『怪我は? 痛いところはない?』
『……それ、アンタが言う?』
『はぁ? 俺は運よくスクーターが曲がってくれたから……』
『俺が曲げなかったらアンタが一番危なかったんだけど』
『え? ……ああ、そっか。そうだったね。ありがとう』
そう言ってへらっと笑った男を見て、シグマの中で、いつの間にか抜け落ちていた感情が戻ってきた気がした。
赤い花事件でずっと一緒に暮らしてきた家族の記憶から抹消され、居場所はあるはずなのに、生きた心地がしなかった。
早瀬の祖父に拾われるまでひとりぼっちで生きてきたはぐれ者は、自分以外の人間がいなくなっても何とも思っていなかったはずだった。
誰かが目の前でいなくなること。危ない目に遭うこと――今まで赤い花事件の確信に触れることができていないのは、無意識のうちに臆病な自分を理由にストップをかけていたからではないか。
目の前で笑う男が飛び出したのを見て、不意にかっこいいとすら思ってしまった。
憧れを抱いてしまった。自分を投げ出してでも誰かのために動こうと生き急ぐ姿に。
それと同時に、彼のブレーキは壊れているのだと悟った。平凡な顔をして、自分を犠牲にしてでも助けようとする行動力、相手に同情する共感性の高さ。放っておいたら、とんでもない事件にも巻き込まれそうだとも思った。
だが、それもいい。
自分は刺激が欲しかったのだと、不覚にも思い知らされてしまったのだから。
『いいよ。アンタの依頼、受けてあげる。……高くつくよ? マサキ』
これが、真崎大翔とシグマの最初の出会いだった。
◇
それ以来、事務所に入り浸るようになった真崎は、本業をしながらシグマの助手としても活躍した。無茶苦茶に動くシグマを引き留めるのはいつも真崎だったし、背中を預けられるほど信頼できる仲になっていった。
その日、シグマは決めたのだ。手の届く範囲でいい、自分を覚えていてくれた人をこれ以上、目の前で失わないと。
「……マサキ、死ぬなよ」
スマートフォンを仕舞い、シグマはさらに足を速めた。
微かに焦げ臭いがして目を覚ました真崎は、自分が置かれている状況を見て思案に暮れていた。
手足をロープで拘束され、椅子に座らせられている。大きく身体を揺らしたところで動くことはできない。しかし、口だけが封じられていないところを見ると、この空間は声を上げても届かない場所に放置されているのだろう。
窓は木の板が複数貼り付けられていて、外の光はほとんど入ってこない。微かな光と、暗闇に慣れてきた眼で辺りを見渡す。乱雑に荷物が置かれており、埃もかぶっている。見たことのない機材ばかりのところを見ると、何かの工場のようだ。
「廃棄寸前のコンテナの次は廃墟になった工場かよ……最悪」
自分の不遇さに大きく溜息をついたところで、頭をフル回転させる。
眠る直前、自分は何をしていたのか、と。
(確か土井さんが急に暴れ始めて、押さえつけられて……)
『捕まっちゃったねぇ、ウサギさん』
土井の声は初めて会った時からどこかで聞いたことがあるような気がしていた。メディアやSNSといった発信される類のものではなく、どこかで同じ単語を聞いたのだ。すぐ近くで、頭の上から呆れた声で。
それが全く思い出せないのは、失くした三年間の記憶の中にあるからなのか。
途端、遮るように激痛が襲う。気を逸らそうとしているのか、それとも思い出してはいけないと、自分の脳が警告しているのか。今までも何度か同じようなことがあり、そのたびに真崎は気を失っていた。
(まるでリリィと同じだ)
リリィは過去の話をして気持ちが昂ると、途端に切れたように倒れ、深く眠ってしまう。目が覚めるとあまりよく覚えていないと言っていた。
その原因は定かではないが、リリィの寝落ちは児童養護施設で起こった赤い花事件があった後から続いているという。
(頭痛、いつの間にか眠っている……眠り?)
ふと、赤い花事件の概要を思い出す。シグマが帰ってきたら、施設で暮らす児童と職員全員がその場に倒れ、眠っていたのだと。
「――ああ、起きましたぁ?」
頭痛をこらえながら声のする方へ顔を向ける。そこには翁の面を大切そうに持った土井悠聖の姿があった。血走った目ではなかったが、真崎に近付くとにたりと不気味に笑った。
「乱暴に扱ったことは謝りますが、あなたが悪いんですよ? 僕らの神聖な場所まで踏み入れるなんてことしなければ、平穏な日常を送れたのに」
「……人けのない場所に連れてきた、ということは、俺を殺す気ですか?」
土井の地雷に触れない程度に煽りを入れて問いかける。口調は落ち着いていても、顔つきはどこかおかしい。不安定な今なら、思いがけないおこぼれがもらえるかもしれない。
すると土井は鼻で嘲笑った。
「それもいいかもしれない。あの日、あなたをようやく捕まえたかと思ったら、実験体に使うからって止められたんですよねぇ……」
「実験体?」
「記憶、ないんでしょ? 僕達が奪ったからね」
おこぼれどころなんかじゃない。土井には一度も自分が記憶喪失になっていることを話したことはない。そして、コンテナで豹変した際に執拗に狙われた背中の打撲痕……。
真崎が目を見開いたのを、土井はわざと翁の面を揺らしながら続けた。
「眠っている間に記憶を忘れる薬があるんですよ。最近ようやく完成にこぎつけたようで。もう忘れていると思うので教えますが、あなたは単身で我々の密会場所にやってきて、返り討ちに遭い、殺されることなく、薬の実験体になってもらうことにしたんです。だって記憶がなければ、自分の手を血で染める必要ないですからね」
「ふざけるな。薬で記憶喪失になる例はあるけど、意図的に引き起こすなんてありえない」
「できちゃったんですよ。八年前の養護施設では失敗したみたいですけど、ようやく完成させてくれた研究者がいるんですよぉ」
八年前、養護施設、薬――その単語が一気に真崎の頭を駆け巡った。それと同時に頭に激痛が走る。脳天に鉄骨でも刺さったのか、ぐわんぐわんと頭の中が反響する。
「――っ!」
声も出せないほどの激痛に真崎はぐっと目を瞑り俯いた。すると次の瞬間、頭の中に何かの映像が流れ込んできた。まるで映画のフィルムのように、コマ送りのように見えてくる。視点からして、真崎が見た光景が映し出されているようだった。
赤い花事件の資料、同僚の誤魔化すように笑う顔、不審なやり取り――それから少しフィルムが早送りになり、映し出されたのは見慣れた事務所だった。妙にへこんだ本棚の角、そして絶望した表情を浮かべるシグマの姿。
『俺は、お前の――』
(……ああ、そうか)
ようやく思い出した。自分がしてきたことも、失った記憶も、全部。
頭痛が止んで顔を上げると、土井が首を傾げながら残念そうに言う。
「もう思い出しちゃいました? 泣きたくなるほど辛い記憶でした?」
土井に言われて初めて、頬に涙が伝っているのに気付いた。
背中の傷なんてどうでもいい、頭痛なんてただの騒音だ。
すべてを思い出した真崎の脳裏に浮かぶのは、ただただ取り返しがつかない後悔ばかりだった。
◇
『真崎くん、心配してくれるのは嬉しいけど、私は大丈夫よ』
一年前、同僚の箕輪輪子は真崎に申し訳なさそうに笑って言った。
営業周りをしていた真崎は偶然、箕輪が不審な人物と何かを取引をする場面を目撃した。
相手は上下ともに真っ黒な服装で顔をマスクやサングラスで隠すほどの徹底ぶり。これを不審に思わないわけがない。何かを手渡しした際、相手が鋭いナイフを彼女の前でちらつかせて脅すような素振りも見受けられた。
真崎はすぐに彼女に問い詰めたが、頑なに何も言おうとしなかった。それでも真崎は、ここ最近の箕輪の行動に違和感を覚えていた。
仕事の愚痴を言い合うことも意見することもあった。それはこの仕事に情熱をかけている人だと、同期ながら感心していた部分もある。できることなら力になりたいとも思った。
しかしある日、偶然開きっぱなしになっていた彼女のパソコンの画面に、謎のチェックリストが表示されているのを見てしまった。名前と住所、身長や体重など、個人の特徴について細かく書かれている。担当先の情報をまとめたものかと思ったが、それにしては一般人が多すぎた。
そして先日見かけた不審者との取引現場……真崎の中で、不安がよぎる。
子供のころから正義感が強いほうだった。
(もし彼女が困っているなら、もし彼女の抱えている件が会社に関係していることなら――黙って見過ごせない)
取り越し苦労だったらそれでいい。お節介に近い親切心で探りを入れ始めたものの、なかなか情報が集まらない。
そこで駆け込んだのは、警察署だった。しかし一瞬見ただけの話は、誰も取り合ってくれない。
諦めていたその時、ちょうど別件で警察署に来ていた早瀬が声をかけてくれた。
『なんとかしてくれるかも』と半信半疑でついていくと、そこは小さな事務所のような場所で、まだ高校生くらいの青年がソファに足を投げ出し、気怠そうな目で真崎を見据えていた。
もちろん、最初は『無理。帰れ』と一蹴されてしまった。
(この青年に本当に頼んでいいのか? 情報屋なんて悪いイメージしかないし……)
悩みながらもシグマの後を追っていたところ、スクーターに乗ったひったくり犯と鉢合わせしてしまう。
思うがまま動き出してしまった真崎とは違って、シグマは障害物を伝い、ひったくり犯だけを半ば強引にスクーターから離し、確保と事故を防ぐことに成功。
自分にはない何かがある。そして、彼と一緒にいれば、真実に辿り着けることができる。
――彼に自分のすべてを賭けよう、そう決めた瞬間だった。
いつの間にか事務所へ入り浸る機会が増え、リリィや早瀬とも言葉を交わすようになり、シグマの相棒として情報を集めて一年、ようやく真相に近付いた。
箕輪と不審者の密会は、二週間に一度という比較的早いスパンで繰り返されていた。
一度だけ不審者にわざと出くわしたものの、逃げ足が速く取り逃がしてしまったが、ぶつかった際に地面に落ちたリストを、真崎は見逃さなかった。以前、箕輪のパソコンに表示されていたものとよく似ている。
真崎はシグマにリストのことは伏せたまま、独自で調べて見ると、そのリストがある薬の顧客リストであることがわかった。
さらに調べていくうちに、その薬がバクリープであり、開発者がリリィの実の両親であることまで突き止めてしまったのだ。
当時の真崎にも赤い花事件のことは伝えられており、シグマ自身が被害者である事件を調べていることを知っている。
重要な手がかりだと思って連絡しようとしたが、ふと、リリィの寝落ちのことが頭をよぎった。
そして気付いてしまった。彼らのいた児童養護施設事体が、バクリープを完成させる人体実験のために用意された施設だったのではないか、と。
(……ダメだ)
いくら真相を求めていたとしても、知らないほうが幸せだったと思うことは今も、これから先もたくさん出てくる。シグマの決意は充分伝わっている。哀しいくらい同情した。
だからこそ、過去の世界が残酷だったと、施設での思い出がすべてハリボテだったことを思ってほしくない。
自分でも無茶苦茶なことをしたと思う。
シグマの留守を狙って事務所に侵入し、最初に交わした誓約書や今まで調べてきた資料を破棄した。パソコンやクラウドに保存されたものまで復元できないようにプログラムまで組んだ。
『……何してんの、マサキ』
粗方処理を終えたところで、シグマが帰ってきた。相棒がしていたことを察したようで、怒りが混じった、哀しそうな顔をしていた。
無言で立ち去ろうとする真崎に、シグマは声を震わせて叫んだ。
『俺は、お前の相棒だぞ!』
真崎は何も言わなかった。足を止めることを許してはいけないと思った。
背を向けたまま、事務所を後にする。今夜、箕輪が不審者と密会をすることがわかっている。そこに乗り込んで直接彼女を止めるつもりだ。
事務所にはもう自分の痕跡は残っていない。万が一、自分が死んだとしてもシグマやリリィ、早瀬に迷惑はかからないはずだ。自宅はある程度整理してきた。戻ってこられたら奇跡かもしれない。
すべて置いて真崎は目的地へ向かう。
ふと頭をよぎるのは、最後に見た相棒の顔。その顔を一生忘れてはいけないと、強く思った。
夜も更けた頃、密会場所となっていた山奥の野外トランクルームにやってきた真崎は、周囲を警戒しながら入ってきた箕輪を引き留めた。仕事と同じスーツ姿に、ジュラルミンケースを持っている。
突如現れた真崎に、箕輪は困惑した。
『真崎くん!? どうして……』
『……そのジュラルミンケースの中身、全部バクリープなのか?』
その言葉に、箕輪は視線を泳がせる。どうやら当たりらしい。観念したのか、諦めたようにぽつぽつと話し始めた。
最初は小遣い稼ぎとして詐欺の受け子をしていたらしい。バクリープを運ぶようになったのは、ここ一年でのことだと言う。悪いことをしている自覚はあったものの、病気の父への仕送りをしなければならなかった箕輪は、足を洗うことをできずにいた。
『やめようと思っても、父のことを言われてしまって……私、どうしたらいい?』
『……今日で終わりにしよう、警察に行って、すべて話すんだ。バクリープがいかに危険なものかも含めて、全部終わらせようよ! 箕輪さんはまだ引き返せるはずだ!』
『――それは難しい話ですね』
途端、箕輪の後ろから声が聞こえたと同時に、真崎の頬に赤い液体が飛び散った。
一体何が起こったのか、状況を把握するよりも先に、箕輪が着ていた白いシャツがじわりと赤い染みが滲んできた。震える手で触れて、手のひらに付いたそれが、自分の血だとわかるのに、そう時間はかからなかった。
『……箕輪さん?』
立ち崩れる箕輪を抱き留める。赤い染みがどんどん広がっていく。
顔を上げると、そこには能面をつけたスーツ姿の人物が複数いた。その中の一人、恵比寿の面をかけた人物の手には、サイレンサー付きの銃が握られている。
『彼女が運んでいた薬はこの先、国にとって重要となる大切なものなのですよ。欲しい人の手元に届かないとなると、我々の信用もガタ落ち。それはとても困るんですよねぇ』
『……なんで、なんで彼女を撃った!?』
『規約違反ですから。ばれたら終わり。……ゲームオーバーです』
そう言って真崎に銃が向けられる。
ああ、次は自分が死ぬ番だ。――そう思った時、真崎の袖口をぎゅっと掴まれた気がした。見ると箕輪が、ジュラルミンケースを押し付けるようにして真崎に渡す。
『……行って』
『で、でも』
『行って、あなただけなら逃げられるから!』
浅い呼吸で、立っているのもやっとな状態なはずなのに、真崎を力いっぱい押し出す。
その瞬間、今度は般若の面の男が引き金を引いた。途端に箕輪が倒れた場所から、じわりと血液が地面に流れていく。
目の前に広がる光景を目の当たりにして、真崎は抱えさせられたジュラルミンケースに目をやる。
これを渡したところで、口封じのために自分は殺されるだろうと思った。きっと、相手もそのつもりだ。
(――じゃあ、俺がしてきたことって何だったんだろう)
相棒を裏切ってまで調べてきたはずなのに、結果的に箕輪を死なせてしまった。自分が今までしてきたことは、すべて水の泡だ。
すべて諦めようとしたその時、ふと頭をよぎったのは置いてきたシグマの顔だった。
過去の事件を明らかにするために、未成年ながらも社会に出て情報集めに徹し、危ない橋を渡ってきた相棒。ただでさえ真っ当な道ではないのに、もし自分が生きて帰らなかったら。復讐に走るような、人としての道を外れてしまわないだろうか。
(……なんて、自分を過大評価しすぎだな)
乾いた笑いが零れる。そしてキッと彼らを見据えた。すでに銃口は真崎に向けられている。
(ここで、止めなきゃいけない)
失うものなんて何もない。でも、もしこの場を切り抜けて、街まで出てしまえば、バクリープを警察に届けることができる。そうしたら赤い花事件だって解決できるかもしれない。シグマには悪いが、彼らの知らないところで勝手に解決したらいい。
般若の面をかけた男が引き金を引くのと同時に、ジュラルミンケースを盾に真崎は立ち上がり、後退していった。
いくら頑丈なケースだからとはいえ、万が一、中に入っている大事な商品が壊れでもしたら意味がない。
能面をつけた彼らが躊躇った一瞬の隙を見逃さず、真崎は颯爽と走り出し、入り組んだ工場の中へと入っていった。
生き延びるために。生きて、相棒の元へ帰るために。
◇
「……シグマを、あんな顔にしたのは、俺だった。俺があの日、行かなければ……彼女も死なずに済んだかもしれない……!」
ぶつぶつと呟く真崎に、土井はさらに眉をひそめる。その言動はまるで、つい先程の自分を見ているかのようだった。
嫌な予感がした土井は、翁の面をかけるとポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
早く息の音を止めるべきだと思った、その時――
「――ようやく思い出してくれましたか、真崎くん」
入口から声が聞こえた。よく聞き馴染んだ声だ。
二人は思わずそちらに顔を向けると、目を見開いて驚いた。
恵比寿の面をつけた、スーツ姿の人物がいつの間にか部屋に入ってきていたのだ。体型からして女性だろうか。窓からこぼれた外の光でかろうじて見える黒のショートボブも、能面をしていてもわかる。
恵比寿の面をつけた人物は土井を押し退けて真崎に近付くと、目の前で面を外す。
「あなたは悪くない。あなたを巻き込んだのは、私だから」
面を外した人物――箕輪輪子はそうやって微笑んだ。