翌朝、真崎が目覚めた時にはすでにリリィはいなかった。
 話している最中に寝落ちてしまった彼女をどうしたらいいかわからず、ひとまずソファに寝かせ、自分は別のソファで背を向ける形で眠りについた。
『赤い花事件』――自分が覚えている当時のニュース番組の情報の裏で、シグマやリリィがどれほど辛い思いを抱えてきたのか。考えるだけで辛くなる。
 ソファに横になってすぐに整理しようとした途端、ふっと眠気が襲い、その日もまた朝までぐっすり寝入ってしまった。
(入院中は寝て治すがメインだったから気にしていなかったけど、こんなに眠気ってくるものだっけ?)
 気を張り続けているせいか、いつの間にかストレスになっているのかもしれない。
 そんなことを考えながらサフランに降りると、すでにカウンター席で朝食をとっているシグマと、何食わぬ顔で朝の仕込みをしているリリィの姿があった。
「あらマサキ、おはよう。さっさと食べてくれない? 開店と同時にモーニングが始まるんだから、あなた達のお世話をしている暇はないの」
 昨晩とは異なる様子に、真崎は唖然としたが、有無を言わさぬ気迫に押されて「ハイ」としか言えなかった。
 朝食を終え、すぐにシグマとともにレンタカーに飛び乗った。
 行き先は火伏が就職するまで暮らしていたという彼咲村だ。しばらく道なりに車を走らせていると、ずっと口を閉ざしていたシグマが切り出した。
「リリィの奴さ、事件以来、感情が高ぶりすぎるとなんの前触れもなく寝落ちするんだよ」
「……もしかして、話を聞いていたの?」
「俺は人より繊細さんって言ったろ」
「聞いてない……記憶を失う前に言っただろ」
 違いねえ! とケラケラ笑うシグマ。それに対し、いつものように記憶を失くしたせいにする自分の言い方に、腹が立つ。
「ごめん。リリィから無理に聞き出すつもりはなかったし、全部を記憶喪失のせいにするのも、よくなかった」
「それは、あれだけ知ってほしくなかった俺の経歴を聞き出したうえでの謝罪? ……いやいや、クソ真面目人間なアンタがしょぼくれるのもわかるけど、退院して数日のアンタに耐えられる情報量じゃない。仕方がないことじゃん?」
「……仕方がない、で済むんだろうか」
「え?」
 ハンドルを握る手に力がこもる。
 ただ意図もなく発した言葉が、他人にとってどれほど重要なのか。些細なことでも重要で、重要なことでも些細なもので、受け取り方は人それぞれだ。この期に及んで「空気を読みなさい」とは言えないが、それでも真崎は自分の今までの発言が許せなかった。
「記憶喪失だから、以前の俺にはなれない――これは現実逃避をするための言い訳にしかすぎないと思う。シグマや早瀬さん、リリィが俺に寄り添ってくれようとしていたのに、俺は見て見ぬふりをしていた。特にシグマは、俺が罪悪感にのまれないように、わざと仕事に没頭させようとしてくれていたのに」
「……なんだ、ばれてたのか」
「もう言い訳はしない。俺は、俺ができることをやって、真実を掴む。……お互いの利益のために手を組んだんだろう、相棒?」
 真崎がそう答えると、隣からふう、と気の抜けた声がした。見ると、あのニマニマと嘲笑う猫のように口元を緩ませたシグマがそこにいた。ホッと安堵したような、我慢していたものが無くなった解放感のような、清々しさまで感じるいつもの笑みだ。
「じゃあ、もう容赦なく行っていいよな? 返事は聞いていないけど!」
「せめてお手柔らかにしてくれる? 言い訳にしないとは言ったけど、記憶喪失で三年間分の知識は抜けたままだからな!?」
 やいのやいのと言い合う車内はたいそう賑やかで、真崎は不思議と懐かしく思えた。