「――それでは、もう一度お伺いします。発見時、あなたの後頭部と背中に複数の打撲痕がありました。いつから無人のコンテナの中で眠っていたのか、どうして拘束されて放置されていたのか。覚えていることをすべて話していただけますか?」
「と言われましても、本当に何も覚えていなくてですね……」
「あなたは事件に巻き込まれた可能性が高いんです。どうか思い出してください。あの場世には、あなたしかいなかったのですから」
 五月某日。とある病室のベッドの上で困惑した表情を浮かべる(しん)(ざき)(ひろ)()は、おそらく人生で初めてであろう、警察の事情聴取を受けていた。
 外は真夏のように蒸し暑く、クーラーで適度に冷やされている室内にいても、腕や頭に巻かれた包帯が汗で湿っていた。入院着の下でぐるぐる巻きにされた背中の包帯も、新しいものに変えてから五分もしないうちに汗ばんでいて、すでに気持ちが悪い。
 ベッドサイドの椅子に座り、真崎をまっすぐ見据えるスーツ姿の男性は、警部補を名乗る刑事だ。眉間に皺をよせた表情は焦っているようにも伺えた。
「近々で覚えていることは?」
「そうですね……大学を卒業して、就職したあたりでしょうか。自分がもう二十代後半であること自体、未だ信じられないくらいで」
「就職したあたりというと、どのくらいですか?」
「営業部に配属されて歓迎会だから……四月とか?」
「……ふざけてます? あなたが会社に提出した履歴書が正しければ、三年も前の話じゃありませんか」
 まともな答えが出てこなくて、刑事は訝しげに眉をひそめる。今の真崎にできることは、苦笑いを浮かべることだけだった。
 話を聞いてわかったことは、真崎大翔の記憶は大学を卒業後――つまり、就職してからの三年間分の記憶をまるっと失っており、何かの事件に巻き込まれたということだ。
 覚えていることといったら、名前と就職した時の年齢くらいで、働いている会社の営業部に入った直後まで。
 生死を彷徨うほどの大怪我をどこで負ったのか、自分が何をしていたのか、全く思い出せていない。
 しかし警察は、目を覚ましたばかりの真崎に事情聴取をさせるほど切羽詰まっていた。

 事の発端は、今から六日ほど前のこと。
 山奥にある『トランクたけなか』という、野外トランクルームや大型コンテナを取り扱う会社が運営している場所である日、敷地内を巡回していた管理人が廃棄予定のコンテナの扉が半開きの状態になっているところを発見。
 閉めようとした際、地面から点々と続く血痕のような赤黒い液体が固まった跡を見つけ、怪我をした動物が入り込んだのではとコンテナ内を確認したところ、そこには血まみれの男性が拘束された状態で横たわっていた。それが真崎だった。
 発見時、身元が分からなかった男性は身体も服もボロボロだった。ガムテープで身体を拘束された状態で、発見当時の所持品は胸ポケットに入っていたボールペンしかなかったこともあり、身元確認に倍の時間がかかっていた。
 怪我の具合から複数名からの暴力を受けた後、コンテナに放置された可能性が高く、監禁事件として警察が捜査を開始。
 コンテナから少し離れた山の中で見つかったスマートフォンが見つからなければ、指紋と照合することも、番号から契約者を割り出すことも難しかっただろう。その後、勤め先に連絡して、コンテナの中で倒れていた人物が真崎大翔であることがわかったのが、彼が目覚める二日前のこと。
 さらに悪いことに、真崎が着ていたスーツの袖に、誰かに血まみれの手で腕を掴まれた痕も見つかった。付着していた血液は真崎ではなく、別人の血液であることはわかっているが、情報が少なすぎてこちらも身元を調べるのに時間がかかっている。
 警察が焦っている理由はそこにあった。スーツに染み込んだ誰かの血液の量からして、この人物は傷を負っている可能性が高い。着衣についた血痕を調べによると、少なくとも一週間は経過しているという。
 もし生きているのなら、すぐに救出、保護したいところだが、肝心の真崎が何も覚えていない。もはや絶望的だった。
(記憶を失う前の俺は何をしていたんだ……?)
 目覚めて早々に警察から話を聞いた真崎は思わず視線を泳がせた。
「今、あなたのご自宅も調べさせていますが、事件に繋がりそうなものは特に見つかっていません。それと、山の中で見つかったスマートフォンですが、電源は入り、通話履歴も見られたので身元特定に至ったわけですが、損傷は激しく、他のデータは消えている可能性が高いです。完全な復元は難しいでしょう」
「そ、そうですか……」
 曰く、画面は鉄パイプのような硬い物で叩き壊されていたという。別の事件との関連性を調べている警察には悪いが、喧嘩に巻き込まれてコンテナに閉じ込められた、と見たほうがいいかもしれない。
「そして第三者の血痕ですが、未だ誰のものかわかっていません。正直、あなたが手を下した可能性も残されていますが……」
「ま、待ってください! 本当に何も覚えていませんけど、誰かを殺めるなんて絶対しません! 信じてください!」
「何も覚えていないからこそ、ということもあります。ともかく、我々は引き続き捜査を続けます」
 やれやれ、と呆れた様子で刑事は立ち上がると、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出した。
「早々にありがとうございました。何か思い出しましたら、こちらまでご連絡ください。どんな些細なことでも構いません」
「頂戴します。すみません、今名刺を切らしていて……あの、どうかされましたか?」
「あ、いえ。……本当に記憶、ないんですよね?」
「申し訳ないですが……」
 あまりにも自然な真崎の所作に呆気を取られながら、刑事は名刺入れを仕舞いながら病室を出て行った。
(名刺なんて初めて受け取ったはずなのに、無意識に動いた?)
 両手で受け取り、持ち合わせがないことまでを息を吐くようにすらすらと並べた。営業部で働いていた時の癖が身に沁みついているのだろうか。
 そんなことを考えながら、一人残された病室で窓の外を見る。すでに夕暮れの空が広がっており、オレンジ色の光が差し込んでいた。
「……本当に何をしたんだろう」
 ぽつりと呟いた問いかけに、答えられる者は誰もいない。
 三年分の記憶――大切なことばかりだったはずなのに、どうして忘れてしまったのか。自分でもわからないままだった。