――今から八年前の、ある寒い冬の日のこと。
児童十八名、職員六名の小さな児童養護施設で、その事件は起こった。
当時十歳だった男子児童が放課後に居残りをし、夜十八時を過ぎた頃に施設に帰宅したところ、いつも賑やかな室内が妙な静けさに包まれていることに気付いた。
本来ならば、この時間帯は食堂にて皆で夕食の準備をしている時間だ。ドアが閉まっているから、中にいる彼らの声が聞こえてこないのだと思った児童は、いつものように食堂のドアを開いた。
そして、その先に広がった光景に彼は目を疑った。
自分を除く児童と職員全員が、その場で倒れていたのだ。ある者は床で、ある者は食卓の上で。またある者は配膳途中だったのか、手に箸を持ったまま。さらに床に散らばった出来立ての料理や皿が、アネモネの赤い花とともに無残に踏みつぶされていた。
児童は慌てて駆け寄り、全員の肩を揺らして起こそうとしたが、一向に起きる様子はなく、ただただ寝息だけが聞こえてくる。
上手く言葉にできたかは定かではないが、拙いながらも「施設の皆が倒れている!」と必死に警察と救急車に説明し、助けを求めた。数分後に到着した彼らも、目の前に広がる異様な状況に眉をひそめる。救急車で病院に運ばれていく家族を横目に、児童は警察の事情聴取を受け、帰ってきてからのことをすべて話した。
食堂は玄関から遠い場所にあり、塀に囲まれた中庭へはガラスの戸を隔てている。鍵はどの場所も閉まっており、物を盗られた形跡がないこともあって、捜査は難航。
それから数時間後に、病院に搬送された児童や職員が次々に目を覚ましたと連絡を受けた。
児童も警察とともに向かい、彼らと対面した――が。
『……あなた、誰?』
意識がはっきりとした一人が、開口一番に児童に告げた言葉を皮切りに、倒れていた全員が、児童のことを何一つ覚えていなかったことが発覚した。
◇
「――それ以来、その児童の居場所はなく必死に訴える姿が異常だと、皆が彼を不審がるようになった。使っていた部屋も私物もあるのに、通っている学校の名簿にも記載されているのに、『覚えていない』というだけで孤立させていったわ」
話をひと区切り付けたリリィは、冷めきったストレートティーを口へ運んだ。
今、彼女が話した事件は怪奇とされ、世間では『赤い花事件』として報道された。
当時は今のような、事件に対して憶測を提示するインフルエンサーがいなかったこともあり、SNSで大きな話題までとはいかず、テレビ番組枠内で留めることができた。
当時の真崎も入試に関係するかもしれないと思い、テレビに張りつくように見ていたニュースでもあったが、実際はそこまで社会に影響は与えられていなかったのかもしれない。
ただ残ったのは、唯一事件に巻き込まれなかった男子児童を、同じ屋根の下で暮らしていた全員が忘れてしまったという事実だけ。
「まさか、残された男子児童がシグマなのか?」
「……宿題をやらずに学校に行って怒られ、罰として放課後に居残りさせられた彼だけが、あの怪奇から逃れた。シグマは、耐え切れなかったんだと思う。十一歳の誕生日を迎える前に施設を飛び出して、偶然この事務所の家主に保護され、のちに養子縁組をして正式に施設を出たのよ」
リリィの話を聞いて、真崎の脳裏は「今度は」と呟いたシグマの仄暗い顔がよぎった。
身近な人の記憶から突然、自分がいなくなる――一度だけでなく、二度も経験していたとなれば、シグマが見せる苛立ちも、楽しそうな笑みも、試すように茶化すのも納得がいく。
では、能面の人物との関係は?
真崎が問う前に、リリィが口を開いた。
「私がシグマを思い出したのは、彼が去って三年が経った頃。施設の中庭の端に、植えた覚えのないアネモネの花が咲いていたの。それを見た途端、頭に雷が落ちたような激痛が走って倒れて病院に運ばれたことがあったわ。その時にシグマのことと、あの日のことを少しだけ思い出した」
「『赤い花事件』で、眠る前のことだね?」
アネモネは茎を切った際に出る液の中に、皮膚に炎症を起こす有毒な成分が含まれている。幼い子どもがいる児童養護施設で、毒のある花を育てることはまずありえないだろう。だから『赤い花事件』の際、部屋中に散らばったアネモネの花は外部から持ち込まれたと判断された。
もし中庭から搬入されたとしたら、その際にアネモネの種がたまたま庭にこぼれたのかもしれない。それが月日をかけて花となり、施設で暮らす者達の目の届く位置まで広がっていったのだろう。
リリィは震える手を押さえつけながら、さらに続けた。
「急に眠くなったの。一緒にごはんを食べていた皆が、次々と倒れていって、私より小さい子がパニックになったけど、すぐに糸が切れたように倒れていった。私も床に倒れて……」
「リリィ? ごめん、無理に話さなくても……」
「視界に、赤い花びらが入ってきた。頑張って見上げたら……能面をつけた二人組がいた」
能面をつけた二人組――火伏が目撃したと言っていた人物だろうか。それが、翁と恵比寿の面だとしたら。
シグマがこの事件の情報を集めると決めた理由が、赤い花事件と関係していると思ったからだとしたら。
(じゃあ、般若の面は?)
真崎の脳裏に浮かんだ能面は、翁でも恵比寿でもない。全員が同じ仲間なのだろうか。
「私は……記憶が戻ってすぐに、シグマを探した。シグマも、同じだったから……」
「同じ?」
すると、リリィは真崎の服の袖を震えながらもぎゅっと掴んだ。歪んだ丸眼鏡の奥にある青い瞳には不安の色が浮かんでいる。
「私ね、パパとママが多忙で育てられないからって言われて施設に入ったの。いつか迎えにくるまで、ずっと一緒にいるって約束してくれたのがシグマだった。……シグマがいなくなることだけは、死んでも嫌なの」
「リリィ……」
「早瀬さんもマサキも、サフランの皆も、私の大切な人達だから……っ、いつか、私の目の前から消えてしまうんじゃないかって思ってしまう。最近のシグマを見ていたら、余計に怖くなっちゃって。だから――」
だから、シグマを止めて。
「え……?」
「それはたぶん、マサキにしかできないことだか、ら……」
リリィはそう言って、糸が切れたように真崎に倒れ込んだ。
児童十八名、職員六名の小さな児童養護施設で、その事件は起こった。
当時十歳だった男子児童が放課後に居残りをし、夜十八時を過ぎた頃に施設に帰宅したところ、いつも賑やかな室内が妙な静けさに包まれていることに気付いた。
本来ならば、この時間帯は食堂にて皆で夕食の準備をしている時間だ。ドアが閉まっているから、中にいる彼らの声が聞こえてこないのだと思った児童は、いつものように食堂のドアを開いた。
そして、その先に広がった光景に彼は目を疑った。
自分を除く児童と職員全員が、その場で倒れていたのだ。ある者は床で、ある者は食卓の上で。またある者は配膳途中だったのか、手に箸を持ったまま。さらに床に散らばった出来立ての料理や皿が、アネモネの赤い花とともに無残に踏みつぶされていた。
児童は慌てて駆け寄り、全員の肩を揺らして起こそうとしたが、一向に起きる様子はなく、ただただ寝息だけが聞こえてくる。
上手く言葉にできたかは定かではないが、拙いながらも「施設の皆が倒れている!」と必死に警察と救急車に説明し、助けを求めた。数分後に到着した彼らも、目の前に広がる異様な状況に眉をひそめる。救急車で病院に運ばれていく家族を横目に、児童は警察の事情聴取を受け、帰ってきてからのことをすべて話した。
食堂は玄関から遠い場所にあり、塀に囲まれた中庭へはガラスの戸を隔てている。鍵はどの場所も閉まっており、物を盗られた形跡がないこともあって、捜査は難航。
それから数時間後に、病院に搬送された児童や職員が次々に目を覚ましたと連絡を受けた。
児童も警察とともに向かい、彼らと対面した――が。
『……あなた、誰?』
意識がはっきりとした一人が、開口一番に児童に告げた言葉を皮切りに、倒れていた全員が、児童のことを何一つ覚えていなかったことが発覚した。
◇
「――それ以来、その児童の居場所はなく必死に訴える姿が異常だと、皆が彼を不審がるようになった。使っていた部屋も私物もあるのに、通っている学校の名簿にも記載されているのに、『覚えていない』というだけで孤立させていったわ」
話をひと区切り付けたリリィは、冷めきったストレートティーを口へ運んだ。
今、彼女が話した事件は怪奇とされ、世間では『赤い花事件』として報道された。
当時は今のような、事件に対して憶測を提示するインフルエンサーがいなかったこともあり、SNSで大きな話題までとはいかず、テレビ番組枠内で留めることができた。
当時の真崎も入試に関係するかもしれないと思い、テレビに張りつくように見ていたニュースでもあったが、実際はそこまで社会に影響は与えられていなかったのかもしれない。
ただ残ったのは、唯一事件に巻き込まれなかった男子児童を、同じ屋根の下で暮らしていた全員が忘れてしまったという事実だけ。
「まさか、残された男子児童がシグマなのか?」
「……宿題をやらずに学校に行って怒られ、罰として放課後に居残りさせられた彼だけが、あの怪奇から逃れた。シグマは、耐え切れなかったんだと思う。十一歳の誕生日を迎える前に施設を飛び出して、偶然この事務所の家主に保護され、のちに養子縁組をして正式に施設を出たのよ」
リリィの話を聞いて、真崎の脳裏は「今度は」と呟いたシグマの仄暗い顔がよぎった。
身近な人の記憶から突然、自分がいなくなる――一度だけでなく、二度も経験していたとなれば、シグマが見せる苛立ちも、楽しそうな笑みも、試すように茶化すのも納得がいく。
では、能面の人物との関係は?
真崎が問う前に、リリィが口を開いた。
「私がシグマを思い出したのは、彼が去って三年が経った頃。施設の中庭の端に、植えた覚えのないアネモネの花が咲いていたの。それを見た途端、頭に雷が落ちたような激痛が走って倒れて病院に運ばれたことがあったわ。その時にシグマのことと、あの日のことを少しだけ思い出した」
「『赤い花事件』で、眠る前のことだね?」
アネモネは茎を切った際に出る液の中に、皮膚に炎症を起こす有毒な成分が含まれている。幼い子どもがいる児童養護施設で、毒のある花を育てることはまずありえないだろう。だから『赤い花事件』の際、部屋中に散らばったアネモネの花は外部から持ち込まれたと判断された。
もし中庭から搬入されたとしたら、その際にアネモネの種がたまたま庭にこぼれたのかもしれない。それが月日をかけて花となり、施設で暮らす者達の目の届く位置まで広がっていったのだろう。
リリィは震える手を押さえつけながら、さらに続けた。
「急に眠くなったの。一緒にごはんを食べていた皆が、次々と倒れていって、私より小さい子がパニックになったけど、すぐに糸が切れたように倒れていった。私も床に倒れて……」
「リリィ? ごめん、無理に話さなくても……」
「視界に、赤い花びらが入ってきた。頑張って見上げたら……能面をつけた二人組がいた」
能面をつけた二人組――火伏が目撃したと言っていた人物だろうか。それが、翁と恵比寿の面だとしたら。
シグマがこの事件の情報を集めると決めた理由が、赤い花事件と関係していると思ったからだとしたら。
(じゃあ、般若の面は?)
真崎の脳裏に浮かんだ能面は、翁でも恵比寿でもない。全員が同じ仲間なのだろうか。
「私は……記憶が戻ってすぐに、シグマを探した。シグマも、同じだったから……」
「同じ?」
すると、リリィは真崎の服の袖を震えながらもぎゅっと掴んだ。歪んだ丸眼鏡の奥にある青い瞳には不安の色が浮かんでいる。
「私ね、パパとママが多忙で育てられないからって言われて施設に入ったの。いつか迎えにくるまで、ずっと一緒にいるって約束してくれたのがシグマだった。……シグマがいなくなることだけは、死んでも嫌なの」
「リリィ……」
「早瀬さんもマサキも、サフランの皆も、私の大切な人達だから……っ、いつか、私の目の前から消えてしまうんじゃないかって思ってしまう。最近のシグマを見ていたら、余計に怖くなっちゃって。だから――」
だから、シグマを止めて。
「え……?」
「それはたぶん、マサキにしかできないことだか、ら……」
リリィはそう言って、糸が切れたように真崎に倒れ込んだ。