(きっと、記憶を失くす前の俺もこんな感じだったんだろうな)
事務所を出て大通りにあるコンビニで適当に買い込み、来た道を戻る。駅が近いということもあってか、夜でも人が行き交っていた。帰路につくサラリーマンが多いのは土地柄だろうか。
真崎は中身が詰まったコンビニの袋を揺らしながら、シグマの言動に腹を立てていた。
自己犠牲をしてまで危険なことを引き受ける姿勢が、真崎には理解しがたい。もし記憶を失くす前の自分だったら――なんて、そんなことを考えていても意味がないことは頭ではよくわかっているはずだった。
素直に戻ったところで、きっとシグマは自分の話を聞いてはくれないだろう。
彼にとって、『真崎大翔』という人物は何か。利用すると決めたものの、流されるがまま、今日まで何も得られていない。
腹いせに寄り道でもして遅く戻ってやろうか、そんなことをふと思った瞬間、背筋を刺すような鋭い視線を感じた。
(……なんだ?)
真崎が歩いているのはまだ人の行き交いがある大通りだ。防犯カメラもいくつか設置されている。ここで何かをしでかそうとするのはお互いにリスクが高い。
(人が多い場所にいればまだ安全……だけど)
背中に汗が伝う。嫌な予感しかしない。
真崎は呼吸を整えると、そして一気に走り出した。
つられてバタバタとコンクリートを鳴らす足音が聞こえてくる。おそらく真崎の後をつけていた人物だろう。まだ人がいる時間に関係のない人々を巻き込むわけにはいかない。
不意を突くように路地裏に入り、奥に進んでいく。シグマの事務所まで戻れるか、振り切れたらこっちのものだ――思った矢先、全身真っ黒な服装に身を包んだ人物が、鉄パイプを大きく振りかぶって今か今かと待ち構えていた。
「うわぁっ!? ……っ、この、危ないじゃない、かっ!」
振り下ろされると同時に避けると、咄嗟にコンビニの袋を中身が入ったまま投げつけ、取り出したスマートフォンのライトで相手を照らす。
「あなたは一体……俺に何の用ですか?」
目くらまし程度になればいいと思ったが、相手の顔を見て思わず目を疑った。
腕で隠れてよく見えなかったが、普通の人間ではありえないような位置に口の端が見える。体のサイズより少しばかり大きめの黒いスーツを着ているが、体格からして男性だろう。
そしてゆっくりと腕を降ろして現れたのは、翁の能面。
(火伏が言っていた、妙な恰好をした人物……!)
戸惑う真崎をよそに、能面の男は容赦なく鉄パイプを振り回していく。
「やめろっ! 何のために……って、うわぁ!?」
声をかけてもやめる気配はない。力づくで止めようと試みるが、傍若無人に振り回す鉄パイプを止めるどころか、受け流すほどの技量は持ち合わせていない。下手したらこちらが大怪我をしてしまう。
鉄パイプをかわしているうちに、路地裏の奥へとどんどん入っていく。
そして行き止まりの壁が目に入った途端、真崎はハッとした。
(ただの通り魔なんかじゃない、確実に俺を狙って――!)
後ろだけでなく左右が建物の壁に覆われ、袋小路になっている。鉄パイプをむやみやたらに振り回していたのは、自分を完全に人がいない場所へ誘導するためだったのだ。しかもこの路地は、五階建てのビルに挟まれる形で建てられており、片方は廃墟寸前で、使われているフロアは少なく、声を荒げたところで助けは見込めない。
確実に、真崎を仕留める気なのだ。
能面の男が、真崎の腹部めがけて蹴り上げてくる。防ごうとしたのも束の間、見事に腹部に入った勢いで壁に叩きつけられた。なす術もなく、ずるずると地面に座り込むと、能面の男はすぐさま首元を絞められる。
「かは……っ!」
このままでは窒息してしまう。真崎は両手で腕を掴んで剥がそうとするが、爪を立てても離れる様子はない。喉元を掴んでいる腕は、服越しからでもしっかり筋肉もついているのがわかる。
(俺の腕力じゃ勝てない。どうにかして、呼吸を確保しなくちゃ)
「は、離せ……っ!」
呼吸もしづらくなり、あがくだけで精一杯だ。せめて顔だけでも見てやろうと不気味に笑う能面に手を伸ばすが、届くはずもなく宙を切るだけ。
(こんなところで終わるのか? 記憶を失う前の俺がしたかったことも、パウンドの事件のことも、シグマのことも思い出せないまま死ぬのか?)
キッと睨みつけても、翁の面の下でこの人物に対する威嚇にもならないが、どうせこの場で死ぬなら、何か手がかりでも残せと自分を奮い立たせてもう一度手を伸ばした、その瞬間。
「――ちょー人気者じゃん、マサキ」
聞き慣れた煽り口調、人をからかうような抑揚のある声色。それと同時に真崎の目の前で月明かりによって透けた銀髪が輝いて一閃する。
(……おいおい、どこから飛び降りてきたんだよコイツ!)
行き止まりの路地裏。出入りできるのは来た道を戻るか、建物の上から飛び降りるかの二択。あろうことか、シグマは廃墟寸前のビルの途中の階から飛び降りて真崎と能面の男との間に落ちてきた。それは能面の男が顔を上げた途端、すぐそこまでごつい安全靴の先端が迫っていたのと同じタイミング。
ハッとしてすぐに真崎の首から手を離し、安全靴に蹴り飛ばされる寸前で離れ、距離を取った。警戒心が強くなっている。空から人が降ってくるなど想定できるわけがなかっただろう。
真崎は咳払いをしながら起き上がると、背に隠すようにして立つシグマに問う。
「熱狂的な大ファンじゃん。嫉妬しそう」
「ふざけている場合か! シグマ、どうしてここに?」
「こんなことになるような気がしたんだ。大当たりだったなぁ」
にやりと口元をゆがめた彼――シグマは笑った。そして視線はゆっくりと、謎の人物に向けられる。
「通り魔だかストーカーだか知らないけど、俺の相棒に手を出してどうするつもり? 警察で詳しく話す? それとも――俺にぐちゃぐちゃにされる?」
「…………くそっ!」
じりじりと距離を詰めようとすると、能面の男は持っていた鉄パイプを勢いよく投げつけてきた。
シグマが蹴りではたき落とすと同時に、能面の男は颯爽と路地から逃げていく。真崎を大通りから追ってきた人物はまた別だったのだろう、二人分の足音に増えて遠くへ小さくなっていった。
「……逃げ、た?」
足音が聞こえなくなり、しんと静まり返ると、真崎はその場に倒れ込んだ。起き上がる気力はもう残っていない。気の抜けた顔をする真崎の様子にシグマはケラケラと笑った。
「いやぁ、巻き込まれ体質は今もなお健在ってところか」
「笑いごとじゃねえよ……ありがとう、助かった」
「俺が勝手にやっただけだよ。……でも、今度は(・)間に合ってよかった」
薄暗くてよく見えなかったが、すぐ近くにしゃがんで笑うシグマの表情は、どこか安堵の笑みを浮かべているように見えた。
(今度は?)
その一言が引っかかったが、今まで見たことのないシグマを前に、なぜか踏み込んではいけないと思ってしまった。