「どうだった? 自分を殺しかけた人間と対面した気分は?」
 警察署から事務所に戻ったのは、オレンジ色の空が暗くなり始める頃だった。
 帰宅して早々にソファにくつろぐシグマは、まるで『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫のようだ。意味深な笑みを浮かべ、楽しそうに真崎を見据える。警察署の去り際に見せたあの殺気は、気付いた頃には面影もなく消えていた。
 対して真崎は、勢い任せに書きなぐったメモの内容を整理しているところだった。ただでさえ、今日一日で多くの情報を得ただけでなく、特例で犯罪者の事情聴取をさせられたのだ。余計なことを考えている暇はおろか、情報を整理する余裕もなかった。
「五分ほど時間をくれないか。頭がパンクしそうだ」
「だーめ。一分、いや三十秒で簡潔にまとめろ」
(そんな無茶な)
 今の真崎は、自分の考えを伝えるよりも先に、シグマを問いただしたい思いのほうが強い。しかし、それを簡単にさせないのがシグマだ。悔しいが、喉まで出かかっている言葉をぐっと飲み込んだ。まずはパウンドの放火事件が優先であることは、真崎にもよくわかっている。
「火伏は俺のことを知らなかった。そしてこれは俺の直感なんだけど、彼は暴力どころか、放火さえしていない……と思う」
「その根拠は?」
 シグマの問いかけに、真崎ははっきりと「ない」と言い切った。
「火伏は早く裁かれようと訴えているけど、その割には諦めているようには見えなかった。もしかしたら、彼が拘留されている間に裏で何かが動いているのかもしれない。……考えすぎかもしれない、けれど」
 最後に吐き捨てるように言った「起訴しろ」――パウンドの犯行が正しいと賛美していたにも関わらず、あの言葉だけは自棄になって突発的に口にしたように見えたのだ。
「あとは……火薬について。さすがに知識がなさすぎる気がする」
「それは俺も思った。放火方法はわかるけど、何を使っているのかまでは認知していない感じ。少なくとも、火薬を生成した人物ではないだろうな」
「じゃあ本物は一体……? 警察が範囲を広げて聞き込みを続けているって言っていたけど、特に進展はなさそうだよな」
「無理だな。どう考えても土地を知っている奴の動きだ。簡単に出てきたら防犯カメラなんてそこら中に設置しねぇよ」
 スマートフォンを確認しながら小さく溜息をつくシグマ。早瀬からの連絡待ちなのかもしれない。
 とはいえ、それだけの矛盾があるからこそ、火伏が真犯人だと証明されていないにも関わらず、未だに釈放されずにいる。警察としても、確信しきれない証拠では判断力に欠けるのだろう。
 そしてもう一つ。真崎には気になったことがある。
「どうして火伏はあんなに警察を煽るんだろう? すぐに起訴されたいのなら、最初の取り調べですんなり自供していればよかったんじゃないのかな」
 敵意がむき出しの取り調べを思い出すたびに、あの殺気立つ気迫を全身で受けた圧力が蘇ってくる。コンテナ監禁の一件で「自分がやった」と言い出さなければ、ここまで警察が煽られることはなかったかもしれない。
「煽りといえば、あのオッサン達。随分ストレスが溜まっていたように見えた」
「ずっと怒鳴っていたもんなぁ……取調室の中も、服に染み付いた煙草の匂いが充満していてすごかった」
「あれで調書が取れているかも怪しいぜ。冷静な判断ができる奴が、果たして何人いるのか」
「シグマ、人を見下すような発言は控えたほうが……あ」
 真崎はハッとした。シグマが今の口ぶりは、まさに火伏がしたこととさほど変わりはない。
 人は煽られたら感情が高ぶり、冷静に物事を考えられなくなることも少なくはない。――つまり、煽った人物のことしか視界に入らないのだ。
「煽るのは……裏に隠された何かの時間稼ぎ?」
 火伏が逮捕されている期間が長ければ長いほど、本当の目的を達成するためにかける時間を作ることができる。
 では、本当の目的とはなにか。
 真崎はポケットに入れっぱなしにしていたボイスレコーダーを再生させる。もちろん、巣鴨の聞き込みだけでなく、土井と火伏の話もしっかり録音済みだ。何か見落としていないか、じっくり聞き込んだ。しかし、手がかりになりそうな話は見当たらない。
 一緒になって聞いていたシグマも、眉をひそめるばかりだ。
「ふーん……火伏は火遊びの常習犯だったのか」
「土井の話では、小中学校の頃からだって言っていた」
「なら、地元民との関わりは深いよなー」
 え? と疑問の声を上げる前に、真崎の顔に何かの紙の束を叩きつけられる。突然のことで受け止められず激突し、床にバラバラと落ちた。どうやら名前と住所の一覧表のようだ。
「シグマ、これって……」
「火伏昭が幼少期を過ごした()(さき)村は、ここから車で四時間。明日も情報収集だ」
 口もとが歪み、にやりと笑みを浮かべるシグマを見て、すべて察した。
「……シグマ、君は彼らが知り合いだって最初からわかっていたな?」
「さぁ? なんのことだか」
「警察が入手できない情報を入手するのを生業としている君なら、裏と全く関係のない一般人の関係者リストを集めることはそこまで難しくはない。……本当に、なんでこんな道を選んだ? やっていることが犯罪になりかねないんだぞ!」
「思想団体と繋がりのある取引先を招き入れて会社を倒産に追い込んだ奴も、犯罪に加担している可能性が高いんじゃない?」
 返された仮説に真崎は「うっ……」と言葉を詰まらせる。仮に記憶があったとしても、取引先が裏でしていることなどわかっただろうか。
 さらにシグマはまくしたてる。
「最初に言っただろ? ()に(・)な(・)れ(・)って。アンタが幅広く動くことで、隠れていた姑息な奴らを引っ張り出すことができる。火伏を徹底的に調べていたら、パウンドの正体を知られたくない誰かがちょっかいを出してくるかもしれねぇじゃん。俺達はそういう役割」
「……わかっている、けど」
 自分が餌であることはわかっているつもりだった。しかしこれでは、あまりにもシグマが理不尽に思えてならない。
 本来の餌は、真崎だけで充分なはずなのに。
「シグマ、俺は――」
「あー腹減った。サフランは今忙しい時間帯だから、コンビニで適当になんか買ってきてくんない? 経費で処理から、請求書も忘れずにね」
 真崎を遮ってシグマは立ち上がると、気怠そうな様子で寝室に入っていった。