◇
「感謝、か」
店を出て土井と別れた真崎は、駐車場に向かいながらふと口に出してみた。
火伏を止められなかったことをバネにして作り上げた、いわばボヤ騒ぎに特化した天気予報アプリ。それが今、人を助けると同時に金儲けの道具となっている。
アプリ自体を道具として使う分には申し分ないだろうが、それでも真崎の中で何かが引っかかっている。
「――あれ、真崎くん(・・)?」
考え込んで歩いていると、途端に後ろから声をかけられた。
聞き馴染みのある女性の声――箕輪輪子だ。
「こんにちは。こんなところで会うなんて偶然ですね!」
「あれ、箕輪さん? どうしてここに」
「今日はお休みなんですよ。それに家がこの近辺で、買い物がてら散歩をしていたところです。真崎く……じゃなくて、真崎さんはどうしてここに?」
「よかったらいつも通りにしてください。きっと、以前の俺のこともそう呼んでいたんですよね。もし敬語も外していたとしたら、話しにくいでしょう」
真崎がそう告げると、箕輪は申し訳なさそうに小さく頷いた。
聞くところによると、箕輪のほうが入社時期が半年ほど遅いらしく、微差ではあるが真崎のほうが先輩にあたる。しかし、ほぼ同期のようなもので、年齢も変わらないことから「くん付け」で呼んでいたらしい。
ちなみに真崎自身は「箕輪さん」から変わっていないという。
「真崎くんはよく気が付くのね。一緒に仕事していた時と何も変わっていないわ」
「そう、なんですか?」
「ええ。私はあなたの、誰に対しても真摯に話を聞く姿勢に憧れていたのよ。だからこそ、あなたは営業部のエースだったのかもしれないわね」
褒められて胸のあたりがくすぐったくなる。自分が何も覚えていなくとも、今までの自分のことを見てくれていることを目の当たりにすると、ここまで優しい気持ちになれるのか。
「ありがとうございます。ところで、異動先って決まったんですか?」
「いいえ。異動ではなく、別の会社で新規事業の立ち上げメンバーとして引き抜きされたの。もうワルトの系列会社ではなくなったわ」
「そうですか。……あの、箕輪さん!」
ワルトが倒産する原因になった企業を聞こうと口を開いた途端、突然頭にガツンと殴られた衝撃が走った。実際に殴られたわけではない。反射的に頭を抱え、その場に蹲ったが、出血しているわけではないようだ。次第に激痛の波が真崎を襲う。
「いっ……!?」
「し、真崎くん、大丈夫? すごい汗……!」
さすがに道のど真ん中で倒れ込むわけにはいかない。箕輪に腕を引いてもらいながら、邪魔にならない端へ行く。コンクリートに座り込み、両手で頭を押さえつける。しかし、あまりの激痛に視界が霞む。すぐ近くに箕輪の焦る声が聞こえた。
「真崎くん、水を飲める? 私、頭痛薬を持っているから……」
差し出されたペットボトルに手を伸ばす。視界に入った瞬間、ただの水のはずなのに、泥のような色に見えて、思わずはたき落としてしまった。
「ど、どうしたの? 水よ?」
声を出そうとすると、より頭痛が増していく。こんなこと、今までなかった。
(視界に入る色が、あのペットボトルだけが違う、気持ち悪い! まるで飲むなと言われているような――)
――■■■■■
(え……?)
誰かの声が聞こえた途端、頭痛が止んだ。あんなに激痛だったのが、何もなかったかのようにふっと消えてしまった。途端に視界がクリアになって、ゆっくりと顔を上げる。
「マサキ、聞こえてる?」
そこには正面にしゃがみ込んで、真崎と同じ目線で問いかけるシグマの姿があった。黄色のパーカーがやけに目を刺激する。
「シグマ? なんで……」
「落ち着けって。今は何も考えなくていいから、ゆーっくり深呼吸して」
一定の速度で背中を擦ってくれる。それに合わせて真崎も呼吸を整え始めた。どこからか感じるのは、真崎自身がどれだけシグマのことを頼っているのかを物語っているように思えた。
そしてようやく落ち着いた頃には、近くで今にも泣きそうな顔の箕輪が視界に入った。
「真崎くん!」
「……箕輪さん、すみません。急にこんなところを見せてしまって」
「ううん。でも本当に大丈夫? まだ退院するべきじゃなかったんじゃ……」
「あはは、時々こういうのがあるんです。もう大丈夫なので」
「とりあえず水でも飲んどけば? ほら」
そう言ってシグマは、箕輪が持っていたものとは別のペットボトルの水を差し出す。今度は泥のような色ではなく、透明な水だった。おそるおそる受け取っても、先程のような激痛は襲って来ない。
真崎はぐいっと一気に水を煽った。だいぶ喉が渇いていたのだろう、五〇〇ミリのペットボトルは一瞬にして空となった。
「おねーさん、コイツのことは俺に任せてもらえません?」
「え、でも……」
「俺、彼の家に居候しているんです。責任をもって寝かせますんで」
へらっと笑いながらシグマが箕輪に言うと、同じ家に住んでいるのなら、ということで納得してくれた。
このまま立ち往生しても、と箕輪は「真崎くんのことよろしくね。私にできることがあったら連絡してね!」と残してその場を立ち去った。
意識や視界がくっきりとして元に戻ってくると、真崎はゆっくりと立ち上がる。
「ん? もういいの?」
「ああ、充分休ませてもらった。ありがとう。……ところで、どうして俺がここにいるってわかったの?」
「マサキレーダーがビビッときた」
「……聞くだけ無駄だった」
余計なことだったと早々に切り上げて、二人は駐車場に向かう。頭痛が起きる前よりも頭がすっきりしているのか、身体が軽いような気がした。
「それで、どうだった? えっと……どどいつみたいな名前の」
「土井悠聖な。いろいろ聞けたよ」
車に乗り込み、真崎は先程聞いた土井の話をシグマに話す。
「土井と火伏が幼馴染ねぇ……」
「警察は調べているのかな?」
「調べたところでパウンドが別にいる証拠にはならないからな。ある程度の情報はあるんじゃない? それにしても『俺のパパはヒーローなんだぞー』並みのカミングアウトだな。自信ありげに装うのは親譲りか」
「親譲り?」
「俺のところにある情報だと、土井はある議員の息子だ。今、確証を掴むために早瀬さんに調べてもらっている。……俺がただサボりたかっただけに見えた?」
にやりと口元を緩めたシグマを見て、やられたと深い溜息をついた。
シグマは最初から土井の素性を調べていたうえで、真崎と対面させたのだ。真剣に聞いていた自分が馬鹿馬鹿しいとすら思う。
むっとしかめ面をする真崎に、腹を抱えたシグマはなだめる。
「大丈夫だって。俺相手に二の足を踏むのはしょうがなくね? それでメシ食っているんだから」
「ほらぁ! やっぱり俺が行かないほうがよかったって! だから嫌だって言ったのに!」
記憶を失う前の自分ができたからと言っても、今の真崎は接客スキルも知らない新入社員同然だ。たまたま体の記憶が覚えていたのが救いだっただけで、真崎自身はなるべくポーカーフェイスを保つことで必死だった。それに真崎が相手から引き出せたのはシグマがすでに知っている情報ばかり。目新しいものはなかった。
項垂れる真崎をよそに、シグマはケラケラと笑う。
「それでいいんだよ」
「……は?」
「平凡を装うアンタが話を聞こうとするから、相手はつけあがるんだよ」
言っていることが理解しがたいとさらに顔をしかめた真崎を横目に、シグマは「ところで」と話をずらした。
「マサキから見てどうだった? 土井悠聖っていう人間は」
「うーん……大学生だけど社長って肩書があるせいか、背伸びしているイメージかな。知ったかぶりをしているというか……そういえば、あれもおかしかったな」
『もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね』
土井の言う通り、アプリの開発も過去にあった過ちを払拭するためのものだとしても、果たしてパウンドの動画を見ただけで火伏本人だとわかるものだろうか。
それを聞いたシグマは「ふぅん」と軽く流すだけで、特に追及してくることはなかった。
じゃあなんで言わせた、とまた眉をしかめた真崎だったが、すぐに切り替えてハンドルを握った。
「次はどこを回るんだ? もうすぐ夕方だし、行けてもあと一件くらいしか……」
「警察署」
「え?」
聞き間違えたかと思わず目を見やると、シグマが楽しそうに笑みを浮かべながら、スマートフォンの画面を見せてきた。そこに表示されたのは、人相の悪い、顔に火傷の痕がある男の写真。
「お前が閉じ込められていたコンテナに火をつけたのは自分だって、ずっと言い張っているんだってさ。拘留されているってのに、どんな手を使ったのか。警察は皆目見当もつかないらしい」
「まさか、パウンドには共犯者がいるってこと?」
「さあな。今からその口を割らせにいくのさ」
「また嫌な予感がする……」
「そういうことができるのも、俺の特権なんだよ」
シグマがシートベルトを締めたのを確認して、真崎は緊張しい面持ちでハンドルを握った。
警察署内にある取調室では、緊迫した空気が流れていた。
刑事の前に苛立った様子で座っているのは、『放火魔パウンド』を名乗る火伏昭だ。刈り上げられた黒髪に、吊り上がった目の下には火傷のような痕がくっきりと残っている。黒いシャツの合間から見える金色のネックレスが、貧乏ゆすりから伝わって揺れると怪しく光った。
火伏が警察に逮捕されたのは、今から半月ほど前――ちょうどパウンドの放火が活発になってきた頃のことだった。
そんな彼が突然、真崎が監禁されていたコンテナに火をつけたと自供を始めたのだ。
当時、火伏は拘留中で常に監視カメラの支配下にあった。抜け出せることなどできるはずがない。
模倣犯を庇うのかと問えば、気味悪く嘲笑った。
「模倣犯? いやいや、違うって。警察ならとっくに、パウンドが設置したものにはすべてマーキングされていることは調べがついているんだろう? 今回のだってあったはずだ。見様見真似でやっている奴らが、パウンドになれるわけがない。そうだ、これだけ教えてやる。パウンドは複数名の放火魔集団じゃない。世間に轟く名前を、俺が独り占めしないわけがないだろ。実際にパウンドは俺だけだし、もし仮に共謀している奴がいたとしても、それはパウンドなんかじゃねぇ!」
意気揚々と発せられる言葉からは、パウンドへのリスペクトを感じ取れた。自分だけに注目してほしいという人間の心理が、放火という形で表れてしまった結果なのだろうか。
取調室の隣で火伏とのやり取りを聞いていた真崎は、気付かないうちに震える手をぎゅっと抑えていた。
(あれが、火伏昭……)
シグマに「パウンドの取り調べに立ち会う」と言われた時は、息が詰まるかと思った。
火伏が自分をコンテナに閉じ込めた人物だったら――そう思うだけで、嫌な冷や汗が伝う。しかし、ガラス越しで火伏の姿を確認しても、記憶が戻ることはなかった。
むしろ、別の違和感を覚えた。
(何かがおかしい)
発言の矛盾だけでなく、彼の行動、顔色、癖――パウンドへのリスペクトを語る中に、どこか必死に隠そうとしている何かがあるように思えてならない。
「マサキが監禁されていた件については、拘留中の火伏に犯行は不可能だ」
真崎の後ろで控えていた早瀬が言う。
「今までの取り調べを見てきた誰もが、火伏が本物を庇っている可能性が高いのはわかっている。でも口だけは達者で、簡単に話そうとしない。担当している刑事が血の気が多いから、すぐ火伏の挑発に乗ってしまう……ああほら。まただ」
ガン! と鈍い音が聞こえて視線を戻すと、対面に座っていた刑事が真っ赤な顔をして今にも殴りかかろうとして他の刑事が必死に止めていた。カオスな状況下でも、火伏だけは楽しそうに笑っている。
「うっわ……これ、今の時代だと大問題でしょ」
「頭ではわかっているんだ。だが、火伏の誘導や挑発が上手いのか、ベテラン刑事でもお手上げ状態だ。……だから、お前達をここに呼んだ」
「どういうことですか?」
上手く話が飲み込めていない真崎に、早瀬がシグマを見ながら告げる。
「シグマ、嘘が通用しないお前なら、火伏の真意を引き出せるはずだ。直接対面してみないか?」
「え? 嫌だ」
緊迫する空気が流れる中、バッサリと切り捨てたのはシグマだった。
「シグマ、そんな簡単に断らなくても……」
「だって無理だもん」
「もんって可愛くつけたら許されるって思ってないか?」
「思ってねぇし、無理なもんは無理だよ。確かに俺なら嘘を見抜けるだろうけど、オッサン達の挑発でさらに警戒心が高まっている今、入り込む隙間はないって。ひとまず落ち着かせないと火に油だぜ」
ちなみに俺が油ね、とへらっと笑う。他人事のように続けるシグマだが、その笑みには何か企みがあるように思えた。
「火伏の警戒心を解く……どうやって?」
「ここに適任者がいるじゃん」
シグマがそう言って、真崎の背中をぽん、と叩く。勢いで一歩前に出ると、真崎と早瀬は唖然としたお互いの表情から一気に青ざめていくのがわかった。
「ちょっ……何言ってんの!? 本気!?」
「お前はともかく、マサキは一般市民だ。ただでさえ取り調べの立ち合いもご法度なのに、対面させるなんて許可できるわけがないだろう」
「一般市民? いやいや、ただの一般市民ならこんなところまで入れられないって」
「それはお前が連れてきたからだろうが!」
「現時点でマサキは犯罪に手を染めかけた人間なんでしょ? グレーゾーンなうえ、本人には自覚がない。だからマサキの中には、悪事を働いたかもしれないという罪悪感がある。それに、火伏が火をつけたっていうコンテナの中で死にかけていたたんだぜ? 面通ししてもマサキが何も思い出せないなら、火伏がなにか知っているかもしれない。一石二鳥じゃん」
シグマの説得に早瀬がぐっと言葉を詰まらせる。
確かに、コンテナの中に重傷者がいたことは報道されているとはいえ、顔や名前までは公開されていない。対面させたら、火伏に何かしらの反応があるかもしれない。
(それでも、俺が放火魔と対峙するなんて……!)
自分を閉じ込めた相手かもしれないのに、とたじろいてしまう。唇を噛んで堪えようとすると、正面に立つシグマは目を合わせて屈託のない笑みを浮かべて言う。
「そんなにビビるなって。やることは決まってんの。俺が今から言うことをマサキが聞けばいい。困ったら早瀬さんに任せれば問題なし! 全部背負う必要は最初からねぇよ」
「で、でも……」
「大丈夫。マサキは人の話を聞くのも聞いてもらうのも得意だろ。それにお前は、俺の相棒なんだからさ」
最初から上手くできる人間なんていない。そう言われてしまえば何も言い返せられなくて、真崎はそっと早瀬のほうを見る。
早瀬が頭を抱えて溜息をついたのを見て、観念したように自分も両手を上げた。
上からの許可が下りると、真崎は早瀬とともに火伏のいる取調室に入った。
近くにいた刑事と入れ替わって座ると、途端に煙草の匂いが強く香った。気分転換に煙草を吸う人はいるが、すれ違うだけでむせるほど香るとなると、相当参っているのかもしれない。
「あぁ? 誰だコイツ。新しい刑事?」
火伏の態度は相変わらずで、苛立ちを隠そうとしない。ぎらりと効かせた睨みに、思わず萎縮してしまいそうになるのをぐっとこらえて、真崎は彼を注意深く見入った。
(でも、本当に覚えていないんだよな……)
火伏の特徴でもある顔の痣は記憶に残りやすいはずだが、全く覚えがない。それは今の真崎に記憶喪失という障害があるからというのも含まれるが、シグマや早瀬、それこそ出原部長と再会した時のような懐かしい感覚さえもなかった。
(記憶を失くした三年間分の中にあるかもしれないけど、そういう感じでもない。火伏の反応も、いたって普通だ)
火伏は真崎のことを知らない。――そんなような気がしてならないのだ。
対して火伏はどこか品定めするように真崎のことを見つめている。まるで蛇のようにギョロギョロと動く目は不気味だ。
それでも務めて冷静に、小さく息をついてから真崎は口を開いた。
「初めまして。真崎大翔といいます。株式会社ワルトの元社員でした」
「ワルト……確か企業メーカーの会社だったか。その元社員が俺になんの用だ? つか、警察じゃない人間が俺に取り調べ? マジかよ、警察も随分弱腰になったな!」
わざと大きく挑発する。後ろで待機していた刑事が殴りかかろうと立ち上がるが、すぐに早瀬に止められた。
歯痒いのはこの刑事だけではない。早瀬だって嫌な上司に頭を下げ、一般人である真崎を取調室に入れることを頼んだのだ。警察をおちょくり、怒りで冷静さを欠けた警察を被弾する材料を与えてしまい、火伏から大した情報も引き出せない今、一般人の手を借りなければ突破口さえも見えてこないとなれば、警察のプライドも許されないだろう。
部屋中からビリビリと伝わってくる重圧に、真崎は気を引き締めた。これ以上、火伏のペースに流されるわけにはいかない。
「俺があなたと話したいと進言しました。警察は関係ありません」
「……はぁ?」
「言ったでしょう? 元社員だと。今はある出版社で記者をしています」
そう言ってジャケットの内ポケットから名刺を慣れた手つきで前に差し出す。火伏はそれをじろりと一瞬だけ見て、すぐに真崎へ目線を戻した。
(名前の漢字を見ても特に反応なし、か。やっぱり彼は俺のことを知らない)
シグマが最初にするようにと助言されたのは、真崎大翔との関係性を確認することだった。特に真崎の名前は、間違えて覚えられやすい。顔を見て反応がなければ、名前を出して確かめればいい。その時の火伏の表情を、別の部屋から見ているシグマが観察し、判断するというものだった。
しかし、口で告げた名前と漢字の表記が異なるため、念のためと思って名刺を出してみたが、火伏は微動だにしない。
真崎は名刺を仕舞いながら、シグマに言われたことを思い出す。
『もし火伏の顔色が変わらない場合、本当にマサキのことを知らない可能性が高い。そうなったら――』
この後は、真崎の本領を発揮するのみだ。
「あなたに聞きたいことが山ほどありますが、その前に教えてください。本当にあなたはパウンドなんですか?」
「……はぁ? 何度言わせたら気が済むんだ? 俺がパウンドだって言っているだろ。その証拠に家から火薬を作るストックがあったはずだ」
「確かにあなたの家には生成に使われる薬品や器具、サイトに投稿され、運営によって削除された動画の元データも残っていた。でもそれは、あなた以外の人が家に入り、置くことだってできます」
「家の鍵が壊されていたとでも?」
「いいえ。玄関をピッキングされた形跡はありませんでした。では、火災の現場にいた理由は? 犯人は現場に戻るとか、そんなドラマみたいなことを言うつもりですか?」
「こう見えて俺は繊細なんだ。火がつかなかった可能性だって考えている。……まぁ、火事になっちまったのは想定外だったけど……」
「想定外?」
「あの放火は手元が狂っただけ。動画に残せなかったのは残念だったぜ」
「……動画にするつもりだったなら、なぜコンテナではしなかったのですか?」
「は……?」
途端、眉をひそめる火伏は、真崎をじっと見つめた。
警察の人間でもないただの一般市民が、なぜ自分を問い詰めようとするのか。
「パウンドが投稿した動画を拝見しました。どれも防犯カメラを避けた場所ではありましたが、近い場所に人通りがあり、下手をしたら人を巻き込むような、誰かが気付く場所で放火が行われています。それは万が一に火の回りが早い場合、自分が消防に連絡したり、火を消そうとする動きをすれば、第一発見者として装うことができるからです。しかし、あの廃棄予定のコンテナ付近は人けが少なく、山に近い場所。……今までと行動が異なりますね? 気分で変えたなんて、くだらない理由は却下します。撮って出しではなく、わざわざ編集を入れた動画を公開するほどの完璧主義者が、無計画で事を進めるはずがない」
野外トランクルームの夜は管理人も不在の中、ボヤ騒ぎがあったとしても観客の目が少ない。そんな場所にパウンドが意図的に放火する理由は未だ不透明だ。
シグマはそれをざっくばらんに真崎に伝えると、「あとは自分で詰めてくれ」と丸投げした。内心ふざけるなと悪態をつきたいところだが、火伏と対面し、少しでも気を抜けばすぐに相手にとって食われると察し、疑問に思っていたことをその場で詰めるように問いかけることにした。
現に、火伏は声を荒げてはいるが常に冷静だった。前のめりになって真崎の顔を覗き込むようにして睨みつけてくる。一瞬でも気を許せば、蛇のように飲み込まれてしまうかもしれないと思った。
「お前、本当に記者か? 俺に何を言わせようとしている?」
「脅迫するつもりはありません。ただ、教えてほしいんです。どうして、あのコンテナを狙ったのか」
「は?」
「あのコンテナの中に、人がいたことは知っていますか?」
「……ああ、そういえばいたな。知らねぇ奴だよ。火をつけようといたところを目撃されたから、次いでに殺してやろうと思って――」
「それ、俺です」
スッと目の前にいる火伏を見据える真崎の表情は無だった。
怒りも憂いた表情も感じない。ただまっすぐ目を捉える彼はどこか異様なオーラをまとっているようで、火伏は吹っ掛けようとした言葉を思い留める。これ以上口を開いたら、心臓を鷲掴みされそうな気がした。
「俺なんですよ。あのコンテナの中にいたのは。供述通り、あなたが口封じのために見知らぬ男性を、死の寸前まで痛めつけてからコンテナに閉じ込めたとしたら、あなたは俺の顔を見て気付かないわけがないんです」
「はぁ? あの時は暗かったし、いちいち人の顔なんて覚えてねぇよ」
「あのコンテナの近くには防犯カメラだけでなく、街灯もいくつか設置されていました。真っ暗で何も見えない状態じゃない。それに発見当時、俺は全身血まみれでした。重症でしたが、医者の話だと急所はわざと外されていたそうです。顔の判別もできない暗い場所で、どうやって急所を意図的に外すことができるでしょうか?」
「だからなんだよ? たまたま外れていた可能性だってあるだろ」
「まだわかりませんか? 俺は血まみれだったんです。でもコンテナの外に血痕がなかった。つまり、あなたは別の場所に移動したうえで一方的に暴行し、拘束してコンテナに監禁した。……コスパ、悪すぎません? 俺のスマートフォンは山の中にありました。どうして別の場所にそれぞれを破棄したんですか?」
仮に偶然訪れた人がいたとしても、慌ててその場から逃げるだろうし、口止めするにしても脅す程度で済んでいただろう。しかし、コンテナ周辺には血痕どころか、争った形跡は見当たらなかった。雨でほとんど流されてしまったとはいえ、コンテナの中で眠っていた真崎の姿からは、別の場所で暴力を振るったのはほぼ間違いない。
「教えてください。あなたは俺を、どこで血まみれになるまで殴り続けたんですか? もしそれが本当なら、あなたが着ていた服には返り血がついているはずです。どこに捨てましたか?」
「――っ、お前! 勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!」
ガタン! と勢いよく立ち上がる火伏は、今にも真崎を食い散らかそうと血走った目で睨んだ。二人の刑事によって押さえつけられたが、それでも真崎は火伏から目をそらそうとしない。
「火伏さん! あなた、本当は……」
「うるせぇ! 俺がパウンドだ、パウンドなんだよ! お前を殺しかけたのも俺、火を放ったのも俺だ! 留置場にいたことがわかってる? たとえそうだとしても、警備員をそそのかすことだって簡単にできるんだよ! さっさと俺を起訴しろよおおお‼」
暴れ始める火伏に、これ以上の取り調べは難しいと判断され、複数名で火伏を抑え込むようにして取調室を出ていった。
「ま、待って!」
ここまで来て、何も手がかりを掴めずには終われない。真崎も飛び出して、引きずられるようにして歩く火伏の後ろ姿に向かって問う。
「あなたがあのコンテナ付近にいたのなら、何か気になったことはありませんか!?」
「……はぁ?」
「なんでもいいんです、不審な人物を見かけませんでしたか!?」
自分が監禁されていた手がかりを探す唯一の人物――もし火伏がコンテナを出入りしていたとしたら、何か見ているかもしれない。
足を止めた火伏が、ゆっくりと真崎のほうへ振り返る。そして平然とした顔で口を開いた。
「……そういや、俺が捕まるずっと前に怪しい奴を見たな」
「怪しい奴?」
「あの山の近くで破裂音がしたら楽しいだろうなって、下見していた時のことだ。妙な恰好をした二人組が、廃棄処分されるコンテナの前で何か話し合っているのを見た。俺は記録に残らないようにカメラを避けていたから、居合わせるどころか奴らの会話を聞き取ることもできなかったが、あれは頭がイカれているように見えた。スーツを着て、能面をつけている二人組だ。確かこっちを見て笑っている爺の面と、詐欺師っぽい顔の面面をしていたな」
「…………」
途端、真崎の脳裏に妙にリアルな映像が流れ込んでくる。
複数名が顔を能面で隠す中、真崎に向かって近づいてくる――般若の面をかける人物が。
(般若? いや……ちがう、これは別の記憶?)
「これでいいか探偵もどき。さっさと諦めて、早く俺を刑務所送りにしてくれよ」
ハッと真崎の意識が引き戻されると、火伏はでろんと舌を出して気味の悪い笑みを浮かべると、引っ張られるようにして歩き出した。
その後ろ姿を茫然と見送る真崎と早瀬に、別室から出てきたシグマが場違いにケラケラと笑う。
「随分怒らせたな、マサキ。上出来だよ」
「それは火伏を怒らせたこと? それとも……妙な恰好をした二人組のこと?」
能面をつけたスーツの人物――当然というべきか、真崎の記憶にはもちろん覚えがない。そっとシグマを見ると、思わず目を見張った。
何かを確信したような笑みを浮かべているその表情は、喜びや楽しみを感じられるものではあっても、明るい感情ではない。まるでずっと隠れていた獲物が飛び出したのと同時に目を光らせるような、言葉を選ばなければ、殺気に近いものを感じた。
(仄暗い、黒くうごめいた感情……シグマは、一体何を探しているんだ?)
記憶を失ってからシグマに会って二日も経っていないが、飄々とした姿を見ているせいか、ぞっとする。
「早瀬さん、今日はこれで帰るわ。行こうぜマサキ」
「あ、ちょっと……!」
歩き出すシグマに、慌てて真崎は後を追う。口元の緩みは無くなっていた。
「どうだった? 自分を殺しかけた人間と対面した気分は?」
警察署から事務所に戻ったのは、オレンジ色の空が暗くなり始める頃だった。
帰宅して早々にソファにくつろぐシグマは、まるで『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫のようだ。意味深な笑みを浮かべ、楽しそうに真崎を見据える。警察署の去り際に見せたあの殺気は、気付いた頃には面影もなく消えていた。
対して真崎は、勢い任せに書きなぐったメモの内容を整理しているところだった。ただでさえ、今日一日で多くの情報を得ただけでなく、特例で犯罪者の事情聴取をさせられたのだ。余計なことを考えている暇はおろか、情報を整理する余裕もなかった。
「五分ほど時間をくれないか。頭がパンクしそうだ」
「だーめ。一分、いや三十秒で簡潔にまとめろ」
(そんな無茶な)
今の真崎は、自分の考えを伝えるよりも先に、シグマを問いただしたい思いのほうが強い。しかし、それを簡単にさせないのがシグマだ。悔しいが、喉まで出かかっている言葉をぐっと飲み込んだ。まずはパウンドの放火事件が優先であることは、真崎にもよくわかっている。
「火伏は俺のことを知らなかった。そしてこれは俺の直感なんだけど、彼は暴力どころか、放火さえしていない……と思う」
「その根拠は?」
シグマの問いかけに、真崎ははっきりと「ない」と言い切った。
「火伏は早く裁かれようと訴えているけど、その割には諦めているようには見えなかった。もしかしたら、彼が拘留されている間に裏で何かが動いているのかもしれない。……考えすぎかもしれない、けれど」
最後に吐き捨てるように言った「起訴しろ」――パウンドの犯行が正しいと賛美していたにも関わらず、あの言葉だけは自棄になって突発的に口にしたように見えたのだ。
「あとは……火薬について。さすがに知識がなさすぎる気がする」
「それは俺も思った。放火方法はわかるけど、何を使っているのかまでは認知していない感じ。少なくとも、火薬を生成した人物ではないだろうな」
「じゃあ本物は一体……? 警察が範囲を広げて聞き込みを続けているって言っていたけど、特に進展はなさそうだよな」
「無理だな。どう考えても土地を知っている奴の動きだ。簡単に出てきたら防犯カメラなんてそこら中に設置しねぇよ」
スマートフォンを確認しながら小さく溜息をつくシグマ。早瀬からの連絡待ちなのかもしれない。
とはいえ、それだけの矛盾があるからこそ、火伏が真犯人だと証明されていないにも関わらず、未だに釈放されずにいる。警察としても、確信しきれない証拠では判断力に欠けるのだろう。
そしてもう一つ。真崎には気になったことがある。
「どうして火伏はあんなに警察を煽るんだろう? すぐに起訴されたいのなら、最初の取り調べですんなり自供していればよかったんじゃないのかな」
敵意がむき出しの取り調べを思い出すたびに、あの殺気立つ気迫を全身で受けた圧力が蘇ってくる。コンテナ監禁の一件で「自分がやった」と言い出さなければ、ここまで警察が煽られることはなかったかもしれない。
「煽りといえば、あのオッサン達。随分ストレスが溜まっていたように見えた」
「ずっと怒鳴っていたもんなぁ……取調室の中も、服に染み付いた煙草の匂いが充満していてすごかった」
「あれで調書が取れているかも怪しいぜ。冷静な判断ができる奴が、果たして何人いるのか」
「シグマ、人を見下すような発言は控えたほうが……あ」
真崎はハッとした。シグマが今の口ぶりは、まさに火伏がしたこととさほど変わりはない。
人は煽られたら感情が高ぶり、冷静に物事を考えられなくなることも少なくはない。――つまり、煽った人物のことしか視界に入らないのだ。
「煽るのは……裏に隠された何かの時間稼ぎ?」
火伏が逮捕されている期間が長ければ長いほど、本当の目的を達成するためにかける時間を作ることができる。
では、本当の目的とはなにか。
真崎はポケットに入れっぱなしにしていたボイスレコーダーを再生させる。もちろん、巣鴨の聞き込みだけでなく、土井と火伏の話もしっかり録音済みだ。何か見落としていないか、じっくり聞き込んだ。しかし、手がかりになりそうな話は見当たらない。
一緒になって聞いていたシグマも、眉をひそめるばかりだ。
「ふーん……火伏は火遊びの常習犯だったのか」
「土井の話では、小中学校の頃からだって言っていた」
「なら、地元民との関わりは深いよなー」
え? と疑問の声を上げる前に、真崎の顔に何かの紙の束を叩きつけられる。突然のことで受け止められず激突し、床にバラバラと落ちた。どうやら名前と住所の一覧表のようだ。
「シグマ、これって……」
「火伏昭が幼少期を過ごした彼咲村は、ここから車で四時間。明日も情報収集だ」
口もとが歪み、にやりと笑みを浮かべるシグマを見て、すべて察した。
「……シグマ、君は彼らが知り合いだって最初からわかっていたな?」
「さぁ? なんのことだか」
「警察が入手できない情報を入手するのを生業としている君なら、裏と全く関係のない一般人の関係者リストを集めることはそこまで難しくはない。……本当に、なんでこんな道を選んだ? やっていることが犯罪になりかねないんだぞ!」
「思想団体と繋がりのある取引先を招き入れて会社を倒産に追い込んだ奴も、犯罪に加担している可能性が高いんじゃない?」
返された仮説に真崎は「うっ……」と言葉を詰まらせる。仮に記憶があったとしても、取引先が裏でしていることなどわかっただろうか。
さらにシグマはまくしたてる。
「最初に言っただろ? 餌に(・)な(・)れ(・)って。アンタが幅広く動くことで、隠れていた姑息な奴らを引っ張り出すことができる。火伏を徹底的に調べていたら、パウンドの正体を知られたくない誰かがちょっかいを出してくるかもしれねぇじゃん。俺達はそういう役割」
「……わかっている、けど」
自分が餌であることはわかっているつもりだった。しかしこれでは、あまりにもシグマが理不尽に思えてならない。
本来の餌は、真崎だけで充分なはずなのに。
「シグマ、俺は――」
「あー腹減った。サフランは今忙しい時間帯だから、コンビニで適当になんか買ってきてくんない? 経費で処理から、請求書も忘れずにね」
真崎を遮ってシグマは立ち上がると、気怠そうな様子で寝室に入っていった。
(きっと、記憶を失くす前の俺もこんな感じだったんだろうな)
事務所を出て大通りにあるコンビニで適当に買い込み、来た道を戻る。駅が近いということもあってか、夜でも人が行き交っていた。帰路につくサラリーマンが多いのは土地柄だろうか。
真崎は中身が詰まったコンビニの袋を揺らしながら、シグマの言動に腹を立てていた。
自己犠牲をしてまで危険なことを引き受ける姿勢が、真崎には理解しがたい。もし記憶を失くす前の自分だったら――なんて、そんなことを考えていても意味がないことは頭ではよくわかっているはずだった。
素直に戻ったところで、きっとシグマは自分の話を聞いてはくれないだろう。
彼にとって、『真崎大翔』という人物は何か。利用すると決めたものの、流されるがまま、今日まで何も得られていない。
腹いせに寄り道でもして遅く戻ってやろうか、そんなことをふと思った瞬間、背筋を刺すような鋭い視線を感じた。
(……なんだ?)
真崎が歩いているのはまだ人の行き交いがある大通りだ。防犯カメラもいくつか設置されている。ここで何かをしでかそうとするのはお互いにリスクが高い。
(人が多い場所にいればまだ安全……だけど)
背中に汗が伝う。嫌な予感しかしない。
真崎は呼吸を整えると、そして一気に走り出した。
つられてバタバタとコンクリートを鳴らす足音が聞こえてくる。おそらく真崎の後をつけていた人物だろう。まだ人がいる時間に関係のない人々を巻き込むわけにはいかない。
不意を突くように路地裏に入り、奥に進んでいく。シグマの事務所まで戻れるか、振り切れたらこっちのものだ――思った矢先、全身真っ黒な服装に身を包んだ人物が、鉄パイプを大きく振りかぶって今か今かと待ち構えていた。
「うわぁっ!? ……っ、この、危ないじゃない、かっ!」
振り下ろされると同時に避けると、咄嗟にコンビニの袋を中身が入ったまま投げつけ、取り出したスマートフォンのライトで相手を照らす。
「あなたは一体……俺に何の用ですか?」
目くらまし程度になればいいと思ったが、相手の顔を見て思わず目を疑った。
腕で隠れてよく見えなかったが、普通の人間ではありえないような位置に口の端が見える。体のサイズより少しばかり大きめの黒いスーツを着ているが、体格からして男性だろう。
そしてゆっくりと腕を降ろして現れたのは、翁の能面。
(火伏が言っていた、妙な恰好をした人物……!)
戸惑う真崎をよそに、能面の男は容赦なく鉄パイプを振り回していく。
「やめろっ! 何のために……って、うわぁ!?」
声をかけてもやめる気配はない。力づくで止めようと試みるが、傍若無人に振り回す鉄パイプを止めるどころか、受け流すほどの技量は持ち合わせていない。下手したらこちらが大怪我をしてしまう。
鉄パイプをかわしているうちに、路地裏の奥へとどんどん入っていく。
そして行き止まりの壁が目に入った途端、真崎はハッとした。
(ただの通り魔なんかじゃない、確実に俺を狙って――!)
後ろだけでなく左右が建物の壁に覆われ、袋小路になっている。鉄パイプをむやみやたらに振り回していたのは、自分を完全に人がいない場所へ誘導するためだったのだ。しかもこの路地は、五階建てのビルに挟まれる形で建てられており、片方は廃墟寸前で、使われているフロアは少なく、声を荒げたところで助けは見込めない。
確実に、真崎を仕留める気なのだ。
能面の男が、真崎の腹部めがけて蹴り上げてくる。防ごうとしたのも束の間、見事に腹部に入った勢いで壁に叩きつけられた。なす術もなく、ずるずると地面に座り込むと、能面の男はすぐさま首元を絞められる。
「かは……っ!」
このままでは窒息してしまう。真崎は両手で腕を掴んで剥がそうとするが、爪を立てても離れる様子はない。喉元を掴んでいる腕は、服越しからでもしっかり筋肉もついているのがわかる。
(俺の腕力じゃ勝てない。どうにかして、呼吸を確保しなくちゃ)
「は、離せ……っ!」
呼吸もしづらくなり、あがくだけで精一杯だ。せめて顔だけでも見てやろうと不気味に笑う能面に手を伸ばすが、届くはずもなく宙を切るだけ。
(こんなところで終わるのか? 記憶を失う前の俺がしたかったことも、パウンドの事件のことも、シグマのことも思い出せないまま死ぬのか?)
キッと睨みつけても、翁の面の下でこの人物に対する威嚇にもならないが、どうせこの場で死ぬなら、何か手がかりでも残せと自分を奮い立たせてもう一度手を伸ばした、その瞬間。
「――ちょー人気者じゃん、マサキ」
聞き慣れた煽り口調、人をからかうような抑揚のある声色。それと同時に真崎の目の前で月明かりによって透けた銀髪が輝いて一閃する。
(……おいおい、どこから飛び降りてきたんだよコイツ!)
行き止まりの路地裏。出入りできるのは来た道を戻るか、建物の上から飛び降りるかの二択。あろうことか、シグマは廃墟寸前のビルの途中の階から飛び降りて真崎と能面の男との間に落ちてきた。それは能面の男が顔を上げた途端、すぐそこまでごつい安全靴の先端が迫っていたのと同じタイミング。
ハッとしてすぐに真崎の首から手を離し、安全靴に蹴り飛ばされる寸前で離れ、距離を取った。警戒心が強くなっている。空から人が降ってくるなど想定できるわけがなかっただろう。
真崎は咳払いをしながら起き上がると、背に隠すようにして立つシグマに問う。
「熱狂的な大ファンじゃん。嫉妬しそう」
「ふざけている場合か! シグマ、どうしてここに?」
「こんなことになるような気がしたんだ。大当たりだったなぁ」
にやりと口元をゆがめた彼――シグマは笑った。そして視線はゆっくりと、謎の人物に向けられる。
「通り魔だかストーカーだか知らないけど、俺の相棒に手を出してどうするつもり? 警察で詳しく話す? それとも――俺にぐちゃぐちゃにされる?」
「…………くそっ!」
じりじりと距離を詰めようとすると、能面の男は持っていた鉄パイプを勢いよく投げつけてきた。
シグマが蹴りではたき落とすと同時に、能面の男は颯爽と路地から逃げていく。真崎を大通りから追ってきた人物はまた別だったのだろう、二人分の足音に増えて遠くへ小さくなっていった。
「……逃げ、た?」
足音が聞こえなくなり、しんと静まり返ると、真崎はその場に倒れ込んだ。起き上がる気力はもう残っていない。気の抜けた顔をする真崎の様子にシグマはケラケラと笑った。
「いやぁ、巻き込まれ体質は今もなお健在ってところか」
「笑いごとじゃねえよ……ありがとう、助かった」
「俺が勝手にやっただけだよ。……でも、今度は(・)間に合ってよかった」
薄暗くてよく見えなかったが、すぐ近くにしゃがんで笑うシグマの表情は、どこか安堵の笑みを浮かべているように見えた。
(今度は?)
その一言が引っかかったが、今まで見たことのないシグマを前に、なぜか踏み込んではいけないと思ってしまった。
コンビニで買ったものは踏みつぶされてしまい、食べられる状態ではなかったため、二人は素直に喫茶店『サフラン』に顔を出した。
店のピーク時に訪れることがほとんどないこともあって、他の店員には「珍しいですね」と声をかけられたが、注文した料理を持ってきたリリィには「何をしでかしたの?」と冷たい目で見られた。店に入る前に路地裏で付いた土をはらい、身なりを整えたつもりだったが、リリィにはすぐに見抜かれたらしい。
食事を終えて事務所に戻ると、先に店の手伝いを終えて私服に着替えたリリィが救急箱を片手に待ち構えていた。
「怪我をしたのはマサキだけ? さっさと背中を見せてごらんなさいな」
歪な丸眼鏡をくいっと上げながら軽く睨みつけられる。ふと、彼女に隠しごとはできないと、シグマの言葉を思い出す。当人は「疲れたから寝る」と言って早々に寝室へこもってしまった。上手く逃げたらしい。
お言葉に甘えて壁に強く打ち付けた箇所に湿布を貼り、包帯をぐるぐると身体に巻き付けていく。以前もこんなようなことがあったのだろうか。
「打撲痕、また広がっているわよ。何をしたらこんなことになるのかしら」
「あはは……俺にも何がなんだか」
「どうせ今追っている事件絡みでしょ? シグマからある程度のことは聞いているけど」
「リリィも情報収集を?」
「いいえ。手伝わせてはくれないけど、急にふらっといなくなるから、何をしているのかだけでも共有してもらうようにしているの」
呆れたように小さく笑うリリィ。聞けば、まだ十三歳の中学生らしい。どんな情報を取り扱っているかもわからないシグマの手伝いなど、させるわけにはいかないだろう。
「事件の詳しいことは聞くなって止められているけど、さっきのことは聞いてもいいでしょ? 何があったか教えなさいよ」
包帯を巻き終わるところで、意図的にぎゅっときつく締められそうになる。半分脅されていることを察した真崎は、かいつまんで話した。
その中でも「能面をつけた男」の話を出すと、リリィの顔つきが一気に深刻になった。
「能面……それ、恵比寿の面じゃなかった!?」
「恵比寿? いや、翁の面だったけど……」
異なる種類の面の名を聞いてより眉をひそめる。警察署で見たシグマの殺気とは真逆の不安そうな表情に、今度は真崎が問い詰めるようにリリィと向き合った。
「何か知っているんだね? 今日話を聞いてきた火伏が、コンテナの近くで能面をつけた人物を目撃しているんだ」
「コンテナって……あなたが監禁されていた?」
「ああ。それを聞いた時、シグマの雰囲気が変わった。まるで、殺気のような……もしかして、恵比寿の面をつけた人物と何か関係があるんじゃないのか?」
「べ、別に、ただの興味よ。どうしてそんなこと聞くの?」
「君達はただの協力者じゃない。そうだな、どちらかというと……兄妹に近いんじゃないのか?」
図星を言い当てられたようで、彼女の顔がさらに青くなると、さらに問い詰めた。
「リリィ、教えてくれ。能面の奴らと君達になにがあった? 『真崎大翔』は、君達に寄り添えるだけの人間だったのか?」
真崎はこの機会を逃してはいけないと直感した。能面の人物の目撃情報を聞いた時のシグマの静かな怒りを、「今度は」と呟いたシグマの仄暗い顔を、もう二度と見たくないと思ってしまったから。
真剣な表情で訴える真崎に、リリィは躊躇いながらも小さく息をついた。
「……シグマは、本当に何も言っていないのね。相棒なのに」
「相棒だから言えない、そんな思いもあるんじゃないのか」
「そんな密な関係じゃないわよ。これはビジネスなんだから」
そう言って立ち上がると、壁にずらりと並んだ本棚の中で、妙にへこんだ棚の前に立つと、本をどかして奥へ手を突っ込み、あるファイルを引っ張り出した。
リリィに差し出されるがまま受け取って開くと、今から十年ほど前の新聞記事の切り抜きがびっしりと貼られてまとめられていた。ファイルを捲れば捲るほど、日焼けした新聞記事ばかり。脇に細かく何か書かれているが、滲んでしまって読めなくなっている。
「今のマサキなら、記憶にはまだ新しいものかしら」
「……この事件があった時、俺は十八歳で大学受験の真っ最中。印象的で一躍話題になったから、面接で聞かれたら答えられるようにと、ある程度情報は集めていたよ」
「そう。なんて答えたの?」
「聞かれなかった。……でも、『集団によるいじめじゃないか』って答えようとしていたかな」
新聞記事から顔を上げると、リリィは泣きそうに眉をひそめながら、「残念ね」と続けた。
「それじゃあ合格はもらえなかったかもね。これは児童養護施設で起きた怪奇――通称『赤い花事件』。きっと誰も覚えていないわ」
――今から八年前の、ある寒い冬の日のこと。
児童十八名、職員六名の小さな児童養護施設で、その事件は起こった。
当時十歳だった男子児童が放課後に居残りをし、夜十八時を過ぎた頃に施設に帰宅したところ、いつも賑やかな室内が妙な静けさに包まれていることに気付いた。
本来ならば、この時間帯は食堂にて皆で夕食の準備をしている時間だ。ドアが閉まっているから、中にいる彼らの声が聞こえてこないのだと思った児童は、いつものように食堂のドアを開いた。
そして、その先に広がった光景に彼は目を疑った。
自分を除く児童と職員全員が、その場で倒れていたのだ。ある者は床で、ある者は食卓の上で。またある者は配膳途中だったのか、手に箸を持ったまま。さらに床に散らばった出来立ての料理や皿が、アネモネの赤い花とともに無残に踏みつぶされていた。
児童は慌てて駆け寄り、全員の肩を揺らして起こそうとしたが、一向に起きる様子はなく、ただただ寝息だけが聞こえてくる。
上手く言葉にできたかは定かではないが、拙いながらも「施設の皆が倒れている!」と必死に警察と救急車に説明し、助けを求めた。数分後に到着した彼らも、目の前に広がる異様な状況に眉をひそめる。救急車で病院に運ばれていく家族を横目に、児童は警察の事情聴取を受け、帰ってきてからのことをすべて話した。
食堂は玄関から遠い場所にあり、塀に囲まれた中庭へはガラスの戸を隔てている。鍵はどの場所も閉まっており、物を盗られた形跡がないこともあって、捜査は難航。
それから数時間後に、病院に搬送された児童や職員が次々に目を覚ましたと連絡を受けた。
児童も警察とともに向かい、彼らと対面した――が。
『……あなた、誰?』
意識がはっきりとした一人が、開口一番に児童に告げた言葉を皮切りに、倒れていた全員が、児童のことを何一つ覚えていなかったことが発覚した。
◇
「――それ以来、その児童の居場所はなく必死に訴える姿が異常だと、皆が彼を不審がるようになった。使っていた部屋も私物もあるのに、通っている学校の名簿にも記載されているのに、『覚えていない』というだけで孤立させていったわ」
話をひと区切り付けたリリィは、冷めきったストレートティーを口へ運んだ。
今、彼女が話した事件は怪奇とされ、世間では『赤い花事件』として報道された。
当時は今のような、事件に対して憶測を提示するインフルエンサーがいなかったこともあり、SNSで大きな話題までとはいかず、テレビ番組枠内で留めることができた。
当時の真崎も入試に関係するかもしれないと思い、テレビに張りつくように見ていたニュースでもあったが、実際はそこまで社会に影響は与えられていなかったのかもしれない。
ただ残ったのは、唯一事件に巻き込まれなかった男子児童を、同じ屋根の下で暮らしていた全員が忘れてしまったという事実だけ。
「まさか、残された男子児童がシグマなのか?」
「……宿題をやらずに学校に行って怒られ、罰として放課後に居残りさせられた彼だけが、あの怪奇から逃れた。シグマは、耐え切れなかったんだと思う。十一歳の誕生日を迎える前に施設を飛び出して、偶然この事務所の家主に保護され、のちに養子縁組をして正式に施設を出たのよ」
リリィの話を聞いて、真崎の脳裏は「今度は」と呟いたシグマの仄暗い顔がよぎった。
身近な人の記憶から突然、自分がいなくなる――一度だけでなく、二度も経験していたとなれば、シグマが見せる苛立ちも、楽しそうな笑みも、試すように茶化すのも納得がいく。
では、能面の人物との関係は?
真崎が問う前に、リリィが口を開いた。
「私がシグマを思い出したのは、彼が去って三年が経った頃。施設の中庭の端に、植えた覚えのないアネモネの花が咲いていたの。それを見た途端、頭に雷が落ちたような激痛が走って倒れて病院に運ばれたことがあったわ。その時にシグマのことと、あの日のことを少しだけ思い出した」
「『赤い花事件』で、眠る前のことだね?」
アネモネは茎を切った際に出る液の中に、皮膚に炎症を起こす有毒な成分が含まれている。幼い子どもがいる児童養護施設で、毒のある花を育てることはまずありえないだろう。だから『赤い花事件』の際、部屋中に散らばったアネモネの花は外部から持ち込まれたと判断された。
もし中庭から搬入されたとしたら、その際にアネモネの種がたまたま庭にこぼれたのかもしれない。それが月日をかけて花となり、施設で暮らす者達の目の届く位置まで広がっていったのだろう。
リリィは震える手を押さえつけながら、さらに続けた。
「急に眠くなったの。一緒にごはんを食べていた皆が、次々と倒れていって、私より小さい子がパニックになったけど、すぐに糸が切れたように倒れていった。私も床に倒れて……」
「リリィ? ごめん、無理に話さなくても……」
「視界に、赤い花びらが入ってきた。頑張って見上げたら……能面をつけた二人組がいた」
能面をつけた二人組――火伏が目撃したと言っていた人物だろうか。それが、翁と恵比寿の面だとしたら。
シグマがこの事件の情報を集めると決めた理由が、赤い花事件と関係していると思ったからだとしたら。
(じゃあ、般若の面は?)
真崎の脳裏に浮かんだ能面は、翁でも恵比寿でもない。全員が同じ仲間なのだろうか。
「私は……記憶が戻ってすぐに、シグマを探した。シグマも、同じだったから……」
「同じ?」
すると、リリィは真崎の服の袖を震えながらもぎゅっと掴んだ。歪んだ丸眼鏡の奥にある青い瞳には不安の色が浮かんでいる。
「私ね、パパとママが多忙で育てられないからって言われて施設に入ったの。いつか迎えにくるまで、ずっと一緒にいるって約束してくれたのがシグマだった。……シグマがいなくなることだけは、死んでも嫌なの」
「リリィ……」
「早瀬さんもマサキも、サフランの皆も、私の大切な人達だから……っ、いつか、私の目の前から消えてしまうんじゃないかって思ってしまう。最近のシグマを見ていたら、余計に怖くなっちゃって。だから――」
だから、シグマを止めて。
「え……?」
「それはたぶん、マサキにしかできないことだか、ら……」
リリィはそう言って、糸が切れたように真崎に倒れ込んだ。
翌朝、真崎が目覚めた時にはすでにリリィはいなかった。
話している最中に寝落ちてしまった彼女をどうしたらいいかわからず、ひとまずソファに寝かせ、自分は別のソファで背を向ける形で眠りについた。
『赤い花事件』――自分が覚えている当時のニュース番組の情報の裏で、シグマやリリィがどれほど辛い思いを抱えてきたのか。考えるだけで辛くなる。
ソファに横になってすぐに整理しようとした途端、ふっと眠気が襲い、その日もまた朝までぐっすり寝入ってしまった。
(入院中は寝て治すがメインだったから気にしていなかったけど、こんなに眠気ってくるものだっけ?)
気を張り続けているせいか、いつの間にかストレスになっているのかもしれない。
そんなことを考えながらサフランに降りると、すでにカウンター席で朝食をとっているシグマと、何食わぬ顔で朝の仕込みをしているリリィの姿があった。
「あらマサキ、おはよう。さっさと食べてくれない? 開店と同時にモーニングが始まるんだから、あなた達のお世話をしている暇はないの」
昨晩とは異なる様子に、真崎は唖然としたが、有無を言わさぬ気迫に押されて「ハイ」としか言えなかった。
朝食を終え、すぐにシグマとともにレンタカーに飛び乗った。
行き先は火伏が就職するまで暮らしていたという彼咲村だ。しばらく道なりに車を走らせていると、ずっと口を閉ざしていたシグマが切り出した。
「リリィの奴さ、事件以来、感情が高ぶりすぎるとなんの前触れもなく寝落ちするんだよ」
「……もしかして、話を聞いていたの?」
「俺は人より繊細さんって言ったろ」
「聞いてない……記憶を失う前に言っただろ」
違いねえ! とケラケラ笑うシグマ。それに対し、いつものように記憶を失くしたせいにする自分の言い方に、腹が立つ。
「ごめん。リリィから無理に聞き出すつもりはなかったし、全部を記憶喪失のせいにするのも、よくなかった」
「それは、あれだけ知ってほしくなかった俺の経歴を聞き出したうえでの謝罪? ……いやいや、クソ真面目人間なアンタがしょぼくれるのもわかるけど、退院して数日のアンタに耐えられる情報量じゃない。仕方がないことじゃん?」
「……仕方がない、で済むんだろうか」
「え?」
ハンドルを握る手に力がこもる。
ただ意図もなく発した言葉が、他人にとってどれほど重要なのか。些細なことでも重要で、重要なことでも些細なもので、受け取り方は人それぞれだ。この期に及んで「空気を読みなさい」とは言えないが、それでも真崎は自分の今までの発言が許せなかった。
「記憶喪失だから、以前の俺にはなれない――これは現実逃避をするための言い訳にしかすぎないと思う。シグマや早瀬さん、リリィが俺に寄り添ってくれようとしていたのに、俺は見て見ぬふりをしていた。特にシグマは、俺が罪悪感にのまれないように、わざと仕事に没頭させようとしてくれていたのに」
「……なんだ、ばれてたのか」
「もう言い訳はしない。俺は、俺ができることをやって、真実を掴む。……お互いの利益のために手を組んだんだろう、相棒?」
真崎がそう答えると、隣からふう、と気の抜けた声がした。見ると、あのニマニマと嘲笑う猫のように口元を緩ませたシグマがそこにいた。ホッと安堵したような、我慢していたものが無くなった解放感のような、清々しさまで感じるいつもの笑みだ。
「じゃあ、もう容赦なく行っていいよな? 返事は聞いていないけど!」
「せめてお手柔らかにしてくれる? 言い訳にしないとは言ったけど、記憶喪失で三年間分の知識は抜けたままだからな!?」
やいのやいのと言い合う車内はたいそう賑やかで、真崎は不思議と懐かしく思えた。
車を走らせ四時間、ようやく到着した彼咲村は、山々に囲まれた小さな農村だった。
村のシンボルである彼岸花から由来されているとのことだが、まだ蕾ばかり。九月の開花時期になれば、畑一面に赤い絨毯ができることだろう。
車で村内をぐるりと回りながら、村民の話を聞いていく。火伏の写真を見せると、大抵の人が「ああ、行雄さんのところ!」と懐かしい様子で話してくれた。
「昭くん、いい子だったわよー。よく畑や田んぼの手伝いしてくれたり、自分より小さい子の世話をしたり、面倒見がよかったわ。きっと春江さんの姿見て育ったからね」
「春江さんというと、昭さんのお母様?」
「ええ。あの人、若いころは保育士さんだったのよ。お母さんのお手伝い名目で、よく保育園に顔を出していたのを覚えているわ。……でも結局、顔の火傷は治さなかったのね」
「え?」
長い間村に住んでいるという婦人が、かわいそうにと呟きながら、火伏の写真を見つめる。
それに目をつけたシグマは、すかさず彼女に問う。
「お姉さん、火伏の顔の火傷っていつからあるかわかる?」
「あらアンタ、奇抜な髪色しているけどいい子じゃない! 飴ちゃんあげるわ。顔の火傷ね……そうだ! ちょうどいいところに、昭くんの同級生がいるから、呼んできてあげる」
気をよくした彼女は、「ちょっと待っててねぇ」と言い残してさっさと近くの一軒家に入っていった。ちょうどこの近くだったらしい。
「……媚びてんな」
「レディは褒めて綺麗になるもの。詐欺師は言葉と表情で騙すもの。文句ある?」
ふふん、と鼻を鳴らすシグマはもらった飴を持ち上げるようにして見つめる。
「これ、コンテナの近くにあった燃え残りの包装と似てない?」
「言われてみれば……でも、あれはどこにでも売っている飴だし、犯人に繋がるとは思えないけど」
現場に残されていたべっこう飴の包み紙。文字の入れ方もよく似ているが、以前見たものと比べると、印字が綺麗な気がする。
「……この包み紙、中身が飴じゃないことってあるかな」
真崎が問うと、シグマはもらった飴玉をじっと見つめる。
「ないとは言い切れないな。飴の代わりに大変な薬が入っていたら大問題だ」
念のためと早瀬に連絡をしていると、しばらくして婦人が連れてきたのは、火伏と幼馴染である小峰芹夏という女性だった。ポニーテールにした黒髪に、小麦色の肌。動きやすいジャージにエプロンという、仕事を抜け出してきたような恰好だ。
特に婦人から聞かされず連れてこられたようで、真崎が一から説明すると、芹夏は「ありえません!」とひどく動揺した。
「昭がそんなことするなんて絶対ありえない! そんなこと、できる人じゃない……」
「落ち着いて。そう思う根拠があるんですね?」
真崎の問いに、芹夏は少し躊躇いながらぽつぽつと話し始めた。
「昭は……村の人達からの信頼もあるし、学校の成績も優秀で、高校も進学校を狙えるくらい頭もよかったです。……でも、唯一コンプレックスがあるとしたら、新しい出会いが怖かったのかもしれません」
「どういう意味?」
「実は、小学校の頃に火傷を負っているんです。地区の行事で焚火をする機会があって、誰かが悪ふざけで枯れ葉と紛れ込ませた竹が破裂して、火の番をしていたお母さんを庇ったのを私は見ています。大した怪我じゃなくて、数日後には治っていましたけど、それ以来、村の行事に出るのも嫌がっていました」
「焚火で火傷……あれ、じゃあ、顔の火傷はまた別?」
「はい。でもまず、火傷を負う場所なんかに彼が行くとは思えません。これはあまり村の中でも広まっていない話ですが――」
芹夏が口にした内容は、二人にとって盲点だっただろう。それと同時に、真崎が火伏と対面した際に引っかかっていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じた。
それはシグマも同じだったようで、口元をまた緩ませ、もう一つ質問を投げる。
「土井悠聖って奴は知ってる? 同級生だって聞いているんだけど」
「土井……ああ、悠聖くんのことね。二人ともタイプが違うし、一緒にいるイメージはありませんでした。だから二人の仲がいいのを、中学を卒業する直前まで知らなくて」
「同じクラスで、幼馴染なのに?」
不思議そうに首を傾げる真崎を見ながら、芹夏は少し悲しそうに笑って答える。
「この村に学校は小学校と中学校一つずつ。各学年は二十人もいないから一クラスだけで、クラス替えなんてするキャパもない。高校からは一時間に一本あるかもわからない電車に乗って、高校に行きます。皆、中学を出た後は村に戻ってくることはほとんどありません。だから幼馴染でも、互いを深く知る必要はないんですよ。しいて言えば、昭の顔に火傷の痕ができた頃が、ちょうど卒業式の直前でした」
その後、彼咲村の周辺を聞き込み、四時間かけて事務所に戻ると、早瀬がソファに倒れ込んでいた。
声をかけてもピクリとも動かない。真崎がおろおろし始めたところでようやく顔を上げた早瀬だったが、生気でも吸い取られたのか、疲れ切った表情をしていた。
「は、早瀬さん……!? 大丈夫ですか? 水分足りてます!?」
「ちゃんとエナドリ飲んでいるから問題はない」
「エナドリだけで水分補給ができるとか思わないで!?」
「それよりまず先に、お前らは俺に言うことがあるだろ」
早瀬に言われて二人はハッとする。事務所を出る前に、シグマから早瀬に翁の能面をつけた男に襲われたことを報告していたのだ。話を聞いた早瀬は一日中、項垂れるように頭を抱えていたようだ。
「どうしてお前らは俺の仕事を増やすんだ……」
「え、えっと……すみません」
「謝るくらいなら自分が狙われているという自覚をしろ! 昨日のことならどうしてすぐ連絡しない? 犯人を捕まることだってできないじゃないか!」
(それはごもっとも)
こめかみの血管を浮き立たせながら怒鳴り込む早瀬に言い返す言葉も見つからず、思わず目線をそらした。
真崎は背中を強く打っただけでそれ以外は特に大きな怪我はなかったものの、気が抜けてしばらく立ち上がれずにいた。それならシグマが追いかければよかったと思うが、あの時の仄暗い顔を思い出すと、問い詰めるような真似はできない。
しかし、早瀬の怒りも気にすることなく、シグマは「でもさ」と続けた。
「マサキが狙われたってことは、今追っているパウンドの事件か、それともコンテナに監禁された事件のどちらかに関係しているはず。あの時、動けないマサキを一人残しておくのは危ないと判断したうえでの行動なんだけど。なんか間違ったことした?」
「それはそうだが……」
「どのみち、犯人の目星はついた。まとめて捕まえれば問題ないっしょ?」
得意げに笑うシグマは、そう言ってソファから立ち上がると、自分の机から端末を取って早瀬に渡した。
「放火事件当時、自宅に防犯カメラをつけた家があったと思う。その中に一人、巣鴨利夫の家が入っていた。きっと毎日確認はしていると思うけど、警察に届け出なかったのは何か理由があるはずだ」
「巣鴨さんが、俺達に嘘をついたってこと?」
「なんで嘘をついたのかはわからないけど、犯人の姿が映っていたとしたら、話は変わってくる。それに翁の能面野郎の声は、マサキには聞き覚えがあるんじゃないか?」
「……確証は、ないけど」
一人だけ心当たりはあるが、その人物の動機が分からない。なぜこんなややこしいことをしたのか、なぜ真崎を襲ったのか――。
(能面をしている理由は? それに、『赤い花事件』との関連性は一体……?)
真崎が黙々と考えていると、「そうだ」と早瀬が切り出した。
「一応、シグマに言われて土井悠聖について調べたぞ」
「さっすがー早瀬さん。どうだった?」
「お前の睨んだ通り、国会議員の苑田賢生の息子だったよ。土井は母方の姓で、悠聖が高校に入ったタイミングで離婚している」
「苑田って、次期文部科学大臣って言われている? 黒い噂も流れていますよね?」
「ああ。……それを聞いて俺は納得したよ。上層部が嫌な顔をするわけだ。議員のご子息が事件に関わっているなんて、伏せたくもなる」
早瀬が悔しそうに唇を噛む。今までの火伏への取り調べも含め、一番苦い思いをしているのだろう。
「じゃあ、今の関係は? 母方の姓を名乗っているってことは、母親についていったことだろ?」
「ああ。でも起業する際に支援金をもらっていたらしい。ただ、業績は伸びず、倒産間近とも言われている。よくバグって正常に動かないという、レビューが大量に報告されているな」
「バグねぇ……それで、その議員サマと火伏の地元がなんだって?」
呑気なことを呟きながらも、シグマは頬杖を突きながら続きを促す。
「あの地域は苑田議員のお膝元らしい。少しでも議員の噂をすれば報復を受けるような、そんな場所だと。それに田舎特有の情報の広がり方……内緒話もするのも相当気を使ったと思う。……マサキ」
早瀬の声でハッと顔を上げる。いつになく真剣な表情で、真崎を見据えた早瀬はあえて尋ねた。
「パウンドは火伏ではないと、本気で思っているか?」
「はい。この一連の事件、火伏に犯行は不可能です」
「その根拠は?」
「火伏は自分から罪を認め、処罰を受けたいと訴えてきた。もし彼が犯人じゃなければ、相手を庇っているんだと思ったんです。本物のパウンドの罪を自分が着ることによって逃がした。……ただ、それだけにはどうしても思えなくて」
「……死に場所を探していた、とか」
黙って聞いていたシグマが呟くと、真崎は小さく頷いた。
「彼が犯人ではないと断定するには、まだ材料が足りません。これはシグマではなく、正規ルートで調べたほうがいい。早瀬さん、お願いできますか?」
「正規ルート? 何を調べろと?」
「火伏の両親です。特に、母親の火伏春江を調べてください」
「二ヵ月前から入院している母親か。火伏がこっちに出てきたのは、その入院費を稼ぐためだと本人が言っていたが……」
「手術は一週間前に行われて、無事に成功したそうです。気になっているのは、その入院費。近所の人の話によればかなり高額らしく、『息子が頑張ってくれているけど全然届かない』と母親が入院する少し前に話していたようです」
「ちょっと待て……母親の心臓が悪かったのは、周知の事実だったんだよな?」
「ええ。近所の人は皆、下手したら村に住む全員が知っている可能性があります。だから皆、急遽決まった入院にたいそう驚いたそうです。入院先の病院は保証金を前払いする方式。国の制度を使わず、火伏は、どうやって金を手に入れたのでしょうか」
もちろん、留置場にいる火伏昭が口座から金を出すことはできないし、父親が亡き今、火伏家には稼ぐ人間がいない。当然、口座が動くわけもない。母親が入院する二ヵ月前の時点で金額が届いていなかったことが事実であれば、誰かが支払った、または立て替えたことになる。
「火伏の逮捕は母親が入院した後のこと。口座が動いていないのは警察でも確認済み……なら、直接病院に振り込まれた可能性が高い。なるほど、だから正規ルートで調べろ、か。令状が手配できるか怪しいが、なんとかしてみよう。マサキが俺に調べてほしいって言っていたものはまとめてメールで送ってくれ」
「わ、わかりました!」
早瀬は荷物を抱えるようにしていそいそと事務所を出ていった。その後ろ姿を見送っていると、シグマは真崎に尋ねる。
「俺なら速攻で金の流れを調べられるのに、どうして警察に頼んだ?」
「君のルートは違法ギリギリなんだよ……。それに少しは警察に任せないと、連日の取り調べで成果なく終わるのは違うと思うし」
すると、シグマのデスクに置かれたパソコンに通知が入った。早瀬からの転送メールだ。
どうやら真崎の壊れたスマートフォンの解析が完了したらしい。
「それって情報漏洩なんじゃ……」
「今更言いっこなし! えーっとなになに……?」
画面に表示された一覧表を見る。どうやらすべて音声データで、日付はちょうど、真崎が有休を使って休んだ日からずっと残されている。
シグマはすべて自分のスマートフォンにデータをダウンロードすると、自分だけイヤフォンをつけて聞き入った。
「シグマ、俺にも……って聞こえていないな、これ」
呆れていると、今度は真崎のスマートフォンに着信が入った。彼咲村で念のために連絡先を交換しておいた、小峰芹夏だ。
「はい、真崎です」
《も、もしもし、小峰です。今日はありがとうございました。早速ご連絡してしまってすみません……》
「いえ、大丈夫ですよ。何かありましたか?」
《さっきお話できなかったことがあるんです。一緒にいたおばあちゃんの耳に入ると、ちょっと厄介なことになっちゃうから》
「厄介……?」
《はい、実は……》
芹夏の話を聞きながら、情報に押しつぶされ、キャパオーバーしていた真崎の頭がどんどんとクリアになっていくのを感じた。
「……ありがとうございました。また」
電話を終え、真崎はシグマと向き合う。彼は真剣な面持ちでスマートフォンの画面と向き合っていた。そしてイヤフォンを外しながら真崎のほうを見ると、にやりと口元を緩めた。
「何かを決めた顔してんね? なにすんの?」
へらっと笑う彼を前に、真崎は拳を握りしめた。
腹の底から沸々と湧いてくる怒りを抑え込むのに精一杯だ。
「シグマ、俺にパウンドと直接話させて欲しい」