上からの許可が下りると、真崎は早瀬とともに火伏のいる取調室に入った。
近くにいた刑事と入れ替わって座ると、途端に煙草の匂いが強く香った。気分転換に煙草を吸う人はいるが、すれ違うだけでむせるほど香るとなると、相当参っているのかもしれない。
「あぁ? 誰だコイツ。新しい刑事?」
火伏の態度は相変わらずで、苛立ちを隠そうとしない。ぎらりと効かせた睨みに、思わず萎縮してしまいそうになるのをぐっとこらえて、真崎は彼を注意深く見入った。
(でも、本当に覚えていないんだよな……)
火伏の特徴でもある顔の痣は記憶に残りやすいはずだが、全く覚えがない。それは今の真崎に記憶喪失という障害があるからというのも含まれるが、シグマや早瀬、それこそ出原部長と再会した時のような懐かしい感覚さえもなかった。
(記憶を失くした三年間分の中にあるかもしれないけど、そういう感じでもない。火伏の反応も、いたって普通だ)
火伏は真崎のことを知らない。――そんなような気がしてならないのだ。
対して火伏はどこか品定めするように真崎のことを見つめている。まるで蛇のようにギョロギョロと動く目は不気味だ。
それでも務めて冷静に、小さく息をついてから真崎は口を開いた。
「初めまして。真崎大翔といいます。株式会社ワルトの元社員でした」
「ワルト……確か企業メーカーの会社だったか。その元社員が俺になんの用だ? つか、警察じゃない人間が俺に取り調べ? マジかよ、警察も随分弱腰になったな!」
わざと大きく挑発する。後ろで待機していた刑事が殴りかかろうと立ち上がるが、すぐに早瀬に止められた。
歯痒いのはこの刑事だけではない。早瀬だって嫌な上司に頭を下げ、一般人である真崎を取調室に入れることを頼んだのだ。警察をおちょくり、怒りで冷静さを欠けた警察を被弾する材料を与えてしまい、火伏から大した情報も引き出せない今、一般人の手を借りなければ突破口さえも見えてこないとなれば、警察のプライドも許されないだろう。
部屋中からビリビリと伝わってくる重圧に、真崎は気を引き締めた。これ以上、火伏のペースに流されるわけにはいかない。
「俺があなたと話したいと進言しました。警察は関係ありません」
「……はぁ?」
「言ったでしょう? 元社員だと。今はある出版社で記者をしています」
そう言ってジャケットの内ポケットから名刺を慣れた手つきで前に差し出す。火伏はそれをじろりと一瞬だけ見て、すぐに真崎へ目線を戻した。
(名前の漢字を見ても特に反応なし、か。やっぱり彼は俺のことを知らない)
シグマが最初にするようにと助言されたのは、真崎大翔との関係性を確認することだった。特に真崎の名前は、間違えて覚えられやすい。顔を見て反応がなければ、名前を出して確かめればいい。その時の火伏の表情を、別の部屋から見ているシグマが観察し、判断するというものだった。
しかし、口で告げた名前と漢字の表記が異なるため、念のためと思って名刺を出してみたが、火伏は微動だにしない。
真崎は名刺を仕舞いながら、シグマに言われたことを思い出す。
『もし火伏の顔色が変わらない場合、本当にマサキのことを知らない可能性が高い。そうなったら――』
この後は、真崎の本領を発揮するのみだ。
「あなたに聞きたいことが山ほどありますが、その前に教えてください。本当にあなたはパウンドなんですか?」
「……はぁ? 何度言わせたら気が済むんだ? 俺がパウンドだって言っているだろ。その証拠に家から火薬を作るストックがあったはずだ」
「確かにあなたの家には生成に使われる薬品や器具、サイトに投稿され、運営によって削除された動画の元データも残っていた。でもそれは、あなた以外の人が家に入り、置くことだってできます」
「家の鍵が壊されていたとでも?」
「いいえ。玄関をピッキングされた形跡はありませんでした。では、火災の現場にいた理由は? 犯人は現場に戻るとか、そんなドラマみたいなことを言うつもりですか?」
「こう見えて俺は繊細なんだ。火がつかなかった可能性だって考えている。……まぁ、火事になっちまったのは想定外だったけど……」
「想定外?」
「あの放火は手元が狂っただけ。動画に残せなかったのは残念だったぜ」
「……動画にするつもりだったなら、なぜコンテナではしなかったのですか?」
「は……?」
途端、眉をひそめる火伏は、真崎をじっと見つめた。
警察の人間でもないただの一般市民が、なぜ自分を問い詰めようとするのか。
「パウンドが投稿した動画を拝見しました。どれも防犯カメラを避けた場所ではありましたが、近い場所に人通りがあり、下手をしたら人を巻き込むような、誰かが気付く場所で放火が行われています。それは万が一に火の回りが早い場合、自分が消防に連絡したり、火を消そうとする動きをすれば、第一発見者として装うことができるからです。しかし、あの廃棄予定のコンテナ付近は人けが少なく、山に近い場所。……今までと行動が異なりますね? 気分で変えたなんて、くだらない理由は却下します。撮って出しではなく、わざわざ編集を入れた動画を公開するほどの完璧主義者が、無計画で事を進めるはずがない」
野外トランクルームの夜は管理人も不在の中、ボヤ騒ぎがあったとしても観客の目が少ない。そんな場所にパウンドが意図的に放火する理由は未だ不透明だ。
シグマはそれをざっくばらんに真崎に伝えると、「あとは自分で詰めてくれ」と丸投げした。内心ふざけるなと悪態をつきたいところだが、火伏と対面し、少しでも気を抜けばすぐに相手にとって食われると察し、疑問に思っていたことをその場で詰めるように問いかけることにした。
現に、火伏は声を荒げてはいるが常に冷静だった。前のめりになって真崎の顔を覗き込むようにして睨みつけてくる。一瞬でも気を許せば、蛇のように飲み込まれてしまうかもしれないと思った。
「お前、本当に記者か? 俺に何を言わせようとしている?」
「脅迫するつもりはありません。ただ、教えてほしいんです。どうして、あのコンテナを狙ったのか」
「は?」
「あのコンテナの中に、人がいたことは知っていますか?」
「……ああ、そういえばいたな。知らねぇ奴だよ。火をつけようといたところを目撃されたから、次いでに殺してやろうと思って――」
「それ、俺です」
スッと目の前にいる火伏を見据える真崎の表情は無だった。
怒りも憂いた表情も感じない。ただまっすぐ目を捉える彼はどこか異様なオーラをまとっているようで、火伏は吹っ掛けようとした言葉を思い留める。これ以上口を開いたら、心臓を鷲掴みされそうな気がした。
「俺なんですよ。あのコンテナの中にいたのは。供述通り、あなたが口封じのために見知らぬ男性を、死の寸前まで痛めつけてからコンテナに閉じ込めたとしたら、あなたは俺の顔を見て気付かないわけがないんです」
「はぁ? あの時は暗かったし、いちいち人の顔なんて覚えてねぇよ」
「あのコンテナの近くには防犯カメラだけでなく、街灯もいくつか設置されていました。真っ暗で何も見えない状態じゃない。それに発見当時、俺は全身血まみれでした。重症でしたが、医者の話だと急所はわざと外されていたそうです。顔の判別もできない暗い場所で、どうやって急所を意図的に外すことができるでしょうか?」
「だからなんだよ? たまたま外れていた可能性だってあるだろ」
「まだわかりませんか? 俺は血まみれだったんです。でもコンテナの外に血痕がなかった。つまり、あなたは別の場所に移動したうえで一方的に暴行し、拘束してコンテナに監禁した。……コスパ、悪すぎません? 俺のスマートフォンは山の中にありました。どうして別の場所にそれぞれを破棄したんですか?」
仮に偶然訪れた人がいたとしても、慌ててその場から逃げるだろうし、口止めするにしても脅す程度で済んでいただろう。しかし、コンテナ周辺には血痕どころか、争った形跡は見当たらなかった。雨でほとんど流されてしまったとはいえ、コンテナの中で眠っていた真崎の姿からは、別の場所で暴力を振るったのはほぼ間違いない。
「教えてください。あなたは俺を、どこで血まみれになるまで殴り続けたんですか? もしそれが本当なら、あなたが着ていた服には返り血がついているはずです。どこに捨てましたか?」
「――っ、お前! 勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!」
ガタン! と勢いよく立ち上がる火伏は、今にも真崎を食い散らかそうと血走った目で睨んだ。二人の刑事によって押さえつけられたが、それでも真崎は火伏から目をそらそうとしない。
「火伏さん! あなた、本当は……」
「うるせぇ! 俺がパウンドだ、パウンドなんだよ! お前を殺しかけたのも俺、火を放ったのも俺だ! 留置場にいたことがわかってる? たとえそうだとしても、警備員をそそのかすことだって簡単にできるんだよ! さっさと俺を起訴しろよおおお‼」
暴れ始める火伏に、これ以上の取り調べは難しいと判断され、複数名で火伏を抑え込むようにして取調室を出ていった。
「ま、待って!」
ここまで来て、何も手がかりを掴めずには終われない。真崎も飛び出して、引きずられるようにして歩く火伏の後ろ姿に向かって問う。
「あなたがあのコンテナ付近にいたのなら、何か気になったことはありませんか!?」
「……はぁ?」
「なんでもいいんです、不審な人物を見かけませんでしたか!?」
自分が監禁されていた手がかりを探す唯一の人物――もし火伏がコンテナを出入りしていたとしたら、何か見ているかもしれない。
足を止めた火伏が、ゆっくりと真崎のほうへ振り返る。そして平然とした顔で口を開いた。
「……そういや、俺が捕まるずっと前に怪しい奴を見たな」
「怪しい奴?」
「あの山の近くで破裂音がしたら楽しいだろうなって、下見していた時のことだ。妙な恰好をした二人組が、廃棄処分されるコンテナの前で何か話し合っているのを見た。俺は記録に残らないようにカメラを避けていたから、居合わせるどころか奴らの会話を聞き取ることもできなかったが、あれは頭がイカれているように見えた。スーツを着て、能面をつけている二人組だ。確かこっちを見て笑っている爺の面と、詐欺師っぽい顔の面面をしていたな」
「…………」
途端、真崎の脳裏に妙にリアルな映像が流れ込んでくる。
複数名が顔を能面で隠す中、真崎に向かって近づいてくる――般若の面をかける人物が。
(般若? いや……ちがう、これは別の記憶?)
「これでいいか探偵もどき。さっさと諦めて、早く俺を刑務所送りにしてくれよ」
ハッと真崎の意識が引き戻されると、火伏はでろんと舌を出して気味の悪い笑みを浮かべると、引っ張られるようにして歩き出した。
その後ろ姿を茫然と見送る真崎と早瀬に、別室から出てきたシグマが場違いにケラケラと笑う。
「随分怒らせたな、マサキ。上出来だよ」
「それは火伏を怒らせたこと? それとも……妙な恰好をした二人組のこと?」
能面をつけたスーツの人物――当然というべきか、真崎の記憶にはもちろん覚えがない。そっとシグマを見ると、思わず目を見張った。
何かを確信したような笑みを浮かべているその表情は、喜びや楽しみを感じられるものではあっても、明るい感情ではない。まるでずっと隠れていた獲物が飛び出したのと同時に目を光らせるような、言葉を選ばなければ、殺気に近いものを感じた。
(仄暗い、黒くうごめいた感情……シグマは、一体何を探しているんだ?)
記憶を失ってからシグマに会って二日も経っていないが、飄々とした姿を見ているせいか、ぞっとする。
「早瀬さん、今日はこれで帰るわ。行こうぜマサキ」
「あ、ちょっと……!」
歩き出すシグマに、慌てて真崎は後を追う。口元の緩みは無くなっていた。