ボーダーライン~俺の都合がいいので相棒にします~

 ――き、マサキ、起きろー!
 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。グラグラと脳が揺れているように思えるのは、誰かが真崎の肩を容赦なく揺らしているからだろう。
 ゆっくりと目を開くと、そこには昨晩のように白いビーニーをかぶったシグマの姿があった。テーブルの向こう側にはぼーっとどこか遠くを見つめている早瀬が、毛布にくるまった状態でゆらゆらと揺れている。
「おーい? 起きた? おはよう」
「……おはよう、何時?」
「八時半過ぎ。よく眠れた? ああ、早瀬さんはここで寝る時はいつもこんな感じだから気にすんな」
「は、はぁ……それよりどうしたの?」
「リリィがメシできたって。早瀬さんは要らないって言っているから後でコーヒーをもらってくる。マサキは食べられるよな? 下に行くぞ」
(リリィ?)
 初めて聞く名前に首を傾げる。そんな真崎など気にも留めず、シグマがさっさと行ってしまう。後を追うように事務所から店内に繋がる階段を降りて行った。
 ドアを開けた途端、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。レトロな内装にコーヒーと少しばかりの煙草の苦い香りが混ざった、いかにも昔ながらの喫茶店らしい空間だ。開店前にも関わらずクラシックが流れており、優雅で落ち着いた雰囲気はまるで時間が止まっているようだった。
(やっぱり懐かしい感じはするけど、はっきりとは思い出せないな)
 昨晩もシグマ、早瀬とともに夕食をここでとったが、特に何かを思い出した様子はない。
 しいて言えば、早瀬が楽しみにしていたビーフシチューはこの日も売り切れており、これでもかというほど大きく肩を落としていたのを見て、デジャヴを感じた。当初の硬派な第一印象からかけ離れていたが、ギャップがあってより印象的に見えたのかもしれない。
「あら、珍しい人がいるわね。あなたはコーヒー? それともミルクたっぷりの紅茶がいいかしら?」
 店内を見渡していると、カウンター越しから声をかけられる。
 視線を向けると、思わず目を見張った。声をかけてきたのは、フランス人形のような美少女だったからだ。金髪のツインテールに青い瞳の顔立ち。年期の入っている丸眼鏡は少し歪に曲がっている。片手には淹れたてのコーヒーが入ったコーヒーサーバーがあり、ちょうどマグカップに注いだものがシグマの前に置かれたところだった。
 そのシグマはというと、カウンター席でトーストをかじりながら、行儀悪くスマートフォンを操作している。
「何よ、さっさと座れば?」
「え、えっと……は、はい」
 口ぶりから真崎のことは知っているようで、金髪の少女が怪訝そうに首を傾げる。真崎の記憶では金髪の少女など思い当たらないから、おそらく失った三年間の中で会ったことがあるのだろう。
 眉をひそめる真崎に対し、金髪の少女は「……まさか」とむっとした表情で呟いた。
「シグマ、もしかして私のことを説明してないの?」
「あー……忘れていたかも。昨日、ここで夕飯食べていたけど会ってなかったっけ?」
「昨日はずっとキッチンで仕込みをしていたの。ディナータイムなんだから、ずっとハンバーグをこねっぱなしよ。……ああ、なんてこと。私のことを伝えていないどころか、存在自体を忘れられているなんて!」
「悪いって、悪気はないよ?」
「悪気の問題じゃないわ。って、ちゃんと野菜も食べなさいよ!」
 金髪の少女はそう言って、脇に置いてあったレタスをシグマの皿に載せる。どうやら真崎の分として用意されていた、サラダとベーコンエッグが載せられたワンプレートにシグマがこっそり自分の分の野菜を移していたらしい。
 シグマと少女の言い争いが続く。真崎はすでに蚊帳の外だ。
(全然似ていないのに……兄妹喧嘩みたいだ)
 昼行燈な兄に世話焼きの妹――そんな構図を見ていると、不思議と懐かしく思えた。
「もう! シグマのせいでもう一度説明しないといけないじゃない!」
 用意されたカウンター席に真崎が座ると、金髪の少女は眼鏡をくいっと上げた。
「私にはリリィってとっても素敵な名前があるの。記憶失くしたからって、その気持ち悪い敬語と態度はやめてくれると嬉しいわ。これからよろしくね、マサキ(・・・)」
「きもっ……!?」
「ああもう吐き気がする!」とキッチンの奥へ入ってしまうリリィ。
 朝一でこれは心が痛い。真崎はなぜか少しだけ泣きそうになった。

 ◇

 朝食を終え、少しメンタルがえぐられた真崎が事務所を出ると、快晴の空が広がっていた。
 それでもまた夜に雨が少し降ったのか、湿った匂いがする。気温が急激に上がったこともあって、地面はぬかるんでいた。
 レンタカーを借りてシグマとともに向かう先は、真崎が見つかった野外トランクルームだ。
 大学進学のため、上京前に免許を取ったはいいものの、すぐに就職活動に入ったこともあって教習所以来での運転になる。それでも営業部ということもあってか、運転はお手の物だったらしい。レンタカーでもハンドルが手によく馴染んでいるような気がした。
 助手席では、目立つ黄色のパーカーに黒ジャケット姿のシグマが、朝食の場でのことを未だに思い出してはケラケラと笑っている。
「リリィの奴、朝から最高だったなーあー笑った。朝からこんなに笑ったのは久しぶりだ」
「……シグマ、君は彼女に悪気はないと言っていたけど、それも嘘だろ」
 そもそも、事務所と繋がっている時点でサフランの店員が真崎のことを知っていてもおかしくはないのだが、記憶喪失のまま、予定外に事務所で一晩を過ごすことになった真崎がそこまで気を回せるわけがない。かといって、状況を知っているシグマがリリィに共有していないのは、彼らしい悪戯心からだろう。
 ちなみにリリィはアルバイトではなく、単純に店を手伝っているだけらしい。詳しいことはシグマの口から出なかった。
 真崎がじろりと睨みつけても、シグマは笑いを抑えながら言う。
「ただでさえ君の職種は特殊なんだ、他にもいたら承知しないぞ!」
「さぁ、どうだろうなー? 下手したらお前をコンテナに突っ込んだ奴とか、案外近くに居たりして」
「怖いこと言うなって! もう少し人の気持ちを考えろよバカ!」
「はーい、安全運転でお願いしまーす」
 前を向け、と手のひらを払う仕草をするシグマ。
 それでも真崎の中で、昨日に比べるとそこまで絶望感がないのは、こうやってシグマが気を紛らわせようと悪戯したり、ややこしい遠回しをしてくれているからだ。
 だからこそ、気になることもある。
「ところで、どうして君は俺のことを『マサキ』と呼ぶんだ?」
 よく読み間違われるフルネームは、自分でも気に入っている名前だからこそ、誰に対しても「シンザキヒロト」と強調するまでがセットだった。それは企業相手でも名刺を渡す際でも変わらなかっただろう。
 しかし、シグマは自分のことを知ったうえでわざと「マサキ」と呼んでくる。
「早瀬さんもリリィも、意図的に呼んでいるのは君の仕業か? それに、君が自分のことを『シグマ』と呼ばせているのも、本名を知られないようにするため?」
「俺の本名なんて知る必要ある?」
 スマホを操作しながらシグマは続ける。
「もちろん、俺はアンタのフルネームを知っているし、シンザキさんって呼んでもよかったんだけど、相棒にしては他人行儀すぎるだろ。前のアイツから許可はもらっていたし、問題ないっしょ」
「そっか……ごめん」
 どこか拗ねた口調のシグマに、萎縮して無意識に謝罪を口にする。記憶を失う前の自分が許していたのなら、きっと何か、シグマを信頼するきっかけがあったのだろう。今は目の前にある情報を信じるしかない。
「それと、俺のフルネームはアンタにも早瀬さんにも教えたことはない。唯一知っているリリィには呼ぶなと口止めをしている」
「え?」
「俺の近くにいる人が、嫌いな名前を呼んでほしくないからさ」
『シグマ』は数学で二つ以上の数の総和を表す記号。または統計学で標準偏差を表す記号とされている。過程を経て出た答えを提示するそれは、探偵のような振舞いをする彼にふさわしい名なのかもしれない。
 情報屋などと不可解な職を生業とし、全部諦めたかのように笑う彼が、真崎には少し気の毒に思えた。

 住宅街からは五キロメートルほど離れた場所にあるトランクルームは、フェンスに囲まれて、ひっそりと鎮座していた。入口に『お手頃価格で保管します! トランクたけなか』と掛けられた看板がなければ、大半の人が廃れた工場と見間違えてもおかしくはない。フェンスの向こうには、さびついた大型コンテナがいくつか見えた。
 すでに警察の規制線は無くなっており、誰でも自由に出入りできるようになっているものの、人けが感じられない。
 車を降りた二人は、さっそく管理人室へ向かう。アポイントは事前に取っているとはいえ、ひと声かけることになっている。
「ここが……俺がいた場所」
 周囲を見渡しながら、真崎は思わず呟く。
「しみじみしてんな。何か思い出した?」
「急かすなよ……ただ、懐かしさはないな」
 三年分の記憶を失ってから、馴染みのある場所に赴くたびにどこか懐かしさを感じていた。それは自宅でも、シグマの事務所でもそうだ。しかし、このコンテナには懐かしさどころか、恐怖も感じられない。
(まだ入り口だし、中に入ったら何か思い出すかもしれないけど……)
 足を踏み入れた途端、蘇るのは絶望ではないかと思うとなかなか乗り気にはなれないが、飄々と先を行くシグマの後を追うのに精一杯だった。
 すると、シグマが途端に足を止めたので、真崎もつられて立ち止まる。
「……あれ、ちゃんと起動してると思う?」
 目線の先には防犯カメラがあった。青いランプが点滅していることから、電気が通っているのは明白だ。すでに警察が記録をすべて確認しているはずだが、シグマは訝しげにカメラを見つめている。
「管理人さんに映像を見せてもらうよう頼んでみる?」
「無理でしょ。情報屋なんてフィクションの中だけでも充分お腹いっぱいの設定なんだって、ここに来る前に説明しただろ? しかも早瀬さんから『大っぴらに動くな』って制限オプションまでつけられている。どうやって一般市民を信用させるわけ?」
「うっ……」
 それを承知の上で彼の相棒になることを決めたのだから、シグマに従うのが筋というもの。真崎は苦い顔を浮かべながら「それもそうだね」と頷く。
 内心は全く腑に落ちていないが。
「ま、早瀬さんにも共有だけはしておくか。片手間で調べてくれるかもしれないし」
「……シグマ、早瀬さんのこと便利屋だと思ってない?」
「そうだけど」
 何か? と小首を傾げるシグマに、真崎は散々振り回されている早瀬に同情した。
 管理人室に着くと、中からバタバタと足を立てて六十代の男性が出てきた。白髪のオールバックに整えた髪に黒縁の眼鏡、薄緑色の作業着と白い長靴はところどころ泥にまみれている。
「お待たせいたしました。管理人の()(がも)です」
「お電話差し上げた真崎と申します。お忙しい中、お時間いただきありがとうございます」
 真崎はジャケットのポケットから『梶浦出版 真崎大翔』と書かれた名刺を巣鴨利(とし)()に差し出した。
 情報屋という、一般的に怪しまれやすい皮を被った詐欺師になることを、シグマは真崎に一番に伝えた。情報屋をそう簡単に受け入れてくれる相手はほとんどいないこともあり、素性を知らせないことにしている。もちろん、梶浦出版など存在しない。
 最初は反対した真崎だったが、シグマに「前のアンタだったら仕方がないって協力してくれた。もう片棒は担がされている」と言い包められ、いつの間にか用意されていた名刺――もしかしたらずっと前からストックがあったのかもしれない――とボイスレコーダー、さらには革靴までそろえたスーツ一式をしぶしぶ受け取ることになった。
 巣鴨は名刺を見ながらほう、と頷きながら笑って「随分お若いんですね」と返した。
 連絡した際はかなり渋った様子だったが、「御社には事前に許可をいただいております。利用者が減るのを防ぐには、これを話題性に切り替える必要があると思うんです!」と真崎の熱弁が相当効いたらしい。営業部のエースと呼ばれていた経験は、記憶を失った今もなお役に立っている。
「いやはや、困ったものです。コンテナで人が監禁されていたなんて……ニュースではこの場所について大きく出ませんでしたが、SNSやネットは有能でね、事件がこのコンテナで起こったことはすぐにばれて、出鱈目な情報も混ざった内容を拡散されたんです。そのせいで解約する人が増えまして……このままでは閉鎖せざるを得ない状況です」
「んぐっ……そ、そうですね。大変苦労なされたとお察します」
「結局、あの中にいた人はどうなったんでしょうか。警察の方に伺った時はまだ目を覚ましていないと聞いただけで……」
「ど、どうでしょう……我々も追及しているのですが、警察は口が堅くて」
「無事だといいのですが……」と巣鴨は視線を逸らす。
 早瀬から事前に聞いていた話だと、通報したのは巣鴨だと言う。しかし、コンテナの中で倒れていた真崎を目の前にしても、当時の真崎は、頬が腫れるなど外傷が多かったこともあり、どうやら巣鴨には同一人物と認識されていないようだった。
(本人が目の前にいるとは、口が裂けても言えない……!)
「そ、それで、巣鴨さんが通報されたと伺ったのですが、第一発見者もあなたなんですよね?」
 インタビューの詳しいことなど知らないが、見様見真似で話を聞く。ポケットのメモ帳とペンを取り出しながら、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「いえ、実は私が巡回中に、ここの利用者さんが半開きのコンテナを見つけてくれたんです。あのコンテナより奥にあるものを利用されているトランクルームなんですけどね、隙間を通り抜けたほうが早いんで、よくここの道から入るらしいんです」
 コンテナ同士の間は三十センチほどの幅がある。一人であれば充分通り抜けられる広さだ。
「その人の名前は?」
「それは……個人情報なので、さすがにお教えいたしかねます」
 申し訳なさそうに笑う巣鴨。いくら廃れた場所の管理人でも、個人情報の管理は徹底されている。ここは無理に聞かないほうがいいだろう。
「では、防犯カメラはどうでしょう? 二十四時間体制だとホームページには記載がありましたが、犯人の姿は映っていたのですか?」
「ええ、いくつか設置されています」
 巣鴨が近くのポールに向かって指しながら言う。敷地内には廃棄予定の十八個のコンテナがあり、六個分を二つのカメラで監視している。
 しかしおかしなことに、事件当時の防犯カメラはすべて止められていたという。
「たとえ落雷などの停電があったとしても、予備バッテリーが作動するようになっています。カメラの停止、記録の管理は社員のIDが必要です。この場所の管理は私だけなので、機材の操作も会社の人間以外であれば私しかできません。それに先月点検したばかりだったんですよ? その時は何も異常はなかったのに……」
「何か心当たりはありませんか? 同じ会社の人が遠隔で動かしたとか」
「そういった操作ができるとは聞いたことはありませんね。会社は各々の責任者に管理を投げっぱなしなので。それに、こんな山奥に上の人間が来るわけないでしょう。ただでさえ動物も虫も湧いて出てくるし、なによりガソリン代が勿体ないですよ」
 フン! と鼻を鳴らす巣鴨の言葉には怒りが込められていた。
 もし彼が意図的に電源を落とし、パウンドの放火騒ぎを利用しようとしていたら、会社への怨恨が動機に繋がるかもしれないが、現段階では何も言えない。
 事前に共有された情報によると、巣鴨利夫は防犯カメラが停止していた深夜一時から三時の間は自宅で寝ていたらしい。同じ部屋で寝ていた妻の証言であるため、信用しきれない部分はあるものの、数週間前に孫の風邪をもらった際、病院から処方された薬の副作用が眠気に強いものらしく、滅多に夜中に起きることはないという。
 だが、もし薬を飲むフリをしてこっそり家を出てきたとしても、巣鴨がパウンドを模倣する理由がわからない。
「真崎さん? どうかしましたか?」
 巣鴨の声でハッとする。どうやら自分の世界に入り込んでいたらしい。
「いえ、なんでも。ありがとうございました。それじゃあ、焦げ跡とコンテナを見させていただきます」
「構いませんが、もう何もありませんよ? 警察がここを撤収して時間が経っていますから、煤などはもう流れてしまっています」
 そう言って案内されたのは、さびれたコンテナが並ぶ中でも奥にある一つだった。
 曰く、劣化して解体にまわされるコンテナが順番に置かれており、件のコンテナは近々解体される予定だったそうだ。
 さびついた側面のすぐ下に、煤をこすったような跡がある。周囲の雑草も焼きちぎれたような跡が残っていた。
「ここが、破裂させた場所っぽいな」
 さすがにろ紙や飴玉の包み紙の破片は回収されており、手がかりになりそうなものは見当たらない。すでに数週間も経っていることもあって、これ以上の痕跡を辿るのは難しいだろう。
「それにしても、随分難しい立地にトランクルームなんて、よく作りましたよね。久しぶりに出したら虫が湧いて出たってクレーム入ってもおかしくないほど山が近い。動物被害も多そうだ」
「シグマ、もっと言葉を選んで!」
「ああ、いいんですよ、この場所に廃棄予定のコンテナを置いたのは会社なので。近くの工場で解体することもあって、都合がいいみたいです」
 デリカシーのないシグマの問いに、巣鴨は嫌な顔をせず、親切に答えてくれた。
 この町の特徴だろうか、住宅街が並ぶすぐ近くに大きな山が続いている。野生動物が棲みついて降りてくることも日常茶飯事だという。
「あとは……コンテナですね。今開けます」
 巣鴨がポケットに入れていた鍵でコンテナを開く。ギィ、とぎこちない音とともに扉が開かれると、真崎は息をのんだ。
 室内外の湿度のせいか、生ぬるい空気を全身で受け取った。不気味な雰囲気が漂う中、真崎はゆっくりとコンテナに足を踏み入れる。
 誰も使われていないだけあって、中は空っぽだった。さびついた鉄の匂いは、真崎が流した血液だけではないかもしれない。廃棄予定のコンテナということもあって、繋ぎ目に数センチの隙間があったり、大きな物を引きずった跡が見受けられた。光はそこまで入ってこないので、用意していたペンライトで周囲を確認する。
 すると、壁が続くコンテナの奥の端に、べったりとついた血痕が固まって張り付いているのを見つけた。
「そこですよ、人が倒れていたのは」
 立ち止まった真崎に、不気味がってコンテナの外で待機している巣鴨が言う。
「そこで手と足を縛られていて、体中傷だらけでした。壁に寄りかかって座り込んでいたかな。正直、今でもたまに思い出すことがあります。警察が来るまで中には誰も入っていませんから、余計に人間に見えなかったのかもしれません」
 ライトを照らしながら、壁から床に向かって赤黒く残った血痕がわかる。やはりここに自分が閉じ込められていたのだろうか。
 真崎が痕を辿っていくのを横目に、シグマが尋ねる。
「巣鴨さん、このコンテナの所有者は?」
「最近倒産された会社が使用していました。数ヶ月前に手放しているので、鍵は管理人室で厳重に保管されています。当日の朝も鍵があることはチェックしましたし、管理人室に私以外が入っていないことも確認しています。ですが、警察の話だとこじ開けられた形跡はなかったようです」
「その倒産した会社が、スペアキーを作っていた可能性は?」
「本部を通じて問い合わせたのですが、その事実はないのと、倒産される前に鍵は返しているのだから、管理責任はそちらにあるのでは、と言われてしまって」
「あちゃ~返り討ちに遭ったか。管理人も大変っすね、巣鴨さん」
「あ、ははは……耳が痛い話です」
 シグマと巣鴨が世間話のように当時の状況を聞き込む間、真崎は注意深くコンテナの中を見渡した。
(本当に自分がここにいた……?)
 澱んだ空気、血の匂い、閉鎖的な空間――トラウマになりそうな環境がここまでそろっていて、何も思い出せない。
 ふいに顔を上げたその瞬間、視界がぐらついた。
「っ……!?」
 慌てて踏みとどまろうとしても遅く、真崎はその場に座り込んでしまった。ただの立ち眩みではない。ガンガンと頭に警報が鳴っているのが嫌でもわかった。
 ここにいるのは、危険だと。
 ――■■■■■■い!
「えっ……?」
 真っ暗な視界の中で、誰かの声が聞こえた。
 性別どころか、怒っているかも泣いているのかもわからない。まるで水の中で聞いているかのような、音がこもっていて判別できない謎の声。途端、動画の巻き戻しするように、認識できないほどの速さで再生される音声が真崎の頭を駆け巡る。
(なんだ、これは)
 ――俺が、■■なん■。
 ――■■そが正■■■の■■■■■■■!
(誰だ?)
 唯一聞こえたその声が、誰のものかまではわからない。それでもはっきりと、壁を隔てたこの場所で聞こえた気がした。
「――マサキ?」
 途端、後ろからかけられた声にハッと我に返る。
 それと同時に歪んだ視界はクリアになり、謎の声も聞こえなくなった。声のしたほうへ振り返れば、入口で扉を背にして抑えていたシグマが眉をひそめて立っていた。
「……シグマ?」
「何度か声かけたのに、全部無視されるのは、さすがの俺でも結構傷つくんだけど」
「え……そ、そうだった?」
 何が起こったのか、自分でもわかっていない。少なくとも背中を伝う嫌な汗は、コンテナ内の空気が悪いだけではないだろう。
 それはシグマにも伝わったのか、茶化すような口調から一転、低い声色で問う。
「何を思い出した?」
「……ごめん、わからない」
 謎の声が聞こえた途端、何か見えた気がしたのだが、一瞬だったこともあって言葉にするには難しい。果たしてあれは、記憶を失う前の記憶だったのだろうか。
「他のコンテナも確認しておきたい。ついてくるか?」
「ああ、もう大丈夫。行こう」
 真崎はゆっくり立ち上がり、コンテナを出る。
(俺の頭に流れてきたのが失った記憶の一部なら、あの声は誰のものだったんだ?)
 できればもう二度と入りたくないと、自分が倒れていたであろう隅に残った血痕の痕を横目で見つめた。
 コンテナの側面についていた煤を最初に発見したのは、一番奥にあるトランクルームを借りている大学生だった。
 管理人の巣鴨は最後まで大学生の個人情報を教えることはしなかったが、そこはシグマがどこからか情報を持ってきたようだ。
 真崎が記者を装って事前に取材がしたい旨を連絡すると、すぐに「一時間程度であれば可能。大学の近くまで来てほしい」と返答があった。『トランクたけなか』から指定されたカフェまでは車で三十分程度の道のりだ。
「マサキ、一人で行ってきてくんない?」
 指定されたカフェの近くにある駐車場に停めると、シグマがシートベルトを緩めながらさも当然のようにさらりと告げる。
「え、俺だけ!?」
「なんだよ、不満か?」
「当たり前だろ! シグマから見たら知り合った頃から知っている真崎大翔だろうけど、今の俺は三年前の平凡な新卒で止まっているんだって!」
「だって俺、早瀬さんに呼び出されちゃったし」
 そう言ってひらひらとスマホの画面を見せつけてくる。確かに早瀬からの着信が三件ほど溜まっていた。時間帯的にコンテナ付近を確認していた頃だから、電波の悪さで断念したのかもしれない。
「早瀬さんを引き合いに出せば俺が簡単に了承すると思うなよ? 記憶を失くしても、冷静な判断はできるほうだからな!」
「面倒くさっ! 大丈夫だって、別に話を聞くだけじゃん? 出版社の人間だって気付かれても、どこかの連中が興味本位で探ってんなーくらいにしか思わないって」
「それはお前だからできることであって――」
「じゃ、あとはよろしく!」
 そう言ってシグマはウィンクを投げると、車から降りて颯爽と駐車場を出て行った。逃げ足が速いというべきか、真崎が後を追って駐車場を出た頃にはすでに姿は見えなかった。
「……あの野郎!」
 不満が募って吐いた言葉は思っていた以上に大きかったようで、横切る通行人が若干引いた目で真崎を見ていた。
 そんな痛い視線を浴びながら、真崎は仕方なしに歩き出す。ただでさえ相手は予定が詰まっているのだ。貴重な時間を割いてまで作ってもらったのだから、遅れるわけにはいかない。

 指定されたカフェに入ると、()()(ゆう)(せい)は真崎よりも先に席についていた。
 大学生で起業し、あるアプリが人命救助の功績をたたき出した会社の社長でもある彼は、カジュアルな恰好ながらも小綺麗にしていた。すらりとした長身、緩いウェーブがかかった黒髪は、顔を上げるとさらりと揺れた。
「お待たせして申し訳ございません。土井さんですね? 梶浦出版の真崎と申します」
「わざわざありがとうございます。土井です。梶浦出版……すみません、存じ上げておらず」
「お気になさらないでください。最近できたばかりで認知度は低いもので……はは、恐縮です」
 慣れた手つきで名刺を交換すると、土井は何やらじっと見つめてくる。存在しない企業名に怪しんでいるのか、それとも――
(名刺と照らし合わせている……?)
 わずかだが、目線が真崎と手元の名刺に向けられているような気がする。勘ぐっているような目つきに、真崎は悟られないように問う。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……珍しい読み方だなと思って。間違えられることはありませんか?」
「ええ、よく『マサキ』とも呼ばれたりします」
「そうですよね、先に名刺だけ渡されたら僕もそう呼んでしまいそうです。思わず見入ってしまいました。すみません」
 にっこりと微笑む土井はそう言うと、通りがかった店員にコーヒーを二つ注文する。どうやら真崎の分と一緒に飲み終えた自分の分も注文したらしい。
 その行動が少し違和感を覚えた。相手の視線、口元、頬の引きつり方――一瞬だけ、動揺しているようにも見えたが、すぐに平然を持ち直した。
(気にしすぎか?)
 意識をしていなくとも情報として真崎の脳に入ってくるのは、以前の自分が細かく相手を観察する癖を身につけていた積み重ねによるものだろうか。心なしか冷静に土井との会話に耳を傾けている自分がいることに、内心驚いている。
 このペースを崩さぬよう、早速本題に入ることにした。
「それで、今日お伺いしたいのは――」
「あのコンテナのことですよね? 警察の人には話したんですけど」
「我々は、警察とは別の角度で調べたうえで記事にしたいと考えております。何度も恐縮ですが、お話いただけますか?」
「そうっすね……事件があった日、僕は自転車を取り出しにきたんです。友人とサイクリングしようと計画をしていて、直接合流する予定でした。僕が借りているトランクルームは、コンテナの間を通り抜けたほうが近いので、その日も同じ道を通って入ったら、不気味に半開きになっているコンテナと、爆竹が破裂した時の焦げ臭いが気になって……ちょうどそこに、巡回していた巣鴨さんに知らせたんです」
 土井がトランクルームを借りたのは三年前、大学に入ってすぐのこと。アパートを借りたものの、荷物が想定していたより入りきらなかったそうで、安い料金で借りられるレンタルサービスを探していたところ、『トランクたけなか』に辿り着いたという。
「ご自宅はここから近いんですか?」
「いいえ、当時は近かったのですが、水漏れ騒ぎで引っ越しまして、今は駅に近いアパートを借りて住んでいます。とはいえ、大型のマウンテンバイクは中に入れられなくって。だから、今も利用させてもらっているんです」
「なるほど。それでは、自転車を取りに来たあなたはご自身のコンテナに向かう道中に、側面の煤や周りに焦げた跡を見つけて巡回中の管理人さんを呼んだ、と。どうしてパウンドの仕業だと思ったのですか?」
「実はアプリ開発のためにパウンドの動画は見ていました。周囲の燃え残り方とか、覚えるくらいには、見ていたと思います。……でもまさか、実在するとは思っていませんでした。どこか、誰かの悪意のある悪戯だろうと、少しだけ思っていたのかもしれません」
「アプリ開発……というと、これのことですね?」
 真崎がスマートフォンを操作し、あるアプリを起動させる。画面にオレンジ色の拡声器の絵柄が入ったアプリは、すぐに日本列島に各地の天気予報が書かれたイラストが表示されていた。
 これは土井が在籍中に作り上げ、企業までした代表的な火災危機対策アプリ――通称『サイレンくん』だ。このアプリでは、主に天候、湿度、空気の乾燥具合、風向き等、GPS機能と連携して自分の住んでいる地域で発火しやすい場所を特定、アプリ利用者に通達するという。
 第一発見者が土井だとわかったタイミングで、シグマが半ば強引に真崎のスマートフォンにダウンロードさせたものだ。カフェに向かう道中である程度いじったが、細かい情報もわかりやすく組み込まれており、真崎は思わず関心してしまった。
「人災も災害も、用心していても起きてしまうのが現実です。きっとどれだけ科学が発展しても未然に防ぐことはできないでしょう。でも被害を防ぐ環境を整えることは誰でもできる、そう思って、天気予報をもとによりわかりやすいアプリを開発しました」
 仕様としては、アプリに登録した自宅周辺の天候を予測したものを前日と当日の午前中に配信。一週間分も告知はするが、人の思い通りにはいかない自然界は自由だ。真逆な天候になる可能性は充分にある。
 天気予報と異なるのは、自分のいる場所の天候がピンポイントでわかることだ。
 特にテレビの天気予報ではある程度栄えている市や町はわかっても、小さな村まではピックアップされず、一番近い市や町の天気をみて判断する。さらに山に囲まれた地域では、天気予報が当てにならないことも少なくない。特に年配者はわざわざネットで天気を検索するようなことはほぼしない。パッとみた場所から推測して田んぼの様子や畑の水やりを行うのだ。
「僕が住んでいた場所は山が多い田舎でして、よく山火事騒ぎがあったんですよ。と言っても、すぐに消防団が駆けつけて消火作業してくれたので、燃え広がることはなかったんですけど。その時の慌ただしい様子が、パウンドの放火で怯えている人の声を聞いて思い出したんです。だからこれは、ご年配の方々でも上手く操作ができるよう、簡単な操作しかつけていません」
「簡単な操作というと、ボタン一つでわかる、くらいの?」
「ええ。例えばですが、実際に自分の手に負えないほどの火災が目の前で起きたら、消防署に連絡しますよね? アプリの表示画面に確実に火災が発生したのが衛生上でわかれば、そのまま消防署へ連絡が行きます。もちろん、電話もつながる仕様です」
「利用者の中には、ご年配の方もいらっしゃるんですよね? 誤送することもあるのではないのですか?」
「最初はありましたが、通報以外は電話ができないように設定しています。多くの情報の中から火災現場を特定し、アプリ利用者が近辺にいない限り、開くことはできない仕様です。かなり強引ではありますが、誤送や悪戯を防ぐために、これから改良を検討しています。近々、アップデートを予定しているんです」
 実際にパウンドの模倣犯が増えてきた最近は、都会でもダウンロードする人が増えていることもあり、誤送や悪質な電話がかかってくるのは消防署も大変だろう。
「パウンドが逮捕されたとはいえ、模倣犯による放火やボヤ騒ぎについて過敏になっている人はここ数ヶ月で増えてきています。警察がSNSを監視して情報元の特定を急いでいるらしいですが、その間にパウンドが逃げないとも言い切れない。僕が作ったアプリが、少しでも不安やストレスを解消するツールになればと、思っています。それより、コーヒーを飲みましょうよ。ここのブレンド、僕のおすすめです」
 小さく笑みを浮かべた土井はそう言って、コーヒーを一気に煽る。
 それまでじっと土井の表情や言葉を集中して聞き込んでいた真崎も、店員が運んできたコーヒーを口に運ぶが、淹れられたばかりで思っていたより熱く、一口も満たない量で一度口を離した。
「あちっ……」
「猫舌ですか?」
「ええ、まぁ……あまり飲み慣れていなくて。少し前までは飲めていた気がするんですけど」
 と言っても、今の真崎にとっては大学生の頃の記憶で止まっている。社会人になっても飲めていたはずだが、やはりシグマが用意したココアを体が覚えているからだろうか。
 ふーっと息を吹いて冷ましながらもう一度飲み込む。深煎り独特のすっきりとした苦味がちょうど良い。
(それにしても、なんか変だ)
 事件発覚から数日も経っているとはいえ、土井の意気揚々とした様子に違和感を覚えた。
 実際に開発されたアプリ『サイレンくん』は、パウンドのボヤ騒ぎよりも前に配信されており、放火が増えてきた頃に一気に売り上げを勝ち取っている。
 パウンドを商売の売り文句として使っているのは、果たして良いものなのか。
「土井さんは、パウンドをどう思っていますか?」
 今までよりもふわっとした質問だったと思う。土井は目をぱちくりさせると、首を傾げた。
「どう、とは? 僕個人の感覚のことですか?」
「あなたは先程、アプリ開発のためにパウンドの動画を見たとおっしゃった。だからこそ被害を減らすためのアプリへ改良していったのでしょう? それでもパウンドは止まらない。その点についてはどうお考えですか? あなた個人の意見で構いません」
 真崎は、自分でも皮肉な問いかけをしたと思った。ただ笑っているだけの土井は、未だ本心を出そうとはしない。笑顔を張りつけた仮面の下はどんな顔をしているのか、好奇心で聞いてみただけだったのに。
 すると土井は、少し悩む仕草をしてから口を開いた。
「パウンドは『異常者』だと、そういう声をよく聞きます。でも結局は人であることに変わりはなくて、どこかで道を踏み間違えただけなんですよ。人間って、そういうもんじゃないですか」
「まるで、パウンドを知っているような口ぶりですね」
「ええ。知っています」
 は? と思わず声が出ると同時に前のめりになる。食いつくように見入る真崎を前に、土井は笑みをたたえた。
「実は、逮捕されたパウンドと名乗っている火伏とは、幼馴染なんです」
 土井の話によると、拘留中の火伏昭とは同じ田舎の出身で、中学校まで一緒に育ったという。大人しく消極的な性格で、教室でも端のほうにいるような影の薄い存在だった。
 さらに土井は少し躊躇いながら、先程よりも小声で話し出した。
「アイツ、実は火遊びが好きだったんです」
「火遊び?」
「彼の家は両親の仲が悪かったみたいで。さらに反抗期が重なったから、余計に拗らせちゃったみたいで。彼の目の下にある火傷の痕はその名残です。中学生の頃、火遊びを止めようとしたら、誤って竹に引火して破裂して……僕は止められなかった」
 悔しそうに唇を噛み、手の甲に爪が食い込むほど強く握る。
「正直、僕にとって火伏は脅威でしかありません。だからパウンドの動画を見てすぐ、火伏だとわかりました。怖くて警察に申し出ることはできなかったけど……捕まってくれて、本当に良かった」
 安堵するように、はぁ、と大きく息をついた。
「もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね」
「友達を助けたかった、という後悔ですか?」
 真崎が尋ねると、土井は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに胡散臭そうに笑う。
「もちろん、人を助けるなんて善意ですよ。そして同時に金儲けができる。――正直、パウンドには感謝しかありませんね」
 ◇

「感謝、か」
 店を出て土井と別れた真崎は、駐車場に向かいながらふと口に出してみた。
 火伏を止められなかったことをバネにして作り上げた、いわばボヤ騒ぎに特化した天気予報アプリ。それが今、人を助けると同時に金儲けの道具となっている。
 アプリ自体を道具として使う分には申し分ないだろうが、それでも真崎の中で何かが引っかかっている。
「――あれ、真崎くん(・・)?」
 考え込んで歩いていると、途端に後ろから声をかけられた。
 聞き馴染みのある女性の声――箕輪輪子だ。
「こんにちは。こんなところで会うなんて偶然ですね!」
「あれ、箕輪さん? どうしてここに」
「今日はお休みなんですよ。それに家がこの近辺で、買い物がてら散歩をしていたところです。真崎く……じゃなくて、真崎さんはどうしてここに?」
「よかったらいつも通りにしてください。きっと、以前の俺のこともそう呼んでいたんですよね。もし敬語も外していたとしたら、話しにくいでしょう」
 真崎がそう告げると、箕輪は申し訳なさそうに小さく頷いた。
 聞くところによると、箕輪のほうが入社時期が半年ほど遅いらしく、微差ではあるが真崎のほうが先輩にあたる。しかし、ほぼ同期のようなもので、年齢も変わらないことから「くん付け」で呼んでいたらしい。
 ちなみに真崎自身は「箕輪さん」から変わっていないという。
「真崎くんはよく気が付くのね。一緒に仕事していた時と何も変わっていないわ」
「そう、なんですか?」
「ええ。私はあなたの、誰に対しても真摯に話を聞く姿勢に憧れていたのよ。だからこそ、あなたは営業部のエースだったのかもしれないわね」
 褒められて胸のあたりがくすぐったくなる。自分が何も覚えていなくとも、今までの自分のことを見てくれていることを目の当たりにすると、ここまで優しい気持ちになれるのか。
「ありがとうございます。ところで、異動先って決まったんですか?」
「いいえ。異動ではなく、別の会社で新規事業の立ち上げメンバーとして引き抜きされたの。もうワルトの系列会社ではなくなったわ」
「そうですか。……あの、箕輪さん!」
 ワルトが倒産する原因になった企業を聞こうと口を開いた途端、突然頭にガツンと殴られた衝撃が走った。実際に殴られたわけではない。反射的に頭を抱え、その場に蹲ったが、出血しているわけではないようだ。次第に激痛の波が真崎を襲う。
「いっ……!?」
「し、真崎くん、大丈夫? すごい汗……!」
 さすがに道のど真ん中で倒れ込むわけにはいかない。箕輪に腕を引いてもらいながら、邪魔にならない端へ行く。コンクリートに座り込み、両手で頭を押さえつける。しかし、あまりの激痛に視界が霞む。すぐ近くに箕輪の焦る声が聞こえた。
「真崎くん、水を飲める? 私、頭痛薬を持っているから……」
 差し出されたペットボトルに手を伸ばす。視界に入った瞬間、ただの水のはずなのに、泥のような色に見えて、思わずはたき落としてしまった。
「ど、どうしたの? 水よ?」
 声を出そうとすると、より頭痛が増していく。こんなこと、今までなかった。
(視界に入る色が、あのペットボトルだけが違う、気持ち悪い! まるで飲むなと言われているような――)
 ――■■■■■
(え……?)
 誰かの声が聞こえた途端、頭痛が止んだ。あんなに激痛だったのが、何もなかったかのようにふっと消えてしまった。途端に視界がクリアになって、ゆっくりと顔を上げる。
「マサキ、聞こえてる?」
 そこには正面にしゃがみ込んで、真崎と同じ目線で問いかけるシグマの姿があった。黄色のパーカーがやけに目を刺激する。
「シグマ? なんで……」
「落ち着けって。今は何も考えなくていいから、ゆーっくり深呼吸して」
 一定の速度で背中を擦ってくれる。それに合わせて真崎も呼吸を整え始めた。どこからか感じるのは、真崎自身がどれだけシグマのことを頼っているのかを物語っているように思えた。
 そしてようやく落ち着いた頃には、近くで今にも泣きそうな顔の箕輪が視界に入った。
「真崎くん!」
「……箕輪さん、すみません。急にこんなところを見せてしまって」
「ううん。でも本当に大丈夫? まだ退院するべきじゃなかったんじゃ……」
「あはは、時々こういうのがあるんです。もう大丈夫なので」
「とりあえず水でも飲んどけば? ほら」
 そう言ってシグマは、箕輪が持っていたものとは別のペットボトルの水を差し出す。今度は泥のような色ではなく、透明な水だった。おそるおそる受け取っても、先程のような激痛は襲って来ない。
 真崎はぐいっと一気に水を煽った。だいぶ喉が渇いていたのだろう、五〇〇ミリのペットボトルは一瞬にして空となった。
「おねーさん、コイツのことは俺に任せてもらえません?」
「え、でも……」
「俺、彼の家に居候しているんです。責任をもって寝かせますんで」
 へらっと笑いながらシグマが箕輪に言うと、同じ家に住んでいるのなら、ということで納得してくれた。
 このまま立ち往生しても、と箕輪は「真崎くんのことよろしくね。私にできることがあったら連絡してね!」と残してその場を立ち去った。
 意識や視界がくっきりとして元に戻ってくると、真崎はゆっくりと立ち上がる。
「ん? もういいの?」
「ああ、充分休ませてもらった。ありがとう。……ところで、どうして俺がここにいるってわかったの?」
「マサキレーダーがビビッときた」
「……聞くだけ無駄だった」
 余計なことだったと早々に切り上げて、二人は駐車場に向かう。頭痛が起きる前よりも頭がすっきりしているのか、身体が軽いような気がした。
「それで、どうだった? えっと……どどいつみたいな名前の」
「土井悠聖な。いろいろ聞けたよ」
 車に乗り込み、真崎は先程聞いた土井の話をシグマに話す。
「土井と火伏が幼馴染ねぇ……」
「警察は調べているのかな?」
「調べたところでパウンドが別にいる証拠にはならないからな。ある程度の情報はあるんじゃない? それにしても『俺のパパはヒーローなんだぞー』並みのカミングアウトだな。自信ありげに装うのは親譲りか」
「親譲り?」
「俺のところにある情報だと、土井はある議員の息子だ。今、確証を掴むために早瀬さんに調べてもらっている。……俺がただサボりたかっただけに見えた?」
 にやりと口元を緩めたシグマを見て、やられたと深い溜息をついた。
 シグマは最初から土井の素性を調べていたうえで、真崎と対面させたのだ。真剣に聞いていた自分が馬鹿馬鹿しいとすら思う。
 むっとしかめ面をする真崎に、腹を抱えたシグマはなだめる。
「大丈夫だって。俺相手に二の足を踏むのはしょうがなくね? それでメシ食っているんだから」
「ほらぁ! やっぱり俺が行かないほうがよかったって! だから嫌だって言ったのに!」
 記憶を失う前の自分ができたからと言っても、今の真崎は接客スキルも知らない新入社員同然だ。たまたま体の記憶が覚えていたのが救いだっただけで、真崎自身はなるべくポーカーフェイスを保つことで必死だった。それに真崎が相手から引き出せたのはシグマがすでに知っている情報ばかり。目新しいものはなかった。
 項垂れる真崎をよそに、シグマはケラケラと笑う。
「それでいいんだよ」
「……は?」
「平凡を装うアンタが話を聞こうとするから、相手はつけあがるんだよ」
 言っていることが理解しがたいとさらに顔をしかめた真崎を横目に、シグマは「ところで」と話をずらした。
「マサキから見てどうだった? 土井悠聖っていう人間は」
「うーん……大学生だけど社長って肩書があるせいか、背伸びしているイメージかな。知ったかぶりをしているというか……そういえば、あれもおかしかったな」
『もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね』
 土井の言う通り、アプリの開発も過去にあった過ちを払拭するためのものだとしても、果たしてパウンドの動画を見ただけで火伏本人だとわかるものだろうか。
 それを聞いたシグマは「ふぅん」と軽く流すだけで、特に追及してくることはなかった。
 じゃあなんで言わせた、とまた眉をしかめた真崎だったが、すぐに切り替えてハンドルを握った。
「次はどこを回るんだ? もうすぐ夕方だし、行けてもあと一件くらいしか……」
「警察署」
「え?」
 聞き間違えたかと思わず目を見やると、シグマが楽しそうに笑みを浮かべながら、スマートフォンの画面を見せてきた。そこに表示されたのは、人相の悪い、顔に火傷の痕がある男の写真。
「お前が閉じ込められていたコンテナに火をつけたのは自分だって、ずっと言い張っているんだってさ。拘留されているってのに、どんな手を使ったのか。警察は皆目見当もつかないらしい」
「まさか、パウンドには共犯者がいるってこと?」
「さあな。今からその口を割らせにいくのさ」
「また嫌な予感がする……」
「そういうことができるのも、俺の特権なんだよ」
 シグマがシートベルトを締めたのを確認して、真崎は緊張しい面持ちでハンドルを握った。 
 警察署内にある取調室では、緊迫した空気が流れていた。
 刑事の前に苛立った様子で座っているのは、『放火魔パウンド』を名乗る火伏昭だ。刈り上げられた黒髪に、吊り上がった目の下には火傷のような痕がくっきりと残っている。黒いシャツの合間から見える金色のネックレスが、貧乏ゆすりから伝わって揺れると怪しく光った。
 火伏が警察に逮捕されたのは、今から半月ほど前――ちょうどパウンドの放火が活発になってきた頃のことだった。
 そんな彼が突然、真崎が監禁されていたコンテナに火をつけたと自供を始めたのだ。
 当時、火伏は拘留中で常に監視カメラの支配下にあった。抜け出せることなどできるはずがない。
 模倣犯を庇うのかと問えば、気味悪く嘲笑った。
「模倣犯? いやいや、違うって。警察ならとっくに、パウンドが設置したものにはすべてマーキングされていることは調べがついているんだろう? 今回のだってあったはずだ。見様見真似でやっている奴らが、パウンドになれるわけがない。そうだ、これだけ教えてやる。パウンドは複数名の放火魔集団じゃない。世間に轟く名前を、俺が独り占めしないわけがないだろ。実際にパウンドは俺だけだし、もし仮に共謀している奴がいたとしても、それはパウンドなんかじゃねぇ!」
 意気揚々と発せられる言葉からは、パウンドへのリスペクトを感じ取れた。自分だけに注目してほしいという人間の心理が、放火という形で表れてしまった結果なのだろうか。
 取調室の隣で火伏とのやり取りを聞いていた真崎は、気付かないうちに震える手をぎゅっと抑えていた。
(あれが、火伏昭……)
 シグマに「パウンドの取り調べに立ち会う」と言われた時は、息が詰まるかと思った。
 火伏が自分をコンテナに閉じ込めた人物だったら――そう思うだけで、嫌な冷や汗が伝う。しかし、ガラス越しで火伏の姿を確認しても、記憶が戻ることはなかった。
 むしろ、別の違和感を覚えた。
(何かがおかしい)
 発言の矛盾だけでなく、彼の行動、顔色、癖――パウンドへのリスペクトを語る中に、どこか必死に隠そうとしている何かがあるように思えてならない。
「マサキが監禁されていた件については、拘留中の火伏に犯行は不可能だ」
 真崎の後ろで控えていた早瀬が言う。
「今までの取り調べを見てきた誰もが、火伏が本物を庇っている可能性が高いのはわかっている。でも口だけは達者で、簡単に話そうとしない。担当している刑事が血の気が多いから、すぐ火伏の挑発に乗ってしまう……ああほら。まただ」
 ガン! と鈍い音が聞こえて視線を戻すと、対面に座っていた刑事が真っ赤な顔をして今にも殴りかかろうとして他の刑事が必死に止めていた。カオスな状況下でも、火伏だけは楽しそうに笑っている。
「うっわ……これ、今の時代だと大問題でしょ」
「頭ではわかっているんだ。だが、火伏の誘導や挑発が上手いのか、ベテラン刑事でもお手上げ状態だ。……だから、お前達をここに呼んだ」
「どういうことですか?」
 上手く話が飲み込めていない真崎に、早瀬がシグマを見ながら告げる。
「シグマ、嘘が通用しないお前なら、火伏の真意を引き出せるはずだ。直接対面してみないか?」
「え? 嫌だ」
 緊迫する空気が流れる中、バッサリと切り捨てたのはシグマだった。
「シグマ、そんな簡単に断らなくても……」
「だって無理だもん」
「もんって可愛くつけたら許されるって思ってないか?」
「思ってねぇし、無理なもんは無理だよ。確かに俺なら嘘を見抜けるだろうけど、オッサン達の挑発でさらに警戒心が高まっている今、入り込む隙間はないって。ひとまず落ち着かせないと火に油だぜ」
 ちなみに俺が油ね、とへらっと笑う。他人事のように続けるシグマだが、その笑みには何か企みがあるように思えた。
「火伏の警戒心を解く……どうやって?」
「ここに適任者がいるじゃん」
 シグマがそう言って、真崎の背中をぽん、と叩く。勢いで一歩前に出ると、真崎と早瀬は唖然としたお互いの表情から一気に青ざめていくのがわかった。
「ちょっ……何言ってんの!? 本気!?」
「お前はともかく、マサキは一般市民だ。ただでさえ取り調べの立ち合いもご法度なのに、対面させるなんて許可できるわけがないだろう」
「一般市民? いやいや、ただの一般市民ならこんなところまで入れられないって」
「それはお前が連れてきたからだろうが!」
「現時点でマサキは犯罪に手を染めかけた人間なんでしょ? グレーゾーンなうえ、本人には自覚がない。だからマサキの中には、悪事を働いたかもしれないという罪悪感がある。それに、火伏が火をつけたっていうコンテナの中で死にかけていたたんだぜ? 面通ししてもマサキが何も思い出せないなら、火伏がなにか知っているかもしれない。一石二鳥じゃん」
 シグマの説得に早瀬がぐっと言葉を詰まらせる。
 確かに、コンテナの中に重傷者がいたことは報道されているとはいえ、顔や名前までは公開されていない。対面させたら、火伏に何かしらの反応があるかもしれない。
(それでも、俺が放火魔と対峙するなんて……!)
 自分を閉じ込めた相手かもしれないのに、とたじろいてしまう。唇を噛んで堪えようとすると、正面に立つシグマは目を合わせて屈託のない笑みを浮かべて言う。
「そんなにビビるなって。やることは決まってんの。俺が今から言うことをマサキが聞けばいい。困ったら早瀬さんに任せれば問題なし! 全部背負う必要は最初からねぇよ」
「で、でも……」
「大丈夫。マサキは人の話を聞くのも聞いてもらうのも得意だろ。それにお前は、俺の相棒なんだからさ」
 最初から上手くできる人間なんていない。そう言われてしまえば何も言い返せられなくて、真崎はそっと早瀬のほうを見る。
 早瀬が頭を抱えて溜息をついたのを見て、観念したように自分も両手を上げた。

 上からの許可が下りると、真崎は早瀬とともに火伏のいる取調室に入った。
 近くにいた刑事と入れ替わって座ると、途端に煙草の匂いが強く香った。気分転換に煙草を吸う人はいるが、すれ違うだけでむせるほど香るとなると、相当参っているのかもしれない。
「あぁ? 誰だコイツ。新しい刑事?」
 火伏の態度は相変わらずで、苛立ちを隠そうとしない。ぎらりと効かせた睨みに、思わず萎縮してしまいそうになるのをぐっとこらえて、真崎は彼を注意深く見入った。
(でも、本当に覚えていないんだよな……)
 火伏の特徴でもある顔の痣は記憶に残りやすいはずだが、全く覚えがない。それは今の真崎に記憶喪失という障害があるからというのも含まれるが、シグマや早瀬、それこそ出原部長と再会した時のような懐かしい感覚さえもなかった。
(記憶を失くした三年間分の中にあるかもしれないけど、そういう感じでもない。火伏の反応も、いたって普通だ)
 火伏は真崎のことを知らない。――そんなような気がしてならないのだ。
 対して火伏はどこか品定めするように真崎のことを見つめている。まるで蛇のようにギョロギョロと動く目は不気味だ。
 それでも務めて冷静に、小さく息をついてから真崎は口を開いた。
「初めまして。真崎大翔といいます。株式会社ワルトの元社員でした」
「ワルト……確か企業メーカーの会社だったか。その元社員が俺になんの用だ? つか、警察じゃない人間が俺に取り調べ? マジかよ、警察も随分弱腰になったな!」
 わざと大きく挑発する。後ろで待機していた刑事が殴りかかろうと立ち上がるが、すぐに早瀬に止められた。
 歯痒いのはこの刑事だけではない。早瀬だって嫌な上司に頭を下げ、一般人である真崎を取調室に入れることを頼んだのだ。警察をおちょくり、怒りで冷静さを欠けた警察を被弾する材料を与えてしまい、火伏から大した情報も引き出せない今、一般人の手を借りなければ突破口さえも見えてこないとなれば、警察のプライドも許されないだろう。
 部屋中からビリビリと伝わってくる重圧に、真崎は気を引き締めた。これ以上、火伏のペースに流されるわけにはいかない。
「俺があなたと話したいと進言しました。警察は関係ありません」
「……はぁ?」
「言ったでしょう? 元社員だと。今はある出版社で記者をしています」
 そう言ってジャケットの内ポケットから名刺を慣れた手つきで前に差し出す。火伏はそれをじろりと一瞬だけ見て、すぐに真崎へ目線を戻した。
(名前の漢字を見ても特に反応なし、か。やっぱり彼は俺のことを知らない)
 シグマが最初にするようにと助言されたのは、真崎大翔との関係性を確認することだった。特に真崎の名前は、間違えて覚えられやすい。顔を見て反応がなければ、名前を出して確かめればいい。その時の火伏の表情を、別の部屋から見ているシグマが観察し、判断するというものだった。
 しかし、口で告げた名前と漢字の表記が異なるため、念のためと思って名刺を出してみたが、火伏は微動だにしない。
 真崎は名刺を仕舞いながら、シグマに言われたことを思い出す。
『もし火伏の顔色が変わらない場合、本当にマサキのことを知らない可能性が高い。そうなったら――』
 この後は、真崎の本領を発揮するのみだ。
「あなたに聞きたいことが山ほどありますが、その前に教えてください。本当にあなたはパウンドなんですか?」
「……はぁ? 何度言わせたら気が済むんだ? 俺がパウンドだって言っているだろ。その証拠に家から火薬を作るストックがあったはずだ」
「確かにあなたの家には生成に使われる薬品や器具、サイトに投稿され、運営によって削除された動画の元データも残っていた。でもそれは、あなた以外の人が家に入り、置くことだってできます」
「家の鍵が壊されていたとでも?」
「いいえ。玄関をピッキングされた形跡はありませんでした。では、火災の現場にいた理由は? 犯人は現場に戻るとか、そんなドラマみたいなことを言うつもりですか?」
「こう見えて俺は繊細なんだ。火がつかなかった可能性だって考えている。……まぁ、火事になっちまったのは想定外だったけど……」
「想定外?」
「あの放火は手元が狂っただけ。動画に残せなかったのは残念だったぜ」
「……動画にするつもりだったなら、なぜコンテナではしなかったのですか?」
「は……?」
 途端、眉をひそめる火伏は、真崎をじっと見つめた。
 警察の人間でもないただの一般市民が、なぜ自分を問い詰めようとするのか。
「パウンドが投稿した動画を拝見しました。どれも防犯カメラを避けた場所ではありましたが、近い場所に人通りがあり、下手をしたら人を巻き込むような、誰かが気付く場所で放火が行われています。それは万が一に火の回りが早い場合、自分が消防に連絡したり、火を消そうとする動きをすれば、第一発見者として装うことができるからです。しかし、あの廃棄予定のコンテナ付近は人けが少なく、山に近い場所。……今までと行動が異なりますね? 気分で変えたなんて、くだらない理由は却下します。撮って出しではなく、わざわざ編集を入れた動画を公開するほどの完璧主義者が、無計画で事を進めるはずがない」
 野外トランクルームの夜は管理人も不在の中、ボヤ騒ぎがあったとしても観客の目が少ない。そんな場所にパウンドが意図的に放火する理由は未だ不透明だ。
 シグマはそれをざっくばらんに真崎に伝えると、「あとは自分で詰めてくれ」と丸投げした。内心ふざけるなと悪態をつきたいところだが、火伏と対面し、少しでも気を抜けばすぐに相手にとって食われると察し、疑問に思っていたことをその場で詰めるように問いかけることにした。
 現に、火伏は声を荒げてはいるが常に冷静だった。前のめりになって真崎の顔を覗き込むようにして睨みつけてくる。一瞬でも気を許せば、蛇のように飲み込まれてしまうかもしれないと思った。
「お前、本当に記者か? 俺に何を言わせようとしている?」
「脅迫するつもりはありません。ただ、教えてほしいんです。どうして、あのコンテナを狙ったのか」
「は?」
「あのコンテナの中に、人がいたことは知っていますか?」
「……ああ、そういえばいたな。知らねぇ奴だよ。火をつけようといたところを目撃されたから、次いでに殺してやろうと思って――」
「それ、俺です」
 スッと目の前にいる火伏を見据える真崎の表情は無だった。
 怒りも憂いた表情も感じない。ただまっすぐ目を捉える彼はどこか異様なオーラをまとっているようで、火伏は吹っ掛けようとした言葉を思い留める。これ以上口を開いたら、心臓を鷲掴みされそうな気がした。
「俺なんですよ。あのコンテナの中にいたのは。供述通り、あなたが口封じのために見知らぬ男性を、死の寸前まで痛めつけてからコンテナに閉じ込めたとしたら、あなたは俺の顔を見て気付かないわけがないんです」
「はぁ? あの時は暗かったし、いちいち人の顔なんて覚えてねぇよ」
「あのコンテナの近くには防犯カメラだけでなく、街灯もいくつか設置されていました。真っ暗で何も見えない状態じゃない。それに発見当時、俺は全身血まみれでした。重症でしたが、医者の話だと急所はわざと外されていたそうです。顔の判別もできない暗い場所で、どうやって急所を意図的に外すことができるでしょうか?」
「だからなんだよ? たまたま外れていた可能性だってあるだろ」
「まだわかりませんか? 俺は血まみれだったんです。でもコンテナの外に血痕がなかった。つまり、あなたは別の場所に移動したうえで一方的に暴行し、拘束してコンテナに監禁した。……コスパ、悪すぎません? 俺のスマートフォンは山の中にありました。どうして別の場所にそれぞれを破棄したんですか?」
 仮に偶然訪れた人がいたとしても、慌ててその場から逃げるだろうし、口止めするにしても脅す程度で済んでいただろう。しかし、コンテナ周辺には血痕どころか、争った形跡は見当たらなかった。雨でほとんど流されてしまったとはいえ、コンテナの中で眠っていた真崎の姿からは、別の場所で暴力を振るったのはほぼ間違いない。
「教えてください。あなたは俺を、どこで血まみれになるまで殴り続けたんですか? もしそれが本当なら、あなたが着ていた服には返り血がついているはずです。どこに捨てましたか?」
「――っ、お前! 勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!」
 ガタン! と勢いよく立ち上がる火伏は、今にも真崎を食い散らかそうと血走った目で睨んだ。二人の刑事によって押さえつけられたが、それでも真崎は火伏から目をそらそうとしない。
「火伏さん! あなた、本当は……」
「うるせぇ! 俺がパウンドだ、パウンドなんだよ! お前を殺しかけたのも俺、火を放ったのも俺だ! 留置場にいたことがわかってる? たとえそうだとしても、警備員をそそのかすことだって簡単にできるんだよ! さっさと俺を起訴しろよおおお‼」
 暴れ始める火伏に、これ以上の取り調べは難しいと判断され、複数名で火伏を抑え込むようにして取調室を出ていった。
「ま、待って!」
 ここまで来て、何も手がかりを掴めずには終われない。真崎も飛び出して、引きずられるようにして歩く火伏の後ろ姿に向かって問う。
「あなたがあのコンテナ付近にいたのなら、何か気になったことはありませんか!?」
「……はぁ?」
「なんでもいいんです、不審な人物を見かけませんでしたか!?」
 自分が監禁されていた手がかりを探す唯一の人物――もし火伏がコンテナを出入りしていたとしたら、何か見ているかもしれない。
 足を止めた火伏が、ゆっくりと真崎のほうへ振り返る。そして平然とした顔で口を開いた。
「……そういや、俺が捕まるずっと前に怪しい奴を見たな」
「怪しい奴?」
「あの山の近くで破裂音がしたら楽しいだろうなって、下見していた時のことだ。妙な恰好をした二人組が、廃棄処分されるコンテナの前で何か話し合っているのを見た。俺は記録に残らないようにカメラを避けていたから、居合わせるどころか奴らの会話を聞き取ることもできなかったが、あれは頭がイカれているように見えた。スーツを着て、能面をつけている二人組だ。確かこっちを見て笑っている爺の面と、詐欺師っぽい顔の面面をしていたな」
「…………」
 途端、真崎の脳裏に妙にリアルな映像が流れ込んでくる。
 複数名が顔を能面で隠す中、真崎に向かって近づいてくる――般若の面をかける人物が。
(般若? いや……ちがう、これは別の記憶?)
「これでいいか探偵もどき。さっさと諦めて、早く俺を刑務所送りにしてくれよ」
 ハッと真崎の意識が引き戻されると、火伏はでろんと舌を出して気味の悪い笑みを浮かべると、引っ張られるようにして歩き出した。
 その後ろ姿を茫然と見送る真崎と早瀬に、別室から出てきたシグマが場違いにケラケラと笑う。
「随分怒らせたな、マサキ。上出来だよ」
「それは火伏を怒らせたこと? それとも……妙な恰好をした二人組のこと?」
 能面をつけたスーツの人物――当然というべきか、真崎の記憶にはもちろん覚えがない。そっとシグマを見ると、思わず目を見張った。
 何かを確信したような笑みを浮かべているその表情は、喜びや楽しみを感じられるものではあっても、明るい感情ではない。まるでずっと隠れていた獲物が飛び出したのと同時に目を光らせるような、言葉を選ばなければ、殺気に近いものを感じた。
(仄暗い、黒くうごめいた感情……シグマは、一体何を探しているんだ?)
 記憶を失ってからシグマに会って二日も経っていないが、飄々とした姿を見ているせいか、ぞっとする。
「早瀬さん、今日はこれで帰るわ。行こうぜマサキ」
「あ、ちょっと……!」
 歩き出すシグマに、慌てて真崎は後を追う。口元の緩みは無くなっていた。
「どうだった? 自分を殺しかけた人間と対面した気分は?」
 警察署から事務所に戻ったのは、オレンジ色の空が暗くなり始める頃だった。
 帰宅して早々にソファにくつろぐシグマは、まるで『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫のようだ。意味深な笑みを浮かべ、楽しそうに真崎を見据える。警察署の去り際に見せたあの殺気は、気付いた頃には面影もなく消えていた。
 対して真崎は、勢い任せに書きなぐったメモの内容を整理しているところだった。ただでさえ、今日一日で多くの情報を得ただけでなく、特例で犯罪者の事情聴取をさせられたのだ。余計なことを考えている暇はおろか、情報を整理する余裕もなかった。
「五分ほど時間をくれないか。頭がパンクしそうだ」
「だーめ。一分、いや三十秒で簡潔にまとめろ」
(そんな無茶な)
 今の真崎は、自分の考えを伝えるよりも先に、シグマを問いただしたい思いのほうが強い。しかし、それを簡単にさせないのがシグマだ。悔しいが、喉まで出かかっている言葉をぐっと飲み込んだ。まずはパウンドの放火事件が優先であることは、真崎にもよくわかっている。
「火伏は俺のことを知らなかった。そしてこれは俺の直感なんだけど、彼は暴力どころか、放火さえしていない……と思う」
「その根拠は?」
 シグマの問いかけに、真崎ははっきりと「ない」と言い切った。
「火伏は早く裁かれようと訴えているけど、その割には諦めているようには見えなかった。もしかしたら、彼が拘留されている間に裏で何かが動いているのかもしれない。……考えすぎかもしれない、けれど」
 最後に吐き捨てるように言った「起訴しろ」――パウンドの犯行が正しいと賛美していたにも関わらず、あの言葉だけは自棄になって突発的に口にしたように見えたのだ。
「あとは……火薬について。さすがに知識がなさすぎる気がする」
「それは俺も思った。放火方法はわかるけど、何を使っているのかまでは認知していない感じ。少なくとも、火薬を生成した人物ではないだろうな」
「じゃあ本物は一体……? 警察が範囲を広げて聞き込みを続けているって言っていたけど、特に進展はなさそうだよな」
「無理だな。どう考えても土地を知っている奴の動きだ。簡単に出てきたら防犯カメラなんてそこら中に設置しねぇよ」
 スマートフォンを確認しながら小さく溜息をつくシグマ。早瀬からの連絡待ちなのかもしれない。
 とはいえ、それだけの矛盾があるからこそ、火伏が真犯人だと証明されていないにも関わらず、未だに釈放されずにいる。警察としても、確信しきれない証拠では判断力に欠けるのだろう。
 そしてもう一つ。真崎には気になったことがある。
「どうして火伏はあんなに警察を煽るんだろう? すぐに起訴されたいのなら、最初の取り調べですんなり自供していればよかったんじゃないのかな」
 敵意がむき出しの取り調べを思い出すたびに、あの殺気立つ気迫を全身で受けた圧力が蘇ってくる。コンテナ監禁の一件で「自分がやった」と言い出さなければ、ここまで警察が煽られることはなかったかもしれない。
「煽りといえば、あのオッサン達。随分ストレスが溜まっていたように見えた」
「ずっと怒鳴っていたもんなぁ……取調室の中も、服に染み付いた煙草の匂いが充満していてすごかった」
「あれで調書が取れているかも怪しいぜ。冷静な判断ができる奴が、果たして何人いるのか」
「シグマ、人を見下すような発言は控えたほうが……あ」
 真崎はハッとした。シグマが今の口ぶりは、まさに火伏がしたこととさほど変わりはない。
 人は煽られたら感情が高ぶり、冷静に物事を考えられなくなることも少なくはない。――つまり、煽った人物のことしか視界に入らないのだ。
「煽るのは……裏に隠された何かの時間稼ぎ?」
 火伏が逮捕されている期間が長ければ長いほど、本当の目的を達成するためにかける時間を作ることができる。
 では、本当の目的とはなにか。
 真崎はポケットに入れっぱなしにしていたボイスレコーダーを再生させる。もちろん、巣鴨の聞き込みだけでなく、土井と火伏の話もしっかり録音済みだ。何か見落としていないか、じっくり聞き込んだ。しかし、手がかりになりそうな話は見当たらない。
 一緒になって聞いていたシグマも、眉をひそめるばかりだ。
「ふーん……火伏は火遊びの常習犯だったのか」
「土井の話では、小中学校の頃からだって言っていた」
「なら、地元民との関わりは深いよなー」
 え? と疑問の声を上げる前に、真崎の顔に何かの紙の束を叩きつけられる。突然のことで受け止められず激突し、床にバラバラと落ちた。どうやら名前と住所の一覧表のようだ。
「シグマ、これって……」
「火伏昭が幼少期を過ごした()(さき)村は、ここから車で四時間。明日も情報収集だ」
 口もとが歪み、にやりと笑みを浮かべるシグマを見て、すべて察した。
「……シグマ、君は彼らが知り合いだって最初からわかっていたな?」
「さぁ? なんのことだか」
「警察が入手できない情報を入手するのを生業としている君なら、裏と全く関係のない一般人の関係者リストを集めることはそこまで難しくはない。……本当に、なんでこんな道を選んだ? やっていることが犯罪になりかねないんだぞ!」
「思想団体と繋がりのある取引先を招き入れて会社を倒産に追い込んだ奴も、犯罪に加担している可能性が高いんじゃない?」
 返された仮説に真崎は「うっ……」と言葉を詰まらせる。仮に記憶があったとしても、取引先が裏でしていることなどわかっただろうか。
 さらにシグマはまくしたてる。
「最初に言っただろ? ()に(・)な(・)れ(・)って。アンタが幅広く動くことで、隠れていた姑息な奴らを引っ張り出すことができる。火伏を徹底的に調べていたら、パウンドの正体を知られたくない誰かがちょっかいを出してくるかもしれねぇじゃん。俺達はそういう役割」
「……わかっている、けど」
 自分が餌であることはわかっているつもりだった。しかしこれでは、あまりにもシグマが理不尽に思えてならない。
 本来の餌は、真崎だけで充分なはずなのに。
「シグマ、俺は――」
「あー腹減った。サフランは今忙しい時間帯だから、コンビニで適当になんか買ってきてくんない? 経費で処理から、請求書も忘れずにね」
 真崎を遮ってシグマは立ち上がると、気怠そうな様子で寝室に入っていった。

(きっと、記憶を失くす前の俺もこんな感じだったんだろうな)
 事務所を出て大通りにあるコンビニで適当に買い込み、来た道を戻る。駅が近いということもあってか、夜でも人が行き交っていた。帰路につくサラリーマンが多いのは土地柄だろうか。
 真崎は中身が詰まったコンビニの袋を揺らしながら、シグマの言動に腹を立てていた。
 自己犠牲をしてまで危険なことを引き受ける姿勢が、真崎には理解しがたい。もし記憶を失くす前の自分だったら――なんて、そんなことを考えていても意味がないことは頭ではよくわかっているはずだった。
 素直に戻ったところで、きっとシグマは自分の話を聞いてはくれないだろう。
 彼にとって、『真崎大翔』という人物は何か。利用すると決めたものの、流されるがまま、今日まで何も得られていない。
 腹いせに寄り道でもして遅く戻ってやろうか、そんなことをふと思った瞬間、背筋を刺すような鋭い視線を感じた。
(……なんだ?)
 真崎が歩いているのはまだ人の行き交いがある大通りだ。防犯カメラもいくつか設置されている。ここで何かをしでかそうとするのはお互いにリスクが高い。
(人が多い場所にいればまだ安全……だけど)
 背中に汗が伝う。嫌な予感しかしない。
 真崎は呼吸を整えると、そして一気に走り出した。
 つられてバタバタとコンクリートを鳴らす足音が聞こえてくる。おそらく真崎の後をつけていた人物だろう。まだ人がいる時間に関係のない人々を巻き込むわけにはいかない。
 不意を突くように路地裏に入り、奥に進んでいく。シグマの事務所まで戻れるか、振り切れたらこっちのものだ――思った矢先、全身真っ黒な服装に身を包んだ人物が、鉄パイプを大きく振りかぶって今か今かと待ち構えていた。
「うわぁっ!? ……っ、この、危ないじゃない、かっ!」
 振り下ろされると同時に避けると、咄嗟にコンビニの袋を中身が入ったまま投げつけ、取り出したスマートフォンのライトで相手を照らす。
「あなたは一体……俺に何の用ですか?」
 目くらまし程度になればいいと思ったが、相手の顔を見て思わず目を疑った。
 腕で隠れてよく見えなかったが、普通の人間ではありえないような位置に口の端が見える。体のサイズより少しばかり大きめの黒いスーツを着ているが、体格からして男性だろう。
 そしてゆっくりと腕を降ろして現れたのは、(おきな)の能面。
(火伏が言っていた、妙な恰好をした人物……!)
 戸惑う真崎をよそに、能面の男は容赦なく鉄パイプを振り回していく。
「やめろっ! 何のために……って、うわぁ!?」
 声をかけてもやめる気配はない。力づくで止めようと試みるが、傍若無人に振り回す鉄パイプを止めるどころか、受け流すほどの技量は持ち合わせていない。下手したらこちらが大怪我をしてしまう。
 鉄パイプをかわしているうちに、路地裏の奥へとどんどん入っていく。
 そして行き止まりの壁が目に入った途端、真崎はハッとした。
(ただの通り魔なんかじゃない、確実に俺を狙って――!)
 後ろだけでなく左右が建物の壁に覆われ、袋小路になっている。鉄パイプをむやみやたらに振り回していたのは、自分を完全に人がいない場所へ誘導するためだったのだ。しかもこの路地は、五階建てのビルに挟まれる形で建てられており、片方は廃墟寸前で、使われているフロアは少なく、声を荒げたところで助けは見込めない。
 確実に、真崎を仕留める気なのだ。
 能面の男が、真崎の腹部めがけて蹴り上げてくる。防ごうとしたのも束の間、見事に腹部に入った勢いで壁に叩きつけられた。なす術もなく、ずるずると地面に座り込むと、能面の男はすぐさま首元を絞められる。
「かは……っ!」
 このままでは窒息してしまう。真崎は両手で腕を掴んで剥がそうとするが、爪を立てても離れる様子はない。喉元を掴んでいる腕は、服越しからでもしっかり筋肉もついているのがわかる。
(俺の腕力じゃ勝てない。どうにかして、呼吸を確保しなくちゃ)
「は、離せ……っ!」
 呼吸もしづらくなり、あがくだけで精一杯だ。せめて顔だけでも見てやろうと不気味に笑う能面に手を伸ばすが、届くはずもなく宙を切るだけ。
(こんなところで終わるのか? 記憶を失う前の俺がしたかったことも、パウンドの事件のことも、シグマのことも思い出せないまま死ぬのか?)
 キッと睨みつけても、翁の面の下でこの人物に対する威嚇にもならないが、どうせこの場で死ぬなら、何か手がかりでも残せと自分を奮い立たせてもう一度手を伸ばした、その瞬間。
「――ちょー人気者じゃん、マサキ」
 聞き慣れた煽り口調、人をからかうような抑揚のある声色。それと同時に真崎の目の前で月明かりによって透けた銀髪が輝いて一閃する。
(……おいおい、どこから飛び降りてきたんだよコイツ!)
 行き止まりの路地裏。出入りできるのは来た道を戻るか、建物の上から飛び降りるかの二択。あろうことか、シグマは廃墟寸前のビルの途中の階から飛び降りて真崎と能面の男との間に落ちてきた。それは能面の男が顔を上げた途端、すぐそこまでごつい安全靴の先端が迫っていたのと同じタイミング。
 ハッとしてすぐに真崎の首から手を離し、安全靴に蹴り飛ばされる寸前で離れ、距離を取った。警戒心が強くなっている。空から人が降ってくるなど想定できるわけがなかっただろう。
 真崎は咳払いをしながら起き上がると、背に隠すようにして立つシグマに問う。
「熱狂的な大ファンじゃん。嫉妬しそう」
「ふざけている場合か! シグマ、どうしてここに?」
「こんなことになるような気がしたんだ。大当たりだったなぁ」
 にやりと口元をゆがめた彼――シグマは笑った。そして視線はゆっくりと、謎の人物に向けられる。
「通り魔だかストーカーだか知らないけど、俺の相棒に手を出してどうするつもり? 警察で詳しく話す? それとも――俺にぐちゃぐちゃにされる?」
「…………くそっ!」
 じりじりと距離を詰めようとすると、能面の男は持っていた鉄パイプを勢いよく投げつけてきた。
 シグマが蹴りではたき落とすと同時に、能面の男は颯爽と路地から逃げていく。真崎を大通りから追ってきた人物はまた別だったのだろう、二人分の足音に増えて遠くへ小さくなっていった。
「……逃げ、た?」
 足音が聞こえなくなり、しんと静まり返ると、真崎はその場に倒れ込んだ。起き上がる気力はもう残っていない。気の抜けた顔をする真崎の様子にシグマはケラケラと笑った。
「いやぁ、巻き込まれ体質は今もなお健在ってところか」
「笑いごとじゃねえよ……ありがとう、助かった」
「俺が勝手にやっただけだよ。……でも、()()は(・)間に合ってよかった」
 薄暗くてよく見えなかったが、すぐ近くにしゃがんで笑うシグマの表情は、どこか安堵の笑みを浮かべているように見えた。
(今度は?)
 その一言が引っかかったが、今まで見たことのないシグマを前に、なぜか踏み込んではいけないと思ってしまった。

 コンビニで買ったものは踏みつぶされてしまい、食べられる状態ではなかったため、二人は素直に喫茶店『サフラン』に顔を出した。
 店のピーク時に訪れることがほとんどないこともあって、他の店員には「珍しいですね」と声をかけられたが、注文した料理を持ってきたリリィには「何をしでかしたの?」と冷たい目で見られた。店に入る前に路地裏で付いた土をはらい、身なりを整えたつもりだったが、リリィにはすぐに見抜かれたらしい。
 食事を終えて事務所に戻ると、先に店の手伝いを終えて私服に着替えたリリィが救急箱を片手に待ち構えていた。
「怪我をしたのはマサキだけ? さっさと背中を見せてごらんなさいな」
 歪な丸眼鏡をくいっと上げながら軽く睨みつけられる。ふと、彼女に隠しごとはできないと、シグマの言葉を思い出す。当人は「疲れたから寝る」と言って早々に寝室へこもってしまった。上手く逃げたらしい。
 お言葉に甘えて壁に強く打ち付けた箇所に湿布を貼り、包帯をぐるぐると身体に巻き付けていく。以前もこんなようなことがあったのだろうか。
「打撲痕、また広がっているわよ。何をしたらこんなことになるのかしら」
「あはは……俺にも何がなんだか」
「どうせ今追っている事件絡みでしょ? シグマからある程度のことは聞いているけど」
「リリィも情報収集を?」
「いいえ。手伝わせてはくれないけど、急にふらっといなくなるから、何をしているのかだけでも共有してもらうようにしているの」
 呆れたように小さく笑うリリィ。聞けば、まだ十三歳の中学生らしい。どんな情報を取り扱っているかもわからないシグマの手伝いなど、させるわけにはいかないだろう。
「事件の詳しいことは聞くなって止められているけど、さっきのことは聞いてもいいでしょ? 何があったか教えなさいよ」
 包帯を巻き終わるところで、意図的にぎゅっときつく締められそうになる。半分脅されていることを察した真崎は、かいつまんで話した。
 その中でも「能面をつけた男」の話を出すと、リリィの顔つきが一気に深刻になった。
「能面……それ、恵比寿(・・・)の面じゃなかった!?」
「恵比寿? いや、翁の面だったけど……」
 異なる種類の面の名を聞いてより眉をひそめる。警察署で見たシグマの殺気とは真逆の不安そうな表情に、今度は真崎が問い詰めるようにリリィと向き合った。
「何か知っているんだね? 今日話を聞いてきた火伏が、コンテナの近くで能面をつけた人物を目撃しているんだ」
「コンテナって……あなたが監禁されていた?」
「ああ。それを聞いた時、シグマの雰囲気が変わった。まるで、殺気のような……もしかして、恵比寿の面をつけた人物と何か関係があるんじゃないのか?」
「べ、別に、ただの興味よ。どうしてそんなこと聞くの?」
「君達はただの協力者じゃない。そうだな、どちらかというと……兄妹に近いんじゃないのか?」
 図星を言い当てられたようで、彼女の顔がさらに青くなると、さらに問い詰めた。
「リリィ、教えてくれ。能面の奴らと君達になにがあった? 『真崎大翔』は、君達に寄り添えるだけの人間だったのか?」
 真崎はこの機会を逃してはいけないと直感した。能面の人物の目撃情報を聞いた時のシグマの静かな怒りを、「今度は」と呟いたシグマの仄暗い顔を、もう二度と見たくないと思ってしまったから。
 真剣な表情で訴える真崎に、リリィは躊躇いながらも小さく息をついた。
「……シグマは、本当に何も言っていないのね。相棒なのに」
「相棒だから言えない、そんな思いもあるんじゃないのか」
「そんな密な関係じゃないわよ。これはビジネスなんだから」
 そう言って立ち上がると、壁にずらりと並んだ本棚の中で、妙にへこんだ棚の前に立つと、本をどかして奥へ手を突っ込み、あるファイルを引っ張り出した。
 リリィに差し出されるがまま受け取って開くと、今から十年ほど前の新聞記事の切り抜きがびっしりと貼られてまとめられていた。ファイルを捲れば捲るほど、日焼けした新聞記事ばかり。脇に細かく何か書かれているが、滲んでしまって読めなくなっている。
「今のマサキなら、記憶にはまだ新しいものかしら」
「……この事件があった時、俺は十八歳で大学受験の真っ最中。印象的で一躍話題になったから、面接で聞かれたら答えられるようにと、ある程度情報は集めていたよ」
「そう。なんて答えたの?」
「聞かれなかった。……でも、『集団によるいじめじゃないか』って答えようとしていたかな」
 新聞記事から顔を上げると、リリィは泣きそうに眉をひそめながら、「残念ね」と続けた。
「それじゃあ合格はもらえなかったかもね。これは児童養護施設で起きた怪奇――通称『赤い花事件』。きっと誰も覚えていないわ」