◇

「感謝、か」
 店を出て土井と別れた真崎は、駐車場に向かいながらふと口に出してみた。
 火伏を止められなかったことをバネにして作り上げた、いわばボヤ騒ぎに特化した天気予報アプリ。それが今、人を助けると同時に金儲けの道具となっている。
 アプリ自体を道具として使う分には申し分ないだろうが、それでも真崎の中で何かが引っかかっている。
「――あれ、真崎くん(・・)?」
 考え込んで歩いていると、途端に後ろから声をかけられた。
 聞き馴染みのある女性の声――箕輪輪子だ。
「こんにちは。こんなところで会うなんて偶然ですね!」
「あれ、箕輪さん? どうしてここに」
「今日はお休みなんですよ。それに家がこの近辺で、買い物がてら散歩をしていたところです。真崎く……じゃなくて、真崎さんはどうしてここに?」
「よかったらいつも通りにしてください。きっと、以前の俺のこともそう呼んでいたんですよね。もし敬語も外していたとしたら、話しにくいでしょう」
 真崎がそう告げると、箕輪は申し訳なさそうに小さく頷いた。
 聞くところによると、箕輪のほうが入社時期が半年ほど遅いらしく、微差ではあるが真崎のほうが先輩にあたる。しかし、ほぼ同期のようなもので、年齢も変わらないことから「くん付け」で呼んでいたらしい。
 ちなみに真崎自身は「箕輪さん」から変わっていないという。
「真崎くんはよく気が付くのね。一緒に仕事していた時と何も変わっていないわ」
「そう、なんですか?」
「ええ。私はあなたの、誰に対しても真摯に話を聞く姿勢に憧れていたのよ。だからこそ、あなたは営業部のエースだったのかもしれないわね」
 褒められて胸のあたりがくすぐったくなる。自分が何も覚えていなくとも、今までの自分のことを見てくれていることを目の当たりにすると、ここまで優しい気持ちになれるのか。
「ありがとうございます。ところで、異動先って決まったんですか?」
「いいえ。異動ではなく、別の会社で新規事業の立ち上げメンバーとして引き抜きされたの。もうワルトの系列会社ではなくなったわ」
「そうですか。……あの、箕輪さん!」
 ワルトが倒産する原因になった企業を聞こうと口を開いた途端、突然頭にガツンと殴られた衝撃が走った。実際に殴られたわけではない。反射的に頭を抱え、その場に蹲ったが、出血しているわけではないようだ。次第に激痛の波が真崎を襲う。
「いっ……!?」
「し、真崎くん、大丈夫? すごい汗……!」
 さすがに道のど真ん中で倒れ込むわけにはいかない。箕輪に腕を引いてもらいながら、邪魔にならない端へ行く。コンクリートに座り込み、両手で頭を押さえつける。しかし、あまりの激痛に視界が霞む。すぐ近くに箕輪の焦る声が聞こえた。
「真崎くん、水を飲める? 私、頭痛薬を持っているから……」
 差し出されたペットボトルに手を伸ばす。視界に入った瞬間、ただの水のはずなのに、泥のような色に見えて、思わずはたき落としてしまった。
「ど、どうしたの? 水よ?」
 声を出そうとすると、より頭痛が増していく。こんなこと、今までなかった。
(視界に入る色が、あのペットボトルだけが違う、気持ち悪い! まるで飲むなと言われているような――)
 ――■■■■■
(え……?)
 誰かの声が聞こえた途端、頭痛が止んだ。あんなに激痛だったのが、何もなかったかのようにふっと消えてしまった。途端に視界がクリアになって、ゆっくりと顔を上げる。
「マサキ、聞こえてる?」
 そこには正面にしゃがみ込んで、真崎と同じ目線で問いかけるシグマの姿があった。黄色のパーカーがやけに目を刺激する。
「シグマ? なんで……」
「落ち着けって。今は何も考えなくていいから、ゆーっくり深呼吸して」
 一定の速度で背中を擦ってくれる。それに合わせて真崎も呼吸を整え始めた。どこからか感じるのは、真崎自身がどれだけシグマのことを頼っているのかを物語っているように思えた。
 そしてようやく落ち着いた頃には、近くで今にも泣きそうな顔の箕輪が視界に入った。
「真崎くん!」
「……箕輪さん、すみません。急にこんなところを見せてしまって」
「ううん。でも本当に大丈夫? まだ退院するべきじゃなかったんじゃ……」
「あはは、時々こういうのがあるんです。もう大丈夫なので」
「とりあえず水でも飲んどけば? ほら」
 そう言ってシグマは、箕輪が持っていたものとは別のペットボトルの水を差し出す。今度は泥のような色ではなく、透明な水だった。おそるおそる受け取っても、先程のような激痛は襲って来ない。
 真崎はぐいっと一気に水を煽った。だいぶ喉が渇いていたのだろう、五〇〇ミリのペットボトルは一瞬にして空となった。
「おねーさん、コイツのことは俺に任せてもらえません?」
「え、でも……」
「俺、彼の家に居候しているんです。責任をもって寝かせますんで」
 へらっと笑いながらシグマが箕輪に言うと、同じ家に住んでいるのなら、ということで納得してくれた。
 このまま立ち往生しても、と箕輪は「真崎くんのことよろしくね。私にできることがあったら連絡してね!」と残してその場を立ち去った。
 意識や視界がくっきりとして元に戻ってくると、真崎はゆっくりと立ち上がる。
「ん? もういいの?」
「ああ、充分休ませてもらった。ありがとう。……ところで、どうして俺がここにいるってわかったの?」
「マサキレーダーがビビッときた」
「……聞くだけ無駄だった」
 余計なことだったと早々に切り上げて、二人は駐車場に向かう。頭痛が起きる前よりも頭がすっきりしているのか、身体が軽いような気がした。
「それで、どうだった? えっと……どどいつみたいな名前の」
「土井悠聖な。いろいろ聞けたよ」
 車に乗り込み、真崎は先程聞いた土井の話をシグマに話す。
「土井と火伏が幼馴染ねぇ……」
「警察は調べているのかな?」
「調べたところでパウンドが別にいる証拠にはならないからな。ある程度の情報はあるんじゃない? それにしても『俺のパパはヒーローなんだぞー』並みのカミングアウトだな。自信ありげに装うのは親譲りか」
「親譲り?」
「俺のところにある情報だと、土井はある議員の息子だ。今、確証を掴むために早瀬さんに調べてもらっている。……俺がただサボりたかっただけに見えた?」
 にやりと口元を緩めたシグマを見て、やられたと深い溜息をついた。
 シグマは最初から土井の素性を調べていたうえで、真崎と対面させたのだ。真剣に聞いていた自分が馬鹿馬鹿しいとすら思う。
 むっとしかめ面をする真崎に、腹を抱えたシグマはなだめる。
「大丈夫だって。俺相手に二の足を踏むのはしょうがなくね? それでメシ食っているんだから」
「ほらぁ! やっぱり俺が行かないほうがよかったって! だから嫌だって言ったのに!」
 記憶を失う前の自分ができたからと言っても、今の真崎は接客スキルも知らない新入社員同然だ。たまたま体の記憶が覚えていたのが救いだっただけで、真崎自身はなるべくポーカーフェイスを保つことで必死だった。それに真崎が相手から引き出せたのはシグマがすでに知っている情報ばかり。目新しいものはなかった。
 項垂れる真崎をよそに、シグマはケラケラと笑う。
「それでいいんだよ」
「……は?」
「平凡を装うアンタが話を聞こうとするから、相手はつけあがるんだよ」
 言っていることが理解しがたいとさらに顔をしかめた真崎を横目に、シグマは「ところで」と話をずらした。
「マサキから見てどうだった? 土井悠聖っていう人間は」
「うーん……大学生だけど社長って肩書があるせいか、背伸びしているイメージかな。知ったかぶりをしているというか……そういえば、あれもおかしかったな」
『もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね』
 土井の言う通り、アプリの開発も過去にあった過ちを払拭するためのものだとしても、果たしてパウンドの動画を見ただけで火伏本人だとわかるものだろうか。
 それを聞いたシグマは「ふぅん」と軽く流すだけで、特に追及してくることはなかった。
 じゃあなんで言わせた、とまた眉をしかめた真崎だったが、すぐに切り替えてハンドルを握った。
「次はどこを回るんだ? もうすぐ夕方だし、行けてもあと一件くらいしか……」
「警察署」
「え?」
 聞き間違えたかと思わず目を見やると、シグマが楽しそうに笑みを浮かべながら、スマートフォンの画面を見せてきた。そこに表示されたのは、人相の悪い、顔に火傷の痕がある男の写真。
「お前が閉じ込められていたコンテナに火をつけたのは自分だって、ずっと言い張っているんだってさ。拘留されているってのに、どんな手を使ったのか。警察は皆目見当もつかないらしい」
「まさか、パウンドには共犯者がいるってこと?」
「さあな。今からその口を割らせにいくのさ」
「また嫌な予感がする……」
「そういうことができるのも、俺の特権なんだよ」
 シグマがシートベルトを締めたのを確認して、真崎は緊張しい面持ちでハンドルを握った。