コンテナの側面についていた煤を最初に発見したのは、一番奥にあるトランクルームを借りている大学生だった。
管理人の巣鴨は最後まで大学生の個人情報を教えることはしなかったが、そこはシグマがどこからか情報を持ってきたようだ。
真崎が記者を装って事前に取材がしたい旨を連絡すると、すぐに「一時間程度であれば可能。大学の近くまで来てほしい」と返答があった。『トランクたけなか』から指定されたカフェまでは車で三十分程度の道のりだ。
「マサキ、一人で行ってきてくんない?」
指定されたカフェの近くにある駐車場に停めると、シグマがシートベルトを緩めながらさも当然のようにさらりと告げる。
「え、俺だけ!?」
「なんだよ、不満か?」
「当たり前だろ! シグマから見たら知り合った頃から知っている真崎大翔だろうけど、今の俺は三年前の平凡な新卒で止まっているんだって!」
「だって俺、早瀬さんに呼び出されちゃったし」
そう言ってひらひらとスマホの画面を見せつけてくる。確かに早瀬からの着信が三件ほど溜まっていた。時間帯的にコンテナ付近を確認していた頃だから、電波の悪さで断念したのかもしれない。
「早瀬さんを引き合いに出せば俺が簡単に了承すると思うなよ? 記憶を失くしても、冷静な判断はできるほうだからな!」
「面倒くさっ! 大丈夫だって、別に話を聞くだけじゃん? 出版社の人間だって気付かれても、どこかの連中が興味本位で探ってんなーくらいにしか思わないって」
「それはお前だからできることであって――」
「じゃ、あとはよろしく!」
そう言ってシグマはウィンクを投げると、車から降りて颯爽と駐車場を出て行った。逃げ足が速いというべきか、真崎が後を追って駐車場を出た頃にはすでに姿は見えなかった。
「……あの野郎!」
不満が募って吐いた言葉は思っていた以上に大きかったようで、横切る通行人が若干引いた目で真崎を見ていた。
そんな痛い視線を浴びながら、真崎は仕方なしに歩き出す。ただでさえ相手は予定が詰まっているのだ。貴重な時間を割いてまで作ってもらったのだから、遅れるわけにはいかない。
指定されたカフェに入ると、土井悠聖は真崎よりも先に席についていた。
大学生で起業し、あるアプリが人命救助の功績をたたき出した会社の社長でもある彼は、カジュアルな恰好ながらも小綺麗にしていた。すらりとした長身、緩いウェーブがかかった黒髪は、顔を上げるとさらりと揺れた。
「お待たせして申し訳ございません。土井さんですね? 梶浦出版の真崎と申します」
「わざわざありがとうございます。土井です。梶浦出版……すみません、存じ上げておらず」
「お気になさらないでください。最近できたばかりで認知度は低いもので……はは、恐縮です」
慣れた手つきで名刺を交換すると、土井は何やらじっと見つめてくる。存在しない企業名に怪しんでいるのか、それとも――
(名刺と照らし合わせている……?)
わずかだが、目線が真崎と手元の名刺に向けられているような気がする。勘ぐっているような目つきに、真崎は悟られないように問う。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……珍しい読み方だなと思って。間違えられることはありませんか?」
「ええ、よく『マサキ』とも呼ばれたりします」
「そうですよね、先に名刺だけ渡されたら僕もそう呼んでしまいそうです。思わず見入ってしまいました。すみません」
にっこりと微笑む土井はそう言うと、通りがかった店員にコーヒーを二つ注文する。どうやら真崎の分と一緒に飲み終えた自分の分も注文したらしい。
その行動が少し違和感を覚えた。相手の視線、口元、頬の引きつり方――一瞬だけ、動揺しているようにも見えたが、すぐに平然を持ち直した。
(気にしすぎか?)
意識をしていなくとも情報として真崎の脳に入ってくるのは、以前の自分が細かく相手を観察する癖を身につけていた積み重ねによるものだろうか。心なしか冷静に土井との会話に耳を傾けている自分がいることに、内心驚いている。
このペースを崩さぬよう、早速本題に入ることにした。
「それで、今日お伺いしたいのは――」
「あのコンテナのことですよね? 警察の人には話したんですけど」
「我々は、警察とは別の角度で調べたうえで記事にしたいと考えております。何度も恐縮ですが、お話いただけますか?」
「そうっすね……事件があった日、僕は自転車を取り出しにきたんです。友人とサイクリングしようと計画をしていて、直接合流する予定でした。僕が借りているトランクルームは、コンテナの間を通り抜けたほうが近いので、その日も同じ道を通って入ったら、不気味に半開きになっているコンテナと、爆竹が破裂した時の焦げ臭いが気になって……ちょうどそこに、巡回していた巣鴨さんに知らせたんです」
土井がトランクルームを借りたのは三年前、大学に入ってすぐのこと。アパートを借りたものの、荷物が想定していたより入りきらなかったそうで、安い料金で借りられるレンタルサービスを探していたところ、『トランクたけなか』に辿り着いたという。
「ご自宅はここから近いんですか?」
「いいえ、当時は近かったのですが、水漏れ騒ぎで引っ越しまして、今は駅に近いアパートを借りて住んでいます。とはいえ、大型のマウンテンバイクは中に入れられなくって。だから、今も利用させてもらっているんです」
「なるほど。それでは、自転車を取りに来たあなたはご自身のコンテナに向かう道中に、側面の煤や周りに焦げた跡を見つけて巡回中の管理人さんを呼んだ、と。どうしてパウンドの仕業だと思ったのですか?」
「実はアプリ開発のためにパウンドの動画は見ていました。周囲の燃え残り方とか、覚えるくらいには、見ていたと思います。……でもまさか、実在するとは思っていませんでした。どこか、誰かの悪意のある悪戯だろうと、少しだけ思っていたのかもしれません」
「アプリ開発……というと、これのことですね?」
真崎がスマートフォンを操作し、あるアプリを起動させる。画面にオレンジ色の拡声器の絵柄が入ったアプリは、すぐに日本列島に各地の天気予報が書かれたイラストが表示されていた。
これは土井が在籍中に作り上げ、企業までした代表的な火災危機対策アプリ――通称『サイレンくん』だ。このアプリでは、主に天候、湿度、空気の乾燥具合、風向き等、GPS機能と連携して自分の住んでいる地域で発火しやすい場所を特定、アプリ利用者に通達するという。
第一発見者が土井だとわかったタイミングで、シグマが半ば強引に真崎のスマートフォンにダウンロードさせたものだ。カフェに向かう道中である程度いじったが、細かい情報もわかりやすく組み込まれており、真崎は思わず関心してしまった。
「人災も災害も、用心していても起きてしまうのが現実です。きっとどれだけ科学が発展しても未然に防ぐことはできないでしょう。でも被害を防ぐ環境を整えることは誰でもできる、そう思って、天気予報をもとによりわかりやすいアプリを開発しました」
仕様としては、アプリに登録した自宅周辺の天候を予測したものを前日と当日の午前中に配信。一週間分も告知はするが、人の思い通りにはいかない自然界は自由だ。真逆な天候になる可能性は充分にある。
天気予報と異なるのは、自分のいる場所の天候がピンポイントでわかることだ。
特にテレビの天気予報ではある程度栄えている市や町はわかっても、小さな村まではピックアップされず、一番近い市や町の天気をみて判断する。さらに山に囲まれた地域では、天気予報が当てにならないことも少なくない。特に年配者はわざわざネットで天気を検索するようなことはほぼしない。パッとみた場所から推測して田んぼの様子や畑の水やりを行うのだ。
「僕が住んでいた場所は山が多い田舎でして、よく山火事騒ぎがあったんですよ。と言っても、すぐに消防団が駆けつけて消火作業してくれたので、燃え広がることはなかったんですけど。その時の慌ただしい様子が、パウンドの放火で怯えている人の声を聞いて思い出したんです。だからこれは、ご年配の方々でも上手く操作ができるよう、簡単な操作しかつけていません」
「簡単な操作というと、ボタン一つでわかる、くらいの?」
「ええ。例えばですが、実際に自分の手に負えないほどの火災が目の前で起きたら、消防署に連絡しますよね? アプリの表示画面に確実に火災が発生したのが衛生上でわかれば、そのまま消防署へ連絡が行きます。もちろん、電話もつながる仕様です」
「利用者の中には、ご年配の方もいらっしゃるんですよね? 誤送することもあるのではないのですか?」
「最初はありましたが、通報以外は電話ができないように設定しています。多くの情報の中から火災現場を特定し、アプリ利用者が近辺にいない限り、開くことはできない仕様です。かなり強引ではありますが、誤送や悪戯を防ぐために、これから改良を検討しています。近々、アップデートを予定しているんです」
実際にパウンドの模倣犯が増えてきた最近は、都会でもダウンロードする人が増えていることもあり、誤送や悪質な電話がかかってくるのは消防署も大変だろう。
「パウンドが逮捕されたとはいえ、模倣犯による放火やボヤ騒ぎについて過敏になっている人はここ数ヶ月で増えてきています。警察がSNSを監視して情報元の特定を急いでいるらしいですが、その間にパウンドが逃げないとも言い切れない。僕が作ったアプリが、少しでも不安やストレスを解消するツールになればと、思っています。それより、コーヒーを飲みましょうよ。ここのブレンド、僕のおすすめです」
小さく笑みを浮かべた土井はそう言って、コーヒーを一気に煽る。
それまでじっと土井の表情や言葉を集中して聞き込んでいた真崎も、店員が運んできたコーヒーを口に運ぶが、淹れられたばかりで思っていたより熱く、一口も満たない量で一度口を離した。
「あちっ……」
「猫舌ですか?」
「ええ、まぁ……あまり飲み慣れていなくて。少し前までは飲めていた気がするんですけど」
と言っても、今の真崎にとっては大学生の頃の記憶で止まっている。社会人になっても飲めていたはずだが、やはりシグマが用意したココアを体が覚えているからだろうか。
ふーっと息を吹いて冷ましながらもう一度飲み込む。深煎り独特のすっきりとした苦味がちょうど良い。
(それにしても、なんか変だ)
事件発覚から数日も経っているとはいえ、土井の意気揚々とした様子に違和感を覚えた。
実際に開発されたアプリ『サイレンくん』は、パウンドのボヤ騒ぎよりも前に配信されており、放火が増えてきた頃に一気に売り上げを勝ち取っている。
パウンドを商売の売り文句として使っているのは、果たして良いものなのか。
「土井さんは、パウンドをどう思っていますか?」
今までよりもふわっとした質問だったと思う。土井は目をぱちくりさせると、首を傾げた。
「どう、とは? 僕個人の感覚のことですか?」
「あなたは先程、アプリ開発のためにパウンドの動画を見たとおっしゃった。だからこそ被害を減らすためのアプリへ改良していったのでしょう? それでもパウンドは止まらない。その点についてはどうお考えですか? あなた個人の意見で構いません」
真崎は、自分でも皮肉な問いかけをしたと思った。ただ笑っているだけの土井は、未だ本心を出そうとはしない。笑顔を張りつけた仮面の下はどんな顔をしているのか、好奇心で聞いてみただけだったのに。
すると土井は、少し悩む仕草をしてから口を開いた。
「パウンドは『異常者』だと、そういう声をよく聞きます。でも結局は人であることに変わりはなくて、どこかで道を踏み間違えただけなんですよ。人間って、そういうもんじゃないですか」
「まるで、パウンドを知っているような口ぶりですね」
「ええ。知っています」
は? と思わず声が出ると同時に前のめりになる。食いつくように見入る真崎を前に、土井は笑みをたたえた。
「実は、逮捕されたパウンドと名乗っている火伏とは、幼馴染なんです」
土井の話によると、拘留中の火伏昭とは同じ田舎の出身で、中学校まで一緒に育ったという。大人しく消極的な性格で、教室でも端のほうにいるような影の薄い存在だった。
さらに土井は少し躊躇いながら、先程よりも小声で話し出した。
「アイツ、実は火遊びが好きだったんです」
「火遊び?」
「彼の家は両親の仲が悪かったみたいで。さらに反抗期が重なったから、余計に拗らせちゃったみたいで。彼の目の下にある火傷の痕はその名残です。中学生の頃、火遊びを止めようとしたら、誤って竹に引火して破裂して……僕は止められなかった」
悔しそうに唇を噛み、手の甲に爪が食い込むほど強く握る。
「正直、僕にとって火伏は脅威でしかありません。だからパウンドの動画を見てすぐ、火伏だとわかりました。怖くて警察に申し出ることはできなかったけど……捕まってくれて、本当に良かった」
安堵するように、はぁ、と大きく息をついた。
「もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね」
「友達を助けたかった、という後悔ですか?」
真崎が尋ねると、土井は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに胡散臭そうに笑う。
「もちろん、人を助けるなんて善意ですよ。そして同時に金儲けができる。――正直、パウンドには感謝しかありませんね」
管理人の巣鴨は最後まで大学生の個人情報を教えることはしなかったが、そこはシグマがどこからか情報を持ってきたようだ。
真崎が記者を装って事前に取材がしたい旨を連絡すると、すぐに「一時間程度であれば可能。大学の近くまで来てほしい」と返答があった。『トランクたけなか』から指定されたカフェまでは車で三十分程度の道のりだ。
「マサキ、一人で行ってきてくんない?」
指定されたカフェの近くにある駐車場に停めると、シグマがシートベルトを緩めながらさも当然のようにさらりと告げる。
「え、俺だけ!?」
「なんだよ、不満か?」
「当たり前だろ! シグマから見たら知り合った頃から知っている真崎大翔だろうけど、今の俺は三年前の平凡な新卒で止まっているんだって!」
「だって俺、早瀬さんに呼び出されちゃったし」
そう言ってひらひらとスマホの画面を見せつけてくる。確かに早瀬からの着信が三件ほど溜まっていた。時間帯的にコンテナ付近を確認していた頃だから、電波の悪さで断念したのかもしれない。
「早瀬さんを引き合いに出せば俺が簡単に了承すると思うなよ? 記憶を失くしても、冷静な判断はできるほうだからな!」
「面倒くさっ! 大丈夫だって、別に話を聞くだけじゃん? 出版社の人間だって気付かれても、どこかの連中が興味本位で探ってんなーくらいにしか思わないって」
「それはお前だからできることであって――」
「じゃ、あとはよろしく!」
そう言ってシグマはウィンクを投げると、車から降りて颯爽と駐車場を出て行った。逃げ足が速いというべきか、真崎が後を追って駐車場を出た頃にはすでに姿は見えなかった。
「……あの野郎!」
不満が募って吐いた言葉は思っていた以上に大きかったようで、横切る通行人が若干引いた目で真崎を見ていた。
そんな痛い視線を浴びながら、真崎は仕方なしに歩き出す。ただでさえ相手は予定が詰まっているのだ。貴重な時間を割いてまで作ってもらったのだから、遅れるわけにはいかない。
指定されたカフェに入ると、土井悠聖は真崎よりも先に席についていた。
大学生で起業し、あるアプリが人命救助の功績をたたき出した会社の社長でもある彼は、カジュアルな恰好ながらも小綺麗にしていた。すらりとした長身、緩いウェーブがかかった黒髪は、顔を上げるとさらりと揺れた。
「お待たせして申し訳ございません。土井さんですね? 梶浦出版の真崎と申します」
「わざわざありがとうございます。土井です。梶浦出版……すみません、存じ上げておらず」
「お気になさらないでください。最近できたばかりで認知度は低いもので……はは、恐縮です」
慣れた手つきで名刺を交換すると、土井は何やらじっと見つめてくる。存在しない企業名に怪しんでいるのか、それとも――
(名刺と照らし合わせている……?)
わずかだが、目線が真崎と手元の名刺に向けられているような気がする。勘ぐっているような目つきに、真崎は悟られないように問う。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……珍しい読み方だなと思って。間違えられることはありませんか?」
「ええ、よく『マサキ』とも呼ばれたりします」
「そうですよね、先に名刺だけ渡されたら僕もそう呼んでしまいそうです。思わず見入ってしまいました。すみません」
にっこりと微笑む土井はそう言うと、通りがかった店員にコーヒーを二つ注文する。どうやら真崎の分と一緒に飲み終えた自分の分も注文したらしい。
その行動が少し違和感を覚えた。相手の視線、口元、頬の引きつり方――一瞬だけ、動揺しているようにも見えたが、すぐに平然を持ち直した。
(気にしすぎか?)
意識をしていなくとも情報として真崎の脳に入ってくるのは、以前の自分が細かく相手を観察する癖を身につけていた積み重ねによるものだろうか。心なしか冷静に土井との会話に耳を傾けている自分がいることに、内心驚いている。
このペースを崩さぬよう、早速本題に入ることにした。
「それで、今日お伺いしたいのは――」
「あのコンテナのことですよね? 警察の人には話したんですけど」
「我々は、警察とは別の角度で調べたうえで記事にしたいと考えております。何度も恐縮ですが、お話いただけますか?」
「そうっすね……事件があった日、僕は自転車を取り出しにきたんです。友人とサイクリングしようと計画をしていて、直接合流する予定でした。僕が借りているトランクルームは、コンテナの間を通り抜けたほうが近いので、その日も同じ道を通って入ったら、不気味に半開きになっているコンテナと、爆竹が破裂した時の焦げ臭いが気になって……ちょうどそこに、巡回していた巣鴨さんに知らせたんです」
土井がトランクルームを借りたのは三年前、大学に入ってすぐのこと。アパートを借りたものの、荷物が想定していたより入りきらなかったそうで、安い料金で借りられるレンタルサービスを探していたところ、『トランクたけなか』に辿り着いたという。
「ご自宅はここから近いんですか?」
「いいえ、当時は近かったのですが、水漏れ騒ぎで引っ越しまして、今は駅に近いアパートを借りて住んでいます。とはいえ、大型のマウンテンバイクは中に入れられなくって。だから、今も利用させてもらっているんです」
「なるほど。それでは、自転車を取りに来たあなたはご自身のコンテナに向かう道中に、側面の煤や周りに焦げた跡を見つけて巡回中の管理人さんを呼んだ、と。どうしてパウンドの仕業だと思ったのですか?」
「実はアプリ開発のためにパウンドの動画は見ていました。周囲の燃え残り方とか、覚えるくらいには、見ていたと思います。……でもまさか、実在するとは思っていませんでした。どこか、誰かの悪意のある悪戯だろうと、少しだけ思っていたのかもしれません」
「アプリ開発……というと、これのことですね?」
真崎がスマートフォンを操作し、あるアプリを起動させる。画面にオレンジ色の拡声器の絵柄が入ったアプリは、すぐに日本列島に各地の天気予報が書かれたイラストが表示されていた。
これは土井が在籍中に作り上げ、企業までした代表的な火災危機対策アプリ――通称『サイレンくん』だ。このアプリでは、主に天候、湿度、空気の乾燥具合、風向き等、GPS機能と連携して自分の住んでいる地域で発火しやすい場所を特定、アプリ利用者に通達するという。
第一発見者が土井だとわかったタイミングで、シグマが半ば強引に真崎のスマートフォンにダウンロードさせたものだ。カフェに向かう道中である程度いじったが、細かい情報もわかりやすく組み込まれており、真崎は思わず関心してしまった。
「人災も災害も、用心していても起きてしまうのが現実です。きっとどれだけ科学が発展しても未然に防ぐことはできないでしょう。でも被害を防ぐ環境を整えることは誰でもできる、そう思って、天気予報をもとによりわかりやすいアプリを開発しました」
仕様としては、アプリに登録した自宅周辺の天候を予測したものを前日と当日の午前中に配信。一週間分も告知はするが、人の思い通りにはいかない自然界は自由だ。真逆な天候になる可能性は充分にある。
天気予報と異なるのは、自分のいる場所の天候がピンポイントでわかることだ。
特にテレビの天気予報ではある程度栄えている市や町はわかっても、小さな村まではピックアップされず、一番近い市や町の天気をみて判断する。さらに山に囲まれた地域では、天気予報が当てにならないことも少なくない。特に年配者はわざわざネットで天気を検索するようなことはほぼしない。パッとみた場所から推測して田んぼの様子や畑の水やりを行うのだ。
「僕が住んでいた場所は山が多い田舎でして、よく山火事騒ぎがあったんですよ。と言っても、すぐに消防団が駆けつけて消火作業してくれたので、燃え広がることはなかったんですけど。その時の慌ただしい様子が、パウンドの放火で怯えている人の声を聞いて思い出したんです。だからこれは、ご年配の方々でも上手く操作ができるよう、簡単な操作しかつけていません」
「簡単な操作というと、ボタン一つでわかる、くらいの?」
「ええ。例えばですが、実際に自分の手に負えないほどの火災が目の前で起きたら、消防署に連絡しますよね? アプリの表示画面に確実に火災が発生したのが衛生上でわかれば、そのまま消防署へ連絡が行きます。もちろん、電話もつながる仕様です」
「利用者の中には、ご年配の方もいらっしゃるんですよね? 誤送することもあるのではないのですか?」
「最初はありましたが、通報以外は電話ができないように設定しています。多くの情報の中から火災現場を特定し、アプリ利用者が近辺にいない限り、開くことはできない仕様です。かなり強引ではありますが、誤送や悪戯を防ぐために、これから改良を検討しています。近々、アップデートを予定しているんです」
実際にパウンドの模倣犯が増えてきた最近は、都会でもダウンロードする人が増えていることもあり、誤送や悪質な電話がかかってくるのは消防署も大変だろう。
「パウンドが逮捕されたとはいえ、模倣犯による放火やボヤ騒ぎについて過敏になっている人はここ数ヶ月で増えてきています。警察がSNSを監視して情報元の特定を急いでいるらしいですが、その間にパウンドが逃げないとも言い切れない。僕が作ったアプリが、少しでも不安やストレスを解消するツールになればと、思っています。それより、コーヒーを飲みましょうよ。ここのブレンド、僕のおすすめです」
小さく笑みを浮かべた土井はそう言って、コーヒーを一気に煽る。
それまでじっと土井の表情や言葉を集中して聞き込んでいた真崎も、店員が運んできたコーヒーを口に運ぶが、淹れられたばかりで思っていたより熱く、一口も満たない量で一度口を離した。
「あちっ……」
「猫舌ですか?」
「ええ、まぁ……あまり飲み慣れていなくて。少し前までは飲めていた気がするんですけど」
と言っても、今の真崎にとっては大学生の頃の記憶で止まっている。社会人になっても飲めていたはずだが、やはりシグマが用意したココアを体が覚えているからだろうか。
ふーっと息を吹いて冷ましながらもう一度飲み込む。深煎り独特のすっきりとした苦味がちょうど良い。
(それにしても、なんか変だ)
事件発覚から数日も経っているとはいえ、土井の意気揚々とした様子に違和感を覚えた。
実際に開発されたアプリ『サイレンくん』は、パウンドのボヤ騒ぎよりも前に配信されており、放火が増えてきた頃に一気に売り上げを勝ち取っている。
パウンドを商売の売り文句として使っているのは、果たして良いものなのか。
「土井さんは、パウンドをどう思っていますか?」
今までよりもふわっとした質問だったと思う。土井は目をぱちくりさせると、首を傾げた。
「どう、とは? 僕個人の感覚のことですか?」
「あなたは先程、アプリ開発のためにパウンドの動画を見たとおっしゃった。だからこそ被害を減らすためのアプリへ改良していったのでしょう? それでもパウンドは止まらない。その点についてはどうお考えですか? あなた個人の意見で構いません」
真崎は、自分でも皮肉な問いかけをしたと思った。ただ笑っているだけの土井は、未だ本心を出そうとはしない。笑顔を張りつけた仮面の下はどんな顔をしているのか、好奇心で聞いてみただけだったのに。
すると土井は、少し悩む仕草をしてから口を開いた。
「パウンドは『異常者』だと、そういう声をよく聞きます。でも結局は人であることに変わりはなくて、どこかで道を踏み間違えただけなんですよ。人間って、そういうもんじゃないですか」
「まるで、パウンドを知っているような口ぶりですね」
「ええ。知っています」
は? と思わず声が出ると同時に前のめりになる。食いつくように見入る真崎を前に、土井は笑みをたたえた。
「実は、逮捕されたパウンドと名乗っている火伏とは、幼馴染なんです」
土井の話によると、拘留中の火伏昭とは同じ田舎の出身で、中学校まで一緒に育ったという。大人しく消極的な性格で、教室でも端のほうにいるような影の薄い存在だった。
さらに土井は少し躊躇いながら、先程よりも小声で話し出した。
「アイツ、実は火遊びが好きだったんです」
「火遊び?」
「彼の家は両親の仲が悪かったみたいで。さらに反抗期が重なったから、余計に拗らせちゃったみたいで。彼の目の下にある火傷の痕はその名残です。中学生の頃、火遊びを止めようとしたら、誤って竹に引火して破裂して……僕は止められなかった」
悔しそうに唇を噛み、手の甲に爪が食い込むほど強く握る。
「正直、僕にとって火伏は脅威でしかありません。だからパウンドの動画を見てすぐ、火伏だとわかりました。怖くて警察に申し出ることはできなかったけど……捕まってくれて、本当に良かった」
安堵するように、はぁ、と大きく息をついた。
「もしかしたら、僕がパウンドや火災に執着するのはそれが原因かもしれませんね」
「友達を助けたかった、という後悔ですか?」
真崎が尋ねると、土井は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに胡散臭そうに笑う。
「もちろん、人を助けるなんて善意ですよ。そして同時に金儲けができる。――正直、パウンドには感謝しかありませんね」