――き、マサキ、起きろー!
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。グラグラと脳が揺れているように思えるのは、誰かが真崎の肩を容赦なく揺らしているからだろう。
ゆっくりと目を開くと、そこには昨晩のように白いビーニーをかぶったシグマの姿があった。テーブルの向こう側にはぼーっとどこか遠くを見つめている早瀬が、毛布にくるまった状態でゆらゆらと揺れている。
「おーい? 起きた? おはよう」
「……おはよう、何時?」
「八時半過ぎ。よく眠れた? ああ、早瀬さんはここで寝る時はいつもこんな感じだから気にすんな」
「は、はぁ……それよりどうしたの?」
「リリィがメシできたって。早瀬さんは要らないって言っているから後でコーヒーをもらってくる。マサキは食べられるよな? 下に行くぞ」
(リリィ?)
初めて聞く名前に首を傾げる。そんな真崎など気にも留めず、シグマがさっさと行ってしまう。後を追うように事務所から店内に繋がる階段を降りて行った。
ドアを開けた途端、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。レトロな内装にコーヒーと少しばかりの煙草の苦い香りが混ざった、いかにも昔ながらの喫茶店らしい空間だ。開店前にも関わらずクラシックが流れており、優雅で落ち着いた雰囲気はまるで時間が止まっているようだった。
(やっぱり懐かしい感じはするけど、はっきりとは思い出せないな)
昨晩もシグマ、早瀬とともに夕食をここでとったが、特に何かを思い出した様子はない。
しいて言えば、早瀬が楽しみにしていたビーフシチューはこの日も売り切れており、これでもかというほど大きく肩を落としていたのを見て、デジャヴを感じた。当初の硬派な第一印象からかけ離れていたが、ギャップがあってより印象的に見えたのかもしれない。
「あら、珍しい人がいるわね。あなたはコーヒー? それともミルクたっぷりの紅茶がいいかしら?」
店内を見渡していると、カウンター越しから声をかけられる。
視線を向けると、思わず目を見張った。声をかけてきたのは、フランス人形のような美少女だったからだ。金髪のツインテールに青い瞳の顔立ち。年期の入っている丸眼鏡は少し歪に曲がっている。片手には淹れたてのコーヒーが入ったコーヒーサーバーがあり、ちょうどマグカップに注いだものがシグマの前に置かれたところだった。
そのシグマはというと、カウンター席でトーストをかじりながら、行儀悪くスマートフォンを操作している。
「何よ、さっさと座れば?」
「え、えっと……は、はい」
口ぶりから真崎のことは知っているようで、金髪の少女が怪訝そうに首を傾げる。真崎の記憶では金髪の少女など思い当たらないから、おそらく失った三年間の中で会ったことがあるのだろう。
眉をひそめる真崎に対し、金髪の少女は「……まさか」とむっとした表情で呟いた。
「シグマ、もしかして私のことを説明してないの?」
「あー……忘れていたかも。昨日、ここで夕飯食べていたけど会ってなかったっけ?」
「昨日はずっとキッチンで仕込みをしていたの。ディナータイムなんだから、ずっとハンバーグをこねっぱなしよ。……ああ、なんてこと。私のことを伝えていないどころか、存在自体を忘れられているなんて!」
「悪いって、悪気はないよ?」
「悪気の問題じゃないわ。って、ちゃんと野菜も食べなさいよ!」
金髪の少女はそう言って、脇に置いてあったレタスをシグマの皿に載せる。どうやら真崎の分として用意されていた、サラダとベーコンエッグが載せられたワンプレートにシグマがこっそり自分の分の野菜を移していたらしい。
シグマと少女の言い争いが続く。真崎はすでに蚊帳の外だ。
(全然似ていないのに……兄妹喧嘩みたいだ)
昼行燈な兄に世話焼きの妹――そんな構図を見ていると、不思議と懐かしく思えた。
「もう! シグマのせいでもう一度説明しないといけないじゃない!」
用意されたカウンター席に真崎が座ると、金髪の少女は眼鏡をくいっと上げた。
「私にはリリィってとっても素敵な名前があるの。記憶失くしたからって、その気持ち悪い敬語と態度はやめてくれると嬉しいわ。これからよろしくね、マサキ(・・・)」
「きもっ……!?」
「ああもう吐き気がする!」とキッチンの奥へ入ってしまうリリィ。
朝一でこれは心が痛い。真崎はなぜか少しだけ泣きそうになった。
◇
朝食を終え、少しメンタルがえぐられた真崎が事務所を出ると、快晴の空が広がっていた。
それでもまた夜に雨が少し降ったのか、湿った匂いがする。気温が急激に上がったこともあって、地面はぬかるんでいた。
レンタカーを借りてシグマとともに向かう先は、真崎が見つかった野外トランクルームだ。
大学進学のため、上京前に免許を取ったはいいものの、すぐに就職活動に入ったこともあって教習所以来での運転になる。それでも営業部ということもあってか、運転はお手の物だったらしい。レンタカーでもハンドルが手によく馴染んでいるような気がした。
助手席では、目立つ黄色のパーカーに黒ジャケット姿のシグマが、朝食の場でのことを未だに思い出してはケラケラと笑っている。
「リリィの奴、朝から最高だったなーあー笑った。朝からこんなに笑ったのは久しぶりだ」
「……シグマ、君は彼女に悪気はないと言っていたけど、それも嘘だろ」
そもそも、事務所と繋がっている時点でサフランの店員が真崎のことを知っていてもおかしくはないのだが、記憶喪失のまま、予定外に事務所で一晩を過ごすことになった真崎がそこまで気を回せるわけがない。かといって、状況を知っているシグマがリリィに共有していないのは、彼らしい悪戯心からだろう。
ちなみにリリィはアルバイトではなく、単純に店を手伝っているだけらしい。詳しいことはシグマの口から出なかった。
真崎がじろりと睨みつけても、シグマは笑いを抑えながら言う。
「ただでさえ君の職種は特殊なんだ、他にもいたら承知しないぞ!」
「さぁ、どうだろうなー? 下手したらお前をコンテナに突っ込んだ奴とか、案外近くに居たりして」
「怖いこと言うなって! もう少し人の気持ちを考えろよバカ!」
「はーい、安全運転でお願いしまーす」
前を向け、と手のひらを払う仕草をするシグマ。
それでも真崎の中で、昨日に比べるとそこまで絶望感がないのは、こうやってシグマが気を紛らわせようと悪戯したり、ややこしい遠回しをしてくれているからだ。
だからこそ、気になることもある。
「ところで、どうして君は俺のことを『マサキ』と呼ぶんだ?」
よく読み間違われるフルネームは、自分でも気に入っている名前だからこそ、誰に対しても「シンザキヒロト」と強調するまでがセットだった。それは企業相手でも名刺を渡す際でも変わらなかっただろう。
しかし、シグマは自分のことを知ったうえでわざと「マサキ」と呼んでくる。
「早瀬さんもリリィも、意図的に呼んでいるのは君の仕業か? それに、君が自分のことを『シグマ』と呼ばせているのも、本名を知られないようにするため?」
「俺の本名なんて知る必要ある?」
スマホを操作しながらシグマは続ける。
「もちろん、俺はアンタのフルネームを知っているし、シンザキさんって呼んでもよかったんだけど、相棒にしては他人行儀すぎるだろ。前のアイツから許可はもらっていたし、問題ないっしょ」
「そっか……ごめん」
どこか拗ねた口調のシグマに、萎縮して無意識に謝罪を口にする。記憶を失う前の自分が許していたのなら、きっと何か、シグマを信頼するきっかけがあったのだろう。今は目の前にある情報を信じるしかない。
「それと、俺のフルネームはアンタにも早瀬さんにも教えたことはない。唯一知っているリリィには呼ぶなと口止めをしている」
「え?」
「俺の近くにいる人が、嫌いな名前を呼んでほしくないからさ」
『シグマ』は数学で二つ以上の数の総和を表す記号。または統計学で標準偏差を表す記号とされている。過程を経て出た答えを提示するそれは、探偵のような振舞いをする彼にふさわしい名なのかもしれない。
情報屋などと不可解な職を生業とし、全部諦めたかのように笑う彼が、真崎には少し気の毒に思えた。
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。グラグラと脳が揺れているように思えるのは、誰かが真崎の肩を容赦なく揺らしているからだろう。
ゆっくりと目を開くと、そこには昨晩のように白いビーニーをかぶったシグマの姿があった。テーブルの向こう側にはぼーっとどこか遠くを見つめている早瀬が、毛布にくるまった状態でゆらゆらと揺れている。
「おーい? 起きた? おはよう」
「……おはよう、何時?」
「八時半過ぎ。よく眠れた? ああ、早瀬さんはここで寝る時はいつもこんな感じだから気にすんな」
「は、はぁ……それよりどうしたの?」
「リリィがメシできたって。早瀬さんは要らないって言っているから後でコーヒーをもらってくる。マサキは食べられるよな? 下に行くぞ」
(リリィ?)
初めて聞く名前に首を傾げる。そんな真崎など気にも留めず、シグマがさっさと行ってしまう。後を追うように事務所から店内に繋がる階段を降りて行った。
ドアを開けた途端、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。レトロな内装にコーヒーと少しばかりの煙草の苦い香りが混ざった、いかにも昔ながらの喫茶店らしい空間だ。開店前にも関わらずクラシックが流れており、優雅で落ち着いた雰囲気はまるで時間が止まっているようだった。
(やっぱり懐かしい感じはするけど、はっきりとは思い出せないな)
昨晩もシグマ、早瀬とともに夕食をここでとったが、特に何かを思い出した様子はない。
しいて言えば、早瀬が楽しみにしていたビーフシチューはこの日も売り切れており、これでもかというほど大きく肩を落としていたのを見て、デジャヴを感じた。当初の硬派な第一印象からかけ離れていたが、ギャップがあってより印象的に見えたのかもしれない。
「あら、珍しい人がいるわね。あなたはコーヒー? それともミルクたっぷりの紅茶がいいかしら?」
店内を見渡していると、カウンター越しから声をかけられる。
視線を向けると、思わず目を見張った。声をかけてきたのは、フランス人形のような美少女だったからだ。金髪のツインテールに青い瞳の顔立ち。年期の入っている丸眼鏡は少し歪に曲がっている。片手には淹れたてのコーヒーが入ったコーヒーサーバーがあり、ちょうどマグカップに注いだものがシグマの前に置かれたところだった。
そのシグマはというと、カウンター席でトーストをかじりながら、行儀悪くスマートフォンを操作している。
「何よ、さっさと座れば?」
「え、えっと……は、はい」
口ぶりから真崎のことは知っているようで、金髪の少女が怪訝そうに首を傾げる。真崎の記憶では金髪の少女など思い当たらないから、おそらく失った三年間の中で会ったことがあるのだろう。
眉をひそめる真崎に対し、金髪の少女は「……まさか」とむっとした表情で呟いた。
「シグマ、もしかして私のことを説明してないの?」
「あー……忘れていたかも。昨日、ここで夕飯食べていたけど会ってなかったっけ?」
「昨日はずっとキッチンで仕込みをしていたの。ディナータイムなんだから、ずっとハンバーグをこねっぱなしよ。……ああ、なんてこと。私のことを伝えていないどころか、存在自体を忘れられているなんて!」
「悪いって、悪気はないよ?」
「悪気の問題じゃないわ。って、ちゃんと野菜も食べなさいよ!」
金髪の少女はそう言って、脇に置いてあったレタスをシグマの皿に載せる。どうやら真崎の分として用意されていた、サラダとベーコンエッグが載せられたワンプレートにシグマがこっそり自分の分の野菜を移していたらしい。
シグマと少女の言い争いが続く。真崎はすでに蚊帳の外だ。
(全然似ていないのに……兄妹喧嘩みたいだ)
昼行燈な兄に世話焼きの妹――そんな構図を見ていると、不思議と懐かしく思えた。
「もう! シグマのせいでもう一度説明しないといけないじゃない!」
用意されたカウンター席に真崎が座ると、金髪の少女は眼鏡をくいっと上げた。
「私にはリリィってとっても素敵な名前があるの。記憶失くしたからって、その気持ち悪い敬語と態度はやめてくれると嬉しいわ。これからよろしくね、マサキ(・・・)」
「きもっ……!?」
「ああもう吐き気がする!」とキッチンの奥へ入ってしまうリリィ。
朝一でこれは心が痛い。真崎はなぜか少しだけ泣きそうになった。
◇
朝食を終え、少しメンタルがえぐられた真崎が事務所を出ると、快晴の空が広がっていた。
それでもまた夜に雨が少し降ったのか、湿った匂いがする。気温が急激に上がったこともあって、地面はぬかるんでいた。
レンタカーを借りてシグマとともに向かう先は、真崎が見つかった野外トランクルームだ。
大学進学のため、上京前に免許を取ったはいいものの、すぐに就職活動に入ったこともあって教習所以来での運転になる。それでも営業部ということもあってか、運転はお手の物だったらしい。レンタカーでもハンドルが手によく馴染んでいるような気がした。
助手席では、目立つ黄色のパーカーに黒ジャケット姿のシグマが、朝食の場でのことを未だに思い出してはケラケラと笑っている。
「リリィの奴、朝から最高だったなーあー笑った。朝からこんなに笑ったのは久しぶりだ」
「……シグマ、君は彼女に悪気はないと言っていたけど、それも嘘だろ」
そもそも、事務所と繋がっている時点でサフランの店員が真崎のことを知っていてもおかしくはないのだが、記憶喪失のまま、予定外に事務所で一晩を過ごすことになった真崎がそこまで気を回せるわけがない。かといって、状況を知っているシグマがリリィに共有していないのは、彼らしい悪戯心からだろう。
ちなみにリリィはアルバイトではなく、単純に店を手伝っているだけらしい。詳しいことはシグマの口から出なかった。
真崎がじろりと睨みつけても、シグマは笑いを抑えながら言う。
「ただでさえ君の職種は特殊なんだ、他にもいたら承知しないぞ!」
「さぁ、どうだろうなー? 下手したらお前をコンテナに突っ込んだ奴とか、案外近くに居たりして」
「怖いこと言うなって! もう少し人の気持ちを考えろよバカ!」
「はーい、安全運転でお願いしまーす」
前を向け、と手のひらを払う仕草をするシグマ。
それでも真崎の中で、昨日に比べるとそこまで絶望感がないのは、こうやってシグマが気を紛らわせようと悪戯したり、ややこしい遠回しをしてくれているからだ。
だからこそ、気になることもある。
「ところで、どうして君は俺のことを『マサキ』と呼ぶんだ?」
よく読み間違われるフルネームは、自分でも気に入っている名前だからこそ、誰に対しても「シンザキヒロト」と強調するまでがセットだった。それは企業相手でも名刺を渡す際でも変わらなかっただろう。
しかし、シグマは自分のことを知ったうえでわざと「マサキ」と呼んでくる。
「早瀬さんもリリィも、意図的に呼んでいるのは君の仕業か? それに、君が自分のことを『シグマ』と呼ばせているのも、本名を知られないようにするため?」
「俺の本名なんて知る必要ある?」
スマホを操作しながらシグマは続ける。
「もちろん、俺はアンタのフルネームを知っているし、シンザキさんって呼んでもよかったんだけど、相棒にしては他人行儀すぎるだろ。前のアイツから許可はもらっていたし、問題ないっしょ」
「そっか……ごめん」
どこか拗ねた口調のシグマに、萎縮して無意識に謝罪を口にする。記憶を失う前の自分が許していたのなら、きっと何か、シグマを信頼するきっかけがあったのだろう。今は目の前にある情報を信じるしかない。
「それと、俺のフルネームはアンタにも早瀬さんにも教えたことはない。唯一知っているリリィには呼ぶなと口止めをしている」
「え?」
「俺の近くにいる人が、嫌いな名前を呼んでほしくないからさ」
『シグマ』は数学で二つ以上の数の総和を表す記号。または統計学で標準偏差を表す記号とされている。過程を経て出た答えを提示するそれは、探偵のような振舞いをする彼にふさわしい名なのかもしれない。
情報屋などと不可解な職を生業とし、全部諦めたかのように笑う彼が、真崎には少し気の毒に思えた。