男は走った。
 何年も人が立ち入らない廃墟の工場で、無造作に転がっている機材を勢いよく踏みつけながら、男は暗闇を駆け抜けていく。
 呼吸を整えたいところだが、休んでいる暇はない。一度でも足を止めた途端に、後ろから追いかけてくる彼らの野太い怒号が辺り一帯に轟くのだ。
 走るたびに埃を舞い上がるから、視界はさらに悪くなっていく。工場内に響くバタバタと複数の足音が近くなると、物陰に隠れてやり過ごすのを何度繰り返したことだろう。
 ただスリルが欲しい鬼ごっこが開催されているわけではない。そんな冗談が言えるほどの余裕は、この場にいる誰にもなかった。
 特にこの空間で味方がおらず、一人で駆け回っている男にとって、状況は最悪だった。
(早くここから出ないと、自分も殺される!)
 同僚が血の海に沈んでいったのを目の当たりにした。次は自分がああなるのだと、脳内に歪な警報が早く逃げろと言わんばかりにカンカンと鳴り響いた。
 一瞬の隙をついて逃げ出せたのは本当に運が良かった。少しでも遅ければ、今頃どうなっていたことか。しかし同時に、次は確実に助からないという、今まで押し込めていた恐怖が湧き上がってくるのも感じた。
 ジュラルミンケースを抱える手に力がこもる。それほど大きなサイズではないが、非常に危険で、重要な物なものがこの中に入っていた。
 この場を打破する方法ならいくらでもある。ケースをどこか遠くへ投げ飛ばすか、彼らに渡せば、もしかしたら――
(いや、ダメだ。俺がこのケースを手放したところで、どのみちただでは済まない)
 このケースの中身がどれほど危険なものであるかを、男は知っている。
 それが誰の手に渡り、どうやって扱われるのか。すべてわかったうえで彼らから無理やり奪ったのだ。ケースが開かれただけでも、国だけでなく世界に広がれば大問題になりかねない。
 それを阻止するためにここに来た。今まで積み上げてきたすべてを捨てて、自分の犯した罪をこのケースを奪還することで清算しようとした――はずだった。
 彼らを突き放してしばらく走ったところで、半壊した窓からぼんやりと明かりが入ってくるのが見えた。もうすぐ外に出られるはずだ。
 これでもう大丈夫だと気が抜けた次の瞬間、鈍い音とともに後頭部に強い衝撃が走った。
 あまりにも突然のことで、男は成す術なく地面に倒れ込む。ひび割れたコンクリートがひんやりと冷たくて、頬の熱を奪っていく。
 頭を打った衝撃で視界が歪んで見える。周囲がわからないまま、長年放置されていた機材や床から舞い上がる土煙と足音で、鬼ごっこをしていた彼らが到着したことを告げた。しっかり抱えていたケースを誰かが引っ張っている。
「やっと捕まえた。……ったく、ちょこまかしやがって。ウサギかよ」
「コイツ、どうしましょうか。このまま生かしてはおけませんよ?」
(ああ、終わった。俺もここまでか……)
 抵抗する間もなく、ケースをいとも簡単に奪われ、彼らが淡々と話を進める中、地面に伏せた男の意識がどんどん薄れていく。
「どこかに埋めるか、それとも……」
「いや待て。だったら――」
 すると突然、数人がかりで男の口を強引に開かせると、水のような無味無臭の液体が注がれた。男は吐き出しそうとするも、周囲が無理やり口を閉ざして飲み込まされる。謎の液体が喉を通った次の瞬間、急に睡魔に襲われた。
(何を飲まされた? 毒? それとも――)
 男は軽くむせながら、ゆっくりと地面に伏せる。身体がだるい。口から残った水が零れていくのを感じた。どうにかしてここから抜け出したいのに、磁力で吸い付けられたかのように体が重く、動く気力さえ沸かない。仮に起き上がれたとしても、完全に包囲されている現状から逃げ切るのは非常に困難だ。飲まされたのが遅効性の毒薬であれば、逃げ回っているうちにどんどん体内を巡っていき、死に至る可能性もある。
 男は唇を噛んだ。すべてこの日のために決別してきたはずなのに、浮かんでくるのは後悔ばかりだ。
(――まだ、死ねないのに)
 口の中で切った血が舌に触れる。たったそれだけのことで、じわじわと自分を奮い立たせた。奇しくも、まだ自分が生きていることを思い知らされたのだ。
 脳裏にぼんやりと思い浮かんだ、ある人物の姿を思い出してしまえば、ただじっとして死を待っていることなどできなかった。
 何とかしてケースを奪い返し、この場を脱出して戻らなくては。
(そうでもしないと、アイツは今度こそ道を大きく外れてしまう)
 その前に自分が引き止めなければならない。その一心で、もう一度立ち上がろうと手と足に力を入れた。
「――せ」
「あ?」
「返せ、よ! 全部、全部綺麗にまとめて返せ……っ!」
 後頭部の痛みも、歪んだ視界も今だけは気にしていられない。怪我もケースを奪った行動も、すべて自分の我儘が招いた結果だ。
 絶望ならとっくにどん底まで叩きつけられている。――ならばこれ以上、後悔するほど失うものなんてない!
 見下すように鼻で笑った一人の足を掴んだ。このまま起き上がろうとすると、さらに強い衝撃が背中に走った。誰かが男の背中をぐりぐりと踏みつけているらしい。勢い余ってまた地面に叩きつけられると、肺を強く打ったようで呼吸が止まりそうになった。
 今度こそ動けない。頭の上から罵倒が聞こえてくるが、ぼんやりとした意識の中では何を言っているのかさっぱりわからなかった。
 虚ろながら睨みつけても、怒鳴り散らそうとしても、身体の力がみるみるうちに抜けていく。
 ああ、なんて、なんて自分は無力なんだ。
 これではアイツを置いてきた意味がない。
「…………し、ぐま」
 ――ごめん。
 男はゆっくりと目を閉じた。