朝起きて目覚まし時計を見ると、短い針は『8』と『9』の間を指していた。布団を剥ぎ、重たい上半身をゆっくりと起こす。瞼が重たい。寝不足だ。
 昨日は今までの人生にないことばかりが起きたため、家に着いた頃には僕の体力は底をついていた。帰り道の結衣ちゃんとのドラマのようなやり取りは、いま思い出しても燃えるくらい顔が熱くなる。恥ずかしさのあまり足をバタバタさせる。
 枕の横に置いていたスマホを手に取ると、画面には彼女からのラインが届いていた。昨日の夜は、彼女からモザイクアートを背景にしたツーショット写真が送られてきた。その写真を迅速に保存した後は、他愛のない会話を少しした。その後、しばらく彼女からの返信はなく、寝ようと思ったが、ドキドキが止まらず寝付くことができなかった。ラインの返信は、今じゃなくていいや。
 今日は文化祭の振り替え休日だが、ここで横になるとせっかくの休日を無駄にしてしまうと思い、無理にでもベットから出た。
 僕の部屋は二階にあるため、まだまだ開かない目を擦りながら階段を降り、一階のリビングの扉のドアノブに手をかける。
『智子さんやっぱり料理上手‼』
『あら、美月ちゃん嬉しいわ』
まさにドアノブを捻ろうとした瞬間に、扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえた。こんな朝早くから来てるのか。決死の思いでドアノブを捻った。
「湊‼ 起きるの遅いよ‼ 朝ごはん冷めちゃうよ‼」
「まずはおはようじゃないかな」
「あ、そうか。おっはよーう‼」
 彼女の挨拶に応えることもなく、僕は彼女の向かい側の椅子に腰を掛けた。
 僕の前に座っているのは幼馴染である矢野美月。
 僕の家と彼女の家は隣り合わせであり、小学校の帰り道などはよく一緒に帰っていた。帰った後も、彼女はすぐに僕の家に遊びに来ていた。
 中学校に上がると、彼女は小さい頃からやっていた女子バレーボール部に入部した。部活が始まったこともあり、一緒に帰ることは少なくなったが、彼女は部活終わりでも我が家に足を運ぶことが多かった。そのため、関係が疎遠になることはなく、今でも同じ城南高校に通っている。ここでも彼女はバレーボール部に入り、二年生ながらエースらしい。
 彼女は僕よりも少し背は高く、さらっとした艶のある黒髪が腰のあたりまで伸びている。そうした大人っぽい容姿、スポーツ万能、頭脳明快なことから男子生徒からの人気は高い。もう慣れた僕から見ても、彼女は本当にきれいだと思う。
 ただ、学校での彼女とプライベートの彼女は全く違うことを知っているのは、全校生徒の中でも僕だけだろう。学校の中ではどちらかというと冷静沈着でクールな雰囲気を感じさせる彼女であるが、プライベートでは口数が多くてよくしゃべるのだ。
 その一面を知っているからこそ、僕は彼女のことを異性としてみることはない。クールの面だけしか知らないのなら好きになっていた可能性も……ないか。
「こんな早くからどうしたのさ」
「いや、なんか早く目が覚めちゃってね。親も仕事でいないからこっち来ちゃった」
 そうか、すっかり普通の休日気分になっていたが今日は月曜日だ。世間一般からすれば、僕らがイレギュラーな朝を迎えているのだ。
「朝ごはん食べないと元気でないよ‼」
「美月に言われなくても食べるよ」
「やっぱり朝は機嫌が悪いなぁ」
「こっちは寝不足なんだ」
 僕は両手を合わせて、いただきます、と言って朝ごはんを食べ始める。今日の朝ごはんは、白飯、お味噌汁、卵焼き、ウインナー、グリーンスムージーである。我が家の朝ごはんは和食が多いが、なぜかスムージーが入ってくる。スムージーじゃなく果肉をしっかりと咀嚼して味わいたいところではあるが、母さんに準備してもらっている身なので、そんな文句は許されない。普通にスムージーも好きだし。
 僕が食事を進めていると、美月は覗き込むようにして僕に問いかけた。
「湊、なんかいいことあった?」
 食べていた卵焼きを吐き出しそうになった。僕はむせて咳き込む。美月が慌ててスムージーを差し出してくれたが、流し込める粘度ではない。母さんが素早くお茶を出してくれ、なんとか正気を取り戻した。
「え、なに、本当になんかあったの?」
「なんもないよ。文化祭で何かあるなんて、僕にはありえないでしょ」
 本当はあったけど。
「目の下にクマがあるし。布団に入ったら秒で寝る湊にしたらありえないでしょ」
「たまたま布団に入る時間が遅くなって寝不足なだけだよ」
「ふーん」
 美月は頬を膨らませ、怪訝な表情を浮かべている。
「美月の方こそ何もなかったのかよ」
 僕が主役の会話の話題を逸らせた。学年のマドンナ的存在の美月なら、学校のイベントで告白されることもあるだろうと予想した。
「わたし? あったよ?」
 彼女の音速の返答に、僕は持っている箸を落としそうになった。こういう恋沙汰の話ってもっと恥ずかしがって口に出すものではないのか。彼女にとっては日常茶飯事なのだろうか。
「あ、そう。よかったね」
「うん。すごく嬉しかったし、幸せだなぁて感じた」
 美月は今まで、手では数えきれないほどの男子から告白を受けていた。それも僕らの学校の男子だけではなく、他の学校の男子も含まれているから驚きだ。
しかし、美月は告白されるごとに、告白を承諾するか断るかを、僕の方へ相談に来ていたのだ。美月の自由だから好きにすればいいと思う、僕はいつもそう言っていた。相談に来なかったってことは、そういうことなんだろう。
「ふーん。お幸せにね」
「え、何が?」
 調子が狂う。まるで会話が噛み合ってないみたいだ。
 すると彼女は、胸の前で両手をつなぎ合わせ、立ち上がり、天に祈るようなポージングをとった。
「わたしのクラス、出し物のお化け屋敷で『一位』だったんだよね‼ クラスの目標だったからすごい嬉しかった‼ 二年四組でよかったって思った‼」
 ……なるほど。僕の早とちりだったみたいだ。
 てっきり告白されて、その告白を承諾したから幸せなんだとばかり考えていた。
「え、てっきりわたしに彼氏ができたと思ってた?」
 美月は僕をからかうような口調でそう言った。僕が頭の中で考えたことをそのまま繰り返されたことで、より恥ずかしさが増した。
「別にそんなこと考えてないし」
「湊もついに恋に興味を持ち始めたのね。美月姉さん嬉しい‼」
「恋は意識してないし、美月はお姉ちゃんじゃない」
「つまんないの」
 美月はそう言うと、そっぽを向いてテレビの前にあるソファへ移動した。
僕は残った最後の卵焼きを口へ運ぶと、飲み込む前に食器をシンクへと運んだ。美月が録画していたお笑い番組を観ているのを横目に、僕は自分の部屋へ戻った。

「湊、どっか出かけよ‼」
 午前が終わり、気温が高くなるお昼時。ベットで読みかけだった小説を読んでいる最中に、ドアを勢いよく開けて美月が言ってきた。
「ちゃんとノックしてよ」
「いいじゃん‼ お堅いこと言わないでよー‼」
「今は本読んでるところだからどこにも行かない」
「また本読んでるの?」
「うん。だから諦めて」
 本を読んでいると言ったのに、彼女はどかどかと僕の部屋へ侵入してきた。彼女は僕の読んでいる本の表紙を見ているようだった。
「『デスゲーム、次は君の番です』ねぇ。おもしろい?」
「少なくとも美月との会話よりはね」
「ひどーい‼」 
 彼女は本当に傷ついたわけではなく、冗談交じりに言った。今度は裏表紙のあらすじに目を通しているようだ。それが済むと、彼女は僕の部屋を見渡し始めた。
「これから読む予定の本とかあるの?」
「そっちの本棚に並んでるのはこれから読む予定だよ」
「……どこにあるのよ」
「だからそっちの本棚に……」
 本棚の方を向いて、美月が見つけられなかった理由が分かった。僕は「読んだ本」と「これから読む本」の二つに分けて本を整理しているのだが、「これから読む本」のコーナーには本が一冊も並んでいなかった。僕としたことが、本のストックを忘れていたようだ。
「ないね」
「これは買いに行くしかないんじゃない?」
 彼女はニヤニヤしながら、僕の方へ向き直りそう言った。
確かに本を買いに行くことは、僕の生活においては必須事項だ。だけど、誰かと本屋に行くと気が散ってしまうため、いつも一人で買いに行く。ましてや美月となんて本選びに集中できるわけがない。
「いや、今日は買いに行かないでおく。明日の学校帰りに本屋に寄るよ」
「えー、今から行こうよ‼」
 僕は葛藤していた。今読んでいる本はもうすぐ読み終わる。そうするとその次に読む本がない。その事態を防ぐには買いに行くのがベストだが、美月というお邪魔虫がついてくる。お邪魔虫は言いすぎた。
 しばらく無言で考え込んでいると、結衣ちゃんとの会話を思い出した。確か結衣ちゃんの好きな本一位は『好きだ。』だった気がする。
 これまでその本の存在を忘れていたが、思い出してしまった以上、読みたくて仕方なくなってしまった。いつもおとなしい結衣ちゃんが熱を込めて語ろうとしていたくらいだ。それはさぞかしおもしろいのだろう。
「美月の言う通り、今から本屋に行ってくる」
「え、わたしも行くってば」
 正直嫌だったが、僕は承諾するほか手段がなかった。
 美月と二人でお出かけなんて久しぶりだから、たまにはいいかな。

 美月と家を出て、歩いて十分くらい経ったくらいに、片側三車線もある大きな通りに出た。ここの通りに面している、オープンして一年も満たない文庫屋さんにいつも足を運んでいる。その文庫屋さんがオープンするまでは、徒歩で四十分も歩かないといけないところまで行っていたのだが、とても近くなって便利だ。
 僕の隣を軽快な足取りで歩いている美月は、気分がよさそうに鼻歌を歌っている。この鼻歌の音階の曲は僕にはわからない。美月は男性アイドルの『ストーム』という四人グループが好きだとよく言っている。おそらくそのグループの曲なのだろう。
 大通りをさらに五分ほど歩くと目的の文庫屋さんの看板が見えてきた。あそこ? という美月の問いかけに対して、僕は無言の頷きで答えた。
「ほぇ、これまた立派な書店だね」
 文庫屋の前に着くと、彼女は感嘆の声を上げた。
 自動ドアをくぐると、そこにはいつもの景色が広がっていた。店内はお洒落な照明のおかげか、どこか洋風な雰囲気を醸し出していた。壁には多くの絵画が飾られており、店長の趣味なのだろうかと想像が膨らむ。店内には静寂が広がっており、僕の読書欲をくすぐる。僕はこの景気や空気感に実家のような安心感を覚えた。
 美月は店内に入るや否や、他のコーナーには一瞥もくれることなく、雑誌コーナーへと足早に向かった。おそらくその『ストーム』とやらの情報をチェックしに行ったのだろう。そのまま静かにしてくれていたほうが僕も助かる。
 僕は今回の狙いである『好きだ。』が置いてあるであろう、青春小説のコーナーを探した。普段はミステリーの小説を読むことがほとんどのため、青春小説というのは馴染みがない。
 目的のコーナーへ着くと、そこには馴染みのない表紙の数々が広がっていた。ミステリー小説の表紙というのは簡潔なものが多いため、イラストレーターさんが描いたであろうきれいなイラストが眩しく見られた。
 とりあえず一番最初に目を引かれた本に手を伸ばしてみると、これもまたきれいなイラストの表紙になっている。表紙に描かれている女子高生くらいの女の子は、制服を身に纏い、こちらを向いて笑顔で涙を流しているが、どこか儚げな印象を受ける。この表紙を見ただけで「読みたい」という気持ちが湧いてくる素晴らしいイラストだ。
 取り出した本をもとの位置に戻し、お目当ての本を探し始める。本棚は作者名の五十音順に並べられてある。そのとき、僕は『好きだ。』の作者が誰なのか知らないことに気が付いた。近くにあった検索機で検索すると、作者は『さくら』さんのようだ。
 僕はさ行の札が付きだしているところに行くと、そこには確かに『好きだ。』というタイトルの本が置かれていた。手に取ってみると、その表紙にどこか見覚えがあった。
 表紙の真ん中には、目を見開き、右手を口元に沿えながらびっくりした表情を浮かべている女の子が描かれていた。それだけならまだしも、背景は夕暮れ時の茜色、場所は河原道のど真ん中。昨日の結衣ちゃんとのシチュエーションと酷似していた。
 何かの陰謀かとも考えたが、この作品の方が先に出版されているわけだからそれはない。たまたまだろう。
 僕は『好きだ。』を会計に持っていこうとしたが、せっかくなのでミステリー小説も買っておこうと思い、体に染み込んでいるミステリー小説コーナーへ向かった。向かっている途中に、まだ雑誌を食い入るように見ている美月を見た。ミステリー小説を選び終わるまでは静かにしておいてくれという祈りを込めた。

 僕と美月は文庫屋さんを出た。
 僕の祈りとは裏腹に、僕が会計済ませた後も美月は雑誌を漁っていた。「ちょっといま見てるんだけど」って真剣な面持ちで言われたくらいだ。先に帰るという手もあったが、さすがに黙って帰るのは申し訳ないため、次に読む本の候補を選ぶことにした。結局、僕が帰ろうと声をかけるまで、美月は雑誌の虫になっていたわけであるが。
 僕と美月は、約一時間前に来た道を折り返す形で帰路に就いた。彼女は結局何も買っていないため手ぶらだった。
 歩き始めて数分もしないうちに、後方から救急車のサイレンが大通りに響き始めた。道路を走行していた自動車は救急車に道を譲ろうとスピードを落としている。どんどん自動車を追い越していく救急車は、僕たちの横も過ぎて行った。高く感じていたサイレンの音も、救急車が通り過ぎたと同時に低い音へと変化した。確かドップラー効果というやつだった気がする。
 救急車は大きな交差点に差し掛かり、そこを右折して行った。
「何かあったのかな。大きな事件じゃないといいね」
 サイレンの音が完全に聞こえなくなった頃に美月が言った。
「今日も気温高いし、熱中症の可能性もありそうだね」
「この暑さだもんね」
「僕たちも気を付けないと」
「智子さん大丈夫かなぁ。きちんと水分摂ってくれてると良いんだけど」
「母さんは頑丈だから大丈夫だよ。早く帰ろう」
 僕は心なしか、早足になってしまっていた。
もしものことがあるのではないか、そう思うと、僕は家に着くまで心が落ち着かなかった。しかし、家に近づくにつれて、だんだんと不安は掻き消されていった。外からはリビングの電気がついていることが確認できた。とりあえず一安心。
「二人ともお帰りなさい‼」
かすかに残っていた僕の不安は一瞬にして吹き飛んだ。美月と一緒にリビングへ上がると、キッチンで夕ご飯の準備をしている母さんの姿があった。
「智子さんいい匂いします‼」
「肉じゃがを作っている最中なのよ。美月ちゃん夕ご飯食べていく?」
「え、いいんですか‼ ありがたく頂きます‼」
 美月はそう言うと、スマホの画面を素早くフリックし始めた。おそらく母親に晩御飯の準備が必要ないことを連絡しているのだろう。
 美月のその行動を見ていると、とんでもないことを思い出した。朝から結衣ちゃんへラインの返信をしていないことに気が付いた。昨日から彼氏彼女の関係になったわけだが、これまで付き合った経験がない僕からすれば、これまでの日常からどのような変化が生じるのかが想像できなかった。
 僕自身はこれまでと変わらない距離感で接していきたいのだが、彼女自身がどうなのかは分からない。いつもはおとなしい彼女だが、もしかするとラインの返信をしないことに怒ることがあるかもしれないし、もしかするとものすごい甘えん坊さんになっている可能性もある。
 経験がないからこそどうすれば分からないが、とりあえずラインの返信は早くするに越したことはないだろう。ただ、この場で返信をしようものなら美月に覗かれることだって考えられる。部屋に行って返信をすることにしよう。
 というか、お世辞抜きで肉じゃがのいい匂いがしてきた。僕は食欲をそそられる匂いが充満しているリビングを出て、自分の部屋に向かった。

 父さんは帰りが遅くなるようだったので、僕と美月と母さんの三人で食卓を囲んでいた。母さんの作った肉じゃがは、醤油の味が染みており、白飯が進んだ。僕は白飯二杯目だが、隣に座っている美月は三杯目に突入している。学校では小食アピールをしているのを見たことがあるが、美月のファンには今の彼女も見てもらいたいものだ。
 夕ご飯が済み、母さんは食器洗いを始め、僕と美月は食べ終わった後、一度も席を立つことなく雑談をしていた。昨日の文化祭の話が主な話題となっていたのだが、その途中に母さんが、話を割り切って入ってきた。
「そういえば救急車が家の前を通り過ぎていったわね。この辺りを通ること少ないから町内の人が何かあったのか心配になっちゃったわよ」
「わたしたちも救急車が大通りを通るのを見ました」
「この時期だから熱中症が多いのかしらね」
「喉が渇いた頃には、もう脱水になっている状態だって聞いたことあります」
 美月と母さんは井戸端会議のように話を進めた。
 僕は特に興味がなかったので、お風呂に入ろうかと席を立ちあがった。
「湊なんて智子さんのことが心配になって不安そうな顔してましたよ」
 美月は僕をからかうかのように母さんに話していた。僕は思わず振り返ると、美月は想像通りの表情を浮かべていた。片手を口元に添えて、笑いを堪えるために頬を膨らませている。
「あら、嬉しいこと」
 母さんまで僕をからかうように美月と顔を合わせた。
「な、誰もそんな顔してないよ‼」
 思わず反論するように言ってしまったが、この天候で母さんを心配していたのは事実だ。美月と母さんの、僕を褒め倒しているようなコソコソ話がどこか遠くから聞こえていたが、聞こえていないふりをした。
 そんなこんなで玄関の扉の鍵が開く音が鳴り、父さんが帰ってきた。母さんは父さんが帰ってきたことが分かると、一目散に玄関へ飛び出していった。この光景はもう十何年も見てきた。母さんが飛び出していくのは父さんが亭主関白だからではない。母さんは父さんに溺愛しているからだ。息子である僕の前ですら堂々とイチャイチャするもんだから、僕は恥ずかしかったりする。でも夫婦の仲がいいのは息子としても嬉しく感じるし、幸せな生活を送れていると思う。
「貴明さん帰って来たみたいだし、わたしそろそろ帰ろうかな」
「あ、そう。明日は学校だから遅刻しないようにしてよ」
「わたし毎日朝練してるから遅刻したことないんだけど」
 そうだった。すっかり忘れていたが美月は学校では随一の優等生だった。美月は席を立ち上がり、リビングの扉を開くと同時に僕に手を振ってきた。僕は美月の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。なんだかんだ言っているが、美月も大事な幼馴染だ。
 玄関では父さんと美月の話している声が聞こえてきた。僕はお風呂に入るために、着替えを取りに一度自分の部屋へ戻った。タンスから着替えを取って立ち上がると、ふとスマホが目に入った。返信遅れたからライン返ってきてないよな、と分かっていながらも、ホームボタンを押し画面を確認した。案の定、待ち受けにしている鮮やかな紫色の桔梗の花しか映されなかった。今日中に返信くればいいな。
 しかし、僕の期待を裏切り、お風呂を上がった後、布団に入って眠りに就くまでの間、彼女からの返信でスマホが振動することはなかった。

 スマホが『ポキポキッ』という通知音と共に振動した。
 僕はベッドに横になったまま、おぼつかない手取りで画面を確認した。画面に映し出された通知には美月からのラインであり、結衣ちゃんではなかった。画面の上に表示されている時刻に目をやると、ど深夜の時間帯だった。スマホの表示ミスかと思いカーテンを開けてみると、そこには漆黒の世界が広がっていた。かろうじて家の前の街灯が、光を灯している限りだ。僕は改めて布団に入り、数分も経たないうちに眠りの世界に溶け込んだ。
 スマホが『ポキポキッ』という通知音と共に振動した。
 その通知音で目を開いた僕は、今度は無視して眠りに没頭することにした。目を閉じて数秒経った後に、耳の隣から爆音のアラームが鳴った。体がビクッと動き、布団から少し浮いたのが分かった。僕は慌てて画面の『停止する』をタップする。
 寝ている状態で聞くアラームと、起きている状態でアラームを聞くのとでは全く役目が変わってしまうものだ。起きているときに聞くと心臓に悪い。とても目覚めが悪い。朝から気分が悪くなってしまった。それでも学校に行く準備はしないといけないため、ボサボサの髪をわしゃわしゃしながらリビングへ向かった。
 学校へは登校時間ギリギリに着いた。いつもより準備が遅れて、家を出るのが遅くなってしまったため、少し小走りで来た。おかげさまで全身から汗が噴き出している。顔や鎖骨のあたりをタオルで拭いていると、黒板の上の放送機器からチャイムが響いた。
 チャイムが鳴ってもなお、前の席に結衣ちゃんの姿が見えない。僕は入学してから今まで無遅刻・無欠席を貫いている。二年になって結衣ちゃんと同じクラスになり、彼女が学校に来ていない日はなかったはずだ。でも、少し安心もした。告白をしてからまだ一回も会っていないわけで、心の準備ができていなかった。別に隠すつもりはないが、クラスの人に彼女と付き合っていることを知られるのは面倒くさい予感がする。
 春本先生が朝のホームルームのために教室に入ってきた。今日は襟付きのグリーンのシャツを着ている。失礼ながら爽やかとは言い難い。蛍光色だから目がチカチカする。
「今日は文化祭が終わって最初の授業日となるわけだが、浮かれた気分をいつまでも引きずらないように。メリハリが大事だぞ」
 春本先生はそれだけを言い残すと、教室を後にし、結衣ちゃんの欠席に関しては何も言及することはなかった。まあ、文化祭の疲れが溜まってしまったのだろう。僕は特に気にすることもなく、一限目の教科書を準備した。
 しかし、次の日の朝になっても学校に彼女の姿はなく、ラインも振替休日に返信したきり音沙汰がなかった。
 ……スマホも扱えないほどきついのかな。
 僕は心配になり、帰りの会が終わった後に春本先生のもとを訪ねた。僕が話しかけると、春本先生は椅子を九十度回転させて僕と向き合う形になった。
「どうしたんだ和田」
「春本先生、少しお願いがあるんですけど」
「ん? 和田から頼むごとなんて珍しいな」
「山本さんの欠席理由を教えていただきたくて……」
 そう言うと、先生の眉間にしわが寄り、面持ちの神妙さが増したように思えた。
「特別なことは何もないから、和田が気にすることはないよ」
「本当ですか?」
「おう、だから和田は早く帰りなさい」
 先生は机に向き直り、何やら書類にペンを走らせ始めた。先生が結衣ちゃんの欠席について避けているように見える。僕が想像していた以上に、このことが深刻なものであることが推測できた。
「一昨日から山本さんからの連絡がなくて」
「……欠席の理由はプライバシーだから教えることはできない」
 走らせていたペンをピタッと止め、目の前の書類を見ながら先生は呟いた。それを言われてしまっては引く以外に方法はない。が、僕は結衣ちゃんの彼氏だ。簡単に引くわけにはいかない。
「一人のクラスメイトとして心配なんです」
 春本先生は、持っていたペンを机の上に静かに置き、腕を組んで目を閉じて考え込み始めた。数分間、僕と先生の間には沈黙が続いた。そして、先生は腕組みを解き、一つ大きな息を吐いた。そして椅子を回転させてこちらを向いた。
「……誰にも言わないことを約束してくれるか?」
 普段は先生というより、少し年の離れた兄のような存在の春本先生がこんなにも鋭い目線を送ってくることは初めてだった。その視線からは、約束しなかったら承知しないという威圧が感じられた。
「約束します」
 僕は屈することなく、はっきりと先生の目を見て答えた。僕の返答に納得したのか、春本先生はゆっくりと口を開いた。
「……実は、山本が交通事故に巻き込まれてしまってな」
 言葉が出なかった。深刻なことは推測できたが、まさかそこまでとは。僕は自分の唇が震えていることが分かる。体の横でぐっと拳を握った。
「……それで彼女は?」
「安心してくれ……と言うべきかは分からんが、命に別状はないみたいだ。大事をとって一週間だけ入院することになったがな」
 僕は小さく息を吐いた。緊張が少しだけ解けた。
「お見舞いに行きたいので病院の名前を教えてくださいませんか?」
 そう言うと、先生は机の隅にあった紙切れに何やら書いて僕に渡してきた。そこには『クスノキ済生会』と書かれていた。
「とりあえず受付の方に自分が同級生であることを告げてみたらいいと思う」
「お手数おかけしてすみませんでした」
 僕はお辞儀をして、その場から離れた。職員室のドアを開き、中を見てもう一度お辞儀をして出ていこうとすると、出入り口から近いところに机のある先生の表情が見えた。その顔はどこか寂しさに溢れており、僕の不安感を大きくさせた。
先生に渡された紙切れに書いてある『クスノキ済生会』は、僕の帰り道とは反対方向にあることが分かった。学校の最寄りの駅から電車で二駅ほどのところにあるらしい。僕はスマホでの検索を終えると、急いで最寄りの駅へと向かった。

 『クスノキ病院』はこの辺りでは一番大きな病院らしいが、僕は一度も来たことはなかった。病院の前に着くと不安感を忘れて、堂々と聳え立つ白壁のお城を眺めているような気持ちに陥った。数秒眺めた後に、目の前を通った自動車で我を取り戻し、受付へと向かった。
 自動ドアの入り口をくぐると、またも広い世界が広がっていた。病院にこんなにも人がいていいのかと思ってしまうほどの人で溢れていた。やっとこさで受付の看板を見つけた僕は、向かっている途中で受付の看護婦さんと目が合ってしまい、なんとも気まずい雰囲気になってしまったのは内緒の話だ。
 春本先生に言われた通り、受付の看護婦さんに山本さんの同級生であることを伝えた。すると、穏やかな表情をしていた看護婦さんの顔は、春本先生と同じように一気に険しい表情へと変化した。
「山本様というのは山本結衣様でしょうか?」
「はい、そうです。同じ城南高校でクラスも同じなんです」
 こう答えると、看護婦さんは周りをきょろきょろとし始めた。少しお待ちくださいと言われ、僕は近くにあった三人掛けの椅子に腰を掛けた。
 なぜ春本先生も看護婦さんも、彼女との面会をこんなに渋るのだろうか。春本先生の話によると、確か入院一週間の傷だったはずだ。それも大事を取って。決して軽いものだとは口が裂けても言えないが、面会ができないのは少し違和感がある。
「和田様、大変お待たせして申し訳ございません」
 膝に両肘をついて病院のきれいな床を眺めていた僕に、先ほどの看護婦さんが歩み寄って声を掛けてくれた。
「先ほどの山本様の面会の件なんですけれども、院長に確認を取りましたところ、山本様との面会は控えて頂くようにしてくださると幸い、とのことでした」
「え、どうしてですか」
「院長がそうおっしゃられているので」
「いやでも……」
 言いたいことは漠然と分かっているのにうまく言葉が出なかった。
 これまでに面会を断られたことはあるが、それはどれも明確な理由があった。しかし、今回に関しては面会が許されない理由が曖昧だ。
 どうして面会をさせてくれないのか納得はいかなかったが、ここで病院の方たちと揉み合いになってもお互い利益はないし、何より看護婦さんたちの業務に支障が出てしまう。他の方々に迷惑をかけるのは結衣ちゃんにも申し訳ない。僕は自分の感情を落ち着かせるように、胸に手を置いて一つ息を吐いた。
「……また明日来てもよろしいでしょうか」
「わたしでは面会を約束することはできませんが、いつでもお受け致します」
「今日は帰ろうと思います。お手数おかけして申し訳ございませんでした」
「いえ、とんでもないです」
 僕は床に置いていたスクールバックを手に取り、浅くお辞儀をして看護婦さんと別れた。無心で自動ドアに向かっていると、白いワンピースのすらっとした女性がこちらに歩いてくるのが見えた。僕は目が合わないように俯きながら歩いていたが、すれ違う際に、彼女が左手で麦わら帽子を掴んでいるのが目に入った。頭に衝撃が走ったような感覚に陥り、気が付けば無意識のうちに振り返っていた。
 ……あの人、どこかで。
 ただ、どこで会ったのか思い出せない。そもそもあったことがあるのかすら確信が持てない。何か思い出せそうで、しばらくはその場でワンピースの女性を観察していると、先ほど僕の対応をしてくれた看護婦さんと何やら話をしていた。その後、ワンピースの女性と看護婦さんは診療室の方へ歩いていき、姿が見えなくなった。もう少しでこのモヤモヤした心境の正体がつかめそうな気がしたけど、あと一歩が思い出せない。自分の記憶の世界に溶け込んでいた僕は、病院のスタッフの方から声を掛けられるまで、その場に立ち尽くしたままだった。
 僕は病院の外へ出た。静かな場所は僕の大好物だが、病院の静けさが心地いいと感じる人はいないだろう。
張り詰めた空気から、解放されたきれいで新鮮な空気を吸うと、少しばかりか体が軽くなった気がする。知らぬ間に緊張していたのか、今日は精神的に疲れることばかりだ。ただ文化祭で疲れただけだと思っていたのに、こんなにも僕の中で事が大きくなってしまっている。足を突っ込んだのは僕だけど。
 ……面会をさせてもらえないか、明日もう一度来てみよう。
 帰りの電車に揺られながら、どうすれば面会をさせてくれるのかの方法を考えていたが、何の方法も思い浮かばなかった。そもそも面会をさせてくれない理由すらも教えてもらえない。
 ……ただの怪我じゃないのか。
 頭の中から最悪な状況を投げ飛ばすかのように、頭を横にブンブンッと振った。とりあえず、どうこう考えても僕の想像でしかないためどうにもならない。
こういう思考を続けていくうちに、自分が何について考えているのかわからなくなってきた。どうすればいいものか、彼女のために僕は何ができるのか。結局家に着くまで何もわからなかった。

「母さんって入院したことあるの?」
 僕は怪我に限らず入院をしたことがないため、家に着いて晩御飯のときに母さんに聞いてみた。
「え、急に何よ」
 母さんは僕の突然の質問に虚を突かれたみたいだった。
「いや、なんか気になっちゃってさ」
「んー、母さんはないけど父さんならあるわよ」
「何年くらい前?」
「湊が三歳くらいのときだったかしらね。肺に穴が開いちゃって入院したのよ」
 初耳だ。父さんはいつも仕事から帰ってきても元気なのに。
「知らなかったなあ。すげー意外」
「湊はまだ小さかったからね。あなた状況が分かってなかったから、病院内で走って怒られてたわよ」
 母さんは幼き頃の僕の黒歴史を満面の笑みで語った。僕は恥ずかしさを紛らわすために、お茶を一つ口にした。
「母さんは父さんの肺炎で焦ったりした?」
 僕は黒歴史をスルーして本題に戻した。
「そうね。いつも笑顔の父さんがしかめた顔を見るの初めてだったから焦ったわよ。お見舞いには行くけどこれだけでいいのかなって」
 今の僕と同じ心境かもしれない。僕はお見舞いに行こうとしても、面会を許されていないわけだけど。母さんは右手で持っていた箸を優しく置いた。
「でも、いつも通り父さんのところにお見舞いに行ったとき、父さんに『母さんの笑顔が一番の治療薬だから、ずっと笑顔で俺の隣にいてくれ』って言われたの。わたしは何をすればいいのか分からなかったけどそれで分かったのよ。わたしは笑顔でいればいいんだって。」
 母さんは食事中にも関わらず、昔を懐かしがるかのように話してくれた。僕の父さんは心もイケメンだったようだ。ルックスも良くて性格も完璧で温かみがある。父はやっぱり僕の誇りだ。
 ……笑顔でいればいい
 結衣ちゃんもそうかな。
 一応、付き合い始めた彼氏の笑顔を見たいものなのだろうか。
 その後はしばらくいつも通りの他愛のない会話をしながら、晩御飯を食べ進めた。母さんは普段パートをしているが、お客様に理不尽なクレームを入れられて腹が立ったなどの不満話もしてくれた。そういう話を聞くたびに、社会に出て働くなんて嫌だし、永遠に学生がいいとつくづく思う。
 晩御飯が済み、母さんと揃って「ごちそうさま」をした後、母さんは自分の食器と僕の食器を持ってキッチンへ向かった。僕は幸せに満たされたお腹を押さえながら、テレビのバラエティ番組に目を向けた。アイドルグループが色々なお題にチャレンジするという内容で、中には料理した虫を食べるというものもあった。今時のアイドルはこういうこともやるなんて大変だ。
「湊、もしかしてそういう友達がいるの?」
 特にすることもなかったのでしばらくバラエティ番組を観ていると、母さんがキッチンから少し大きめの声で聴いてきた。
「うん。お見舞いなんて初めてだからどうしたらいいのかなって思って」
「あら、大変ね」
「大きな怪我とかはないけど、検査とかの大事をとって入院一週間みたいだから、そこまで心配する必要はないと思うけどね」
「何もなければいいわね」
 母さんとの会話はそこで終わった。何もなければいいと思うけど、春本先生や看護婦さんの挙動不審そうな様子を見ていると、ただの怪我ではないだろうと推測している。別に大事なことを隠されている。でも、それが思いつかないから余計にモヤモヤしてしまっているのだろうが。
 ……こればっかりは直接会ってみないと分からないか。
 僕は結衣ちゃんの状態について考えることをやめた。
 何はともあれ結衣ちゃんに会えたときに笑顔でいるようにしよう。
 僕まで不安な顔をすると結衣ちゃんも不安になってしまうに違いない。
 だからとにかく笑顔で結衣ちゃんに会えるようにしなくちゃ。
 僕は洗面台に行き、鏡を見て自分の笑顔を確かめた。心から笑うってことがここ最近なかったため、笑顔が若干ぎこちない。口角は上がっているけど目が笑っていない。僕は目を見開いて満面の笑みを浮かべた。
しばらく自分の笑顔を見ていると、何をしているのだろうと恥ずかしい気持ちになった。笑顔の練習はここまでにしてリビングへ戻ろうとすると、いつからいたのか陰から母がひょっこりと覗いていた。
「青春してていいわね」
 今なら恥ずかしさで死ねる。

 翌日学校へ行くと、昨日のことについて春本先生からは何も聞かれなかった。
 放課後、僕は昨日と同じルートで病院へと向かった。
 病院に着くと、昨日と同じ看護婦の方が受付にいた。同じ看護婦の方が状況を理解していることもあり、説明をする手間が省けるため同じ看護婦さんで内心ありがたかった。
 このまま受付に行っても良かったが、もし面会をさせてもらえることができたときのために笑顔の練習をしておきたい。今日も今日とて、学校で特段笑うことがなかったため、顔の表情筋はコンクリートのように固くなっている。
 斜め上をきょろきょろすると、トイレへの案内表示の看板を見つけた。僕はその矢印に従ってトイレに入り鏡と対面した。正直、昨日の事件のお陰で鏡を見るときに周りを確認するようになってしまった。昨日の過ちはもう繰り返したくない。
 入念な顔面体操を終えたのち受付へ向かうと、同じ看護婦さんがまだいた。
 受付に立つと、あっ、というような反応をしてくれた。おそらく昨日のことを覚えてくれていたのだろう。
「連日すみません。昨日、山本さんの面会をお願いさせていただいた和田といいます」
「いえ、とんでもございません。和田様のご要望にお応えできずに申し訳ございませんでした」
 看護婦さんは頭を下げながら言った。定型文のようだが、看護婦さんの申し訳ないという気持ちがひしひしと伝わってくる。この『クスノキ済生会』の職員の皆様は、みんな患者さんや客様のことにお従事しているようで、院内の雰囲気はとても良い。
「昨日と同じように山本さんと面会をしたいのですが」
「少し院長のほうに確認を致します」
「はい、よろしくお願いします」
 僕は祈りの意味も込めて小さく頭を下げ、昨日座った椅子へ腰を掛けた。昨日は気が気ではなく少しモヤモヤしてしまっていたが、今日は冷静に考えられている。
結衣ちゃんの状態は直接会わないと分からないが、入院一週間なら僕がそこまで気にしなくても良いほどの状態なのだろう。
 ……それならどうしてラインの返信をしてくれないんだろう。
 突然に心の奥底に押し込まれていたパンドラの箱が表面に押し出されてきた。僕が彼女に返信をした振替休日から、彼女からの返信はない。気になってスマホのラインアプリを開くと、やはり結衣ちゃんからの通知は来ていないようだ。
「和田様、お待たせいたしました」
 僕がスマホの画面を見て、無念を込めた息を一つ吐いていると、昨日と同じように看護婦さんが話しかけてきた。僕は慌ててスマホをポケットにしまい立ち上がる。
「院長さんは何と」
「昨日と同様、面会は許可できないようです」
 看護婦さんの返答は予想してたのでそこまで驚くことはしなかった。いま僕が知りたいのは、結衣ちゃんの傷の状態がどうなのかどうかだ。
「どうしてですか?」
「それはわたくしの口からはお答えしかねます」
 念のため面会できない理由を聞いてみたが、やはり答えることはなかった。
「今の山本さんの傷の状態はどうでしょうか」
「検査を行ったところ、身体の方は異常ありませんでしたのでご安心ください」
「そうですか。良かったです」
 もう数日すれば結衣ちゃんは元気に学校へ来るはずだ。そのときに笑顔で迎えればいい。傷の状態も問題ないみたいだし今日は早めに切り上げよう。
「今日はもう帰ります。昨日に引き続きありがとうございました」
「いつでもお待ちしております」
 病院でいつでもお待ちされるのはどうだろうか。
体の向きを百八十度反転させて出入り口の自動ドアへ歩を進めていると、無意識のうちに頭の中で看護婦さんの言葉が繰り返された。
『身体の方は異常ありませんでしたのでご安心ください』
 少しモヤモヤする。
 なんだろう。
 何か見落としていることがある気がする。
 身体の方は異常がない。
 いいじゃないか。
 何を心配することがあるのだ。
 考えすぎだ。
 モヤモヤを飛ばすために、天にも届きそうなほどの高い天井を見上げる。大きな窓からは夕方の西日が差し込んでおり、天井付近をオレンジ色に染めている。
 もう一度前を向き直り自動ドアへ向かう。
『身体の方は異常ありませんでしたのでご安心ください』
 すぐに悪魔の囁きが頭の中で反芻された。
 その瞬間、雷に打たれたかのように僕の体に衝撃が走った。その衝撃に触発されたのか、体が足から上半身に向かってゾクゾクした。
 ……身体の方は?
 僕はずっと事故での結衣ちゃんの傷の状態が良くないから面会を許されないのだろうと考えていた。だけど、傷が大したことないのなら面会を許されない理由が思いつかない。先ほどの看護婦さんの言葉にはどこか違和感を覚える。僕は傷の状態を確認したのに、身体の方は問題ないと言っていた。
 ……身体以外になにか障害が生じている?
 時間が経つにつれて、僕の額には冷や汗が浮かんできており、気が付くと受付の前に立っていた。爪が皮膚に食い込むくらいに強く拳を握った。
「すみません。無理を承知で教えてほしいことがあります」
 自分が考えるよりも先に、口から言葉が出てきた。
「山本さんの面会を許されない理由を教えてくださいませんか」
 看護婦さんに迷惑だってことは重々承知であり、それは頭の中でも分かっている。
 それでも聞かずにはいられなかった。
これでも僕は結衣ちゃんの彼氏なんだ。
誰よりも彼女のことを大切に思い、守ってあげないといけない存在なんだ。
「何度も申し上げておりますが、私の口からはお答えすることはできません」
そうだ。僕が傷つかないように看護婦さんは丁寧に対応してくれているではないか。
「でも僕は山本さんに寄り添ってあげないといけないんです‼」
 自分でもこんな声が出せるのかというほど大きな声が、院内のホールに響き渡った。確認したわけではないが、僕の後ろにいる方々の好奇な視線を背中に感じている。
「和田様、落ち着いてください。院長の指示ですので」」
「面会は許されなくても、面会を許されない理由だけでも教えてくださいませんか⁉」
「ですので、それはできません」
「では直接、院長に会わせてください‼」
 僕の身勝手だが、ここでおとなしく帰ったら何だか後悔するような予感がしたのだ。傷が大したことないならラインの返信はできるのではないか。
 傷が大したことないなら面会をしてもいいのではないか。
 傷が大したことないなら直接会って少し会話するくらいいいじゃないか。
 傷が大したことないなら目と目を合わせて微笑み合ってもいいではないか。
 僕の頭の中は混乱していた。
「院長はお忙しいので、わたくしどもで対応することとなっております」
「じゃあ、理由を聞いてきていただけませんか‼」
「和田様!」
 さっきの僕の声と同じか、それ以上の大きな声がホールに響いた。その瞬間、ホール内の音は一切なくなり、モニターに流れているニュース番組のアナウンサーのハキハキとした声だけが流れている。看護婦さんはハッと我に返り、突拍子もなく大きな声を出したことを、謝罪の意味で小さく頭を下げた。
「和田様の気持ちはよくわかります」
 先ほどとは打って変わって、看護婦さんは落ち着いた口調で言った。
「僕も少し取り乱してしまいました。申し訳ございません」
「いえ、患者様のために我が身を忘れて必死になれるのは素晴らしいことです」
 看護婦さんの言葉は僕の心に刺さった。これまで生きてきて、誰かのためにここまで真剣になったことがあっただろうか。目立つことは苦手で、極力人との関わりを避けて生きてきた。最低限、自分が過ごしやすくなるように、当たり障りのない対応を学校ではしてきた。
 そんな僕が一人の女の子のために、ここまで熱く真剣になっている。少なくとも、僕をこのように変えてくれたのは結衣ちゃんのおかげだ。普段はおとなしいのに、楽しいときは輝くような笑顔をしたり、思ったより積極的なところだったりと、彼女を構成する全てが僕を変えてくれたのだ。
「そのように言ってもらえてありがたいです」
「山本様は大切な人をお持ちなのですね」
 冷静を取り戻した僕は恥ずかしさから、看護婦さんの方から顔を背けた。そういえば、この看護婦さんの名前を知らない。ここまで対応してくれたのに、名前を知らないのは申し訳なく思い、看護婦さんの胸元に付いている白色の名札に目をやると『宮本香織』と書かれていた。
「宮本さんは、山本さんの症状についてはご存じなのですか?」
「ええ」
「やはり同級生だとしても理由は教えられないですよね?」
「そうですね。口外することは患者様や関係者の許可が必要となります」
「山本さんは許可しなかったってことですか?」
 僕のこの質問に、宮本さんは口をつぐんだ。何か訳があるけど、それは言ってはいけないというルールがあるかのような反応をしたように思える。
 僕と宮本さんの間に数秒の沈黙が広がる。すると、宮本さんが僕の背後を見て「あっ」という僕にしか聞こえない小さな声を漏らした。その声に釣られて、僕も後ろを振り返ると、そこにはスカイブルーの爽やかなノースリーブワンピースを身に纏った女性が立っていた。反射的に視線を下に落とすと、その右手には麦わら帽子があった。
「要件が終わるまでそちらの椅子で待ってますのでごゆっくり」
 ワンピースの女性は穏やかな声でそう言うと、僕がいつも宮本さんを待つときと全く同じ場所に腰を掛けた。昨日すれ違った女性に間違いない。
 そして、女性の声を聴いて、昨日の疑問が解けた。
 ワンピースに麦わら帽子、どこかで見たことある姿だと思っていたが、それは文化祭の日だ。結衣ちゃんと十三時に昇降口で待ち合わせのはずが、ある女性に二年一組の出し物の場所を聞かれたのだ。そのとき女性はえんじ色のワンピースに麦わら帽子という格好だった。
 昨日は少しすれ違っただけで後ろ姿しか見えなかったために、確信することはできなかった。しかし、たまたま今日もう一度会うことになり、その顔を間近で見ると、文化祭の日のワンピースの女性だと確信することができた。
 僕は椅子に座って本を読み始めたワンピースの女性の方を見てそんなことを巡らせていた。咄嗟の出来事で、僕は自身のことを忘れていて、すぐに宮本さんの方へと目線を移す。すると、宮本さんも神妙な面持ちを浮かべながら、女性の方を眺めていた。
「宮本さん?」
 僕が声を掛けても、宮本さんの目線が僕に向くことはなった。数秒置いて、もう一度声を掛けると宮本さんはハッとしたように僕の方を向いた。
「あ、すいません」
「いえ。大丈夫ですけど、あの女性がどうかなされたんですか?」
「ええ、この病院の患者様のお母様なんです」
 先ほど、病院のことは簡単には口外できないと言っていたのに、人間関係をこんなにも簡単に部外者に話していいものなのだろうか。
「昨日も帰り際に見かけた気がするのですが」
「はい、一昨日も昨日もこの病院には足を運ばれていらっしゃいます」
 僕と会話しているのに、宮本さんの気が例の女性に向いているのがバレバレだ。宮本さんの目線は僕と女性を往復しているため、目線が定まっていない。
 結衣ちゃんが僕の面会を許可しなかったのかどうかが当初の問題だったが、これでは宮本さんと真剣に会話できないと判断した僕は、長引かせるのも申し訳ないと思い帰ることにした。
「和田様、少々時間の方よろしいでしょうか?」
 僕が帰ることを伝えようとしたとき、突然宮本さんから忙しなく問われた。
「この後は特に何もないので待てますけど……」
「でしたら、そちらの椅子でお待ちください」
 僕に話す隙を与えずに、宮本さんは受付を飛び出し、病院の奥の方へ消えていった。宮本さんの後ろ姿が見えなくなると、宮本さんに言われるがままに僕は椅子に座った。
僕の横の横には例の女性が本を読んでいる。かすかにだが、女性の息遣いが聞こえてくる。宮本さんの様子が気になり、女性に少し話しかけてみようとした。しかし、あちらは文化祭で僕と話したことなど忘れているだろう。
 椅子に座っても特にすることのない僕は、スクールバックの中に入っているミステリー小説を手に取った。これは振替休日の日に結衣ちゃんのおすすめの青春小説である『好きだ。』と一緒に購入したものだ。出版社にもよるが青春小説とは違い、ミステリー創設の表紙は簡素なものとなっているものが多い。裏表紙のあらすじに目を通し、僕は本の世界に引きずり込まれていった。
 
 読み始めたときに比べて、右手にページの重さを感じるようになってきた。
 ページ数に目をやると、もうじき三桁に差し掛かるところだ。
 宮本さんから待っていてくれと言われてどれくらいの時間が経っただろうか。目線だけを右にやると、ワンピースの女性も腕時計を何度も見ているようだ。ロビーのどこかに掛け時計がないかを探すふりをして、周りの状況を探る。周りにいた方々の数はだんだんと減っており、僕たちを含めて両手で数えられるほどの人数しかいない。一人一人の距離は大きいが、僕と女性の距離だけが極端に近い。周りの人からは親子だと思われているのだろうか。
 きょろきょろしていると女性とばっちりと目が合った。僕はいつも通り反射的に目線を逸らせた。反射的だとはいえ、目を逸らしたことに後悔の念を覚えた。これを機に女性と話せばよかったじゃないかと、脳内で反省会が開かれた。
「あの……」
 僕の右側から小さな声が聞こえた。僕は恐る恐る体を反転させた。
「はい、何でしょう?」
 緊張で声が裏返ってしまった。
「間違ってたら申し訳ないんだけど、城南高校の文化祭で会った生徒かしら?」
「僕もそんな気がしてました」
「やっぱり、この間は突然話しかけて申し訳なかったわね」
「いえいえ。お力になれてよかったです」
 病院内でも陽気な話口調は変わらない。そこで会話は一旦途切れてしまったが、すぐに女性の方から話を持ち掛けてくれた。
「あなたここで何か待ってるの?」
「はい。看護婦の方に待っているように言われて」
「結構長いこと待ってるわよね?」
「そうなんですよ。おそらく三十分は待っているかなと思います」
「大変ねぇ」
 僕は目的があって待っているからいいものの、女性は病院に来てからずっと椅子に座って本を読んでいただけだ。おそらく宮本さんが担当の看護婦なのだろう。
 病院内で大きな声での会話ができないため、自然と女性との距離も近くなっていた。気が付けば女性は僕の隣へ席を移動しており、僕は女性の着ているワンピースと触れるか触れないかくらいの距離に座り直すことが多かった。あまりに近すぎると経験のなさがバレてしまい、また馬鹿にされる可能性がある。
 女性と初めて言葉を交わして十分くらい経った頃だろうか、廊下から足音が聞こえてきた。足音から推測するに、おそらく宮本さんだけではないだろう。誰と一緒にこちらへ向かっているのだろうか。そもそも宮本さんなのかも分かってないが。
 僕と女性は固唾を飲んで足音の正体が現れるのを待っている。姿が見えた瞬間、僕の鼓動は早さを増した。ようやく宮本さんが戻って来たかと思えば、白髪交じりで、眼鏡のかけた、年配の男性が宮本さんの前を歩いていた。僕らとの距離が近くなり、男性の胸元の名札を凝らして見てみると『院長』と書かれていた。院長という二文字を見るだけで、自然と僕の背筋は伸びていた。
 しかし、院長は僕の方ではなくワンピースの女性の方へ向いている。そして、院長は女性と耳打ち程度の会話をし、女性と共に先ほどの廊下の奥へ消えていった。僕は宮本さんと二人でロビーに残された。
「和田様、お待たせして大変申し訳ございません」
「いえ、全然大丈夫ですよ。先ほどの方は院長さんですか?」
 実は名札を見て、既に先ほどの男性が院長であることは把握済みであるが、宮本さんが話を切り出しやすいように、あえて知らないふりをして聞いてみた。
「ええ、先ほどの方が院長でございます」
「思っていたよりも若そうでびっくりしました」
「院長曰く、この病院内では一番元気でいることがモットーみたいですので」
 宮本さんの口元が緩んだのを初めて見た気がした。
 僕がここに来てからは、毎回大変な対応をさせてしまっていた。病院という人の命の治療などを行う場として、医者や看護師さんというのは常にアンテナを張り、緊急時に備えているのだろう。勤務中は気をゆるむことが許されない。そんな看護婦さんのちょっとした笑顔を垣間見れたことでこちらの不安と緊張も軽くなった。
「それで僕を待たせたのはどうしてですか?」
 院長はワンピースの女性とどこかへ行き、この場には宮本さんと僕しかいない。
「その件に関してはもうしばらくお待ちください」
 何を待つことがあるのだろうか。待たせた張本人が目の前にいるというのに。
「先ほどの方と何か関係があるのですか?」
 そう聞くと宮本さんは何も言葉を発することなく小さく頷いた。
「どういうことだ……」
 僕がボソッと呟くと、院長とワンピースの女性が横並びになってロビーに帰ってきた。ワンピースの女性は、先ほどとは打って変わって真剣な表情を浮かべている。病院に来た時と同じように右手で麦わら帽子の鍔を握っているが、力が入っているせいか鍔は少し歪んでいる。
「和田様ですね」
「はい、和田と申します」
「『クスノキ済生会』の院長で藤原誠次と言います。この度は山本様との面会で許可をさせることができずに申し訳ございません」
「いえ、こちらも状況が把握できていないのに無理言って申し訳ございません」
 正直、僕にも悪いところはある。院長の藤原さんや宮本さんだって、患者さんが喜ぶためならどんなことでもしてあげたいと考えているはずだ。でも、それができないほどの「何か」が起きているのだろう。それを分かってもいないのに自分勝手に押し寄せてしまった態度は素直に反省しなければならない。
 僕と藤原さんと宮本さんとワンピースの女性という、謎の四人でサークルを描くように対面している。宮本さんから待っていてくださいと言われたときからは、想像もしていない状況である。視線をワンピースの女性に向けると、その視線は藤原さんの方に向いている。そして、藤原さんと女性がアイコンタクトで同時に頷くと、藤原さんの口からは望んでいた言葉が吐かれた。
「山本様との面会を許可しようと思います。こちらです」
 僕の返答を待つことなく、院長の藤原さんは振り返り、先ほどの道を進んで行った。状況の展開が速すぎるせいで頭の中は混乱しているが、とりあえず結衣ちゃんとの面会が許されたことは理解できた。藤原さんに続いて、ワンピースの女性、僕、宮本さんの順番で後ろについていく。
 ついに結衣ちゃんに会うことができる。でもなんだろう。ついさっきまでは何とか結衣ちゃんを元気にしたくて面会を熱望していたのに、これ以上廊下を進んではいけないような予感がした。一人の患者さんと面会をするために院長さんが直々に来て下さっているのだ。もうただの交通事故の傷の損傷だけではないことは明白だ。それ以外に、病院内でしか知られていない事実があるに違いない。それに、このワンピースの女性は結衣ちゃんとどんな関係なのか、さっぱりわからなかった。
 俯きながら歩いていたため、前から聞こえる足音だけを頼りに歩を進めていた。そしてその足音が聞こえなくなり、病室の前に到着したことを察知して目線を上げた。白色の壁には『山本結衣』と書かれており、この扉の向こうに結衣ちゃんがいることは確かだった。
 いざ扉の前に立ってくると、そこからは異様な空気間が漂っていた。ギリシャ神話に由来する「パンドラの箱」というフレーズをバラエティ番組などでよく耳にする。このフレーズが使われるのは本当かどうかわからない都市伝説の話であることが多く、それをいつもテレビ画面でしか見ていない僕は、それを他人事でしか考えていなかった。
 しかし、こういうときに「パンドラの箱」というフレーズを使うのだろう。この扉を開けてはならないような気がした。それでも藤原さんはノックをして病室からの返事を確かめると、躊躇うことなく扉の取っ手に手をかけ、その扉を静かに横にスライドさせる。その瞬間、病室内から見えない黒い手が迫ってきて、足がすくんで動けなかった僕の体を掴んで、病室へ引っ張り込む様な感覚に陥った。
 おぼつかない足取りで病室内に入ると、一人の女の子がベットで上半身だけ起こして窓の外の景色を眺めているのが目に入った。会えなかったのはたった数日間なのに、その後ろ姿にどこか懐かしさを覚えてしまう。
「結衣さん、面会の方がいらしていますよ」
 藤原さんはベットの前で結衣ちゃんに優しい声でそう言った。すると、結衣ちゃんは上半身を捻り僕らと対面する形になった。
 しかし、結衣ちゃんの顔には感情はなく、目はこちらを見ているが僕の身体を突き抜けて遥か遠くを見つめているように思えた。僕は練習していた笑顔をしようとしたが、あまりの冷徹な彼女の表情に威圧され、引きつった表情になってしまった。
「それでは和田様、ごゆっくり」
 藤原さんは僕の肩に手を置いて、すれ違う際にそう言って病室を後にした。ワンピースの女性と宮本さんも、一つ浅くお辞儀をした後に病室を後にした。
 扉が完全に閉まると、病室には音一つない静寂に包まれた。かすかに聞こえるのは、お互いの息遣いくらいだ。彼女は再び窓の外のオレンジ色の夕日に目を向けた。僕は笑顔だけは絶やしてはならないと思い、無理矢理にでも口角を上げ、目に光を宿らせて、自分なりの精一杯の笑顔をした。
「結衣ちゃん、連絡もなしに来ちゃってごめんね」
 この雰囲気をどうにかしなければならないと思い、苦し紛れであるが口から言葉を振り絞った。全身から冷や汗が噴き出している気がする。クーラーの冷たい空気が肌に当たって、汗を冷やしてこの重たい空気感をより重たくさせている。
 しかし、僕の渾身の言葉に結衣ちゃんは何も反応してくれなかった。
「事故に巻き込まれたって聞いたから驚いちゃったよ」
 僕は続いて口から言葉を発した。しかし、この言葉には生命の息がかかっておらず、形式的な存在にすぎない。その言葉は結衣ちゃんに届く前に、この重たい空気に押し潰されてしまった。
 とりあえず立ったままだと話もやりづらいと思い、ベッドの横に置いてあるパイプ椅子に腰を掛ける。病室の壁には城南高校の制服が掛けられており、この女の子は結衣ちゃんであることを再認識する。
「傷の状態はどう?」
 先ほどから僕しか話していないが、僕は不安で仕方ないのだ。
 正体の分からない「何か」と懸命に向き合っている。
 結衣ちゃんの声で僕の名前を呼んでくれ。
 いつも通りのはにかんだような笑顔を見せてくれ。
 僕の想いが通じたのか、結衣ちゃんは僕の方へ上半身を捻らせた。
 そして、少しの間を置いて首を傾げてこう呟いた。
「あなたは、誰?」