頭の上から、おじいちゃんの、そんな声が。
 見上げると、おじいちゃんが目を見開いて訊いた。

「一花、……四葉は?」

 四葉ちゃんがいるはずのリアカーを見て、わたしは声を失った。
 四葉ちゃんがいない。
 リアカーの上に寝かせたはずの四葉ちゃんがいない。
 まだ一人で立つこともできないはずなのに!

 ……う、う、ひっく……

 愕然としていると、『下』から、鳴き声――違う、泣き声、が。
 おじいちゃんと二人で視線を下ろす。血まみれの布袋が、完全に動きを止めたと思ったのに、またもぞもぞと蠢きだした。

 泣き声はそれから発せられていた。
 聞き覚えのある声だった。
 口が開いた布袋から、何かが、出てきた。
 それは黒い毛の生えた爪の鋭い狸の前足ではなく、白くてぷにぷにと柔らかそうな――

 赤ちゃんの、手。

 血で真っ赤に染まった小さな手が、助けを求めるように、揺れた。

「うわぁあああ!!」

 おじいちゃんが吠えた。わたしは声も出ない。

「四葉! 四葉ぁ!」

 血に浸された布袋を抱きかかえ、おじいちゃんが泣き喚く。
 地面を揺るがすような絶叫を耳にしながら、わたしは、おばあちゃんの言葉を思い出していた。

 ――「狸はね、化かすのよ」

 狸が、わたしとおじいちゃんを、化かして、四葉ちゃん、が……

 すべてが暗転しかけた時、ドアがガタンと外れた。ゆっくりと前に倒れて、椅子や段ボールに覆い被さる。
 その上に、何匹もの狸が軽く飛んで乗った。血まみれの狸がこっちを見ている。

 わたしは座ったまま後ずさった。すぐに壁に突き当たる。立つことすらできない。
 おじいちゃんはなおも四葉ちゃんに縋りついて泣き叫んでいる。おばあちゃんはピクリともしない。

 狸がひらりと地面に下りる。
 そして、まっすぐわたしの方に向かってきた。

「や、やめて」

 来ないで。
 狸が、こっちに来る。

「ご、ごめっ、ごめんなさい」

 来る。

「ごめんなさいっ、ごめんなさい!」

 来る。

 真っ黒な一対の目が、わたしの引きつった顔を捕らえた。

「ごめんなさいぃ!!」

 狸が足元に来た瞬間、わたしは頭を抱え、そう叫んだ。

 次に起こることを覚悟した。襲いくる痛みや恐怖に対して、ぎゅっと身を固くした――のに。

 狸は何もしてこなかった。
 目を開けると、狸がいた足の爪先には、

「え……?」

 小さくて茶色い、どんぐりに似た木の実がころんと置いてあった。
 狸が、くるりと後ろを向いた。クッションみたいな太い尻尾が揺れている。
 よく見ると他の狸より小さい。子どもの狸。

(子狸……?)

 まさか、と思った時には、その小さな狸はふうっと姿を消していた。後には数匹の大きな狸だけが残る。
 子狸をずっと見ていた大人の狸が、鼻面を上に向けて、

 ……キュエェ――エ……

 そう、甲高く、もの悲しく、鳴いた。
 それが合図だったように、狸たちは土間から出ていった。いつの間にかシャッターへの体当たりも治まっている。
 ふいに戻った静けさの中、おじいちゃんの啜り泣きだけが響く。
 わたしは小さく悲鳴を上げた。

「四葉、四葉……」

 おじいちゃんが抱きしめているのは、棘の生えたつるが巻きついた、木の株だった。

 おじいちゃんの頬や腕につるの棘が刺さって、血が静かに流れている。

 おじいちゃんが涙を流しながら棘にほおずりをする。涙と血がまざってぬらぬらと光った。でもおじいちゃんは、痛みなんて感じてないようだった。

(四葉ちゃん、は……?)

 ――その時。
 土間の外から、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

 わたしは弾かれたように立ち上がって、壊れたドアから廊下に出た。

 元いた和室に戻ると、羽虫がたかる電灯の下、四葉ちゃんがお布団の上で泣いていた。

「四葉ちゃん!」

 わたしは四葉ちゃんの、あたたかくて柔らかい身体を抱き上げた。何度も何度も名前を呼ぶ。
 やがて四葉ちゃんはひとつしゃっくりをすると、真っ黒な――あの子狸を思わせる、無邪気な目でわたしを見上げた。
 そして、にこっと、涙でくしゃくしゃの顔で笑ってくれた。

「四葉ちゃん……!」

 わたしは泣いて、四葉ちゃんを抱きしめた。