春になったら君に会いたい

「……というか、正晴は自己紹介しなくていいのか?」

二人の俺を馬鹿にしたような会話は、その一言で途切れた。正晴は忘れてた、というように舌を軽く出してみせる。前も言ったが、男、しかも親友のそんなものを見せられても嬉しくない。そのため、俺はスッと目を逸らした。

「俺は佐原正晴っていいます。正に晴れるで正晴ね。冬の親友です。どうぞよろしく」

正晴は、俺が目を逸らしたことを全く気にも留めず、爽やかな笑顔で自己紹介をした。

「私のほうこそよろしくお願いします」

のぞみも話してて慣れたのか、可愛い笑顔で答えていた。

「同い年だからタメ口でいいからね」
「うん、わかった! じゃあ、正晴くんって呼んでいい?」
「もちろん。俺ものぞみちゃんって呼ぶね」

女の子をあっさり名前呼びできるあたり、正晴は俺よりも断然女の子に慣れている。まあ、正晴は共学の高校に通っているので、当然といえば当然だろう。


「冬くんと正晴くんは何してたの?」

自己紹介が終わり、のぞみが聞いてきた。微妙に散らかったこの病室を見れば、その質問が出てくるのは普通だ。

「俺明日退院だから、その支度してたんだよ」
「そうなの? わあ、おめでとう!」

のぞみは自分のことのように喜んでくれている。

どうせ冬になれば、またここに戻ってくるんだけど、なんて言えるわけもなく、俺は嬉しそうなふりをした。
いや、戻ってくると分かっていても、病院内にずっといるよりは外にいられる方が嬉しいには違いないのだが。

正晴をチラッと見ると、一瞬苦そうな顔をしたが、すぐに表情を戻していた。おおむね俺と同じ心境なのだろう。
「あ、でも、冬くん退院しちゃうと少し寂しいかも……」

のぞみが思い出したように言う。その声はしょんぼりしていて、申し訳ないような、それでいてむず痒いような感じがした。

「退院してものぞみの見舞いには来るよ。俺あんまり忙しくないし」

彼女の顔が、ぱっと明るくなった。表情がコロコロと変わって面白い。

「わー、嬉しい! いつでも来てね! 待ってるから」

よほど嬉しかったのか、前のめり気味に言われる。思った以上に俺のことを好いてくれているのかもしれない。もちろん、そこに深い意味ではないだろうけど。

その後、のぞみはお邪魔しました、と自室へ帰り、俺たちは作業を再開した。正晴のおかげで無事支度は終わり、あとは明日になるのを待つだけになった。


そして、翌日。
病院を出た俺は、久々に家へ帰り、懐かしいにおいに包まれた。やっぱり自分の家は安心する。

ここまで来て、やっと俺は春というものを実感した。
退院してから一週間経った、3月21日。
今日は電車に揺られて、ある公園に来ていた。

ここは、桜木公園という名の通り桜の木が多く生えている。だが、近くにあるもっと大きな公園の方が人気があり、こちらの公園に来る人は少ない。

俺はその大きい方に行ったことがないから、そこの桜がどのくらい綺麗なのかを知らないが、俺の中ではこの桜木公園の桜が一番綺麗だ。だから、毎年この公園で花見をすると決めている。

小さい頃は家族で来ることもあったが、最近は必ず一人で来ている。今日もそうだ。正晴はバイト、両親は仕事があって一緒に来ることはできない。それに、俺はこの風景を見ていると、ふいに涙を流してしまうことがあるので、一緒に来たくなかった。

桜の木が見えやすいところにレジャーシートを置いて、その上に座る。周りを見れば、俺以外にも花見をしている人がいた。嬉しそうだったり、悲しそうだったり、はしゃいでいたり、ひとりひとりが色々な反応を示していたが、きっと誰もがその桜を綺麗だと思っているという気がした。

周りの人達から視線を外して、桜を見上げる。

薄桃がかった白い花びら。
力強い太い幹。
しなやかに伸びる枝。

俺の少ないボキャブラリーをどれだけ集めたって表せないほど、美しい。

恐れか、感動か、はたまた全く違う感情か、よく分からないものが俺の心を満たした。つい、Tシャツの胸元をギュッと握ってしまう。

今、この瞬間ここで見ているからこその美しさが、その桜にはあった。写真で残そうが、頭にインプットしようが、今味わっているこの不思議な感情は、今以外には得られない。これほどの美しさも感じられない。

俺はもはや、桜から目が離せなくなっていた。
この美しさを逃がすまいと頭が働いているのだ。

ふいに、本当にふいに涙が流れた。
自分でも涙が出てきそうだと気づいていなかった。

悲しいんじゃない。悔しいんでも、辛いんでもない。だからといって嬉しいんでもない。自分でも分からない。

涙は拭わなかった。もし仮に、両親とか正晴とか知り合いがいたら拭ったかもしれない。見られまいとしたかもしれない。それでも、ひとりの今はそんな必要はない。

嗚咽するでも、しゃくり上げるでもなく、ただただ流れ続ける涙。それには俺の全てが含まれている気もした。

不安も、恐怖も、弱さも、全て。
やがて、涙は自然と収まっていった。胸元を握る手も緩まる。

俺は来年の春もこの景色をを見ることはできるのだろうか。
そう、ふと不安になる。


もしかしたら急に命を落とすかもしれない。
冬以外にも眠るようになってしまうかもしれない。
目覚めたら体調が悪くなっているかもしれない。

俺の体質は治る見込みがないだけでなく、悪化する可能性を秘めている。だから、怖い。

俺はそんな考えを振り払うように、頬を軽く叩いた。
これからまた新しい生活を始めなくてはならないのだ。ネガティブではいられない。


改めて、空に向かって咲く桜を仰ぐ。

小さい花なのに、堂々と自分の生を誇っているように見える。その姿はやはり美しい。


俺は一時間弱ほど桜を見て、その公園から出ていった。
これから先の人生への不安を少し抱えながら。

それから、春の間、俺はバイトをしたり、どこかへふらっと出掛けたり、正晴と遊んだりした。

バイトは、叔母さんの営んでいる喫茶店でやっている。去年から始めたバイトなのだが、人見知り気味な俺には初めは結構大変だった。今年は二回目ということもあってか、戸惑ったりせずに動けている。

正晴と約束したスイーツ専門店には、無事に行くことができ、いろんなスイーツを堪能してきた。正晴とは他にも遊園地に行ったりして、一緒に遊んだ。


もちろん、のぞみの見舞いにも頻繁に行った。

バイトは週4だし、他にも空いている日には単発の仕事をしたりしているが、それでも暇な時間は結構ある。退院の前日に言っていた通り、いつ行っても歓迎された。


のぞみの見舞いをするようになったことを除けば、今までと変わらない春。しかし、のぞみと出会ったことはとても大きい気がしている。

楽しいと思うことが増えて、ほんの少しだが前向きになってきた感じがするのだ。それはのぞみも同じようで、初めてあったときより目の輝きが増したように見える。

少しずつではあるが、きっと俺たちはお互いに影響しあっていた。


そして、季節は飛ぶように過ぎ、夏を迎える。
「のぞみ、はよ」
「冬くん、おはよう! って、もうお昼すぎだけどねー」
「外くそ暑かった。溶けそう」


夏になった。
まだ6月上旬だというのに、熱中症になりそうなほど暑い。まとわりつくような熱気にに辟易しながら、のぞみの見舞いに来た。病院内はクーラーがついているので快適だ。


「ほらこれ、あの漫画の最新刊出てたから買ってきた」
「え、ほんと!? うわー、表紙かっこいい」
「俺は読んだし、貸すよ」
「ありがと、あとで読むね!」

なんでもない会話。出会ったばかりの頃は少し恥ずかしかったりしたが、さすがにもう慣れた。まあ、のぞみの方は最初から変わらないのだが。


「あ、そうだ!」

急に彼女が言った。顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

「私ね、一時退院の許可出たんだ。来週から10日間」

少し驚いた。俺たちが知り合ってから、のぞみはずっと入院しているからだ。正直、外にいる姿は想像出来ない。

「よかったな。おめでと」

純粋によかったと思う。病院にずっといたのだから、外に出られるというだけで、相当嬉しいだろう。俺が素直に祝うと、のぞみは大きく頷いた。
俺は段々とのぞみに惹かれていっている。
そんな気がした。

誰かに、会いたい、話したい、などと積極的に思うことなんて、今までなかったのに、のぞみにだけはそう思ってしまう。

また冬が来たら離れていってしまうかもしれないのに、それでも今は一緒にいたいと思ってしまう。

正晴にでさえ未だに怖くてそう思えていない。正晴が俺にとって特別であるならば、のぞみは特別の特別なのだろう。


ただ、惹かれるといってもそれがどういった類のものなのかは分かっていない。恋愛か、友情か、もしかしたら尊敬なんてものもあるのかもしれない。

今はさっぱりだが、それはこれからの付き合いで理解していけばいいと思った。
「最近、退院中にやりたいこと考えてるんだ! 家族と美味しいもの食べたり、温泉行ったりしたいなって」

のぞみは一時退院を心待ちにしていたようで、それはそれは嬉しそうに言った。

「へー、家族と仲いいんだな」
「うん!」
「ともだ……いや、なんでもねぇ」

友達とは遊ばないのか、と聞こうと思ったがやめた。こうしょっちゅう見舞いに来ているのに、一度も彼女の友達と会ったことがないからだ。

ずっと入院しているようだし、友達はいないのかもしれない。俺自身、正晴以外には友達と呼べるような人はいない。


「で、ここからが本題なんだけど!」

のぞみが何かを企んでいるような顔をした。今までの話は、前置きだったらしい。

「冬くんと遊びたいんだけど、どう?」
「え?」

突然の誘いに、頭が真っ白になる。
俺とのぞみが遊びに行く。これはデートということになるのではないだろうか。

「駄目、かな?」

上目遣いで、首をかしげられると弱い。

「行こう」

おかげで、反射的に返事をしてしまった。まあ、予定があるわけではないので、問題はないのだが。

しかし、女の子と二人で遊ぶなんてもちろん初めてなので、変なことをやらかさないか心配だ。誘われただけで、こんなにドキドキしているというのに。

「わーい! じゃあ、どこ行く?」

俺の気持ちなどつゆ知らず、のぞみは喜んでいた。いつもより目に輝きがある。

「俺はあんまりそういうのわからん」
「うー、ぶっちゃけ私もそうなんだよね。どこがいいんだろ」

俺たちはそう頭を悩ませた。友達が少ないとこんなところでも不便なようだ。


最終的に、俺が帰る時間までいい案は出ず、「決まらないから、冬くんエスコートして!」という一言で任せられてしまった。

大変だな、と思いつつも、どこか楽しんでいる自分がいることに俺は気づいた。

やっぱりいい方向に進んでいるようだ。彼女といれば、生きる意味に気づけるのではないかと思った。