サムエル・コッキング苑を出ると右手にある階段。その階段の手前に猫がいた。
「眠っとる」
すぐ近くを観光客がたくさん通っているというのに、我関せずといった風情で眠る。黒ブチだ。随分と人に慣れている。さすが観光地の猫。
そこの階段を降りる。土産物屋が並ぶ先に右手にカフェ、左手には民宿があった。
「民宿かぁ。ええなぁ」
「こういうところ、泊まってみたいね」
「日帰りできるところに、あえての宿泊は贅沢やね」
ところで、と続ける。
「……また階段や」
一度下ったと思ったが、再び下りの階段が現れた。
「まるでドラクエやな」
「そのココロは」
「倒しても倒しても出てくるスライム」
「正直に言うと」
「うん」
「私、ドラクエ、FF世代なんだけど、全然やったことない」
「うせやん」
RPGが苦手な小学生だったのだ。主にアクションゲームをやっていた。
話しながら階段を降りる。少し広い踊り場に出た。左側を見れば──右手はサムエル・コッキング苑の土台になっている壁が続いている──切り立った崖のちょうど合間。看板がたっていて解説文があった。
「やま、ふたつ?」
「へぇ。江の島は、二つの山でできとるんか」
太陽がまぶしい。額に手を当て、景色を眺めた。左右に崖が見え、その間がぽっかりと、きれいにくり抜かれたようになっている。その先には青く光る海が広がり、手前には色を僅かに黄金に移した薄が、そよ、と風に吹かれていた。
遥か先まで見渡す海は、その水平線で空と溶け合い、太陽の光をキラキラと反射させる。
海辺ではやはり釣り人がその糸を垂らしていた。江の島は思うよりも多くの釣り人が、好んで訪れる場所であるらしい。
「うーん」
「どしたん」
「あそこの人たち」
「あの釣り人?」
「そう。どうやってあそこに行ったのかな、って」
「船かな?」
「それしかないか」
階段を降り切ると、左手に和菓子の店が。中村屋、と幟に書かれてある。大きく開かれたショーケースの向こう側から、店員がひっきりなしに声をかけていた。
「あかねとうふ、やて」
「豆腐?」
「おやお客さん。あかねとうふ気になりますか? オススメですよ」
商魂逞しい店主が、私の声をすぐさま拾った。こちらが答える前に素早く店頭の冷蔵庫から、あかねとうふと思しき商品を二つ取り出してくる。
「食べていきます? 後ろの建物で食べられますよ」
なんという押しの強さだ。ここは大阪か? と突っ込みたくなる。見れば8センチ四方程度のサイズ。この程度なら食べてもランチに影響はでなさそう。
「せっかくだし」
店主からあかねとうふを受け取った。よく冷えている。
すぐ後ろ──つまり降りてきた階段を背にして右側──にある建物を見遣れば、Tシャツやら巾着やらのプリントものと、観光地の土産物が売られている。その向こうは通路になっているのか、小道が続いていた。
「この巾着かわええな」
「それ、うちのオリジナルなんですよ」
後ろから声がする。先ほどの店員だ。よく見ればプリントされている模様は店の屋号と合致している。なるほど。
「オリジナルアイテムええなぁ」
「ハルカ先生オリジナル商品でも作っちゃう?」
「家紋調べな」
「ふはっ。家紋である必要ないでしょ」
こういうときは、キャラクターで作るものじゃないのか。
土産物の並ぶ棚の隣に、簡素なテーブルと椅子が置かれていた。腰をおろし手渡されたあかねとうふと、店員がサービスで用意してくれた緑茶に手をのばす。
「あかねとうふって初めてやね」
「ね。名前がなんかかわいい」
臙脂色のつるりとした表面が、小さな立方体の器に入れられている。そこへするりとスプーンをさした。
「もちもちしてる……」
あかねとうふとは、こし餡と葛で作られた、水ようかんのような和菓子だった。
「もちもちや。もちもち、もちもち」もちもちが止まらない。スプーンをひたすら口に運ぶ。もちもち。
一気に食べきって、席を立つ。甘いものを入れた途端、胃が刺激されてしまった。
「お腹空いちゃった」
「それ、わかるわぁ」
はなはだ逆説的に感じるかもしれないが、お腹が──空いてしまったのだ。
中村屋を左手に直進し、すぐにまた上り階段。
「これ、降りる意味あったんか?」
「天然の地の利だからしかたがないとは言え、なかなかだねぇ」
少しあがると左手に折れるように曲がっていく。踊り場にも食事処はあったけれど、ずいぶんと並んでいた。
階段を登りきると、まっすぐな道に出る。右手にはおしゃれなカフェ。
その向かいには、これまた美味しそうなにおいを広げている、少し古めかしい蕎麦屋があった。蕎麦屋だというが、店の入り口では、先ほどの店と同じように蛤やら栄螺やらを焼いている。その磯のにおいが私たちを刺激してきた。
この後、すぐにランチを食べたいと思っているので、ここは我慢。それにしても、炭火焼きと焼いた醤油の匂いというのは、どうしてこんなにも魅惑的なのだろうか。我慢をした私たちは偉いと思う。
石畳の道を真っ直ぐ進む。両側に民家を過ごし、鳥居の手前に古民家風のうどん屋を見た。なかなか趣がある。
緑が深くなり参道が始まった。ついに正面に社が見える。奥津宮だ。
「あれが三つ目の社やね」
「ねね、手水の水口が龍じゃなくて亀だよ」
「ほんまやな。珍しい」
「さっき猫がいたところにも亀がいたし、亀尽くしだ。亀って、神様の遣いとかなんだっけ?」
「何が遣いでも、この国ならおかしくはないやろう」
「確かに」
奥にある本殿の手前、賽銭箱の前に並んで立った。人がまばらなので、並ばずにお参りができる。
「あれ、灯。上見て」
何かと思い天井を見上げた。
「亀……」
「八方睨みの亀やて」
「八方睨み?」
「こういうことや。上見といてな」
天井を見上げる私の背中を軽く押し、左右に移動させる。
「おお? おおお?」
「どこから見ても、亀に睨まれてるようやろ」
「いつもお前を見ているぞ」
「普段より声低くして言わんといて」
八方睨みの亀。時は江戸後期。江戸琳派の祖となった酒井抱一が1803年に描いた力作だそう。当時のものは、現存してはいるが傷みが激しいため、原画は社務所にて保管。
拝殿に描かれているものは、1994年に片岡華陽が復元した。藤沢市の有形文化財に指定されている。八方睨み、とはどの方角から見ても睨んでいるものを言う。と、近くに解説があった。観光地はこういうことがしっかりと書かれているのが良いよね。
無事に奥津宮を参拝し、すぐ後ろにある社務所でお守りをのぞいた。
「この龍のお守り格好ええなぁ。買おう」
「いいじゃん。私も買おうかな」
「ええやん。勝ち守りってあるし」
小さな青いお守りは、きっと私の背中を押してくれることだろう。
そこから少し奥にいった下り階段の手前。そこが今日のランチの目的地だ。ここだけは調べてきたのだ。
「外の席じゃなければ、すぐにご案内可能です」
「それで大丈夫です」
外ではないけれど、海が見える窓際だ。ラッキー。
メニューはどれも海鮮系。美味しそうな定食もたくさんあるけれど、私たちは二人とも、同じところで目をとめた。
「すみません! 生しらす丼二つ」
海では、カヌーと水上バイクが走っている。通り過ぎた後に白い波を生み出していた。
ぴーひょろろろろ、と鳶がなく。
「外やったら、食べ物取られかねないねぇ」
「あー、ほんと。ちょっと怖かったかも」
それでも、青い空に飛ぶ鳶が妙に美しく見えた。青空に飛び交う鳶の美しさ。白い雲。再びぴーひょろ、と鳶が高く鳴いた。
「この、江の島丼ってのも気になったんやけど」
手元のメニューを春香が指さす。さざえを卵でとじたものらしい。
「次回はこれにしよう」
「ええね。次は有里さんやマイも誘おうか」
「皆で、さっきの民宿に泊まっても良いかも」
「それは絶対楽しいやつや」
「お待たせしました。生しらす丼二つ」
高校生と思しき少年が運んできた。息子さんだろうか。髪の毛がぼさぼさでメガネをかけているが、真面目そうだ。店内をよく見ると高校生くらいのバイトが多い。地元の子なのかもしれない。
お盆にのせられ目の前に置かれたそれは、つやつやとした透明のしらすの山。生姜が添えられている。その他に香の物と味噌汁が付いていた。初めて食べる生しらすに胸が高鳴る。そうか。これが茹でられると白くなるのか、などと思う。生姜を溶いた醤油をかけた。
「いただきます」
両手を合わせ、先ずは一匹、口に運んでみる。
「なんやこれ。とろける」
「生臭くないねぇ」
どんどん手が動く。つるつるとした口当たり、ほどけるように溶けていく魚。
あっという間に丼が空になってしまった。
「この先、また下りの階段があって、そこに岩屋という観光名所があります」
「下る、ということは、帰りは上りということやな」
「その通りです。ただ」
「ただ?」
食後のお茶を頂きながら、今後の予定について話す。
「私の足は、そろそろ限界なんだよね」
春香がやにわに私の手を取る。
「同士よ……!」
つまり、私たちはその観光名所を次回に譲ることにしたのだ。
下るのはともかく、また上ってくるのはきつい。事前の調べでは、上らずに船で入り口の橋まで戻れるルートがあるらしいけれど、今日は波の関係で船が出ていなかった。
船が出ているときに、向かう方が絶対に良い。私たちの足のためにも。
来た道を戻り、先ほどあかねとうふを食べた店の横にあった小道を行くことにした。その先にあった、上りの階段に日和ったとか、そういうことは──少ししかない。
その小道は階段ではなく緩やかな上り坂。このくらいなら辛くはない。
右手に家屋があり、左側には電動自転車やバイクが置いてあった。住民や働く人のためのルートなのかもしれない。
小道の上り坂の頂点から、今度は下っていく。左手の公民館と右手の江島神社を結ぶ場所に、赤い太鼓橋が架かっていた。フォトジェニックだ。その下をくぐり、ちょうど最初のエスカーに気付いた辺り、つまりは辺津宮前の参道にたどり着き、少し降りたところで後ろから盛り上がった声が聞こえた。
「あ、お嫁さんだよ春香!」
「花嫁道中やぁ」
江島神社で挙式を終えたのであろう花嫁御料が坂を下って来ていた。先頭には江島神社と書かれた大きな提灯を持った露払いの男性が二人。その後ろに幾人かの人間とカメラマンが付き、その後ろに白無垢に綿帽子をかぶった女性。隣には袴姿の花婿さんが並ぶ。
薄く白塗りをした女性の目元は朱に染められているが、それでも清廉さが見て取れる。うっそりと笑うその顔はたおやかだった。
目の前を花嫁道中が過ぎていく。両家のご両親だろう。黒紋付きの女性と礼服の男性が二人の後ろについていた。
「やっぱり、お母さんに花嫁姿を見せてあげたかったな、なんて気持ちは残るね」
「私は結構昔から、結婚したい気持ちはなかったけど、それでも、灯が言ってることはすごくわかる」
大学を出て、順当に正社員になれていたら、そうして同じように同世代の正社員の男性と巡り会えていたら。もしかしたら、結婚して子どもを産んでいたかもしれない。でも、自分が生きていくために必死で働いてきたから、結婚したいと思う男性と巡り会うことはなかった。
仕事と出会いは関係ないかもしれないけれど、でも、やはり大学を出てからは、働く場所が出会いの場所でもあるのだ。
「今更、少子化だの、失われた世代だの言われても、困るよね」
「それに私たちは、やっと結婚や出産という社会の呪いから外れる年齢になってきたんやし、もう知らんって気分」
きっと、母に見せたい花嫁姿は、育ててくれてありがとうという気持ちと、どこかに残る母と娘の呪いの清算のようなものなのかもしれない。
「自分一人で、ウエディングフォトでもしとく?」
「それこそ、いつもの四人で撮ってもええんやない? 正直、ドレスは着たいもん」
「それいいね」
別に、写真に男がいる必要はないのだ。私が、私たちが必要なのは、助け合える相手であって、それが異性である必要は、必ずしもないのだから。
花嫁道中を避けてはまり込んだ小道。ふと見るとカフェ、という看板がある。コーヒーを飲んで一息つこう、とその小道の奥へと向かった。数メートル進むと右に折れる片口のどん詰まり。そこに看板が再び現れる。
曲がればすぐに、民家を改造したようなカフェが現れた。扉を開くと、ギャラリースペースが広がる。その奥がカフェのようだ。
「いらっしゃいませ。奥へどうぞ」
店内は小ぢんまりとしており、全部で五席。ほとんどが二人席だ。木でできたテーブルと椅子。小さな小瓶の花。手作りのメニュー。そのどれもに、店への愛情を感じる。ノスタルジーすら感じるこの雰囲気は、もしかしたら店主がリタイアでもしてから始めたものなのかもしれない。
「この珈琲をホットで二つ。あとザッハトルテも二つ」
ケーキは手作りらしく、小腹が空いていた私たちはひょいひょいと注文した。さっき丼を食べたばかりだと言うのに。
店内のギャラリースペースを見ていると、コーヒーとケーキが届いたのが見えた。
コーヒーを一口。苦みとコクが絶妙のバランスで口に広がった。手作りのケーキが甘い分、引き立つ。チョコレートとコーヒーの組み合わせを考えた人は天才だな、などと凡庸な事を思った。
「ザッハトルテって、オーストリアのホテルの名前だっけ」
「ホテル・ザッハーやな。ドイツ語でお菓子をトルテって言うらしいよ。確かケーキが先で、そのあとそのケーキを作った人の子どもがホテル・ザッハーを開業したんやって」
「ふぅん。詳しいねぇ」
「オーストリアは、シシィ……エリザベートの舞台やからな」
そうだった。『エリザベート』は宝塚でも人気の演目。皇后エリザベートの人生を、宝塚らしく愛と死で華麗に演出している。どうして私が知っているかと言えば、何度も春香が家でDVDを見ているからだ。なお、シシィとはエリザベートの愛称らしい。
手元のザッハトルテはあっという間に胃の中に消えていった。スポンジに含まれるアルコールのバランスが格別で、ほろりと胃が温まる。
店を出ると薄暗くなっていた。間もなく日の入りか。
「夕日見たいなぁ」
後ろ手に店の扉を閉めながらそんなことを口にすると、再び昼間出会った六人組に再会した。
「良くお会いしますね」
六人の中で一番背の低い女性が挨拶をしてくる。そうして、差し出がましいようですが、と続けてきた。
「ここの道を出てハルミ食堂と岩本楼の間の小道を抜けたところ。西浦って言うんですけど、そこの先にあるコンクリートの釣り場が、夕日を見るのにはおすすめですよ」
「あっ、あと手前の坂のところでしらすパンも!」
額、いやおでこと言う方がしっくりとくる。その、おでこをつるりと出した快活そうな女性が更に教えてくれる。
随分と江の島に詳しいようだ。有り難く礼を言い、その通りにすることにした。
「私たちも同類だと気付かれたんやろうか」
「たぶんね」
そうじゃなかったら、夕日がよく見える場所を突然教えて来たりはしないだろう。
小道を抜け参道に戻る。右にいくらか下り、しらすパンを買う。白い紙袋に入れてくれた。それとアサヒスーパードライを二本買った。再び坂をあがり、右手にあるハルミ食堂と岩本楼の間の路地を進む。
「春香、気をつけて」
「ん?」
「鳶が」
「わあっ」
「春香っ」
瞬殺だった。
春香の体を私が引き寄せたのと同じタイミングで、春香の手元からしらすパンの袋が一つ消える。
「怪我はない?」
「平気や……けど、しらすパンの袋いっこ持ってかれたわ」
「それで済んでよかったとしよ」
「うー、悔しい」
「まだ一袋あるからさ」
小道を進むと二段階段があり猫が三匹昼寝をしていた。かわいい。春香と共に目を細める。数歩進む。急に視界が開けた。
空が、広がる。
西浦へと降りていく階段。その階段に立つと、まるで四角く切り取った絵葉書の中にあるかのような海が見えた。
ぽっかりと切り取られた海は、光を反射している。
空の手前には電線が二本黒くラインを引く。階段を降りれば、右手にはサーフボードがいくつもかけられた家が。サーファーの夢のような場所に家をもったんだねぇ、などとごちた。
階段を降り切ると、コンクリートのスロープが僅かにのび、その先が砂浜になっている。広がる海の左手に、先ほどの女性が口にしていたと思しき釣り場が見えた。
「あそこやんな」
砂浜手前には、さっき入り口が見えた旅館『岩本楼』のプール。その奥に宿の建物が見える。その先は岩場が切り立った崖に繋がり、釣り場までの道を作っていた。
「せっかくだし、あそこまで行こう」
海にせり出したコンクリートの釣り場を指す。
トントントン、と波が寄せる岩の合間を通り向かう。あまり知られていないのか、誰もいない。それとも、寒い時期だからなのか。
まるで船の舳先のように飛び出したそこへと足を踏み入れる。
「富士山がよお見える」
海に向かって左手に富士山のシルエットが浮かび上がっていた。そちらを向いて座る。
空を見上げると、左側に木々の間から歩道が見えた。
プシュ、とビールのプルをひく。ガシャリと缶をぶつけ合えば、僅かに中の泡が外に飛び出した。
「ほい」
「ほいほい」
示し合わせたように、同じ言葉を発する。おかしくなって笑った。
「はい、春香。パン」
鳶に奪われてしまったしらすパン。春香の分を手渡す。袋の中には三つあるので、一つは半分こだ。
直径4センチほどのしらすパンを口にする。彼女たちが勢いよく進めてきたのが良く分かった。つまり。
「美味しいねぇ、これ」
そう。春香の言う通り。それが言いたかった。
ポン・デ・ケイジョに近いけど、パン自体は焼いているのではなく揚げてある。中にはチーズと共にしらすが混ぜてあり、チーズとしらすの塩気がパン自体の甘みと相まって、口の中でとろけるようになる。
ぺろり、としらすパン一つをそれぞれが平らげる。
残り半分は、袋の中で割った方が良いだろうという結論に達し、袋を春香が持ち、私が中で割ることにした。
「ちょっといびつだけど」
「ええって。ありがとね」
ぴーひょろ、と鳶の鳴き声が響く。
その声を聞いて、二人で急いで口に押し込んだ。
「お前らのせいですけどぉ」
空を見上げ文句を言う。
「あ、そろそろ日の入りみたいや」
同じように空を見上げた春香が、富士山の方へ指をのばす。
真っ赤な太陽が、空を染める。銀色に輝いていた波間は、その赤い色が映しだされ、まるで黄金の稲穂のように変化していく。
ぴちゃり、と鰯が跳ねる。するとそのすぐ横でも鰯が跳ねる。まるで連動するかのように跳ねる魚達は、もうすぐ日の入りだということを伝えているかと思われた。
「ここからが早いと思うよ」
空は赤から紫へとローブを引き、美しいグラデーションを纏っていく。夕日に染まる富士は見事なシルエットを浮かび上がらせ、その光は海を照らしている。
「海に落ちる夕日やと思ってたけど、違うんやね」
「海の向こうの山に落ちる夕日、ってのもなかなかオツだね」
「ええな、赤い山」
目に映る景色を焼き付ける。こればかりは写真に撮っても意味がないことを私は知っていた。
赤い空。赤い山。赤い海。そして。
「決めた」
大きな夕日を見つめ呟く。
「何を」
私の呟きを拾った春香は、私に尋ねるともなく口にする。
「仕事、辞めるわ」
もう自分の中で答えは出ていたのだ。ただ、その決断をはっきりと下せなかった。
ずっと、やっと得た正社員の仕事を手放して良いのかと。この後また正社員になれる保証なんてどこにもない、と。そう思っていたから。でも、大切なのはそこではないのだ。
「うん」
春香はそれだけを言う。沈みゆく太陽を見ながら。
同じ太陽なのに、夕日は赤い。燃えるように──実際に燃えてはいるのだが──赤い。
「真っ赤っかだね」
「灯」
春香の柔らかい声が響く。
一口。ビールをこくりと飲み込んだ。二人の影が後ろにのびる。
「うん」
夕日を見つめたまま返事をすれば、春香も同じように夕日を見ながらもう一度私の名を呼ぶ。
「灯」
「うん」
静かな海。ざざん、ざざん、と波の音を返す。太陽は富士の彼方へと隠れ、空は夕闇を引いてきていた。
「星が見えてきた」
「今時分は、一等星はあまりないみたいやねぇ」
笑いながら空を見上げる。
「あっ。あおい目玉の子犬」
「残念ながら、今の時間まだシリウスは見えないはずやで」
「うっそ。詳しいねぇ」
「資料で調べたことがあるんや」
あれ、と空を指さす。確かにシリウスほど明るく輝いているわけではない、と気付いた。
「ヒント。小熊のひたいのうえ」
「空のめぐりのめあて、だね」
「北極星は二等星や」
宮沢賢治の『ほしめぐりの歌』だ。抒情的で感傷的──時に現実的すぎるほどではあるが──な宮沢賢治は、実は私も春香も好きな作家。
「理想郷を、賢治はイーハトーブなんて言ったけど」
空を見上げたまま、春香は私の言葉を静かに聞いている。
「理想郷なんて、今の日本のどこにもないんだろうね」
私の言葉に、春香がこちらを見た。彼女の瞳には、星灯りを映した波の光が見えた。
「でも、私は今この時間が心地ええと思っとる」
ざざん、ざざん、と白い軌跡を残し、波が砕けていく。
「それは」
新月が近いせいか、暗闇が深い。幽かに届く秋の星座の光が波間を輝かせていた。
「私も思ってる」
顔を見合わせ、くたりと笑った。
鶏肉を一口大に切って、調味料を揉み込む。ビニールに入れてやると、手が汚れなくて良い。
「二人ははあと一時間くらいで来るかな」
「さっき有里さんからラインが入ったけど、予定より早く着くって」
「それは何より。寒いからねえ。遅くなると余計に冷える」
クリスマスの今日、東京大田区の天気はあいにくの雨。随分と寒い。
部屋はもちろん、しっかりと暖房を入れているので暖かいけれど、仕事終了後の夜。雨の中やってくる二人には辛いだろう。
有里氏ともう一人、ハツセを呼んで、毎年恒例のクリスマス会だ。
揉み込んだ鶏肉を放置し、今度はサラダを作る。春香は部屋の飾り付けの担当。
サラダの野菜をちぎり皿に盛る。ドレッシングは、SNSで流れてきたレシピで作成。味見をしたらなかなか良い味だった。
春香の様子を見れば、折り紙を切って輪を作った飾りを、壁に貼っていた。おゆうぎ会などで大活躍のアレだ。なかなかに懐かしい。私はああいう、細かい作業は苦手なので、春香が得意で助かる。
「なかなかええやないか。なぁ、リリとミヤもそう思うやろ?」
ご機嫌な声が聞こえてきたけれど、二匹の返事は聞こえない。寝ているらしい。
「そうそう、これも必要やね」
サラダを盛り付けた皿をテーブルに持って行くと、ダイソーで購入したLEDのろうそくが飾られていた。炬燵テーブルも、一気に洋風の香りが出てくる。
「結構良い感じじゃん」
「そうやろ」
キッチンに戻り、揉み込んだ鶏肉を片栗粉と小麦粉と胡椒を混ぜたものでまぶして油で揚げる。からりと揚がったそれに、にんまりとしてしまう。
マーマレードに赤ワインやらを混ぜて煮立てコーンスターチを加える。とろりとしたところで、スマホが鳴った。
「誰だろ」
慌てて火を止めて出る。
「はい、明田です。──はい、はい。え! はい! ありがとうございます!」
「灯? もしかして?」
「春香ぁ!」
通話を終えた瞬間。春香の声と私の声が重なった。
*
玄関ベルが鳴る。
「はいはーい」
ご機嫌で扉を開ければ、鼻の頭を赤くした有里氏とハツセが肩を濡らして登場した。「はい」とハツセがケーキの箱を私に渡す。
「ありがとう。頂戴します」
「ようこそ。寒かったやろう。早く中に入るとええ。今ココアをやるから」
二人が手洗いをしている間に、ココアと砂糖を鍋に入れ少しだけ湯を加えてよく練る。牛乳を追加して最後に絞っておいた生姜汁を入れて完成。春香の手早さに感心する。二人の手土産のケーキは、冷蔵庫のあけておいたスペースに。
「はい、これ」
春香から受け取り、私も一緒に飲む。
「ありがとう。今日は寒いねぇ」
「外、やっばいですよ。雪になるかもって、ニュースでやってます」
二人はそれぞれココアを飲むと、長い息を吐いた。
「それは気になるね。ニュースつけよっか」
ちょうど、中継をやっているところだった。八王子の方はもう降っているらしい。
「こっちは割と暖かいから、雨のままかもしれへんけど」
窓の方を見る。外は暗くて様子はよくわからない。ただ、雨が降っているのだけはわかる。
「まぁもしも、帰りの電車あかんくなったら、泊まっていけばええよ」
「そうそう。夜通し見るものは、たくさんあるしね」
そう言って春香に目線を送れば、「今から出しておこうか?」なんて言い出す。
「それはフラグになるから」
「いや、むしろ単純に泊まりたいな」
「有里さんの言う通り! 私も泊まりたいなぁ」
単に宝塚のDVDが見たいだけだな?
「お酒もあるし、泊まってっても良いんじゃないかな。ねぇ春香」
「うん。そうしよ」
あっさり決まってしまった。
「あぁ、このココア生姜入ってます?」
「ほんとだ。どうりで体がポカポカするわけだ。ありがと、春ちゃん」
照れたのか、春香はそそくさとキッチンに向かう。私も二人に猫を渡して、春香の後を追った。
盛り付けたチキンに、ソースをかける。それをテーブルに運ぶ。春香は冷えたシャンパンを冷蔵庫から取り出した。
「有里さん、シャンパンの蓋開けるの得意って言うてたよね」
「シャンパン! 豪勢だね。うん、任せて!」
「クリスマスはシャンパンやろ? 知らんけど」
トトトと良い音を立てて、シャンパンが注がれていく。
全員が炬燵に入る。テレビは消して、動画サイトのクリスマスに関するクラシックをかけた。くるみ割り人形が流れている。
「乾杯の前に、一言ええかな」
皆がグラスを持つ手を手前に引き寄せる。春香の目が、私を急かす。一つ頷き、口を開いた。
「転職先、決まりました!」
くるみ割り人形の『花のワルツ』がちょうど山場を迎える。
二人の目が見開き、一気に手が上に上がった。
「おめでとう!」
「はやく乾杯って言ってくださいよ!」
「灯!」
三人の声に嬉しくなり、思わず立ち上がる。
「では、僭越ながらっ! メリークリスマス!」
カシン、と四つ分のグラスが鳴る音がした。
「オレンジソースだなんておしゃれですね」
「灯氏、これもしかして」
「そ。これ有里氏もやってるソシャゲで、クリスマスイベント走り終えると貰えるレシピなんだよね」
知らなかったらしい春香が、私を二度見した。口元の鶏肉、早く中に入れてあげて。
シャンパンがなくなったので、赤ワインに変える。四人いると一瓶なんてあっという間だ。
肉が減ってきたのでお皿を小さめに変えて、さらに他の料理を持ってくることにする。一気に出すと乗り切らない。
「じゃじゃーん。続いては、アクアパッツァ風の煮込みと、肉じゃが灯スペシャル」
コースではないので、出す順番なんて適当だ。
「今年、灯スペシャルないなあって思ってたのよね。やっぱり灯氏の肉じゃががないと」
私の肉じゃがは、ジャガイモがマッシュポテトなのだ。煮込んだにんじんタマネギを真ん中に積み上げ、その周りをマッシュポテトで覆う。肉は、私は東京出身なので豚肉だ。──同居当初、これも春香と東西の違いでびっくりしたけど、東では肉と言えば豚肉が多い。西では牛。東京ではカレーは豚肉だから、牛肉のカレーをわざわざビーフカレーと呼ぶのだ。西では逆に豚肉のカレーをポークカレーという。まぁ、実家は鶏肉大好きなので、チキンカレーがデフォルトだったけど。
閑話休題。
豚肉をマッシュポテトの外側に貼り付けていく。クリスマスに作るときには、マッシュポテトを三角に重ねていくので、ちょっとツリーっぽくなるように豚肉と豚肉の間に茹でたインゲンを挟んでいるのだ。かわいい。一番上にはベツレヘムの星として八芒星の形に切ったにんじんを乗せている。
「今年はこの星は、灯氏だね。作った人に言うのもアレだけど」
「ですねぇ。転職活動に終止符を打ったんですし」
「そうやな」
実はこのベツレヘムの星のにんじんは、毎年その日のハッピーメンバーが誰かを皆で話し合い、一番ハッピーとなった人が食べられることになっている。
「しかも、実は皆が来る少し前に、電話がかかってきて決まったんだよね」
さっきの電話は、一昨日面接に行った先の人事からの電話だった。
「ささっ、どうぞどうぞ」
有里氏が、手をにんじんの方に向ける。ありがたく、いただくことにした。
「ではっ!」
にんじんを箸で少し引っ張れば、てっぺんに固定していた爪楊枝ごと引き抜ける。
「うん、美味しい」
我ながら、良い味付けだ。拍手が起きた。
「決まって良かったですねぇ」
「ほんと。ずっと悩んでたみたいだから」
二人には、私が会社に行けなくなったことは言っていない。でも、その前から仕事を変えたいとは話してたので、心配してくれていたのだろう。
その気持ちが嬉しい。
「全然決まらなかったんだけどね。月収、年収が下がっても、リモートワークか近所で働けて、労働時間が短くて、休日出勤のない仕事を優先したんだ」
「何それ最高じゃないですか」
「わかるわぁ。収入が下がって、結局大変さが変わらないなら嫌だけど、自分の時間持てるなら、収入が下がっても悪くない選択だと思う」
「時間の余裕は、心の余裕やと思う」
新しい仕事は年明けから。今までより月収は5万下がったけれど、その会社の理念にも共感できたし、なによりリモートワークなのだ。会社自体も川崎なので、電車で言えば隣の駅だ。会社も大きくないし、社員への福利厚生が良い。つまり、社員のことを大切にしているということだ。
前の会社もM&Aされる前までは、そうだったんだけどね。大きな会社に飲み込まれると、社員一人一人はただの部品にしか見えないのだろう。最初からそういう会社と思って入社しているなら別に良いけれど、そうじゃなかった私には、しんどかった。それだけの話だ。
「ん! このアクアパッツァ風の煮込み美味しいです」
「それね。鯖の水煮缶使ってるんだよ」
「何それ! 作り方知りたい!」
有里氏もノリノリだ。
他愛のない会話。今度はどこかに四人で旅行にでも行こうか、なんて話。
ハツセの過去のお見合い話や有里氏の新しい上司の話。春香が今迷っている設定の話に、今私がハマっている作品の話が出たかと思えば、ハツセは推しのアクリルスタンドを見せてくる。
三本目のワインは白。四本目はロゼだ。そうしてワインがなくなると、チューハイが登場した。
「そろそろケーキいく?」
二人が買ってきてくれたのは、ブッシュドノエル。色艶の良いチョコレートがコーティングされている。
「ワオ! 美味しそうやなぁ」
ろうそくを立てて火を付けた。せっかくなので、部屋の電気を消すことに。
「あ、春香。リリとミヤを抱いておいて」
暗闇の中浮かび上がるLEDのろうそくと、ケーキのろうそくの炎に、興奮しかねない。
「ええで」
二匹を抱えたのを見て、部屋の電気を消す。流れる音楽はタイミング良く、ジョン・レノンのクリスマスソングの名曲だ。ろうそくの炎に似合うじゃないか。
「待って。電気消して、ろうそくの炎消すのって、クリスマスじゃなくて」
「そうですねぇ。誕生日だわ」
言われて気付いた。
「でもまぁ、ええんやないかな」
「そうそう。皆で願いを思い浮かべながら、いっせーのせ、で火を消そうよ」
「春ちゃんと灯氏がそう言うなら、まあ良いか」
「家主サマですしねぇ」
雑だな。
急いで席に着く。お互いを見遣りながら、頷き合った。
「では、せーので消すことに」
有里氏の音頭で進む。
「せーの」
部屋が一気に暗くなった。
「メリー・クリスマス!」
春香が声を上げた。私を含め三人がそれに続く。
電気をつけ、ワインを飲み干し笑いあった。
窓の外を見る。春香もそれに倣ったのか、一緒に外を見た。
「雨は夜更け過ぎに、雪に変わりそうやな」
──どこかで聞いたフレーズだ。
目が覚めて部屋を出ると、すでに二人は起きていた。春香はまだ寝ているようだ。
私たちの部屋は、人が泊まるときにはドアを開けたままなので、気持ち良く寝入っているのがよく見えた。
「おはよ」
「おはよう。窓の外見てみ」
「すごいですよ」
「まど?」
振り向けば、世界は真っ白だ。
「寒いはずだねぇ。二人とも、夜平気だった?」
「おかげさまで、ネコチャンが来てくれて」
「有里氏、マジでうちの子に愛されだよねぇ」
「私のところには全然来てくれなかったけど、お布団あたたかかったので!」
にゃぁ、とリリが足に体を寄せてくる。抱き上げて外を見せれば、体をよじった。冷気が嫌だったのか。
「犬は庭駆け回るのかな」
「うちの実家、柴犬飼ってますけど、寒い日は家の中に入りたがります。暑がりのくせに」
「ハツセの実家って」
「山梨です」
それは寒そうだ。
「んはよ」
ミヤを抱きかかえて登場してきたもう一人の家主は、髪の毛が天才的な状態になっている。
指摘してみれば、そのまま洗面所に消えていった。
昨日の残りのキノコの煮たものをチーズと共に食パンにのせて、トーストにする。
コーヒーメーカーに水と粉をいれて、少しの間待つ。
春香が髪の毛を大人しくさせて戻ってきた。
「窓、開けてええ?」
「そうだね。空気入れ替えよう」
二人も頷く。今は雪は降っていないようだ。雪が積もった朝特有の、湿度のあるひんやりとした空気が、部屋の中を駆け巡った。リリとミヤは春香の部屋のベッドに走り去っていった。寒いのだろう。
チーンとトーストが焼けた報告が届いたので、先ずは二枚。それを有里氏とハツセに渡す。珈琲の続きは春香が受け持った。
「すぐに私たちのもできるから、お先にどうぞ」
「美味しいです!」
「残り物とは思えないクオリティ」
二人の賛辞に思わず顔がほころぶ。私たちの分もすぐに焼き上がり、追いかけた。
ゆるりと満たされる腹具合に、幸福度が上がっていく。
「あとで二人を送りがてら、川崎に出て、クリスマス商戦でものぞき見しようかなぁ」
仕事が決まったので、お金も安心して使える。
「だったら、私たちも川崎に行くよ。夕飯は川崎で食べない?」
「それ良い! 今のうちにどこか予約入れられそうなとこ、いれときまっす!」
クリスマス・イヴもクリスマス当日も、このメンバーか。悪くない。
それに、クリスマスは今夜までだ。明日にはもう、街は正月に向けて、一気にその色を変えていく。日本人のそうした習慣が、私は好きだった。
「今年は年末年始も帰る予定はないんやけど、灯は?」
「うちも、両親が年末年始で旅行に行くらしくって、集まるのは翌週の連休になった」
「えーっ! そしたら二日にでも遊びにきて良いですか」
「私も、二日に来ようかな」
どうやら、新年早々から賑やかになりそうだ。
「ふふ」
「何笑っとるん」
「いや、なんか幸せだなって」
胸の中にまるで甘いミルクが溢れていくような、優しい気持ちが満たされていく。時折震えるその表面が、私の心を震わせる。
「今年も来年も、皆で過ごせるのが、当たり前のようで、当たり前じゃないのに、でも当たり前だから」
春香が珈琲のお代わりを淹れてくれた。誰もが、ゆったりと笑う。
窓の外が、まるでミルクを零したような白で、染め上がっていた。
了