小道を抜け参道に戻る。右にいくらか下り、しらすパンを買う。白い紙袋に入れてくれた。それとアサヒスーパードライを二本買った。再び坂をあがり、右手にあるハルミ食堂と岩本楼の間の路地を進む。

「春香、気をつけて」
「ん?」
「鳶が」
「わあっ」
「春香っ」

 瞬殺だった。
 春香の体を私が引き寄せたのと同じタイミングで、春香の手元からしらすパンの袋が一つ消える。

「怪我はない?」
「平気や……けど、しらすパンの袋いっこ持ってかれたわ」
「それで済んでよかったとしよ」
「うー、悔しい」
「まだ一袋あるからさ」

 小道を進むと二段階段があり猫が三匹昼寝をしていた。かわいい。春香と共に目を細める。数歩進む。急に視界が開けた。
 空が、広がる。
 西浦へと降りていく階段。その階段に立つと、まるで四角く切り取った絵葉書の中にあるかのような海が見えた。
 ぽっかりと切り取られた海は、光を反射している。

 空の手前には電線が二本黒くラインを引く。階段を降りれば、右手にはサーフボードがいくつもかけられた家が。サーファーの夢のような場所に家をもったんだねぇ、などとごちた。
 階段を降り切ると、コンクリートのスロープが僅かにのび、その先が砂浜になっている。広がる海の左手に、先ほどの女性が口にしていたと思しき釣り場が見えた。

「あそこやんな」

 砂浜手前には、さっき入り口が見えた旅館『岩本楼』のプール。その奥に宿の建物が見える。その先は岩場が切り立った崖に繋がり、釣り場までの道を作っていた。

「せっかくだし、あそこまで行こう」

 海にせり出したコンクリートの釣り場を指す。
 トントントン、と波が寄せる岩の合間を通り向かう。あまり知られていないのか、誰もいない。それとも、寒い時期だからなのか。
 まるで船の舳先のように飛び出したそこへと足を踏み入れる。

「富士山がよお見える」

 海に向かって左手に富士山のシルエットが浮かび上がっていた。そちらを向いて座る。
 空を見上げると、左側に木々の間から歩道が見えた。
 プシュ、とビールのプルをひく。ガシャリと缶をぶつけ合えば、僅かに中の泡が外に飛び出した。

「ほい」
「ほいほい」

 示し合わせたように、同じ言葉を発する。おかしくなって笑った。

「はい、春香。パン」

 鳶に奪われてしまったしらすパン。春香の分を手渡す。袋の中には三つあるので、一つは半分こだ。
 直径4センチほどのしらすパンを口にする。彼女たちが勢いよく進めてきたのが良く分かった。つまり。

「美味しいねぇ、これ」

 そう。春香の言う通り。それが言いたかった。
 ポン・デ・ケイジョに近いけど、パン自体は焼いているのではなく揚げてある。中にはチーズと共にしらすが混ぜてあり、チーズとしらすの塩気がパン自体の甘みと相まって、口の中でとろけるようになる。
 ぺろり、としらすパン一つをそれぞれが平らげる。
 残り半分は、袋の中で割った方が良いだろうという結論に達し、袋を春香が持ち、私が中で割ることにした。

「ちょっといびつだけど」
「ええって。ありがとね」

 ぴーひょろ、と鳶の鳴き声が響く。
 その声を聞いて、二人で急いで口に押し込んだ。

「お前らのせいですけどぉ」

 空を見上げ文句を言う。

「あ、そろそろ日の入りみたいや」

 同じように空を見上げた春香が、富士山の方へ指をのばす。
 真っ赤な太陽が、空を染める。銀色に輝いていた波間は、その赤い色が映しだされ、まるで黄金の稲穂のように変化していく。
 ぴちゃり、と鰯が跳ねる。するとそのすぐ横でも鰯が跳ねる。まるで連動するかのように跳ねる魚達は、もうすぐ日の入りだということを伝えているかと思われた。

「ここからが早いと思うよ」

 空は赤から紫へとローブを引き、美しいグラデーションを纏っていく。夕日に染まる富士は見事なシルエットを浮かび上がらせ、その光は海を照らしている。

「海に落ちる夕日やと思ってたけど、違うんやね」
「海の向こうの山に落ちる夕日、ってのもなかなかオツだね」
「ええな、赤い山」

 目に映る景色を焼き付ける。こればかりは写真に撮っても意味がないことを私は知っていた。
 赤い空。赤い山。赤い海。そして。

「決めた」

 大きな夕日を見つめ呟く。

「何を」

 私の呟きを拾った春香は、私に尋ねるともなく口にする。

「仕事、辞めるわ」

 もう自分の中で答えは出ていたのだ。ただ、その決断をはっきりと下せなかった。
 ずっと、やっと得た正社員の仕事を手放して良いのかと。この後また正社員になれる保証なんてどこにもない、と。そう思っていたから。でも、大切なのはそこではないのだ。

「うん」

 春香はそれだけを言う。沈みゆく太陽を見ながら。
 同じ太陽なのに、夕日は赤い。燃えるように──実際に燃えてはいるのだが──赤い。

「真っ赤っかだね」
「灯」

 春香の柔らかい声が響く。
 一口。ビールをこくりと飲み込んだ。二人の影が後ろにのびる。

「うん」

 夕日を見つめたまま返事をすれば、春香も同じように夕日を見ながらもう一度私の名を呼ぶ。

「灯」
「うん」

 静かな海。ざざん、ざざん、と波の音を返す。太陽は富士の彼方へと隠れ、空は夕闇を引いてきていた。

「星が見えてきた」
「今時分は、一等星はあまりないみたいやねぇ」

 笑いながら空を見上げる。

「あっ。あおい目玉の子犬」
「残念ながら、今の時間まだシリウスは見えないはずやで」
「うっそ。詳しいねぇ」
「資料で調べたことがあるんや」

 あれ、と空を指さす。確かにシリウスほど明るく輝いているわけではない、と気付いた。

「ヒント。小熊のひたいのうえ」
「空のめぐりのめあて、だね」
「北極星は二等星や」

 宮沢賢治の『ほしめぐりの歌』だ。抒情的で感傷的──時に現実的すぎるほどではあるが──な宮沢賢治は、実は私も春香も好きな作家。

「理想郷を、賢治はイーハトーブなんて言ったけど」

 空を見上げたまま、春香は私の言葉を静かに聞いている。

「理想郷なんて、今の日本のどこにもないんだろうね」

 私の言葉に、春香がこちらを見た。彼女の瞳には、星灯りを映した波の光が見えた。

「でも、私は今この時間が心地ええと思っとる」

 ざざん、ざざん、と白い軌跡を残し、波が砕けていく。

「それは」

 新月が近いせいか、暗闇が深い。幽かに届く秋の星座の光が波間を輝かせていた。

「私も思ってる」

 顔を見合わせ、くたりと笑った。