「――はい、カット!」
その言葉がスタジオ内に響いた途端、張り詰めた空気が一気にほどけた。
「四了野監督、今のシーン、すごく良い出来っスよ!」
助監督の亜熊野がはしゃいで言うと、『殺人鬼』が被っていた麻袋を外した。温和な顔立ちの男性の顔が出てきて、満面の笑みを作る。
「よし、見せてくれ」
『殺人鬼』――四了野が、大きな撮影用カメラの横にあるモニターに向かった。スタッフがすばやく簡易椅子を差し出す。大きな身体で腰掛けると、椅子が大きく軋んだ。
照明や音声のスタッフたちが、豪華客船内の廊下を模したセットの中を、せわしなく走り回る。
――ここは、都内某所の撮影スタジオだ。
そして今は、新進気鋭の映画監督・四了野の新作ホラー映画の撮影をしている。
毛足の長い安物の絨毯の上で倒れていた『得街』が、むくりと起き上がった。
「うはぁ。血糊まじヤバすぎ~」
口の中の血糊を吐き出す『得街』を、下半身が水浸しになった『十三金』がねぎらう。
「木槍さん、さすがの死にっぷりでしたね。やっぱり子役からやってる人は違うなー」
手を揉まんばかりの勢いで、『十三金』ことシニア新人俳優の波浪井が褒めそやす。『得街』役の、若いが芸歴の長い木槍が偉そうに鼻を鳴らした。
俳優たちのやりとりを尻目に、四了野は先ほどのシーン――『善人キャラ・真面目な航海士の得街と、外道キャラ・傲慢な富豪の十三金が殺人鬼によって惨殺される』シーンの確認を始めた。
亜熊野の言うとおり、迫真の演技と絶妙なカメラアングルのおかげで予想以上のものができた。四了野は確かな手応えを感じる。
四了野の新作ホラー映画・『ドーン・オブ・ザ・デッドクルーズ』。
監督である四了野本人が脚本を手がけ、さらに主役よりも重要な役どころである『殺人鬼』を演じる意欲作だ。
婚前旅行中の朱音と鈴久という若いカップルが乗った豪華客船に、不死身の殺人鬼が紛れ込む。乗務員や乗客が次々と殺害される中、朱音と鈴久は生きて帰れるのか――という、ホラーとしてはややありふれた、だが馴染み深いストーリーだ。
だが四了野は、この作品に崇高なテーマを練り込ませていた。
「ベタだけどいいっスよねー。殺人鬼が宝石や金にちっとも心動かさないって展開」
「ああ。この殺人鬼の最高にクールな一面だ」
四了野はうっとりと語った。
この場面は、映画のテーマを象徴するもっとも重要な部分だ。
今の時代、猫も杓子も拝金主義である。金さえあれば大抵のものは手に入る、愛も幸せも思いのままだと大勢がうそぶく。その考えは、現代人に首輪のように固く巻きつき、道具である金に人間の方が飼い慣らされている――四了野はその風潮に、断固たるノーを突きつけたかった。
金は単なる道具だ。そんなものの飼い犬になってはいけない。金がもたらす支配から抜け出そう――と、この作品を通して伝えたかった。
そのために、金持ちの権力者・『十三金』を思いっきり嫌な人間に仕立てた。さらに『十三金』の唯一絶対の武器である金を、『殺人鬼』という圧倒的な存在の前では紙切れ以下だと断言するシーンを撮った。
もう一度見返す。編集は必要だが、間違いなく――
(……名場面だ!)
四了野が満足そうに頷く。
その時だった。スタジオの重厚な扉が開いた。
「失礼、――四了野くんはいるかな」
口ひげを生やした初老の男性がひょっこり顔を出した。
「そ、尊美社長!」
四良野が慌てて椅子から立ち上がった。スタジオ内に、撮影中とは異なる緊張が走る。
初老男性は杖をつきながらスタジオ内に入った。四了野が急いで彼のもとに駆け寄る。
「誰?」
「尊美米菓の社長さんです」
四了野の背後で、木槍と波浪井が小声で話した。
「ああ、日本一の煎餅会社の……何でココに?」
「尊美米菓は、『ドーン・オブ・ザ・デッドクルーズ』のスポンサーなんですよ」
コソコソ話してないで挨拶しろよ、と四了野が木槍と波浪井の非礼に苛立っていると、尊美社長が小首を傾げて、
「撮影は順調かい?」
「はっ、おかげさまで!」
四了野の背筋がシャキーンと伸びる。そして慌てて衣装のジャケットを脱いだ。血糊にまみれた服を、尊美社長が不快に思ったら大変だからだ。
「脚本の最終稿を読んだよ。ホラーの原点回帰といった内容で、私も実に楽しみだ」
作中の『十三金』とは違い、折り目正しい紳士然とした尊美社長がにこやかに言う。四了野の頬に赤みが差した。
「これも尊美社長が出資してくださったおかげです。予算の都合で、舞台を豪華客船から漁船に変えざるを得なかったところを助けていただいて」
「なに、私も一人のホラーファンとして、助けになりたかっただけだよ」
尊美社長の言葉に、四了野の顔が明るくなる。物語の中ではあんな描写にしたが、実際の金持ちとはとても心豊かなものだ。
素晴らしいスポンサーに恵まれたことをホラーの神に感謝していると、ふいに尊美社長が杖で地面を叩いた。
「ただ、私からひとつ提案がある」
四了野の肩が跳ねた。経験上、スポンサーからの提案といえば、大体が『変更』だ。
何だろうか。どこかマズかったのだろうか。血しぶきが多くてグロすぎる? それとも冒頭の、最初の犠牲者であるカップルのラブシーンが不適切だった?
逸る鼓動を抑えながら、四了野は尊美社長の二の句を待った。
すると尊美社長は、背後に控えさせていた女性秘書に目配せをして、
「今度、我が社で新製品を出すんだ」
秘書が一歩踏み出し、持っていた紙袋から何やら箱を取り出す。
尊美米菓は煎餅やおかきなどを作る会社だ。その新製品ということは、当然米菓子だろう。
「会社としては、ぜひともその新製品を映画とタイアップしたくてね。ーー確か、この映画の結末は、主人公の男性が殺人鬼を羽交い締めにして、恋人の女性に撃つよう命ずる――だったね」
はい、と四了野は首肯する。
殺人鬼を倒す唯一の方法が、殺人鬼の胸にある『核』を破壊することだと知った主人公・朱音は、「俺がこいつを抑えているから、その銃で撃て」と恋人・鈴久に命じる。
撃てば朱音も殺人鬼もろとも死んでしまう。朱音と将来を誓い合った鈴久はひどく葛藤し――滂沱の涙を流しながら引き金を引くのだ。
「核を破壊された殺人鬼は死ぬが、主人公は胸に入れていた十字架のネックレスのおかげで一命を取り留める――というラストだね?」
再び四了野が頷く。『朱音が常に身につけているネックレスは父親の形見』という設定が活きる結末にしたのだ。
「そこをほんの少しだけ、変えてほしいんだ。いやもちろん、単なる『提案』だよ?」
尊美社長の微笑がより深くなる。
四了野の全身に、じんわりと汗が浮かんだ。
「最終的な決定権は、監督である四了野くんにある。その上で、こういう展開の結末はどうだろう?」
尊美社長が言うや否や、秘書が箱を開ける。
中には、薄いキツネ色の煎餅がぎっしり詰まっていた。
その言葉がスタジオ内に響いた途端、張り詰めた空気が一気にほどけた。
「四了野監督、今のシーン、すごく良い出来っスよ!」
助監督の亜熊野がはしゃいで言うと、『殺人鬼』が被っていた麻袋を外した。温和な顔立ちの男性の顔が出てきて、満面の笑みを作る。
「よし、見せてくれ」
『殺人鬼』――四了野が、大きな撮影用カメラの横にあるモニターに向かった。スタッフがすばやく簡易椅子を差し出す。大きな身体で腰掛けると、椅子が大きく軋んだ。
照明や音声のスタッフたちが、豪華客船内の廊下を模したセットの中を、せわしなく走り回る。
――ここは、都内某所の撮影スタジオだ。
そして今は、新進気鋭の映画監督・四了野の新作ホラー映画の撮影をしている。
毛足の長い安物の絨毯の上で倒れていた『得街』が、むくりと起き上がった。
「うはぁ。血糊まじヤバすぎ~」
口の中の血糊を吐き出す『得街』を、下半身が水浸しになった『十三金』がねぎらう。
「木槍さん、さすがの死にっぷりでしたね。やっぱり子役からやってる人は違うなー」
手を揉まんばかりの勢いで、『十三金』ことシニア新人俳優の波浪井が褒めそやす。『得街』役の、若いが芸歴の長い木槍が偉そうに鼻を鳴らした。
俳優たちのやりとりを尻目に、四了野は先ほどのシーン――『善人キャラ・真面目な航海士の得街と、外道キャラ・傲慢な富豪の十三金が殺人鬼によって惨殺される』シーンの確認を始めた。
亜熊野の言うとおり、迫真の演技と絶妙なカメラアングルのおかげで予想以上のものができた。四了野は確かな手応えを感じる。
四了野の新作ホラー映画・『ドーン・オブ・ザ・デッドクルーズ』。
監督である四了野本人が脚本を手がけ、さらに主役よりも重要な役どころである『殺人鬼』を演じる意欲作だ。
婚前旅行中の朱音と鈴久という若いカップルが乗った豪華客船に、不死身の殺人鬼が紛れ込む。乗務員や乗客が次々と殺害される中、朱音と鈴久は生きて帰れるのか――という、ホラーとしてはややありふれた、だが馴染み深いストーリーだ。
だが四了野は、この作品に崇高なテーマを練り込ませていた。
「ベタだけどいいっスよねー。殺人鬼が宝石や金にちっとも心動かさないって展開」
「ああ。この殺人鬼の最高にクールな一面だ」
四了野はうっとりと語った。
この場面は、映画のテーマを象徴するもっとも重要な部分だ。
今の時代、猫も杓子も拝金主義である。金さえあれば大抵のものは手に入る、愛も幸せも思いのままだと大勢がうそぶく。その考えは、現代人に首輪のように固く巻きつき、道具である金に人間の方が飼い慣らされている――四了野はその風潮に、断固たるノーを突きつけたかった。
金は単なる道具だ。そんなものの飼い犬になってはいけない。金がもたらす支配から抜け出そう――と、この作品を通して伝えたかった。
そのために、金持ちの権力者・『十三金』を思いっきり嫌な人間に仕立てた。さらに『十三金』の唯一絶対の武器である金を、『殺人鬼』という圧倒的な存在の前では紙切れ以下だと断言するシーンを撮った。
もう一度見返す。編集は必要だが、間違いなく――
(……名場面だ!)
四了野が満足そうに頷く。
その時だった。スタジオの重厚な扉が開いた。
「失礼、――四了野くんはいるかな」
口ひげを生やした初老の男性がひょっこり顔を出した。
「そ、尊美社長!」
四良野が慌てて椅子から立ち上がった。スタジオ内に、撮影中とは異なる緊張が走る。
初老男性は杖をつきながらスタジオ内に入った。四了野が急いで彼のもとに駆け寄る。
「誰?」
「尊美米菓の社長さんです」
四了野の背後で、木槍と波浪井が小声で話した。
「ああ、日本一の煎餅会社の……何でココに?」
「尊美米菓は、『ドーン・オブ・ザ・デッドクルーズ』のスポンサーなんですよ」
コソコソ話してないで挨拶しろよ、と四了野が木槍と波浪井の非礼に苛立っていると、尊美社長が小首を傾げて、
「撮影は順調かい?」
「はっ、おかげさまで!」
四了野の背筋がシャキーンと伸びる。そして慌てて衣装のジャケットを脱いだ。血糊にまみれた服を、尊美社長が不快に思ったら大変だからだ。
「脚本の最終稿を読んだよ。ホラーの原点回帰といった内容で、私も実に楽しみだ」
作中の『十三金』とは違い、折り目正しい紳士然とした尊美社長がにこやかに言う。四了野の頬に赤みが差した。
「これも尊美社長が出資してくださったおかげです。予算の都合で、舞台を豪華客船から漁船に変えざるを得なかったところを助けていただいて」
「なに、私も一人のホラーファンとして、助けになりたかっただけだよ」
尊美社長の言葉に、四了野の顔が明るくなる。物語の中ではあんな描写にしたが、実際の金持ちとはとても心豊かなものだ。
素晴らしいスポンサーに恵まれたことをホラーの神に感謝していると、ふいに尊美社長が杖で地面を叩いた。
「ただ、私からひとつ提案がある」
四了野の肩が跳ねた。経験上、スポンサーからの提案といえば、大体が『変更』だ。
何だろうか。どこかマズかったのだろうか。血しぶきが多くてグロすぎる? それとも冒頭の、最初の犠牲者であるカップルのラブシーンが不適切だった?
逸る鼓動を抑えながら、四了野は尊美社長の二の句を待った。
すると尊美社長は、背後に控えさせていた女性秘書に目配せをして、
「今度、我が社で新製品を出すんだ」
秘書が一歩踏み出し、持っていた紙袋から何やら箱を取り出す。
尊美米菓は煎餅やおかきなどを作る会社だ。その新製品ということは、当然米菓子だろう。
「会社としては、ぜひともその新製品を映画とタイアップしたくてね。ーー確か、この映画の結末は、主人公の男性が殺人鬼を羽交い締めにして、恋人の女性に撃つよう命ずる――だったね」
はい、と四了野は首肯する。
殺人鬼を倒す唯一の方法が、殺人鬼の胸にある『核』を破壊することだと知った主人公・朱音は、「俺がこいつを抑えているから、その銃で撃て」と恋人・鈴久に命じる。
撃てば朱音も殺人鬼もろとも死んでしまう。朱音と将来を誓い合った鈴久はひどく葛藤し――滂沱の涙を流しながら引き金を引くのだ。
「核を破壊された殺人鬼は死ぬが、主人公は胸に入れていた十字架のネックレスのおかげで一命を取り留める――というラストだね?」
再び四了野が頷く。『朱音が常に身につけているネックレスは父親の形見』という設定が活きる結末にしたのだ。
「そこをほんの少しだけ、変えてほしいんだ。いやもちろん、単なる『提案』だよ?」
尊美社長の微笑がより深くなる。
四了野の全身に、じんわりと汗が浮かんだ。
「最終的な決定権は、監督である四了野くんにある。その上で、こういう展開の結末はどうだろう?」
尊美社長が言うや否や、秘書が箱を開ける。
中には、薄いキツネ色の煎餅がぎっしり詰まっていた。