また床が揺れた。

 深夜の荒海を映す丸窓が並ぶ、落ち着いた装飾の狭い廊下。
 でっぷりと太った禿頭の男・十三金(とみがね)が、毛足の長い絨毯の上でバランスを崩す。十三金は傍らにいる青年の、金の肩章がついた肩をつかみ、なんとか転ぶのをこらえた。

「おい、君! どうなってるんだ!」
 十三金が怒鳴った。
「この船は、嵐でも揺れないんじゃなかったのか!」

 十三金はダイヤの指輪を填めた芋虫のような太い指を、精悍な顔つきの青年ーー航海士である得街(えるまち)の肩にめり込ませる。
 そんなこと言われても――と得街は反論したかった。
 そもそもこの豪華客船・『アンダーザシー号』は、「揺れない」のではない。最新式の機械を使用し、揺れを感じにくい設計なだけだ。だが、船底のエンジン室と操舵室に甚大なダメージを受けた今、荒れ狂う海上に浮かんでいるだけで奇跡と言えた。

 しかし真面目な得街には、口答えなどできなかった。

「申し訳……ございません」
「フン! 高い料金を払わせたくせに役立たずな! この十三金富左衛門(とみざえもん)を危険な目に遭わせおって……陸に戻ったら貴様の会社を訴えてやる!」

 誰もが知っている有名な財閥グループの会長である十三金は、横柄に言い放った。驕慢な富豪らしい物言いに、得街の腹がカッと熱くなる。

 元はといえば――この沈みかけた船の中を逃げ回るなんていう状況は、十三金が招いたものなのに。

 救助ボートに乗る寸前、十三金は客室に財布を忘れたから取りに行きたいと無理やり得街を引っ張った。そのせいでボートに乗りそびれ、得街は危険極まりない船内に取り残されてしまった。
 残存者――否、生存者は、若いカップルや老夫婦、学生グループなど他にもいたが、様々なアクシデントでバラバラになった。以降、得街はずっとこの老害のお守りをさせられている。

「とにかく貴様、儂を守れ! 無事に帰れたらこのダイヤの指輪をやるぞ。船乗りごときには一生手の届かない代物だ」

 富豪の言葉に、得街が吐き気を覚えた時だった。
 突然、客室のドアが開いた。と同時に、大きな人影が飛び出してきた。
 生存者? 得街がそう考えた瞬間、ぎらりと銀色に光る斧が得街の脳天をかち割った。金の帽章がついた船員帽が真っ二つになり、真っ赤な飛沫が舞う。

「……あっ……」

 強烈な衝撃に得街がまぬけな声を出す。その後ろで、十三金が尻餅をついた。
 あえなく真横に倒れた得街は、大きく見開いた目に『そいつ』の姿を映した。
 くすんだカーキ色のジャケットに破れたズボン、ぼろぼろのスニーカー。豪華客船におよそ似合わない格好の巨漢が、死にゆく得街を見下ろしている。表情は窺えなかった。巨漢は麻のズタ袋を被っていた。

(こいつ……だ……)

 三時間前に報告を受けた。船底の冷凍貨物庫から氷漬けの大男が発見されたと。
 二時間前に報告を受けた。旅客室でパーティーに興じていた乗客や乗務員が大量に殺されたと。
 そうして緊急避難が始まった一時間後、運悪く船に取り残された十数人の人間が、次々と無残な死体で発見されて――今この時、得街は直感で判断した。

 こいつが殺したのだ。
 こいつが、殺人鬼だ。

「……たひゅっ、け……」
 虫の息の得街がそう訴えるが、殺人鬼に通じるはずがない。彼はその大きな足で、得街の頭を踏み潰した。みかんが潰れたような音がした。

「……」

 殺人鬼が無言でゆっくりと、今度は十三金に顔を向ける。十三金は恐怖のあまり仰け反り、小便をもらした。

「やめ、やめろ貴様! ほ、ほら、このダイヤの指輪をやるぞ。時計もだ」

 指輪や時計を外し、殺人鬼に投げつける。それらは殺人鬼の筋骨隆々の胸にむなしく弾かれた。

「そうか、金の方がいいのか! ……ほっ、ほら、小切手だ。これがあれば一生遊んで暮らせるぞ。だ、だから」

 十三金の言葉に殺人鬼は少しも反応しなかった。当然だ。殺人鬼はそんな『低次元』な世界で生きていない。

 得街に刺さった斧を引っこ抜き、殺人鬼は十三金を見下ろす。
 小切手を差し出す十三金の手がガタガタ震える。

 殺人鬼は狙いを定めた。十三金の脂肪がつまった太鼓腹めがけて無慈悲に斧を振り下ろした――