彩里は就職してから、ずっと全力疾走を続けていた。
 レストランのホールではヘッドウェイター(シェフ・ド・ラン)として、客の目的や個性に合わせた適切なサーヴィスを提供し、バックヤードではアルバイトたちに業務を教えながら、自分の経験や勉強のフィードバックを行い、みんなの手本となれるよう努めた。
 職場の人間関係のトラブルも、率先して仲裁した。
 通勤時と退勤時にはフランス語と英語のラジオ講座を聴き、休憩時間と帰宅してからの時間はそれ以外の学習にあてた。
 食の文化は奥深く、どれだけ本やインターネットの記事を読んでも、知らなかったことがいくらでも出てくる。
 物語の世界に遊びに行くことやお絵描きの時間はほとんど取れなくなったが、月に一度、めぐみと通話をする時間は、睡眠時間を削ってでもひねり出した。
 常に気が張っていたが、ふしぎと疲労感は感じず、体力も気力も充実していた。
 ランナーズ・ハイのような状態だったのかもしれない。
 それに、彩里がメートル・ド・セルヴィス杯の準決勝へ進出してからというもの、同僚たちの顔つきも変わってきた。
 どれだけ谷が日頃から「本気でやれ、やれば変われる」とげきを飛ばしても、それほど自信もモチベーションもない従業員たちには響かなかった。
 だがサーヴィスの専門学校を出てもいない地元採用の彩里が、東京の有名店のサーヴィスマンと肩を並べ、トップ十六人にまで残ったとして地方紙の取材を受けると、目の色が変わった。
 無名の自分たちが高みを目指すことは、けしておかしなことではないのだと信じることができるようになったのだろう。
 技術練習にもサーヴィスにも身が入るようになった。
 地方紙掲載のおかげで、近隣県からも、わざわざ食べに来てくれるひとが出始めた。レストランの「映えスポット」をSNSに投稿するひとが出だすと、これまで少なかった若者層も来てくれるようになった。
 谷は、彩里をチーフに昇進させて、ホールを任せ、自分は本社会議に出るようになった。
 客数の少ない時間、谷はよく彩里をレストランの駐車場に連れ出し、彩里の抱える課題に助言をくれたり、失敗談や難局を乗り越えた時の話などを、経験の種にと教えてくれたりした。
「お前がいてくれたら、ミシュラン地方版掲載も夢じゃない」
 そう言って、厳しい谷が、若輩者の自分を「右腕」と頼ってくれることは、彩里も嬉しかった。
 そんな中だった。
 ある日突然、勤め先のフレンチレストランは閉店が決まった。
 二度目のメートル・ド・セルヴィス杯出場から半年後のことだった。
 社長の長い話が終わった後、動揺する社員を落ち着かせた谷は、いつものように彩里を駐車場に連れ出した。
「……社長の体が、もうあまりよくないらしい。閉店は、経営にしゃしゃり出た息子……次期社長の意向だ。さっきも、社長の隣に、金魚のフンみたいにして、横にいただろ。何度も説得したが、聞く耳を持たない。利益率の低い店を潰して、観光地のインバウンド向けの飲食店を強化するんだと」
「そんなにこの店、利益、出てないんですか? 体感では、お客様、増えてきています。『本物』を喜んでくださるお客様が」
「……物価高で、輸入食品の原価もあがり続けてる。だが質を落とすわけにはいかない……」
「本物を出すお店のまま、外国人のお客様も呼び込むわけにはいかないんですか?」
 谷は長い溜息をついた。
「無駄だ。社長の息子に『本物』の価値はわからない。うちの店を、若い女にチーフがつとまるチャラチャラした店、と言っていた。コンクールだ、フランス語だ、そんなことをする暇があるなら、チラシ配りでもして今すぐ満席にしろと。……自分が価値を感じないものは、ゴミ、と思ってるやつらが、ごまんといるのさ。クソだろう?」
「そんな……」
 谷はもちろん閉店の話を事前に聞いていたのだろうし、きっと社長に思い直すよう何度も掛け合ってくれた筈だ。
 しかしこの事態を覆すことはできなかった。
 おそらくはその反動で、投げやりな横顔を彩里に見せていた。
 彩里は、彼の分まで冷静でいるよう努めた。
 本当に閉店するなら、不安がる同僚たちをまとめ、最終日の最後の客までもてなしきって送り出さなければならない。
 もちろん、閉店しなくて済むなら、どんな妥協も受け入れるつもりだった。
「チーフとしての能力を、次期社長にご納得いただけないなら、わたしは、一スタッフとしての扱いに戻して頂いていいんですが……それで店を閉めなくて済むのなら」
「能力や資質の不足じゃない。お前はもっと広い世界で既に評価されている」
「…………」
「次期社長様の感情論だ。若い女ってだけで、『下』扱いしてやろうって思うやつがいるのさ。俺は男だが、東京の老舗ホテルではさんざんやられた。『地方出身』とか『高卒』とか」
「……結果を出して、見返しましょう。お店は連日満員の人気店にして、コンクールは一位を取って。あと少しじゃないですか!」
「……意味がない」
 彩里はこの店が好きだった。
 近隣の同業者が羨み、初めて訪れた客が興奮して帰っていく店。プロポーズや結婚式に使いたいと言われる、美しい小品のような店。
 この店の価値を高い位置に押し上げるためなら、苦労はいとわなかった。
 鍛錬やミーティングを重ねて、ようやくマーチングバンドのように一糸乱れぬ動きでサーヴィスできるようになったホールの従業員チームにも愛着があった。
 すばらしい完成形が見えているのに、ここで終わりだとは思いたくない。
「誰にも価値が伝わらない。田舎の限界だ」
「そんなことありません!」
 あんなに喜んでいた客たちの顔を、もう谷は忘れてしまったのだろうか。
 確かに、年配客の大半はジビエやチーズの盛り合わせには興味を示さず、フランスパンを嫌がり、米や箸を欲しがった。
 ホロホロ鳥の丸焼きをゲリドン・サーヴィスで切り分けたり、英語やフランス語で客に応対したりといった日頃の訓練の成果を示す機会は一度も訪れなかった。
 だけど、地方で生まれ育った彩里としては、谷が叶えようとした夢を、絵に描いた餅だと嘲ることはしたくない。
 叶えたい、と努力している間、彩里は確かに餅の味を舌に感じることができたし、可能ならばそのすばらしさを皆にもわかってもらえたら、と思った。
 しかし、漫画の好みと同じく、彩里の趣味はマイナーで、それを大勢に布教するところまでは叶わなかった――のだろう。
「都会もクソ。田舎もクソ。理想なんて、持つだけ全部、無駄だ。本物なんて、誰も必要としてなかった。ここの人間は、誰も」
 レストランの窓から洩れる暖色のひかりを見遣りつつ、谷はひとりごちた。
 彩里は唇を噛んで涙をこらえながら、電灯に群がる甲虫たちが立てる、カツコツという硬質な体当たり音に耳を傾けていた。だから、
「……し……ゃ……」
 谷が、口の中だけで転がすように発した短い言葉を、うまく聞き取ることができなかった。
 彩里が目標としていた谷のことだ。
 おそらく、「よっしゃ」と気合入れをして、新天地に気持ちを切り替えた――とか、そういったことなのだろう。
「最後までしっかりやろう」と彩里を激励したのかもしれないし、「幸せになれ」と願をかけてくれたのかもしれない。
 尺に対して言葉が長すぎる、だとか、そういうことは、問題ではない、きっと。
 大切なのは言葉の中にこめられた気持ちの筈で、それは当人すら見えないようになっている。だから。
(……沈めや、とか、死ねや、とか。そんなこと、わたしの上司は、言わない)
 同担の解釈違いは、彩里の地雷だ。