風船の中にはひみつがいっぱい


 小さな頃から、彩里はまんがが好きなこどもだった。まんがが好きな子は周囲にもたくさんいたが、彩里ほど同じまんがを何度でも、寝食削って、息を詰めて熱心に読み込む子はそういなかった。
 同級生の中で流行った遊びにも、妹が欲しがるおもちゃのメイクセットやかわいい洋服にも、彩里はあまり興味を持てなかった。
 同類は、同類同士で仲良くなるもの。学校での「二人組を作ってください」にも、彩里はあぶれがちだったし、家の中でも、母親と妹の会話についていけなかった。
 妹だけが遊園地に連れて行ってもらったり、色々なものを買ってもらったりして、姉妹の扱いには、明らかな差があったと思う。両親が親戚に「お姉ちゃんは何を考えているのかわからない。妹ちゃんはかわいいのだけど……」と話しているところも、見たことがある。
 愛されにくい自分を自覚していたから、そのうち少女漫画には共感できなくなって、少年まんがやライトノベルを偏愛するようになった。
 彩里は青春時代をかけて本気で本に溺れ、感情を揺さぶられ、キャラクターの人生を一緒に生きた。


 中学三年生の時、彩里はもうひとつ、大切な世界に出会った。インターネットだ。
 自営業をしていた父親の中古のパソコンを譲り受けてから、彩里はハンドルネームというアヴァターを使って、自分自身を異世界に送り込むことができるようになった。
 当時ハマっていた作品のファンサイトに通い、常連と感想や楽屋裏妄想を語り合ううちに、いつの間にかBL(ボーイズラブ)に対しても萌えのとびらを開いていた。
 もともと彩里が好むキャラクターは、少年や青年が多かった。彼らは自由だった。どれだけ失敗し、どれだけ汚れても、男の子は立ち直ることができる。他人の評価など関係ないと、蹴り飛ばす強さを持っている。
 しかし、彩里が思い入れを持つ彼らは、みんな孤独で、不遇だった。そんな子が他キャラクターの幸福の陰で、踏みにじられて終わりというところを見てしまうと、原作を脳内で書き換えてでも、救ってあげたいと思ってしまうのだった。
 絵を描くことは得意だったので、見よう見まねでファンアートを描き始めた。自分の望みを目に見えるかたちに落とすことを覚えた彩里は、次第にその楽しみに耽っていった。

 とあるライトノベルのファンサイトで、彩里はめぐみと出会った。大勢の常連の中で、最初は目立たなかったが、彩里が投稿したイラストにつけてくれる読み込みの深いコメントや、めぐみのファンアートの根底に流れる優しい世界観、誰に対しても礼儀正しくフェアな言動に、じわじわと好意を覚えていった。
 当時、彩里が十七歳、めぐみが二十二歳。交流はつかず離れず、長く続いた。
 初めて直接顔を合わせたのは、ファンサイトの管理人が企画してくれたオフ会だった。地元の大学に進学した彩里も、同人誌即売会(コミケ)への一般参加を兼ねて上京したのだ。
 汐留のアイリッシュパブで盛り上がり、二次会のカラオケを楽しんだ後、都会の交通に不慣れな彩里を、都内在住のめぐみが駅まで送っていくよと申し出てくれた。
 自力で駅に辿りつけるか不安だった彩里は、ありがたくその言葉に甘えることにした。
 社会人のめぐみは、化粧も着ている服も酒の席での振る舞いも雑踏の歩き方も洗練されていて、頼れる存在に見えた。
 憧れを向ける対象だったのだが、カラオケ店から駅までの徒歩十分ほどの間に、皆がいる間はできなかったカップリング妄想の話で予想以上に意気投合し、途中で止められないほど盛りあがってしまった。
「もう少し先まで送ろうか」
「じゃあ次の乗り換えまで」
を繰り返し、彩里が予約したビジネスホテルに到着した後も、エントランスの前で立ち話を続けた。
 一時間ほど経った頃、めぐみが遠慮がちに腕時計に視線を落として、
「そろそろ帰る?」
と尋ねた。
 経験したことのないほどの名残惜しさに耐えるために、彩里は俯いた。
 なんとか気持ちを整え、頷こうとした瞬間、
「私は帰りたくないけど」
と呟く声が耳に入り、彩里は思わず力強く頷いてしまった。
 それで、結局、ホテルに荷物だけ置いて、近くのファミリーレストランで、朝まで語り合ってしまったのである。
 彩里はホテルのベッドの感触を知らないままチェックアウトする羽目になったし、後になって教えてもらったことだが、めぐみは翌日、出勤日だったという。
 あの時はばかなことしたねぇ、と、今は笑い話になっているが、当時はふたりして、朝が来なければいいのに、と手を握り合って別れを惜しんだ。
 そもそも大きな声では言えない趣味――最近ではそういう風潮も減ってきたのかもしれないが、二次創作という行為へ、後ろめたさがないと言えば嘘になる。
 作者がきちんと味付けした料理を出してきているのに、自分好みの調味料をかけないことには落ち着かない、という性分は、歪んでいるし、作者を目の前にして堂々とできる気はしない。
 公式に送り付けるなんて論外だ。
 だけどやっぱり、食べたいものを食べないことには明日生きる活力すら湧かないのも事実。お目こぼししてもらい、日陰で生きていくしかないのだって、ずっとそう思ってきたから、その罪悪感ごと理解してくれる相手に初めて出会えて、安心したのかもしれなかった。
「わかるよ、だって、私もそうだから。どうしようもないんだよね」
 そうめぐみに言われた瞬間、胸の底に沈めていた、過敏で臆病な彩里の心が、温泉に浸かったように弛緩していくのがわかった。

 めぐみと連絡先を交換した彩里は、地元に帰ってからオンライン通話ソフトをダウンロードし、ヘッドセットを購入して、ことあるごとに文字チャットや通話を楽しんだ。
 当初は知り合うきっかけになったライトノベルのファントークが主だったが、ちょっとした相談事や身近に起こった出来事、最近読んだ本や観た映画など、雑多な話題を互いに持ち込むようになった。
 めぐみとの会話のテンポは他の誰とも再現できず、どんな話題でも退屈したり不快になったりするようなことがなく、ひたすら楽しかったので、次第に、めぐみと話したいという気持ちが、萌え語りの欲よりも先行するようになった。
「めぐみさん、この間勧めていただいたまんが、読みました。すごく面白かったです」
「そっか、よかった! 彩里ちゃんは、もしかしたら苦手かも、と思ったんだけど」
「……半分、当たり、です。確かに、好きそうって言われたキャラ、すごくツボったんですけど、好きなんですけど、……ええっと」
「殴りたい?」
「ああいう意味深な言動をされると、つい空白を埋めようと伏線を探してしまうサガで」
「よし、見つかったらそれをまんがに描こう!」
「あ、そういう作戦ですか……?」
「描きたくなったらでいいんだけどね。それにしても、その、サガ、なんなんだろうね。好きになったキャラの行動原理は、納得できるまで突き詰めてしまいがちというか……。自分で自分のこと、ヤバいなって思ったのは、無理めの理論を持ち出してでも、好きなキャラの、本当にだめなところを庇ってしまうとこ」
「わかります……! ダメンズだと自分でもわかっているのに、ひとに言われるのは嫌なんですよね……。つまり、それはいわゆる、恋なんじゃないですか?」
「恋! 二次元以外でしたことない!」
「それは、わたしもですけど」
「現実にいたら、避けちゃうタイプだと思う。でも……好き」
 人格に根ざすレベルの好き嫌いと性的嗜好、そして幼児性。
 常識的な大人なら、他人に見せないように努力しているものを、まず開示していかなければ仲良くもなれない。
 二次創作仲間というのは、人間関係の中でも、かなり特殊な部類に位置するのではないかと思う。
 仮面を外し、一番濃密で目をそらしたくなるような自分を見せていかなければ、同じくらいの覚悟でぶつかってくる相手をがっかりさせてしまう。
 そういう緊張感の中で行われるおしゃべりが、うまくいった時の多幸感と興奮は、こう言ってはなんだが肉体同士の接触に匹敵するほどの快楽かもしれない。
 知性と感性、倫理観と審美眼。
 歪みがあって正しくもない人生観のすべてを晒して、敬意持つひとの瞳に映り込む。
 言葉をどれだけ積み重ねたところで、伝えたいのはひとつだけ、わたしはあなたにとって話をする価値のある人間です、そうでありたい(だから止めないで、このまま続けて)。
 そんな捨て身の接近が、もしも両想いだと思えてしまったなら、それはしびれるどころではないカタルシス。
 もちろん一般的には、インターネットで知り合ったひとと厚い友情で結ばれたからといってなにがどうなるものでもない。
 むしろ素性がわからない相手など危ないのではないか、という見方が大半だろうけれど、彩里にとっては、家族や学校での人間関係にうまく溶け込めなかったこと、そのさびしさから逃げるように読書やお絵描きにのめり込んだこと、すべてが意味のあることだったのだと、大人になってようやく肯定的に考えられるようになったのだ。
(めぐみさん……。いつも優しくて、話も楽しいし、いろんなことを知ってるし、ふつうに尊敬できて、好きだな。こんな姉がいたら、ううん、クラスメイトにめぐみさんみたいなひとがいたら、どんなに良かったか……)
 キャラクターに抱く愛情とは違う。
 燦然と輝く星に、身を灼くような憧れを抱くのではなく、同じ地平で、同じ気持ちで、同じ星を見上げるひとがいる。
 その存在こそが、唯一彩里の孤独を慰めうるものだ。
(どれだけしゃべったって、もう充分、とは思えない。……ずっと一緒にいられたらいいのに。時間なんて気にせず、ファミリーレストランで朝まで過ごした日みたいに、顔を見て、ずーっと話していられたら)

 大学在学中、彩里はめぐみにまんがの描き方を教わり、新しくふたりでハマったジャンルの同人誌を描いて、即売会に参加するため、三度ほど上京した。
 また、彩里の地元の地方都市に観光しに来ためぐみを、案内したこともあった。
 どの時も、最初に会った時に劣らない充実した時間を過ごしたが、しかしそれは一瞬の夢。楽しい時間は、いつもあっという間に終わってしまう。

 就職活動を始める時、めぐみのいる東京に行くことはわずかに脳裏をよぎったけれど、滞在費や交通費を考えると現実的ではなかった。
 それに、彩里も心のどこかで、友達の家の近くに住みたいという気持ちが、一過性の感情に過ぎないのではないか、という気持ちが否定できずにいる。
 彩里は少しでも早く、実家から独立したかった。
 自分が、変わっている、という自覚はある。
 ずっと「ふつう」の枠からはみ出さないように、人の顔色をうかがって窮屈な思いをし続けるより、早くひとりで生きられるようになりたい。
 それには、土地勘があり、家賃や物価が安い地元での就職が、一番都合が良さそうだった。
 彩里は、出た内定の中から、地元ではわりと名の通った外食産業の会社を選んで就職した。

 配属先は、高台に建つ、富裕層向けのフレンチレストラン店だった。東京からUターンで地元に戻って来たばかりのマネージャーの谷は、頭のキレる人で、社内でも「改革派」と呼ばれていた。
「これまでなかった、本物のフレンチレストランを作ろうじゃないか。雰囲気だけ高級な店じゃなく、フランスの食文化を汲んだ一流の、大人がドレスアップして非日常の一夜を過ごす、そんな店が、地方にだってあるべきだと俺は思う」
 そのためには、まず従業員が一流にならなければ、というのが谷の口癖だった。
 将来結婚するつもりがなく、ずっと働き続けたいと思っていた彩里は、谷の言う「本物」のサーヴィスマンを目指そうと決めた。
 平常業務を覚えながら、時間さえあればワゴン(ゲリドン)上での肉の切り分け(デクパージュ)や炎の演出(フランバージュ)の練習に精を出す彩里の熱意はいつしか谷に伝わり、一番弟子として、彼の知識と技術、ホスピタリティを教え込まれる立場になっていた。
 谷に言われるままに、ワインコーディネーターなどの資格を取り、入社二年目には、レストランを代表して国内唯一のサーヴィスコンクール、メートル・ド・セルヴィス杯にエントリーするように言われた。
 その年は予選で落ちたが、翌々年、二度目のチャレンジで、予選上位十六名だけが進める、東京で行われる準決勝(セミファイナル)に残ることができた。
 彩里以外の十五名は、都心の一流ホテルやレストランの看板を背負う中堅サーヴィスマンで、彼らは地方都市の、聞いたこともない店で働く二十五歳の女性を、場違いなものを見るような目で遠巻きにしていた。
 彩里は決勝進出者(ファイナリスト)五名の中には残れなかった。実技の成績は充分だったと後で聞いたが、職場でやる機会がない、フランス語のオーダーテイクで差がついたようだった。
 悔しさもあったが、次回に生かそう、と思うことにした。
 その時の彩里には、着実に、未来に向かって積み重ねている、という実感が、確かにあった。

 帰りの新幹線までの短い時間に、彩里はめぐみと東京駅で待ち合わせ、軽い夕食をともにした。
 彩里が就職してから、初めての逢瀬だった。
 土日休みのめぐみと、客足が増える週末が忙しい彩里とは、オンライン上でもすれ違いが続いていた。
 慣れない一人暮らしの中、仕事とコンクール対策に追われ、ファンサイトでめぐみが他の常連と交流しているのを見かけても、話に混ざる気力がなかなか湧かないのだ。
(このまま、めぐみさんも、わたしのことなんて忘れちゃうのかもしれないな……)
 インターネット上で知り合ったひとと、いつの間にか疎遠になっている、というのは、よくあることだった。
 それでも、準決勝進出が決まった時、諦めきれずに、
「会えませんか?」
とメールを送った。
 すると、間髪おかずにOKの返答がきたのだった。
 仕事を早めにあがって東京駅に駆けつけてくれためぐみは、まとめ髪に淡いグレーのパンツスーツ姿がスタイリッシュで、近づきがたい印象を醸し出していたが、どこも変わらず優しかった。
「彩里ちゃん、久しぶり。大人っぽくなったね。少し痩せた?」
「かもしれません。練習でできるカットフルーツばかり食べてるから」
「……就職したらどうなるかと思ったけど、彩里ちゃん、やっぱり相変わらずね。ほんとに、これと決めたら一直線なの、尊敬する」
 めぐみは弱ったような顔で笑みを浮かべ、ぽんぽん、と彩里の背中を軽く叩く。
 無理しちゃだめだよ、と言われた気がした。

 午後七時過ぎの八重洲口中央のキヨスク前には、カートを引いた旅行者やサラリーマンの群れが忙しなげに流れをつくっていた。
 どこかにゆっくり腰を落ち着けるような時間はなく、ふたりは大丸のレストラン街の中の洋食店でさっと夕食を取った後、慌ただしく中央改札の前に戻ってきた。
 しばらくぶりだったにもかかわらず、以前と変わらない距離感で話すことができたので、余計に彩里はさびしくなってしまい、帰りたくないと泣きついてしまいそうなのを、必死に堪えなくてはならなかった。
 代わりに何かを言おうとすると、どろりとした卑屈がこぼれる。
「……なかなかネットにもつなげないですけど。わたしのことも、気が向いたら、たまには思い出してくださいね」
 社交的なめぐみのこと、代わりはいくらでもいるだろうけど――と、物分かりのいい振りをすると、強い視線を、正面から、向けられてしまった。
「私は、彩里ちゃんのこと、忘れたことなんて一日もない」
「……あ……」
「邪魔しないようにしよう、とは思ってる。疲れてるのに、無理もさせたくない。でも、彩里ちゃんと話したい気持ちに変わりはないよ。ずっと、一番、一緒にいて楽しい。そう思ってるってこと、伝えきれてないかな? 私」
 抑えた声だからこそ、めぐみの嘘のなさが、胸の中まで響くように伝わってきた。
 罪悪感がこみあげるものの、どう弁明したらいいのかわからず、声が喉で固まる。
(……わたし、もう二十五だっていうのに、こんな、友達付き合いすら、下手なままで、情けない……)
 小学生でも、今の彩里よりは気のきいた言葉を言えるだろう。きっと簡単なことだ。
 ごめんね、と言う。
 ありがとう、と言う。
 ずっと友達でいてね、と言う。
 大好きだよ、と言う。
 私も、と言われたらそれを信じる。
 手をつなぐ。
 笑い合う。
 ずっと、を疑わない。
 ……それだけの、ことだ。
 なのに、彩里にはできない。
「……すみません。めぐみさん。すみません……」
 ツケが回ったんだ、と思った。
 上手につながれなかったこと、大切にされなかったことを理由に、彩里は誰のことも大切にしてこなかった。
 クラス替え、進学、就職、ライフステージが進むと同時に、あとくされなく切れていく関係性。積みあがっていかない経験値。
 ひととの絆など、一過性のもの、と、彩里は刷り込みのように信じていて、そして粗雑に扱えば、ものは、壊れる。当然だ。
 やっぱりね、と言っているうちはひとり遊び。
 ――けれど今、目の前には、めぐみがいる。(いつも本当は、誰かがいた。)
 失いたくない、と思っている。
「……彩里ちゃん」
「めぐみさんの気持ち、伝わっているんです……一緒にいる時は。こんなに仲のいい友達同士、そうは見つからない、って誇らしいけど、少し時間が経ったら……実感がなくなってしまう。だって、今日会ったひとにだって、友達って言葉は使えるし、ここだけ『特別な友達』、だなんて、どうやって、信じたら。そう思って、ずっと不安で、でも……ごめんなさい。失礼なこと、言いました」
 ちゃんと謝罪になっているだろうか。
 見苦しい言い訳をして、と思われないだろうか。
 執着が、重い、と引かれないだろうか。
 震えそうになるが、勇気を振り絞って顔を上げると、再び視線が合う。
 めぐみは肩を竦めて、笑っていた。
「本当よ。どうして彩里ちゃんからそんな言葉が出たのか、わかっていたって、私だってとっさに傷つくんだからね」
「すみませ……」
「謝らなくてもいいよ。全部、わかってるから。ほら、彩里ちゃん、新幹線の時間」
「でも、めぐみさん」
「大丈夫!」
 どうしてめぐみは、彩里のことが「わかってる」という感覚を、まったく疑わないでいられるのだろう。ひとの心の中のことなんて、本当には、絶対、わからないはずなのに。
 けれど、自信満々なめぐみを見ていると、――わたしも信じ返したい、とは、強く思う。
 裏切られないと。この関係は消えないと。……ずっとこのままでいられると。
 なんの保証もないけれど、相手がめぐみだから、と、希望的観測を総動員して。
「また、通話しよう。今度は絶対、彩里ちゃんが不安にならないでいられるようにするから。一番安心な場所で居続けるから。……こわがらなくたってだいじょーぶ。こんなことで、私はあなたを嫌ったりしないし、気まずくもならない。いつ話しかけてくれても、楽しい時間が待ってるよ。だから、彩里ちゃんが今やりたいこと、それも、全力でやっておいで!」
 ふわっ、と視界がぼやけて、気付けば涙がこぼれていた。
 めぐみの言葉に背中を押されて、ようやく彩里は、自分が今やらなければならないことと、欲しい温もりのはざまで、板挟みになっていたことに気付いた。
 確かに、めぐみは彩里のことを、彩里自身よりも「わかってる」。
「めぐみさん……! わたし、……わたしっ」
 溺れそうになるほど感情が胸いっぱい溜まっているのに、言葉にならない。
 めぐみが彩里の背中を、改札に向かって押し出す。
 最終の新幹線の発車時刻が、いよいよ迫っていた。自由席の乗車口まで、急いで走らなくては、間に合わないかもしれない。
 彩里はうながされるまま、自動改札に、新幹線切符を紐づけたICカードを当て、出てきた利用票を受け取ったところで振り返った。
 目に涙を溜めたまま、手を大きく振って、声を張る。
「また! またおしゃべりしてください!」
「うん! うん、またね、また。彩里ちゃん」
 もう一言くらい何か言いたかったが、何も思い浮かばず、彩里はぺこりと頭を下げてから、ホームに向かって走って行った。

 彩里は就職してから、ずっと全力疾走を続けていた。
 レストランのホールではヘッドウェイター(シェフ・ド・ラン)として、客の目的や個性に合わせた適切なサーヴィスを提供し、バックヤードではアルバイトたちに業務を教えながら、自分の経験や勉強のフィードバックを行い、みんなの手本となれるよう努めた。
 職場の人間関係のトラブルも、率先して仲裁した。
 通勤時と退勤時にはフランス語と英語のラジオ講座を聴き、休憩時間と帰宅してからの時間はそれ以外の学習にあてた。
 食の文化は奥深く、どれだけ本やインターネットの記事を読んでも、知らなかったことがいくらでも出てくる。
 物語の世界に遊びに行くことやお絵描きの時間はほとんど取れなくなったが、月に一度、めぐみと通話をする時間は、睡眠時間を削ってでもひねり出した。
 常に気が張っていたが、ふしぎと疲労感は感じず、体力も気力も充実していた。
 ランナーズ・ハイのような状態だったのかもしれない。
 それに、彩里がメートル・ド・セルヴィス杯の準決勝へ進出してからというもの、同僚たちの顔つきも変わってきた。
 どれだけ谷が日頃から「本気でやれ、やれば変われる」とげきを飛ばしても、それほど自信もモチベーションもない従業員たちには響かなかった。
 だがサーヴィスの専門学校を出てもいない地元採用の彩里が、東京の有名店のサーヴィスマンと肩を並べ、トップ十六人にまで残ったとして地方紙の取材を受けると、目の色が変わった。
 無名の自分たちが高みを目指すことは、けしておかしなことではないのだと信じることができるようになったのだろう。
 技術練習にもサーヴィスにも身が入るようになった。
 地方紙掲載のおかげで、近隣県からも、わざわざ食べに来てくれるひとが出始めた。レストランの「映えスポット」をSNSに投稿するひとが出だすと、これまで少なかった若者層も来てくれるようになった。
 谷は、彩里をチーフに昇進させて、ホールを任せ、自分は本社会議に出るようになった。
 客数の少ない時間、谷はよく彩里をレストランの駐車場に連れ出し、彩里の抱える課題に助言をくれたり、失敗談や難局を乗り越えた時の話などを、経験の種にと教えてくれたりした。
「お前がいてくれたら、ミシュラン地方版掲載も夢じゃない」
 そう言って、厳しい谷が、若輩者の自分を「右腕」と頼ってくれることは、彩里も嬉しかった。
 そんな中だった。
 ある日突然、勤め先のフレンチレストランは閉店が決まった。
 二度目のメートル・ド・セルヴィス杯出場から半年後のことだった。
 社長の長い話が終わった後、動揺する社員を落ち着かせた谷は、いつものように彩里を駐車場に連れ出した。
「……社長の体が、もうあまりよくないらしい。閉店は、経営にしゃしゃり出た息子……次期社長の意向だ。さっきも、社長の隣に、金魚のフンみたいにして、横にいただろ。何度も説得したが、聞く耳を持たない。利益率の低い店を潰して、観光地のインバウンド向けの飲食店を強化するんだと」
「そんなにこの店、利益、出てないんですか? 体感では、お客様、増えてきています。『本物』を喜んでくださるお客様が」
「……物価高で、輸入食品の原価もあがり続けてる。だが質を落とすわけにはいかない……」
「本物を出すお店のまま、外国人のお客様も呼び込むわけにはいかないんですか?」
 谷は長い溜息をついた。
「無駄だ。社長の息子に『本物』の価値はわからない。うちの店を、若い女にチーフがつとまるチャラチャラした店、と言っていた。コンクールだ、フランス語だ、そんなことをする暇があるなら、チラシ配りでもして今すぐ満席にしろと。……自分が価値を感じないものは、ゴミ、と思ってるやつらが、ごまんといるのさ。クソだろう?」
「そんな……」
 谷はもちろん閉店の話を事前に聞いていたのだろうし、きっと社長に思い直すよう何度も掛け合ってくれた筈だ。
 しかしこの事態を覆すことはできなかった。
 おそらくはその反動で、投げやりな横顔を彩里に見せていた。
 彩里は、彼の分まで冷静でいるよう努めた。
 本当に閉店するなら、不安がる同僚たちをまとめ、最終日の最後の客までもてなしきって送り出さなければならない。
 もちろん、閉店しなくて済むなら、どんな妥協も受け入れるつもりだった。
「チーフとしての能力を、次期社長にご納得いただけないなら、わたしは、一スタッフとしての扱いに戻して頂いていいんですが……それで店を閉めなくて済むのなら」
「能力や資質の不足じゃない。お前はもっと広い世界で既に評価されている」
「…………」
「次期社長様の感情論だ。若い女ってだけで、『下』扱いしてやろうって思うやつがいるのさ。俺は男だが、東京の老舗ホテルではさんざんやられた。『地方出身』とか『高卒』とか」
「……結果を出して、見返しましょう。お店は連日満員の人気店にして、コンクールは一位を取って。あと少しじゃないですか!」
「……意味がない」
 彩里はこの店が好きだった。
 近隣の同業者が羨み、初めて訪れた客が興奮して帰っていく店。プロポーズや結婚式に使いたいと言われる、美しい小品のような店。
 この店の価値を高い位置に押し上げるためなら、苦労はいとわなかった。
 鍛錬やミーティングを重ねて、ようやくマーチングバンドのように一糸乱れぬ動きでサーヴィスできるようになったホールの従業員チームにも愛着があった。
 すばらしい完成形が見えているのに、ここで終わりだとは思いたくない。
「誰にも価値が伝わらない。田舎の限界だ」
「そんなことありません!」
 あんなに喜んでいた客たちの顔を、もう谷は忘れてしまったのだろうか。
 確かに、年配客の大半はジビエやチーズの盛り合わせには興味を示さず、フランスパンを嫌がり、米や箸を欲しがった。
 ホロホロ鳥の丸焼きをゲリドン・サーヴィスで切り分けたり、英語やフランス語で客に応対したりといった日頃の訓練の成果を示す機会は一度も訪れなかった。
 だけど、地方で生まれ育った彩里としては、谷が叶えようとした夢を、絵に描いた餅だと嘲ることはしたくない。
 叶えたい、と努力している間、彩里は確かに餅の味を舌に感じることができたし、可能ならばそのすばらしさを皆にもわかってもらえたら、と思った。
 しかし、漫画の好みと同じく、彩里の趣味はマイナーで、それを大勢に布教するところまでは叶わなかった――のだろう。
「都会もクソ。田舎もクソ。理想なんて、持つだけ全部、無駄だ。本物なんて、誰も必要としてなかった。ここの人間は、誰も」
 レストランの窓から洩れる暖色のひかりを見遣りつつ、谷はひとりごちた。
 彩里は唇を噛んで涙をこらえながら、電灯に群がる甲虫たちが立てる、カツコツという硬質な体当たり音に耳を傾けていた。だから、
「……し……ゃ……」
 谷が、口の中だけで転がすように発した短い言葉を、うまく聞き取ることができなかった。
 彩里が目標としていた谷のことだ。
 おそらく、「よっしゃ」と気合入れをして、新天地に気持ちを切り替えた――とか、そういったことなのだろう。
「最後までしっかりやろう」と彩里を激励したのかもしれないし、「幸せになれ」と願をかけてくれたのかもしれない。
 尺に対して言葉が長すぎる、だとか、そういうことは、問題ではない、きっと。
 大切なのは言葉の中にこめられた気持ちの筈で、それは当人すら見えないようになっている。だから。
(……沈めや、とか、死ねや、とか。そんなこと、わたしの上司は、言わない)
 同担の解釈違いは、彩里の地雷だ。

 二ヶ月後、店は本当に閉店してしまった。
 同僚たちはそれぞれに身の振り方を決めていた。フランス料理にかかわっていたいからと転職する者もいたし、会社内の別のレストランに移る者もいた。
 谷は次期社長とどうしても反りがあわず、駅前のデラックスホテルからのヘッドハンティングを受けることにしたという。
 一応、どうしても他に行き場がないなら、と彩里も誘ってくれたが、閉店を知った日の谷との温度差を埋められる気がせず、礼を言って断った。
 彩里は自分で見つけてきたホテルやフレンチレストランの求人に応募したが、返って来たのは人事担当者の困惑や憐憫だった。
「この資格欄は……いやぁ意識高い……じゃなくて、りっぱだねぇ」
「何でうちなんかに応募したの? もっと、能力を生かせる場所に行った方がいいよ」
「ホールスタッフは、バイトしかいらない」
 似たようなことを異なる会社で何度も言われるうちに、お前の居場所などどこにもない、と宣言されているような気になってくる。
 その上、無職となった身にも容赦なくのしかかる家賃や水道光熱費の支払いが、彩里を暗い気持ちにさせた。
 計算したものの、失業保険では生活を賄えそうになく、少ない貯金が目減りするのを恐れて、バイトの掛け持ちでしのぎながら、正社員の求人を探した。
 実家に帰る気はなかった。
 少しだけ見栄を張りたい気持ちはあったが、深夜の人恋しさに負けて、彩里はある日オンライン通話ソフトの文字チャットを立ち上げ、めぐみに自分の近況を打ち明けた。

「東京においでよ」
 一通り話を聞いた後、めぐみは軽い口調で、彩里を誘った。
 その言葉も発言したひとによっては微妙に地雷になるところだったが、彩里のことを「わかってる」めぐみが相手だと、ふしぎと腹が立たない。
「簡単に言いますけどね……」
「うちに住む?」
「だからね、めぐみさん、そんな簡単なことじゃないんです」
「どうして? なにが問題?」
「生活していけるか……。家賃も物価も、東京は高いんでしょうし」
「そんなに違うかなぁ。ちょうどいい物件を見つけるまで、うちのマンションで寝起きしたらいいじゃない。きれいじゃないけど、ひとり寝るところくらいなんとでもなるし。引っ越してもいいし」
「そんな、気軽に決めることじゃないです! いつ就職が決まるか、なんの保証もないし、迷惑かけたくない……」
「彩里ちゃんの経歴なら、ぜひ来て欲しいって一流どころがいっぱいあると思うけどな。それはそれとして、すぐに仕事決まらなくっても、私は、彩里ちゃんなら大歓迎」
「どれだけ仲良くても、他人と暮らすのって、大変じゃないですか?」
「彩里ちゃんが大学生の頃、一回泊まりに来てくれた時ね。ドライヤー後に、床に落ちた自分の髪を集めて、捨ててくれていたのを見たの。若いのにちゃんとしてるなぁ、って思って。だから彩里ちゃんなら、全然負担じゃないと思うなぁ」
「……心配かけて、すみません。大丈夫です、このままなんとか、やっていけなくはないので。愚痴を聞かせてしまって……」
「勝手に話を打ち切ろうとしない。そういう話じゃなくて……ねえ、私って、彩里ちゃんのことすごく好きでしょ」
「ありがとうございます」
「あー、もう、違う、社交辞令とかじゃなくて。つまり特別に、っていうこと。力になりたいんだけどなぁ、どうしたら甘えてくれるんだろう」
「充分元気づけてもらってますよ」
「そうじゃなくてだよ……」
「お気持ちはすごく嬉しいんですけど。返せる保証もないのに借りをつくるのは」
「出世払いでいいよ」
「出世なんてしません」
「……うう、私が男なら、身体で返せよ、って言えば解決しそうな案件なのに」
「めぐみさんってばスーパー攻(せめ)様……。苦境に陥った受(うけ)をオークションで落札、的な」
「BLの王道でしょ」
「はい。でもわたしは受みたいにかわいくないし。めぐみさんもドSな石油王じゃない……。あ、オークションものと言えばですね、」
「いや待って待って、二次元に持っていかずにもうちょっと相談させて。ねえ、そしたらね、本当にまじめに考えてみない? だって、女の子同士でも、結婚はできるでしょ?」
「結婚?」
 彩里もめぐみのことはすごく好きだったが、恋愛感情とは違う気がする。
 そもそも二次元以外で、他人に恋愛感情を覚えたことがあるかどうかもあやしい。
 めぐみが向けてくる感情にも、色っぽい香りなんて、のぼったことはないように思うけれど。
「そうだよ。結婚しよう。……ぼんやり考えることはあったんだ、ずっとこのままひとりでいるのってどうなんだろうって。でも結婚して、『妻』とか『母』とか、自分以外の何者かになることなんて想像できない。仕事も趣味も、やめられないし。やめなきゃいけないくらいなら、今のままでと思ってたけど、相手が同じ趣味の女の子なら、というか彩里ちゃんなら、完璧じゃない?」
「……それは、もちろん、毎日楽しそうですけどね」
「彩里ちゃんとそうできるなら、幸せだな、私。彩里ちゃんはどう思う?」
「いいですね、しましょう、しましょう」
「もう、まじめに訊いてるのに」
「どこがですか」
 言われた瞬間は呼吸が止まったものの、冷静に考えてみると、めぐみの提案にはリアリティがなかった。
「だって、このお話、めぐみさんにはなにもメリットがないですよ」
「彩里ちゃんといると楽しいんだから、一緒に暮らせること自体がメリットでしょ。あと、実は、私、海外旅行に行きたいの。出張でしか行ったことないから。新婚旅行っていう名目なら……」
 そんな理由、とは、彩里は思わなかった。むしろ、心惹かれた。
「そっか……仕事してると、長いお休み、取れませんもんね。わたしもフランスの田舎のワイナリーレストランとか、ずっと行ってみたかった」
「ね。行っちゃう? 一緒に」
 彩里はあいまいな笑みを浮かべ、返事をしなかった。結婚に対してはそれほどイメージがないので流すこともできたが、フランスには本当に行きたいと思っていたので、ノリでOKすることがどうしてもできなかったのだ。

 それから約半年の間に、戯言みたいなプロポーズを、数えきれないほど受けた。
 もちろん、悪い気などしない。いつでも補充できるただの友達という存在より、日本の法律では同時にひとりとしかできない結婚を望まれる方が、より「求められている」感じがする。「特別」と信じられる。
 そうやって、めぐみの好意の上澄みだけを疲労の特効薬のように拝借していたら、バチが当たったのだろう。
 とうとう彼女は指輪を持って、夜、彩里の地元駅に現れた。
 半年経っても、彩里はフリーターのままだった。
 シティホテルの宴会課の配膳を週五日、弁当詰めの工場夜勤を週三日。両方のシフトが入っている日は朝から深夜まで動きっぱなし。
 そしてシティホテルでは、早々に古株のアルバイトたちに目をつけられてしまった。
「ちょっと、この子仕事中にお酒飲んでるんだけどー」
「えっ……違います、これ、ブショネのチェックです。ヴィンテージワインの抜栓を社員さんに頼まれて……」
「はー? ブショネ? 何それ」
「社員にできないことが、あんたにできるとでも?」
 嘘ではなかったのだが、古株アルバイトには「口答えした生意気女」と受け取られ、宴会場がかぶるたびに意地悪なことを言われたり、偽の業務指示を受けたりして、閉口した。
 そんな彩里を若い男性社員がかばったことで、更に火がつき、異性関係で嘘八百の噂を流されたり、トイレで肩をぶつけられたり、うっかりを装ってバケツの水をひっくり返されたりもした。
 アルバイト求人の範囲なら、もう少しいい条件で働ける場所もきっとある筈だった。
 しかし、なんとか仕事を終えて家に帰ると、もう転職活動に回す意欲が残っておらず、嫌がらせを受けながら、その職場に留まり続けた。
 体力には自信があった筈なのに、その頃には、朝ベッドから起き上がるのにかなりの労力が必要になっていた。
 それなのに、夜は目が覚めて眠れず、用もなくSNSのトレンドを追いかけてしまったりする。
 原因不明の嘔吐感とめまいにも襲われた。
 めぐみにはシティホテルを辞めるよう何度も説得されたが、日々人手不足の職場を放り出せず、また生活も不安で、第一歩を踏み出せなかった。
 まだいける。まだ限界じゃないはず。
 そう自分を励ましながら、環境を変えなければ手詰まりだという気持ちも強く、コンビニでナイトワーク専門の求人情報をもらって眺めるようになっていた。
 そんなある日、めぐみが、一通のメールを彩里の携帯電話に送ってきたのだ。

『何時になってもいい、今日、仕事が終わったらあなたの地元駅に来て。大切な話がある』

――と。
 忘れもしない、土砂降りの雨の日だった。
 駅前のロータリーのアスファルトはがたがたに歪んでいて排水溝までの傾斜のつくりも甘く、溜まった雨水が川をつくっていた。
「彩里ちゃん。私の両親にはもう話したから、あいさつに来て。結婚しよう。両親とも、娘が増えるって喜んでる。……私、本気だから。あなたを、ここから攫うね」
 仕事あがりに新幹線に飛び乗ったらしいスーツ姿で、めぐみは身動きができなくなっている彩里の左手を拾い上げると、返事も聞かずに指輪を嵌めた。

 それから互いの親族にあいさつをし、彩里はめぐみが住んでいる西荻窪の2LDKのマンションに移り住んだ。
 籍は入れたが、式も新婚旅行も、彩里の調子が落ち着くまで保留になった。
 彩里は東京で転職活動を始めたものの、コンクールに出た頃の自信は霧散していたし、他の出場者に見つかって、やはり地方を捨てて東京に出てきたのかと思われるのも嫌だった。
 それでも、なんとか気持ちを奮い立たせて外資系ラグジュアリーホテルの求人に応募し、面接にこぎつけた。
 数日前にめぐみと下見がてら、ラウンジでアフタヌーンティーを楽しんだが、ハイセンスな内装や映えるスイーツはともかく、ベルトコンベア作業のように大勢の客をあしらうサーヴィスにショックを受けた彩里は、結局、面接の日は靴を履き終わることができず、人事担当者に断りの電話を入れてしまった。
 つまらないことに固執し、わがままを言っている、という自覚はあった。
 客が満足しているのなら、それでいい――はずなのに。
 技術を修練し、心を込めて賓客を迎え、どんなトラブルも涼しい顔で何事もなかったようにおさめてしまう、古きよき日本のサーヴィス精神というものは、なじみのある同人用語に言い換えるとすると、もう「オワコン」「爆死」なのだろう。
 そんなものへの愛着を抱え続けていても、未来はない。
 彩里は、ジャンルへのハマり方を間違えたのだ。
 一度これと決めたジャンル観を捨てて、みんなに支持される「覇権」解釈に乗り換えるというのは、彩里のオタク気質的に、とても難しいこと。
 だったら、ジャンル自体を移る方が、まだマシだった。

 好きな業界にいられないのなら、もう何でもいい。
 手当たり次第に他業種の求人を漁る彩里に、めぐみは、
「焦らないで、ゆっくり考えればいいよ」
 そう優しく声をかけてくれた。
 大切なことだから、きちんと体調を回復して、受けたダメージから立ち直って、冷静な判断ができるようになってから決めても遅くはない、と。
「そういうわけにはいきません」
 甘やかされるほど、彩里は反発し、早く生活を軌道に乗せなければ、と焦ったが、疲れ切った心と体は、気持ちになかなか追い付いてくれない。
 最終的には、彩里は小さな印刷所でアルバイトをしながら、めぐみのリクエストに沿うかたちで、お絵描きと同人活動を再開した。
 生活費は折半する約束だったが、めぐみから請求された家賃や水道光熱費は、想像よりずっと安かったし、めぐみが話題の店からお取り寄せする高級ハムや海産物、フルーツやスイーツなどのご相伴に預かることも、結構多い。
 家事を多めにやって体で返そうとは思っても、一人暮らし歴が長いめぐみの部屋は時短家電での自動化がかなり進んでいて、あまりやることもないのだった。
 めぐみに言えば、
「え? 普段のお礼? 気にしなくていいよ、そんなの。……でも、どうしてもって言うなら、彩里ちゃん、この映画一緒に見て⁉ すごく界隈で話題で気になってるんだけど、結構血みどろって言われてるのが気になって……ひとりじゃ怖いから」
 そんなふうにかわされて、結局、いつもの平日夜のルーティンになってしまう。
 原稿中は自分の本のスケジュールで互いにいっぱいいっぱいだったが、行き詰った時は、同じ家の中にいて、気がねなくなんでも相談できた。
 締め切り前は、軽食を自分で買ってきて、原稿しながら好きに食べる。
 ルームシェアのような気安さで、気付けば新婚生活最初の一年目が過ぎていたのだった。

     ◇

 筆の進みが遅くて随分めぐみをハラハラさせてしまいつつ、なんとか新刊を発行した彩里は、日曜の同人誌即売会にサークル参加した後、同じジャンルのお仲間四名とめぐみと一緒に、池袋のダイニングバーで打ち上げ(アフター)をした。
 アルコールで乾いた喉を潤し、一通り語り合い、すっかり出来上がった頃、トイレに行った子と入れ替わりに、すっと彩里の横に腰掛けたのは、めぐみだった。
「ヒダリさーん、今日はほんっと、お疲れ様でした」
「あ、ヨルノミさんも、お疲れ様です」
 こういう場所で呼び合うのは、もちろん本名ではなく、お互いがそのジャンルで使っているペンネームだ。
 同人仲間のプライベートは、詮索しないのが不文律になっている。
 めぐみとは、最初のオフ会の後で本名を教え合って以降、ふたりきりの時は本名で呼び合ってきたが、本当はその方がイレギュラーなのだった。
「ヒダリさんの新刊、最高だった~……! 我慢できずに自分のスペースで読んで、泣いちゃって、自分のところに来てくれたお客さんにびっくりされちゃった。でもその方も、ヒダリさんの本、いつも買ってるファンの人だったみたい」
「恐れ入ります。……やだ、めぐ、じゃなくてヨルノミさん。あらたまって、恥ずかしい……」
「いやもう本当にすばらしくて! 家まで黙っていられないよー。ほんと、すご、もう一コマ一コマ額装したいくらいの神画力はいつものこととして、ラストシーンのあまりのエモさに、もう、……ファンです!」
「泣かないで……! ありがとうございます、でも、本当、このあたりで、勘弁してください、……めぐみさん」
 他のひとならともかく、同居人から正面切ってファン宣言などされてしまったら、どういう顔をしていいかわからない。
 彩里はほてる顔に手で風を送りながら、小声でめぐみに囁きかけた。
 しかし、めぐみはかなり酔っ払っているらしく、溢れんばかりの感情を乗せて、熱く感想を語り続けた。
「そりゃ、普段は、目の前にいる女の子がヒダリさんと同一人物だって、うっかり忘れがちだけど。本当に本当に、ずっと好きだから。今のうちに感想言わせてね。本当に、新刊、最高でした。ラスト、夜の海に浮かび上がった大きな吹き出しの、声の質感とか、吐息に含まれる湿度とか、そういうのはありありと伝わってくるのに、あの子がなにを言おうとしたのかは、わかるようでわからなくって、なんとも言えない切ない余韻で。きっとあの子の声、歪んで、溶けて、消えていく、泡沫なんだって思った」
「泡沫……」
「もちろん、ヒダリさんがどういうつもりで描いたのかは、わからないよ。もしかしたら、セリフの中身を入れ忘れたとか、そういうあれかもしれないし」
「いえ、それは流石に、ないです。敢えて、です」
「だよね。すごく、彼が言うはずだったこと――に、想像を掻き立てられた。描かれてないからこそ」
「ヨルノミ先生の手で、続きを書いてくださっていいですよ。二次創作の二次創作として」
「こんなに美しいお話の続き、書けるわけなーい!」
 めぐみがこれほど酔うのは珍しいことだ、と思いながら、熱に浮かされたような早口でしゃべる彼女を見ていると、向かいに座った仲間が茶々を入れてくる。
「そこのごふーふ、見せつけてくれますな~」
「あれ、ご結婚されてるんでしたっけ。ヨルノミさんとヒダリさんって」
「あ、はい……」
「へえ~。リアルゆりっぷる、知り合いで初めて見ました」
 百合、では、ない。
 彩里は一瞬訂正しようかと迷ったが、酔っている上なにも考えずに口走った感じの仲間の顔に、何も言えなくなった。
 別の仲間が、彩里の表情の翳りには気付かず、うっとりするような息をつく。
「いいなぁ。オタ友との結婚って、ある意味、夢ですよね。うちもオタ婚なんですけど、旦那と趣味が合わなくて、萌え語りはできないから、羨ましい」
「趣味が近い分、離婚の原因が、うっかり逆カプにはまった、とかにならないよう、気を付けますよ」
 めぐみの混ぜっかえしで、どっ、と笑いが起こった後、一座の話題はたちまち、最近のジャンル内学級会といったゴシップ話に移っていった。