就職活動を始める時、めぐみのいる東京に行くことはわずかに脳裏をよぎったけれど、滞在費や交通費を考えると現実的ではなかった。
 それに、彩里も心のどこかで、友達の家の近くに住みたいという気持ちが、一過性の感情に過ぎないのではないか、という気持ちが否定できずにいる。
 彩里は少しでも早く、実家から独立したかった。
 自分が、変わっている、という自覚はある。
 ずっと「ふつう」の枠からはみ出さないように、人の顔色をうかがって窮屈な思いをし続けるより、早くひとりで生きられるようになりたい。
 それには、土地勘があり、家賃や物価が安い地元での就職が、一番都合が良さそうだった。
 彩里は、出た内定の中から、地元ではわりと名の通った外食産業の会社を選んで就職した。

 配属先は、高台に建つ、富裕層向けのフレンチレストラン店だった。東京からUターンで地元に戻って来たばかりのマネージャーの谷は、頭のキレる人で、社内でも「改革派」と呼ばれていた。
「これまでなかった、本物のフレンチレストランを作ろうじゃないか。雰囲気だけ高級な店じゃなく、フランスの食文化を汲んだ一流の、大人がドレスアップして非日常の一夜を過ごす、そんな店が、地方にだってあるべきだと俺は思う」
 そのためには、まず従業員が一流にならなければ、というのが谷の口癖だった。
 将来結婚するつもりがなく、ずっと働き続けたいと思っていた彩里は、谷の言う「本物」のサーヴィスマンを目指そうと決めた。
 平常業務を覚えながら、時間さえあればワゴン(ゲリドン)上での肉の切り分け(デクパージュ)や炎の演出(フランバージュ)の練習に精を出す彩里の熱意はいつしか谷に伝わり、一番弟子として、彼の知識と技術、ホスピタリティを教え込まれる立場になっていた。
 谷に言われるままに、ワインコーディネーターなどの資格を取り、入社二年目には、レストランを代表して国内唯一のサーヴィスコンクール、メートル・ド・セルヴィス杯にエントリーするように言われた。
 その年は予選で落ちたが、翌々年、二度目のチャレンジで、予選上位十六名だけが進める、東京で行われる準決勝(セミファイナル)に残ることができた。
 彩里以外の十五名は、都心の一流ホテルやレストランの看板を背負う中堅サーヴィスマンで、彼らは地方都市の、聞いたこともない店で働く二十五歳の女性を、場違いなものを見るような目で遠巻きにしていた。
 彩里は決勝進出者(ファイナリスト)五名の中には残れなかった。実技の成績は充分だったと後で聞いたが、職場でやる機会がない、フランス語のオーダーテイクで差がついたようだった。
 悔しさもあったが、次回に生かそう、と思うことにした。
 その時の彩里には、着実に、未来に向かって積み重ねている、という実感が、確かにあった。

 帰りの新幹線までの短い時間に、彩里はめぐみと東京駅で待ち合わせ、軽い夕食をともにした。
 彩里が就職してから、初めての逢瀬だった。
 土日休みのめぐみと、客足が増える週末が忙しい彩里とは、オンライン上でもすれ違いが続いていた。
 慣れない一人暮らしの中、仕事とコンクール対策に追われ、ファンサイトでめぐみが他の常連と交流しているのを見かけても、話に混ざる気力がなかなか湧かないのだ。
(このまま、めぐみさんも、わたしのことなんて忘れちゃうのかもしれないな……)
 インターネット上で知り合ったひとと、いつの間にか疎遠になっている、というのは、よくあることだった。
 それでも、準決勝進出が決まった時、諦めきれずに、
「会えませんか?」
とメールを送った。
 すると、間髪おかずにOKの返答がきたのだった。
 仕事を早めにあがって東京駅に駆けつけてくれためぐみは、まとめ髪に淡いグレーのパンツスーツ姿がスタイリッシュで、近づきがたい印象を醸し出していたが、どこも変わらず優しかった。
「彩里ちゃん、久しぶり。大人っぽくなったね。少し痩せた?」
「かもしれません。練習でできるカットフルーツばかり食べてるから」
「……就職したらどうなるかと思ったけど、彩里ちゃん、やっぱり相変わらずね。ほんとに、これと決めたら一直線なの、尊敬する」
 めぐみは弱ったような顔で笑みを浮かべ、ぽんぽん、と彩里の背中を軽く叩く。
 無理しちゃだめだよ、と言われた気がした。

 午後七時過ぎの八重洲口中央のキヨスク前には、カートを引いた旅行者やサラリーマンの群れが忙しなげに流れをつくっていた。
 どこかにゆっくり腰を落ち着けるような時間はなく、ふたりは大丸のレストラン街の中の洋食店でさっと夕食を取った後、慌ただしく中央改札の前に戻ってきた。
 しばらくぶりだったにもかかわらず、以前と変わらない距離感で話すことができたので、余計に彩里はさびしくなってしまい、帰りたくないと泣きついてしまいそうなのを、必死に堪えなくてはならなかった。
 代わりに何かを言おうとすると、どろりとした卑屈がこぼれる。
「……なかなかネットにもつなげないですけど。わたしのことも、気が向いたら、たまには思い出してくださいね」
 社交的なめぐみのこと、代わりはいくらでもいるだろうけど――と、物分かりのいい振りをすると、強い視線を、正面から、向けられてしまった。
「私は、彩里ちゃんのこと、忘れたことなんて一日もない」
「……あ……」
「邪魔しないようにしよう、とは思ってる。疲れてるのに、無理もさせたくない。でも、彩里ちゃんと話したい気持ちに変わりはないよ。ずっと、一番、一緒にいて楽しい。そう思ってるってこと、伝えきれてないかな? 私」
 抑えた声だからこそ、めぐみの嘘のなさが、胸の中まで響くように伝わってきた。
 罪悪感がこみあげるものの、どう弁明したらいいのかわからず、声が喉で固まる。
(……わたし、もう二十五だっていうのに、こんな、友達付き合いすら、下手なままで、情けない……)
 小学生でも、今の彩里よりは気のきいた言葉を言えるだろう。きっと簡単なことだ。
 ごめんね、と言う。
 ありがとう、と言う。
 ずっと友達でいてね、と言う。
 大好きだよ、と言う。
 私も、と言われたらそれを信じる。
 手をつなぐ。
 笑い合う。
 ずっと、を疑わない。
 ……それだけの、ことだ。
 なのに、彩里にはできない。
「……すみません。めぐみさん。すみません……」
 ツケが回ったんだ、と思った。
 上手につながれなかったこと、大切にされなかったことを理由に、彩里は誰のことも大切にしてこなかった。
 クラス替え、進学、就職、ライフステージが進むと同時に、あとくされなく切れていく関係性。積みあがっていかない経験値。
 ひととの絆など、一過性のもの、と、彩里は刷り込みのように信じていて、そして粗雑に扱えば、ものは、壊れる。当然だ。
 やっぱりね、と言っているうちはひとり遊び。
 ――けれど今、目の前には、めぐみがいる。(いつも本当は、誰かがいた。)
 失いたくない、と思っている。
「……彩里ちゃん」
「めぐみさんの気持ち、伝わっているんです……一緒にいる時は。こんなに仲のいい友達同士、そうは見つからない、って誇らしいけど、少し時間が経ったら……実感がなくなってしまう。だって、今日会ったひとにだって、友達って言葉は使えるし、ここだけ『特別な友達』、だなんて、どうやって、信じたら。そう思って、ずっと不安で、でも……ごめんなさい。失礼なこと、言いました」
 ちゃんと謝罪になっているだろうか。
 見苦しい言い訳をして、と思われないだろうか。
 執着が、重い、と引かれないだろうか。
 震えそうになるが、勇気を振り絞って顔を上げると、再び視線が合う。
 めぐみは肩を竦めて、笑っていた。
「本当よ。どうして彩里ちゃんからそんな言葉が出たのか、わかっていたって、私だってとっさに傷つくんだからね」
「すみませ……」
「謝らなくてもいいよ。全部、わかってるから。ほら、彩里ちゃん、新幹線の時間」
「でも、めぐみさん」
「大丈夫!」
 どうしてめぐみは、彩里のことが「わかってる」という感覚を、まったく疑わないでいられるのだろう。ひとの心の中のことなんて、本当には、絶対、わからないはずなのに。
 けれど、自信満々なめぐみを見ていると、――わたしも信じ返したい、とは、強く思う。
 裏切られないと。この関係は消えないと。……ずっとこのままでいられると。
 なんの保証もないけれど、相手がめぐみだから、と、希望的観測を総動員して。
「また、通話しよう。今度は絶対、彩里ちゃんが不安にならないでいられるようにするから。一番安心な場所で居続けるから。……こわがらなくたってだいじょーぶ。こんなことで、私はあなたを嫌ったりしないし、気まずくもならない。いつ話しかけてくれても、楽しい時間が待ってるよ。だから、彩里ちゃんが今やりたいこと、それも、全力でやっておいで!」
 ふわっ、と視界がぼやけて、気付けば涙がこぼれていた。
 めぐみの言葉に背中を押されて、ようやく彩里は、自分が今やらなければならないことと、欲しい温もりのはざまで、板挟みになっていたことに気付いた。
 確かに、めぐみは彩里のことを、彩里自身よりも「わかってる」。
「めぐみさん……! わたし、……わたしっ」
 溺れそうになるほど感情が胸いっぱい溜まっているのに、言葉にならない。
 めぐみが彩里の背中を、改札に向かって押し出す。
 最終の新幹線の発車時刻が、いよいよ迫っていた。自由席の乗車口まで、急いで走らなくては、間に合わないかもしれない。
 彩里はうながされるまま、自動改札に、新幹線切符を紐づけたICカードを当て、出てきた利用票を受け取ったところで振り返った。
 目に涙を溜めたまま、手を大きく振って、声を張る。
「また! またおしゃべりしてください!」
「うん! うん、またね、また。彩里ちゃん」
 もう一言くらい何か言いたかったが、何も思い浮かばず、彩里はぺこりと頭を下げてから、ホームに向かって走って行った。