価値観のズレ、その崖のふちで、彩里はいつも、言葉を失ってしまう。
 霧の向こう、崖のあちら側に居住しているひとの言葉は、絶望的に聞こえない。
 それとも、許容範囲の狭い彩里自身が、勝手に耳をふさいでいるだけなのだろうか。
 打ち上げを終えての帰路、自分の中で一通り反省会を済ませた彩里は、率直な気持ちでめぐみを称えた。
「……めぐみさんは、上手ですよね。大勢がいるところで、さらっと大人の振る舞い。すごいです……」
「それなりに、社会人歴、長いからね。ふつう、ふつう」
 めぐみの方は、そんな当たり前のことで褒められても、と思っているような雰囲気だったが、やはり、すごいことだ、と彩里には思える。
「彩里ちゃんだって、出会った当初から考えれば、すごく大人になったでしょう。あの頃は過激派で、オフ会の話題なんて、全部解釈違いで」
「わ、忘れてください……!」
「顔カプ好きなんて、愛がない、安易、許せない! って」
「黒歴史すぎる……! ごめんなさい……! わすれて……」
 めぐみと出会った頃の発言を持ち出され、彩里は顔を真っ赤にした。
 二次創作はどれも、原作から大きくそれた、勝手な妄想に過ぎない。
 だからこそ、意見の違う他人を見ると、自分の感じたことすべてが塗りつぶされてしまうような気がして、怖くて、攻撃的な態度になっていた。
 本当にどうしようもないオタクだ、と思う。
「忘れない。だって、あれが彩里ちゃんだもの。あの愛の激しさが、今、神同人誌を作っているんだよ。それに、誰かに向かって攻撃するんじゃない、私とふたりきりになるまで愚痴を我慢する客観性だって、ちゃんと持ってた」
「今みたいなSNS文化があったら、確実に炎上してましたね、わたし。……若気の至りということに、しておいて……ください」
「そうだね。あと五年も経てば、彩里ちゃんだって、如才なく振る舞えるようになってるよ。年を取るだけ、いろんなことが楽になる。……でも、今の彩里ちゃんのままでも、私はいいと思う。荷物が多くって、かわいくって、こんなに愛おしいものはそうないもの」
「かわいいって……。外から見てそうでも、わたしが、生きづらいままじゃ、ないですか」
 他人ごとだと思って、と抗議すると、めぐみは声を出して笑った。
「一応、彩里ちゃんにも、生きづらい自覚はあるんだ」
「あります。わかってて、なかなか直せないだけです。…………」
 いつも買い物をするスーパーマーケットを通り過ぎ、住宅街の中を歩いていくうちに、道端の児童公園に目が吸い寄せられていた。
 どうして、と思った瞬間、町内会の名入りの白いテントや提灯や備品の類が畳まれ、公園の隅に積み重なっているのを見つける。
 郷愁に似たものが、彩里の胸の深いところを横切っていった。
「今日、町のお祭りだったのかな……」
「ほんとだ。朝はバタバタしてて気付かなかった」
 彩里たちが同好の士たちと楽しんでいる間に、ご近所さんたちも、ハレの日を過ごしていたのだ。
「こどもの頃って、何気なくお祭りに参加してたけど、そっか、町内会みたいなものに入らないと、そもそも、あることもわからないものなんですね」
「そうだね。うちのマンション、間取りがファミリー向けではないし、お付き合いもないし」
 参加するかと誘われたところで、彩里たちは迷わず同人誌即売会の予定を優先させるだろう。
 各々、自分の居場所で、生きていく。それだけのことに過ぎないのだが、幼い頃、当たり前に受け取っていた招待状が、いつの間にか永遠に受け取れない立場になっていたことは、彩里をほんの少し、感傷的にさせた。
 彩里は公園に足を踏み入れる。
 その空気に触れることもかなわないまま、終わり、片付けられ、あとは運び去られるばかりのお祭りの残骸に胸を疼かせていると、なにも言わずについて来ためぐみが、そっと彩里の手を握った。
 体温のあたたかさに、気持ちが緩む。
「……めぐみさん。わたし、めぐみさんに話さなきゃならないことがある」
 彩里は、胸の奥で燻ぶらせていた話を切り出しながら、めぐみの手を柔らかくほどいた。
 砂埃をかぶったブランコに腰掛け、鎖を両手で持つ。
 その感触は秘密を封じた錠前のように冷たく、錆びた鉄のにおいがした。
 ひとまずふたりとも新刊を発行でき、無事に同人誌即売会の一日を終えることができた。
 ひと区切りついた、と、彩里は判断し、隠し事を解き放つ覚悟を固める。
「わたし、……好きなひとができたんです」
「……そうなの? 話、聞かせて?」
 彩里はどきどきしながらスマートフォンを出し、軽く振ってみせる。
「……この中に、います」
「もしかして、ソシャゲ? 新しく、なにか始めたんだ?」
「はい。これです」
 彩里はアプリを立ち上げると、ソーシャルゲームのタイトル画面を見せる。
「あー、それ。SNSでよく見るやつだ。すごく流行ってるよね!」
「そうなんです! グラフィックも綺麗だし、ストーリーも良くて、声優さんも間違いなくて。何よりすっごく良い不憫キャラがいるんです! 音出していいですか?」
「あっ音楽かっこいい! 背景も本格的だ、最近のゲームはすごいんだね」
 めぐみの声のテンションが一瞬で高くなる。
 話を持ちかけた時とは違い、明らかに肩の力が抜けた笑顔になっていた。
 彩里の『好きなひと』が安定の二次元で、安心しているのだろう。
 めぐみの反応が好意的だったので、彩里の口の滑りもどんどん良くなる。
 彩里も、早く「たいしたことじゃない」と肩の荷を下ろしたかった。
 でも、まだ気は抜けない。
「わたしも、昼休憩の時間潰しに始めたんですけど、シナリオの吸引力がやばくて、一瞬でハマっちゃって! ステージごとに、舞台になる国が変わるので新鮮にプレイできるし、ミニゲームも中毒性があって楽しいですよ。めぐみさんも、始めてみません?」
「…………」
 めぐみの口が、「あ」の形で固まったまま、短い沈黙を作る。
 付き合いの長さゆえだろう。彩里にはめぐみが話す前から、言葉の内容がわかってしまった。
「あー……ごめんね。彩里ちゃん。あのね、ソシャゲは、どんなに興味があっても、やらないことにしてるの。仕事柄、自分の携帯電話も、いつも持ち歩くからさ。推しができるほどハマったら、どうしても出先で触りたくなっちゃう。絶対、我慢ができなくなるから……そこは線引きしておかないと、社会的信用を失いかねない」
「そう、でした……」
 きちんとした性格は、めぐみの長所だ。彼女のそういうところを、彩里は尊敬している。
 だから無理強いはできないが、言葉にならないさびしさが、ひたひたと潮位をあげていく。
「そっか。彩里ちゃんの新しい推しとの出会いは、ソシャゲかぁ」
「……はい」
「描いてるの?」
「……はい。SNSのアカウント、もうひとつ取って、そちらで。名前も変えて」
「次のイベントは、そっちのジャンルで申し込む?」
「……多分。描きたいお話があるので……熱いうちに」
 何をしていても、頭の中で、勝手にそのジャンルの妄想が始まってしまう。
 それが、今回の新刊の発行を危うくした一因だった。
 もともとの推しへの愛は、なにも変わらず自分の中にあるはずだったが、新しい萌えは暴力的に彩里を支配し始めており、コントロールすることができない。
「……いいことじゃない。なんで、そんな悲しい顔するの、彩里ちゃんったら」
 めぐみは、怒りも、悲しみもしていなかった。
 優しく微笑んで、ブランコに掛けた彩里の頭のてっぺんを撫でる。
 その柔らかな感触に泣きそうになって、彩里は奥歯を強く噛んだ。
 めぐみは裏表のないひとだ。言葉に嘘がないことは、彩里もわかっている。
 それでも。
 距離を感じた。温度差を感じた。
(……めぐみさん。本当に、わからないの……?)
 今、彩里が恐れていることは、言葉にできないものだ。
 今こそ「わかって」ほしいのに。
 こんな時こそ、なにも言わずに通じ合える、絆の力を借りたかった。
 しかし、彩里は感じ取ってしまう。互いの境界が溶けてしまったかのような、あの甘くて蕩けるような時間は、もう自分たちの間には戻ってこないのだと。
 いっそ失望をぶつけられる方がマシかもしれない、とさえ思う。
 嫌われて、嫌い返せば、いっそ離れる理由になる。
 こんなに近くにいるのに、あんなに仲良しだったのに、今、心が遠い、と感じることが、肌寒いような不安を連れて来るのだ。
「……悲しい、って言葉が正確かどうか、わからないんですけど。推しだけのことを、ずっと好きでいたかったのに、変わっていってしまう自分が、嫌で……」
「全然、悪いことじゃないよ。自分じゃどうしようもないのが恋でしょう? 推しが増えれば増えるだけ、彩里ちゃんの生きる楽しみも増えるじゃない」
「でも……」
 平等に好きでいようと意識したところで、一番をひいきしてしまうのが彩里の恋だ。
 脳内麻薬がもたらす多幸感の中、愛するものは、まるで神様のように神々しく見える代わり、それ以外のものの姿を感じられないくらい没頭してしまう。
 そのことしか考えられない、というくらい、特別な存在。
 それが彩里の愛だ。
(だから、……めぐみさんとも、終わりなんだ。続けられない。ずっと一緒に、いたくても)
 兆候は既にあった。
 彩里はこのところ、新しいSNSアカウントに入り浸っている。
 めぐみの知らない彩里は、フォロワー数が一万人を超える人気絵師だ。
 新しいジャンルはファン数が多く、公式からの供給が豊富で、二次創作界隈も活気がある。
 頻繁に描いてみたいと思う小ネタや新しい解釈が生まれて、飽きることがない。
 これまでに経験したことがないほどの数の人が、彩里の萌えを詰め込んだイラストに共感を寄せ、反応してくれる。
 その中には、新しい推しを巡って、めぐみとしていたようなコミュニケーションが叶いそうな相手も、何人かいた。
 初めて足を踏み入れた「覇権」の世界は、貴重なお仲間だからと嫌なところに目をつぶったりする必要のない、賑やかで明るい、自由な場所だった。
 新しい推しの新鮮な魅力はもちろん、彩里の中で、居心地がいいジャンルへの愛着も同時に芽生え始めている。
「安心して推せる」というのは、なんとすばらしいことなのだろう。
 彩里は今、そのジャンルで、現実が色褪せるほどの幸せや刺激を感じている。
 その蜜の前で、「前ジャンル」の友達の存在価値は、果たしてこれまで通りでいられるのか、どうか。
(一生を誓い合っての結婚、のはずなのに。めぐみさんを尊敬してる。感謝してる。大切にしたい、と思うけれど、……きっとわたしは、変わっちゃう)
 断絶の兆候は、まだ浅い窪みだ。
 遠くから見るだけなら、わからない程度かもしれない。
 しかし、彩里とめぐみは一緒に暮らしている。生活排水を流し込んだ窪みは、きっと次第に悪臭を発するどぶ川になるだろう。
 やはり、結婚など、するべきではなかったのだろうか。
「……めぐみさん。わたし、こわい」
 つらいなぁ、と思った。
 漫画の登場人物とは、何もかも違う、人の人生。なにもかも振り捨てて走っていく男の子にはなれないし、背中を全部預ける盟友だってつくれない。
 その上、たったひとつの愛を美味しく食べることも、与え返すこともできないなんて。
「なにがこわいの? 彩里ちゃん」
「……めぐみさんと、一番同士じゃいられなくなる……ことが」
「いられなくなるの?」
「めぐみさんにとって一番楽しい萌え語りをする相手は、わたしじゃなくなる。共通の推しも、だんだん描けなくなる。そうしたら、一緒にいる意味が……」
「?」
「意味が、なくなる」
「なくならないよ、だいじょーぶ」
 めぐみの声は、カラッとしている。
 以前は、この声を聞けば、安心だった。彩里のことを、何でも「わかってる」ひとだから。
 でも、だんだん、めぐみにわからない言葉が、彩里の中に増えていくのだ。
「彩里ちゃんと一緒にいるの、楽しいもの。彩里ちゃんのことが、大好きだもの。初めて一緒に暮らしたいと思った子だもの。だから、どうなったって、あなたは私の一番だよ」
「でも、……過去のものです。一緒にいて楽しかったのは、好きなものの濃い話ができるから。めぐみさんが認めてくれてた、根性のあるわたしだって、もうどこかに行っちゃった。仕事のコンクールだって、二度と結果は出せないと思う。……わたしは、いつまで、めぐみさんの好きなわたしでいられるんですか?」
 そして、あなたはいつまで――。
 流石にそれは口に出さなかったが、沈黙の後、むぎゅ、と突然鼻を摘ままれる。
「駄々っ子」
「…………」
「彩里ちゃんの心配性。そんなこと、今から考えてどうするの。嫌いになった時、初めて、どうしたらいいのか考えるよ」
「それじゃ遅いです。心の準備ができません」
「その時はいっぱい傷ついて? それが、配偶者の情ってものでしょうが」
「…………」
 傷つくのはやだな、と、自分勝手にも、思ってしまった。
 そんな彩里の心を読んだように、めぐみが言う。
「傷つけないよ。――傷つけたくない、簡単には。あなたみたいに傷つきやすい子を。だから、その時が来たら、できること全部してあがくつもり」
「それは……めぐみさんが努力し続けなきゃいけないってことですよね。倦怠期の夫婦みたいに?」
「…………」
 沈黙しているめぐみは、さぞあきれているように、彩里には思えた。
「……すみません。自信がないんです。わたしの中身に。きっと、からっぽだから」
 めぐみの強いまなざしを浴びると、まるで目の前に鏡が現れたように、自分がどれだけ薄汚れた表情をしているのかを思い知らされるようだ。
 彩里は俯いて謝り続けることしかできなかった。