それから約半年の間に、戯言みたいなプロポーズを、数えきれないほど受けた。
もちろん、悪い気などしない。いつでも補充できるただの友達という存在より、日本の法律では同時にひとりとしかできない結婚を望まれる方が、より「求められている」感じがする。「特別」と信じられる。
そうやって、めぐみの好意の上澄みだけを疲労の特効薬のように拝借していたら、バチが当たったのだろう。
とうとう彼女は指輪を持って、夜、彩里の地元駅に現れた。
半年経っても、彩里はフリーターのままだった。
シティホテルの宴会課の配膳を週五日、弁当詰めの工場夜勤を週三日。両方のシフトが入っている日は朝から深夜まで動きっぱなし。
そしてシティホテルでは、早々に古株のアルバイトたちに目をつけられてしまった。
「ちょっと、この子仕事中にお酒飲んでるんだけどー」
「えっ……違います、これ、ブショネのチェックです。ヴィンテージワインの抜栓を社員さんに頼まれて……」
「はー? ブショネ? 何それ」
「社員にできないことが、あんたにできるとでも?」
嘘ではなかったのだが、古株アルバイトには「口答えした生意気女」と受け取られ、宴会場がかぶるたびに意地悪なことを言われたり、偽の業務指示を受けたりして、閉口した。
そんな彩里を若い男性社員がかばったことで、更に火がつき、異性関係で嘘八百の噂を流されたり、トイレで肩をぶつけられたり、うっかりを装ってバケツの水をひっくり返されたりもした。
アルバイト求人の範囲なら、もう少しいい条件で働ける場所もきっとある筈だった。
しかし、なんとか仕事を終えて家に帰ると、もう転職活動に回す意欲が残っておらず、嫌がらせを受けながら、その職場に留まり続けた。
体力には自信があった筈なのに、その頃には、朝ベッドから起き上がるのにかなりの労力が必要になっていた。
それなのに、夜は目が覚めて眠れず、用もなくSNSのトレンドを追いかけてしまったりする。
原因不明の嘔吐感とめまいにも襲われた。
めぐみにはシティホテルを辞めるよう何度も説得されたが、日々人手不足の職場を放り出せず、また生活も不安で、第一歩を踏み出せなかった。
まだいける。まだ限界じゃないはず。
そう自分を励ましながら、環境を変えなければ手詰まりだという気持ちも強く、コンビニでナイトワーク専門の求人情報をもらって眺めるようになっていた。
そんなある日、めぐみが、一通のメールを彩里の携帯電話に送ってきたのだ。
『何時になってもいい、今日、仕事が終わったらあなたの地元駅に来て。大切な話がある』
――と。
忘れもしない、土砂降りの雨の日だった。
駅前のロータリーのアスファルトはがたがたに歪んでいて排水溝までの傾斜のつくりも甘く、溜まった雨水が川をつくっていた。
「彩里ちゃん。私の両親にはもう話したから、あいさつに来て。結婚しよう。両親とも、娘が増えるって喜んでる。……私、本気だから。あなたを、ここから攫うね」
仕事あがりに新幹線に飛び乗ったらしいスーツ姿で、めぐみは身動きができなくなっている彩里の左手を拾い上げると、返事も聞かずに指輪を嵌めた。
それから互いの親族にあいさつをし、彩里はめぐみが住んでいる西荻窪の2LDKのマンションに移り住んだ。
籍は入れたが、式も新婚旅行も、彩里の調子が落ち着くまで保留になった。
彩里は東京で転職活動を始めたものの、コンクールに出た頃の自信は霧散していたし、他の出場者に見つかって、やはり地方を捨てて東京に出てきたのかと思われるのも嫌だった。
それでも、なんとか気持ちを奮い立たせて外資系ラグジュアリーホテルの求人に応募し、面接にこぎつけた。
数日前にめぐみと下見がてら、ラウンジでアフタヌーンティーを楽しんだが、ハイセンスな内装や映えるスイーツはともかく、ベルトコンベア作業のように大勢の客をあしらうサーヴィスにショックを受けた彩里は、結局、面接の日は靴を履き終わることができず、人事担当者に断りの電話を入れてしまった。
つまらないことに固執し、わがままを言っている、という自覚はあった。
客が満足しているのなら、それでいい――はずなのに。
技術を修練し、心を込めて賓客を迎え、どんなトラブルも涼しい顔で何事もなかったようにおさめてしまう、古きよき日本のサーヴィス精神というものは、なじみのある同人用語に言い換えるとすると、もう「オワコン」「爆死」なのだろう。
そんなものへの愛着を抱え続けていても、未来はない。
彩里は、ジャンルへのハマり方を間違えたのだ。
一度これと決めたジャンル観を捨てて、みんなに支持される「覇権」解釈に乗り換えるというのは、彩里のオタク気質的に、とても難しいこと。
だったら、ジャンル自体を移る方が、まだマシだった。
好きな業界にいられないのなら、もう何でもいい。
手当たり次第に他業種の求人を漁る彩里に、めぐみは、
「焦らないで、ゆっくり考えればいいよ」
そう優しく声をかけてくれた。
大切なことだから、きちんと体調を回復して、受けたダメージから立ち直って、冷静な判断ができるようになってから決めても遅くはない、と。
「そういうわけにはいきません」
甘やかされるほど、彩里は反発し、早く生活を軌道に乗せなければ、と焦ったが、疲れ切った心と体は、気持ちになかなか追い付いてくれない。
最終的には、彩里は小さな印刷所でアルバイトをしながら、めぐみのリクエストに沿うかたちで、お絵描きと同人活動を再開した。
生活費は折半する約束だったが、めぐみから請求された家賃や水道光熱費は、想像よりずっと安かったし、めぐみが話題の店からお取り寄せする高級ハムや海産物、フルーツやスイーツなどのご相伴に預かることも、結構多い。
家事を多めにやって体で返そうとは思っても、一人暮らし歴が長いめぐみの部屋は時短家電での自動化がかなり進んでいて、あまりやることもないのだった。
めぐみに言えば、
「え? 普段のお礼? 気にしなくていいよ、そんなの。……でも、どうしてもって言うなら、彩里ちゃん、この映画一緒に見て⁉ すごく界隈で話題で気になってるんだけど、結構血みどろって言われてるのが気になって……ひとりじゃ怖いから」
そんなふうにかわされて、結局、いつもの平日夜のルーティンになってしまう。
原稿中は自分の本のスケジュールで互いにいっぱいいっぱいだったが、行き詰った時は、同じ家の中にいて、気がねなくなんでも相談できた。
締め切り前は、軽食を自分で買ってきて、原稿しながら好きに食べる。
ルームシェアのような気安さで、気付けば新婚生活最初の一年目が過ぎていたのだった。
◇
筆の進みが遅くて随分めぐみをハラハラさせてしまいつつ、なんとか新刊を発行した彩里は、日曜の同人誌即売会にサークル参加した後、同じジャンルのお仲間四名とめぐみと一緒に、池袋のダイニングバーで打ち上げ(アフター)をした。
アルコールで乾いた喉を潤し、一通り語り合い、すっかり出来上がった頃、トイレに行った子と入れ替わりに、すっと彩里の横に腰掛けたのは、めぐみだった。
「ヒダリさーん、今日はほんっと、お疲れ様でした」
「あ、ヨルノミさんも、お疲れ様です」
こういう場所で呼び合うのは、もちろん本名ではなく、お互いがそのジャンルで使っているペンネームだ。
同人仲間のプライベートは、詮索しないのが不文律になっている。
めぐみとは、最初のオフ会の後で本名を教え合って以降、ふたりきりの時は本名で呼び合ってきたが、本当はその方がイレギュラーなのだった。
「ヒダリさんの新刊、最高だった~……! 我慢できずに自分のスペースで読んで、泣いちゃって、自分のところに来てくれたお客さんにびっくりされちゃった。でもその方も、ヒダリさんの本、いつも買ってるファンの人だったみたい」
「恐れ入ります。……やだ、めぐ、じゃなくてヨルノミさん。あらたまって、恥ずかしい……」
「いやもう本当にすばらしくて! 家まで黙っていられないよー。ほんと、すご、もう一コマ一コマ額装したいくらいの神画力はいつものこととして、ラストシーンのあまりのエモさに、もう、……ファンです!」
「泣かないで……! ありがとうございます、でも、本当、このあたりで、勘弁してください、……めぐみさん」
他のひとならともかく、同居人から正面切ってファン宣言などされてしまったら、どういう顔をしていいかわからない。
彩里はほてる顔に手で風を送りながら、小声でめぐみに囁きかけた。
しかし、めぐみはかなり酔っ払っているらしく、溢れんばかりの感情を乗せて、熱く感想を語り続けた。
「そりゃ、普段は、目の前にいる女の子がヒダリさんと同一人物だって、うっかり忘れがちだけど。本当に本当に、ずっと好きだから。今のうちに感想言わせてね。本当に、新刊、最高でした。ラスト、夜の海に浮かび上がった大きな吹き出しの、声の質感とか、吐息に含まれる湿度とか、そういうのはありありと伝わってくるのに、あの子がなにを言おうとしたのかは、わかるようでわからなくって、なんとも言えない切ない余韻で。きっとあの子の声、歪んで、溶けて、消えていく、泡沫なんだって思った」
「泡沫……」
「もちろん、ヒダリさんがどういうつもりで描いたのかは、わからないよ。もしかしたら、セリフの中身を入れ忘れたとか、そういうあれかもしれないし」
「いえ、それは流石に、ないです。敢えて、です」
「だよね。すごく、彼が言うはずだったこと――に、想像を掻き立てられた。描かれてないからこそ」
「ヨルノミ先生の手で、続きを書いてくださっていいですよ。二次創作の二次創作として」
「こんなに美しいお話の続き、書けるわけなーい!」
めぐみがこれほど酔うのは珍しいことだ、と思いながら、熱に浮かされたような早口でしゃべる彼女を見ていると、向かいに座った仲間が茶々を入れてくる。
「そこのごふーふ、見せつけてくれますな~」
「あれ、ご結婚されてるんでしたっけ。ヨルノミさんとヒダリさんって」
「あ、はい……」
「へえ~。リアルゆりっぷる、知り合いで初めて見ました」
百合、では、ない。
彩里は一瞬訂正しようかと迷ったが、酔っている上なにも考えずに口走った感じの仲間の顔に、何も言えなくなった。
別の仲間が、彩里の表情の翳りには気付かず、うっとりするような息をつく。
「いいなぁ。オタ友との結婚って、ある意味、夢ですよね。うちもオタ婚なんですけど、旦那と趣味が合わなくて、萌え語りはできないから、羨ましい」
「趣味が近い分、離婚の原因が、うっかり逆カプにはまった、とかにならないよう、気を付けますよ」
めぐみの混ぜっかえしで、どっ、と笑いが起こった後、一座の話題はたちまち、最近のジャンル内学級会といったゴシップ話に移っていった。
価値観のズレ、その崖のふちで、彩里はいつも、言葉を失ってしまう。
霧の向こう、崖のあちら側に居住しているひとの言葉は、絶望的に聞こえない。
それとも、許容範囲の狭い彩里自身が、勝手に耳をふさいでいるだけなのだろうか。
打ち上げを終えての帰路、自分の中で一通り反省会を済ませた彩里は、率直な気持ちでめぐみを称えた。
「……めぐみさんは、上手ですよね。大勢がいるところで、さらっと大人の振る舞い。すごいです……」
「それなりに、社会人歴、長いからね。ふつう、ふつう」
めぐみの方は、そんな当たり前のことで褒められても、と思っているような雰囲気だったが、やはり、すごいことだ、と彩里には思える。
「彩里ちゃんだって、出会った当初から考えれば、すごく大人になったでしょう。あの頃は過激派で、オフ会の話題なんて、全部解釈違いで」
「わ、忘れてください……!」
「顔カプ好きなんて、愛がない、安易、許せない! って」
「黒歴史すぎる……! ごめんなさい……! わすれて……」
めぐみと出会った頃の発言を持ち出され、彩里は顔を真っ赤にした。
二次創作はどれも、原作から大きくそれた、勝手な妄想に過ぎない。
だからこそ、意見の違う他人を見ると、自分の感じたことすべてが塗りつぶされてしまうような気がして、怖くて、攻撃的な態度になっていた。
本当にどうしようもないオタクだ、と思う。
「忘れない。だって、あれが彩里ちゃんだもの。あの愛の激しさが、今、神同人誌を作っているんだよ。それに、誰かに向かって攻撃するんじゃない、私とふたりきりになるまで愚痴を我慢する客観性だって、ちゃんと持ってた」
「今みたいなSNS文化があったら、確実に炎上してましたね、わたし。……若気の至りということに、しておいて……ください」
「そうだね。あと五年も経てば、彩里ちゃんだって、如才なく振る舞えるようになってるよ。年を取るだけ、いろんなことが楽になる。……でも、今の彩里ちゃんのままでも、私はいいと思う。荷物が多くって、かわいくって、こんなに愛おしいものはそうないもの」
「かわいいって……。外から見てそうでも、わたしが、生きづらいままじゃ、ないですか」
他人ごとだと思って、と抗議すると、めぐみは声を出して笑った。
「一応、彩里ちゃんにも、生きづらい自覚はあるんだ」
「あります。わかってて、なかなか直せないだけです。…………」
いつも買い物をするスーパーマーケットを通り過ぎ、住宅街の中を歩いていくうちに、道端の児童公園に目が吸い寄せられていた。
どうして、と思った瞬間、町内会の名入りの白いテントや提灯や備品の類が畳まれ、公園の隅に積み重なっているのを見つける。
郷愁に似たものが、彩里の胸の深いところを横切っていった。
「今日、町のお祭りだったのかな……」
「ほんとだ。朝はバタバタしてて気付かなかった」
彩里たちが同好の士たちと楽しんでいる間に、ご近所さんたちも、ハレの日を過ごしていたのだ。
「こどもの頃って、何気なくお祭りに参加してたけど、そっか、町内会みたいなものに入らないと、そもそも、あることもわからないものなんですね」
「そうだね。うちのマンション、間取りがファミリー向けではないし、お付き合いもないし」
参加するかと誘われたところで、彩里たちは迷わず同人誌即売会の予定を優先させるだろう。
各々、自分の居場所で、生きていく。それだけのことに過ぎないのだが、幼い頃、当たり前に受け取っていた招待状が、いつの間にか永遠に受け取れない立場になっていたことは、彩里をほんの少し、感傷的にさせた。
彩里は公園に足を踏み入れる。
その空気に触れることもかなわないまま、終わり、片付けられ、あとは運び去られるばかりのお祭りの残骸に胸を疼かせていると、なにも言わずについて来ためぐみが、そっと彩里の手を握った。
体温のあたたかさに、気持ちが緩む。
「……めぐみさん。わたし、めぐみさんに話さなきゃならないことがある」
彩里は、胸の奥で燻ぶらせていた話を切り出しながら、めぐみの手を柔らかくほどいた。
砂埃をかぶったブランコに腰掛け、鎖を両手で持つ。
その感触は秘密を封じた錠前のように冷たく、錆びた鉄のにおいがした。
ひとまずふたりとも新刊を発行でき、無事に同人誌即売会の一日を終えることができた。
ひと区切りついた、と、彩里は判断し、隠し事を解き放つ覚悟を固める。
「わたし、……好きなひとができたんです」
「……そうなの? 話、聞かせて?」
彩里はどきどきしながらスマートフォンを出し、軽く振ってみせる。
「……この中に、います」
「もしかして、ソシャゲ? 新しく、なにか始めたんだ?」
「はい。これです」
彩里はアプリを立ち上げると、ソーシャルゲームのタイトル画面を見せる。
「あー、それ。SNSでよく見るやつだ。すごく流行ってるよね!」
「そうなんです! グラフィックも綺麗だし、ストーリーも良くて、声優さんも間違いなくて。何よりすっごく良い不憫キャラがいるんです! 音出していいですか?」
「あっ音楽かっこいい! 背景も本格的だ、最近のゲームはすごいんだね」
めぐみの声のテンションが一瞬で高くなる。
話を持ちかけた時とは違い、明らかに肩の力が抜けた笑顔になっていた。
彩里の『好きなひと』が安定の二次元で、安心しているのだろう。
めぐみの反応が好意的だったので、彩里の口の滑りもどんどん良くなる。
彩里も、早く「たいしたことじゃない」と肩の荷を下ろしたかった。
でも、まだ気は抜けない。
「わたしも、昼休憩の時間潰しに始めたんですけど、シナリオの吸引力がやばくて、一瞬でハマっちゃって! ステージごとに、舞台になる国が変わるので新鮮にプレイできるし、ミニゲームも中毒性があって楽しいですよ。めぐみさんも、始めてみません?」
「…………」
めぐみの口が、「あ」の形で固まったまま、短い沈黙を作る。
付き合いの長さゆえだろう。彩里にはめぐみが話す前から、言葉の内容がわかってしまった。
「あー……ごめんね。彩里ちゃん。あのね、ソシャゲは、どんなに興味があっても、やらないことにしてるの。仕事柄、自分の携帯電話も、いつも持ち歩くからさ。推しができるほどハマったら、どうしても出先で触りたくなっちゃう。絶対、我慢ができなくなるから……そこは線引きしておかないと、社会的信用を失いかねない」
「そう、でした……」
きちんとした性格は、めぐみの長所だ。彼女のそういうところを、彩里は尊敬している。
だから無理強いはできないが、言葉にならないさびしさが、ひたひたと潮位をあげていく。
「そっか。彩里ちゃんの新しい推しとの出会いは、ソシャゲかぁ」
「……はい」
「描いてるの?」
「……はい。SNSのアカウント、もうひとつ取って、そちらで。名前も変えて」
「次のイベントは、そっちのジャンルで申し込む?」
「……多分。描きたいお話があるので……熱いうちに」
何をしていても、頭の中で、勝手にそのジャンルの妄想が始まってしまう。
それが、今回の新刊の発行を危うくした一因だった。
もともとの推しへの愛は、なにも変わらず自分の中にあるはずだったが、新しい萌えは暴力的に彩里を支配し始めており、コントロールすることができない。
「……いいことじゃない。なんで、そんな悲しい顔するの、彩里ちゃんったら」
めぐみは、怒りも、悲しみもしていなかった。
優しく微笑んで、ブランコに掛けた彩里の頭のてっぺんを撫でる。
その柔らかな感触に泣きそうになって、彩里は奥歯を強く噛んだ。
めぐみは裏表のないひとだ。言葉に嘘がないことは、彩里もわかっている。
それでも。
距離を感じた。温度差を感じた。
(……めぐみさん。本当に、わからないの……?)
今、彩里が恐れていることは、言葉にできないものだ。
今こそ「わかって」ほしいのに。
こんな時こそ、なにも言わずに通じ合える、絆の力を借りたかった。
しかし、彩里は感じ取ってしまう。互いの境界が溶けてしまったかのような、あの甘くて蕩けるような時間は、もう自分たちの間には戻ってこないのだと。
いっそ失望をぶつけられる方がマシかもしれない、とさえ思う。
嫌われて、嫌い返せば、いっそ離れる理由になる。
こんなに近くにいるのに、あんなに仲良しだったのに、今、心が遠い、と感じることが、肌寒いような不安を連れて来るのだ。
「……悲しい、って言葉が正確かどうか、わからないんですけど。推しだけのことを、ずっと好きでいたかったのに、変わっていってしまう自分が、嫌で……」
「全然、悪いことじゃないよ。自分じゃどうしようもないのが恋でしょう? 推しが増えれば増えるだけ、彩里ちゃんの生きる楽しみも増えるじゃない」
「でも……」
平等に好きでいようと意識したところで、一番をひいきしてしまうのが彩里の恋だ。
脳内麻薬がもたらす多幸感の中、愛するものは、まるで神様のように神々しく見える代わり、それ以外のものの姿を感じられないくらい没頭してしまう。
そのことしか考えられない、というくらい、特別な存在。
それが彩里の愛だ。
(だから、……めぐみさんとも、終わりなんだ。続けられない。ずっと一緒に、いたくても)
兆候は既にあった。
彩里はこのところ、新しいSNSアカウントに入り浸っている。
めぐみの知らない彩里は、フォロワー数が一万人を超える人気絵師だ。
新しいジャンルはファン数が多く、公式からの供給が豊富で、二次創作界隈も活気がある。
頻繁に描いてみたいと思う小ネタや新しい解釈が生まれて、飽きることがない。
これまでに経験したことがないほどの数の人が、彩里の萌えを詰め込んだイラストに共感を寄せ、反応してくれる。
その中には、新しい推しを巡って、めぐみとしていたようなコミュニケーションが叶いそうな相手も、何人かいた。
初めて足を踏み入れた「覇権」の世界は、貴重なお仲間だからと嫌なところに目をつぶったりする必要のない、賑やかで明るい、自由な場所だった。
新しい推しの新鮮な魅力はもちろん、彩里の中で、居心地がいいジャンルへの愛着も同時に芽生え始めている。
「安心して推せる」というのは、なんとすばらしいことなのだろう。
彩里は今、そのジャンルで、現実が色褪せるほどの幸せや刺激を感じている。
その蜜の前で、「前ジャンル」の友達の存在価値は、果たしてこれまで通りでいられるのか、どうか。
(一生を誓い合っての結婚、のはずなのに。めぐみさんを尊敬してる。感謝してる。大切にしたい、と思うけれど、……きっとわたしは、変わっちゃう)
断絶の兆候は、まだ浅い窪みだ。
遠くから見るだけなら、わからない程度かもしれない。
しかし、彩里とめぐみは一緒に暮らしている。生活排水を流し込んだ窪みは、きっと次第に悪臭を発するどぶ川になるだろう。
やはり、結婚など、するべきではなかったのだろうか。
「……めぐみさん。わたし、こわい」
つらいなぁ、と思った。
漫画の登場人物とは、何もかも違う、人の人生。なにもかも振り捨てて走っていく男の子にはなれないし、背中を全部預ける盟友だってつくれない。
その上、たったひとつの愛を美味しく食べることも、与え返すこともできないなんて。
「なにがこわいの? 彩里ちゃん」
「……めぐみさんと、一番同士じゃいられなくなる……ことが」
「いられなくなるの?」
「めぐみさんにとって一番楽しい萌え語りをする相手は、わたしじゃなくなる。共通の推しも、だんだん描けなくなる。そうしたら、一緒にいる意味が……」
「?」
「意味が、なくなる」
「なくならないよ、だいじょーぶ」
めぐみの声は、カラッとしている。
以前は、この声を聞けば、安心だった。彩里のことを、何でも「わかってる」ひとだから。
でも、だんだん、めぐみにわからない言葉が、彩里の中に増えていくのだ。
「彩里ちゃんと一緒にいるの、楽しいもの。彩里ちゃんのことが、大好きだもの。初めて一緒に暮らしたいと思った子だもの。だから、どうなったって、あなたは私の一番だよ」
「でも、……過去のものです。一緒にいて楽しかったのは、好きなものの濃い話ができるから。めぐみさんが認めてくれてた、根性のあるわたしだって、もうどこかに行っちゃった。仕事のコンクールだって、二度と結果は出せないと思う。……わたしは、いつまで、めぐみさんの好きなわたしでいられるんですか?」
そして、あなたはいつまで――。
流石にそれは口に出さなかったが、沈黙の後、むぎゅ、と突然鼻を摘ままれる。
「駄々っ子」
「…………」
「彩里ちゃんの心配性。そんなこと、今から考えてどうするの。嫌いになった時、初めて、どうしたらいいのか考えるよ」
「それじゃ遅いです。心の準備ができません」
「その時はいっぱい傷ついて? それが、配偶者の情ってものでしょうが」
「…………」
傷つくのはやだな、と、自分勝手にも、思ってしまった。
そんな彩里の心を読んだように、めぐみが言う。
「傷つけないよ。――傷つけたくない、簡単には。あなたみたいに傷つきやすい子を。だから、その時が来たら、できること全部してあがくつもり」
「それは……めぐみさんが努力し続けなきゃいけないってことですよね。倦怠期の夫婦みたいに?」
「…………」
沈黙しているめぐみは、さぞあきれているように、彩里には思えた。
「……すみません。自信がないんです。わたしの中身に。きっと、からっぽだから」
めぐみの強いまなざしを浴びると、まるで目の前に鏡が現れたように、自分がどれだけ薄汚れた表情をしているのかを思い知らされるようだ。
彩里は俯いて謝り続けることしかできなかった。
キィ、と軋むような音がして、視界が揺れる。
めぐみが、彩里の乗っているブランコを揺らしたのだ。こんなふうにして、むかし女友達と遊んだような気もするが、大好きだったはずのその子の名前は、思い出すことができない。
しかし、ゆらゆらと軽く前後に揺らされているうちに、波打っていた気分が凪いでいくのがわかる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。やっていけるよ、きっと」
「なにが、大丈夫なんですか? めぐみさん。口先でごまかそうと……」
「確かに、おまじないみたいなものかもしれない。でもね、人の『願い』って、意外とすごいんだよ。理屈で割り切れないことでも、強い『願い』があれば。きっと、心配事は、うまくいくよ」
「……めぐみさんって、そういうこと言うキャラでしたっけ……?」
「意外性とか二面性? 妄想の余地があって、彩里ちゃん好きでしょ?」
うまく煙に巻かれている、という気がしたが、ブランコの上でゆったりと揺られているうちに、イベント後で、疲れていることを思い出していた。
めぐみはここでこれ以上この話題を詰めるつもりはないようだし、今日のところは早く家に帰って、休んだ方がいいのだろう。
明日は月曜。仕事だ。
「よくわかりませんけど、……宿題にして、解釈を考えます」
彩里はブランコを降りた。それが合図のように、ふたり揃って、公園の出口に向かって歩き出す。どちらともなくつないだ手は、あたたかかった。
住宅街の細い路地を歩きながら、彩里は『願い』のことを考える。
そして、ふと思ったことを、話し出した。
「そういえば。めぐみさん、私の新刊、褒めてくださってありがとうございました。でも、吹き出しは、泡沫のつもりでは描いていないんです」
「へえ。じゃあ、なんだろう?」
「……考えて、ください」
「ふうん。なるほど? 私にも宿題をくれる感じか」
めぐみは口端を持ち上げるようにして笑った。
少しだけ、仕返しになっていればいい。そう思いながら、彩里も笑い返した。
「好き。めぐみさん、 」
ふんわりと丸い吹き出しを描くのが、彩里はまんが作業の中でも特に好きだった。
いつからか彩里は生身の自分においても、風船を膨らませるつもりで息を吸い、吐いて、言葉を発している。
本当の『願い』は薄くて柔軟な膜に守られたまま、人の数だけ、意味や解釈が風船の上に貼られ、勝手に深読みされていく。
めぐみは、これから、彩里の半身にも近しいひと、ではなくなる。
できてしまった溝を埋めるため、不完全な言葉を、不完全だとわかりながらも数多く費やしていくしか、なくなってしまった。
時に泡沫のように消えるものがあったとしても、彩里が諦めない限り、贈り物は――続く。
風船は、ひみつも後ろめたさも、本当に大切な想いものせて、何度でも何度でも、大切なひとのところへ飛んで行くのだろう。
いつか、隔たりの崖を越えるまで。
了