「……あの、天巳様。そのくらいで、どうか……」
「何を言う。足りぬくらいだ」
「ですが、その、これでは私……」
――溺れてしまいそうです。
くぐもったみちるの声が今にも泣き出しそうだった。頼りなげに空を掻く腕を掴んで引き寄せれば、みちるは天巳の腕の中で微笑む。花がほころぶような笑みだ。
「……花も霞むな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。それより溺れるとは些か言い過ぎだろう」
「何を仰いますか! 見てください、このお着物の数! 衣桁で迷路が作れそうですし反物は引き出しから溢れて本当に溺れるかと思ったのですよ!」
珍しく膨れ面のみちるが指した先には、彼女の言う通り、部屋じゅうが布地で溢れかえっていた。
衣桁に掛けられた着物は色も柄も様々だ。目につく殆どのものには波や流線を描かれているが、水底に居るみちるを退屈させないようにと慮ってか、野山に咲く草花をあしらったものも数多い。可愛らしい兎や猫が飛び跳ねているものもあり、天巳の意外な遊び心も覗かせる品揃えとなっている。
そう。これらすべては、天巳がみちるのために用意させた衣装なのだ。
「溺れるなど大袈裟だな。考えてみろ。この部屋に水を満たすとしたらまだ天井に着くまでの余白は山とある。つまり、布地が畳から天井まで埋まらねばそなたは溺れぬというわけだ。安心しろ」
「水を基準にされましても……」
淡々と謎の理論を説く天巳に脱力したみちるは、眉を八の字にして天井を仰ぎ見た。確かに、まだまだ余裕はありそうだ。
名実ともに天巳の雨巫女となったみちるは、天巳に輿入れすることになった。といってもみちるは天涯孤独の身であり、天巳も似たようなものである。家を背負っての婚姻とはまったく異なる縁組だ。
極端な話、互いに挨拶ひとつで済むような話ではあるのだが、天巳は離れていた十六年分を埋め合わせしようとしているらしい。ひっきりなしにやってくる贈り物がみちるの元に押し寄せていた。
この部屋に収められたのは衣装であり、身につける小物は別の部屋を占拠している。
他にも年頃の少女にとって慰めとなるような手毬や貝合わせなどの遊び道具を収める部屋もあり、知見を得るための書物や娯楽のための草子に至っては、別に書庫を建てて収納することになってしまった。
元々天巳がこの水底の宮に備えていた書物もあるからして、みちるは一生分の読み物に困らなさそうである。
「あの、天巳様? どうやってあれらを用意されたのでしょうか」
衣装部屋を出て、別の棟に渡りながらぽつりぽつりと言葉を交わす。さしたる距離ではないが、この雨の降りしきる宮では傘が必須だ。天巳から贈られた傘をそっと開けば、みちるの頭上には小さな花畑が広がった。わあ、と感嘆を漏らしたが、子どもっぼいふるまいだったかもしれないと後になって照れくさくなる。気を取り直して話を繋ぐために持ち出したのは、怒涛の贈り物攻勢の最中には圧倒されすぎて聞くことすらできなかった問いである。軽い気持ちで尋ねたみちるに、天巳も同じく事もなげに答えた。
「雫たちの手によるものだ。織るもの、拵えるもの、写すもの……それぞれ得手がある。婚儀までに間に合うよう指示してある」
その答えに、みちるの血の気がさっと引いた。雫に任せてあると言うが、雫一滴あたりの仕事量がどれほどのものかみちるにはわからない。蒸発するまで働かせるなど非道なことを強いているのではと、かつての自分や父に課された苦役を思い出し、震える手で天巳の腕にしがみついた。
「あ、あの……私などのために、雫さんたちに無理をさせないでください……ね? もう充分なものを頂いておりますので、これ以上は罰が当たります」
「罰? おかしなことを言う。あれほどの献身、無碍にする方が余程無体ぞ。そなたも雫の主となるのだから眷属の使役には慣れておけ」
しかし、天巳の答えは更にみちるを混乱させた。自分が、雫の主になるというのか。
ぱちぱちと目を瞬くみちるに、天巳は苦笑して頭を撫でる。恋人を愛おしむというより、幼子を慈しむ手つきだ。
「そなたは雨巫女であり、かつ雨龍たる我が妻となる。この水底の宮の水はすべて、そなたと我のものだ」
「それは……責任重大です、ね。まずはお顔とお名前を覚えるところから始めませんと」
ごくりと喉を鳴らしたみちるが大真面目に頷くと、天巳はふっと笑って視線を外した。
「大半は仮初の姿で充分だ。名前などつけたらうるさいだけだぞ。シノとシュウを見てみろ」
「でも、シノちゃんとシュウちゃんにお友達ができたら、きっと賑やかで楽しいと思います」
「あれ以上賑やかにするのか……」
今でもあの雫ふたりを持て余し気味な天巳は想像してうんざりしたようだが、みちるは傘を持つ手を打って喜んでいる。
そんな彼女を橋のたもとまで連れてくると、天巳は一度足を止めた。
「……あの神剣は、浄めて我が預かっている。まじないが解けた今、本来の役割を終えた」
「……はい」
雨龍と雨巫女を繋ぐ神剣。一度はみちるの母の手によって漆黒に染まったことで雨龍との繋がりを断ったが、父は何も言わず奥宮に留めおき続けた。それが意図せずとはいえみちるの血を受けたことで雨龍を呼ぶよすがになったとは、これも奇しき縁の為せる技なのか。
天巳はゆっくり橋を渡り始める。太鼓橋の橋桁は角度が急だ。みちるに手を差し伸べれば、戸惑いなく手が握り返された。
「これからはあれに新たな役割を与えようと思う」
「新たな、とは」
「そなたの――花嫁の懐剣だ。禍を断ち、未来を切り拓く役目を担うにはうってつけだろう。あの神剣には、そなたの両親の真心が込められている。肌身離さずにいるといい」
「……っ、は……い、ありがとう、ございます……!」
一度、涙を流してから、みちるの涙腺はすぐに熱く緩み、ほたほたと頬を濡らしてばかりだ。太鼓橋の頂に至って足を止め、すんと鼻を鳴らしながらなんとかしゃくりあげるのを抑え込んでいると、天巳は懐紙を取り出した。素直にそれを受け取ったみちるが顔を背けて身嗜みを整え直す。
「そう泣くな。そなたの涙で池ができたとあっては我の至らなさを喧伝しているようではないか」
「あ、天巳様は悪くないです……」
「いやいや、これからはそなたの加護に染められるのを待つ無力な雨龍だからな。そう泣かれては伏して頭を垂れるしかあるまい」
――加護に、染められる?
みちるはほんのり赤らんだ目で天巳を見上げる。天巳は軽く頷いて言葉を続けた。
「知っての通り、我が瞳は加護を捨てたことでこのようになった。しかし、霊力に満ちたそなたと結ばれれば、本来の色に戻る日も遠くなかろう」
「それ……は……また、天巳様と、お揃いになれる……ということですか……?」
濡れてくしゃくしゃになった懐紙を握り込みながら、みちるはひと言ひと言、確かめるように問いただす。あまりに前のめりな姿勢に悪戯心の湧いた天巳はあえてそっけなく「そうだな」とだけ呟いた。
するとまたひと粒、澄んだ熱い雫がみちるから溢れ出ずる。それを慰めるように雨はより細く、しとやかに傘を撫でては静かに消える。
「まったく……こうも泣かせていたら、そなたの両親にまた引き離されそうだ」
「……それなら、もう二度と……離れぬように、手を繋いでいてくださりませ」
みちるが傘の下でそっと天巳の袂を引く。天巳は己の傘を手放すと、みちるのそれも傾けて、何にも遮られない彼女を強く抱きしめた。
「……っ、あ、天巳、様」
「手を繋ぐだけとは欲がない。我はそなたが丸ごと欲しくてたまらないというのに」
「わ、私も……天巳様が」
ほしいです、と言いきることができずに恥じらうみちるの唇を、天巳の親指が撫でて誘う。
「まだ言えぬか。構わぬ。水が染み入りほころぶ花を待つ愉しみもあろう」
そのまま己の目の高さに抱き上げたみちるに、天巳はそっと顔を近づける。思わせぶりな目配せに頬を染めつつ、みちるは目を閉じた。
雨の味がするくちづけを交わし合う。
ふたりの胸に満ちていく想いが水底に降り積もる。
足元に咲いた傘の花が、ふたりを寿ぐように咲いていた。
「何を言う。足りぬくらいだ」
「ですが、その、これでは私……」
――溺れてしまいそうです。
くぐもったみちるの声が今にも泣き出しそうだった。頼りなげに空を掻く腕を掴んで引き寄せれば、みちるは天巳の腕の中で微笑む。花がほころぶような笑みだ。
「……花も霞むな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。それより溺れるとは些か言い過ぎだろう」
「何を仰いますか! 見てください、このお着物の数! 衣桁で迷路が作れそうですし反物は引き出しから溢れて本当に溺れるかと思ったのですよ!」
珍しく膨れ面のみちるが指した先には、彼女の言う通り、部屋じゅうが布地で溢れかえっていた。
衣桁に掛けられた着物は色も柄も様々だ。目につく殆どのものには波や流線を描かれているが、水底に居るみちるを退屈させないようにと慮ってか、野山に咲く草花をあしらったものも数多い。可愛らしい兎や猫が飛び跳ねているものもあり、天巳の意外な遊び心も覗かせる品揃えとなっている。
そう。これらすべては、天巳がみちるのために用意させた衣装なのだ。
「溺れるなど大袈裟だな。考えてみろ。この部屋に水を満たすとしたらまだ天井に着くまでの余白は山とある。つまり、布地が畳から天井まで埋まらねばそなたは溺れぬというわけだ。安心しろ」
「水を基準にされましても……」
淡々と謎の理論を説く天巳に脱力したみちるは、眉を八の字にして天井を仰ぎ見た。確かに、まだまだ余裕はありそうだ。
名実ともに天巳の雨巫女となったみちるは、天巳に輿入れすることになった。といってもみちるは天涯孤独の身であり、天巳も似たようなものである。家を背負っての婚姻とはまったく異なる縁組だ。
極端な話、互いに挨拶ひとつで済むような話ではあるのだが、天巳は離れていた十六年分を埋め合わせしようとしているらしい。ひっきりなしにやってくる贈り物がみちるの元に押し寄せていた。
この部屋に収められたのは衣装であり、身につける小物は別の部屋を占拠している。
他にも年頃の少女にとって慰めとなるような手毬や貝合わせなどの遊び道具を収める部屋もあり、知見を得るための書物や娯楽のための草子に至っては、別に書庫を建てて収納することになってしまった。
元々天巳がこの水底の宮に備えていた書物もあるからして、みちるは一生分の読み物に困らなさそうである。
「あの、天巳様? どうやってあれらを用意されたのでしょうか」
衣装部屋を出て、別の棟に渡りながらぽつりぽつりと言葉を交わす。さしたる距離ではないが、この雨の降りしきる宮では傘が必須だ。天巳から贈られた傘をそっと開けば、みちるの頭上には小さな花畑が広がった。わあ、と感嘆を漏らしたが、子どもっぼいふるまいだったかもしれないと後になって照れくさくなる。気を取り直して話を繋ぐために持ち出したのは、怒涛の贈り物攻勢の最中には圧倒されすぎて聞くことすらできなかった問いである。軽い気持ちで尋ねたみちるに、天巳も同じく事もなげに答えた。
「雫たちの手によるものだ。織るもの、拵えるもの、写すもの……それぞれ得手がある。婚儀までに間に合うよう指示してある」
その答えに、みちるの血の気がさっと引いた。雫に任せてあると言うが、雫一滴あたりの仕事量がどれほどのものかみちるにはわからない。蒸発するまで働かせるなど非道なことを強いているのではと、かつての自分や父に課された苦役を思い出し、震える手で天巳の腕にしがみついた。
「あ、あの……私などのために、雫さんたちに無理をさせないでください……ね? もう充分なものを頂いておりますので、これ以上は罰が当たります」
「罰? おかしなことを言う。あれほどの献身、無碍にする方が余程無体ぞ。そなたも雫の主となるのだから眷属の使役には慣れておけ」
しかし、天巳の答えは更にみちるを混乱させた。自分が、雫の主になるというのか。
ぱちぱちと目を瞬くみちるに、天巳は苦笑して頭を撫でる。恋人を愛おしむというより、幼子を慈しむ手つきだ。
「そなたは雨巫女であり、かつ雨龍たる我が妻となる。この水底の宮の水はすべて、そなたと我のものだ」
「それは……責任重大です、ね。まずはお顔とお名前を覚えるところから始めませんと」
ごくりと喉を鳴らしたみちるが大真面目に頷くと、天巳はふっと笑って視線を外した。
「大半は仮初の姿で充分だ。名前などつけたらうるさいだけだぞ。シノとシュウを見てみろ」
「でも、シノちゃんとシュウちゃんにお友達ができたら、きっと賑やかで楽しいと思います」
「あれ以上賑やかにするのか……」
今でもあの雫ふたりを持て余し気味な天巳は想像してうんざりしたようだが、みちるは傘を持つ手を打って喜んでいる。
そんな彼女を橋のたもとまで連れてくると、天巳は一度足を止めた。
「……あの神剣は、浄めて我が預かっている。まじないが解けた今、本来の役割を終えた」
「……はい」
雨龍と雨巫女を繋ぐ神剣。一度はみちるの母の手によって漆黒に染まったことで雨龍との繋がりを断ったが、父は何も言わず奥宮に留めおき続けた。それが意図せずとはいえみちるの血を受けたことで雨龍を呼ぶよすがになったとは、これも奇しき縁の為せる技なのか。
天巳はゆっくり橋を渡り始める。太鼓橋の橋桁は角度が急だ。みちるに手を差し伸べれば、戸惑いなく手が握り返された。
「これからはあれに新たな役割を与えようと思う」
「新たな、とは」
「そなたの――花嫁の懐剣だ。禍を断ち、未来を切り拓く役目を担うにはうってつけだろう。あの神剣には、そなたの両親の真心が込められている。肌身離さずにいるといい」
「……っ、は……い、ありがとう、ございます……!」
一度、涙を流してから、みちるの涙腺はすぐに熱く緩み、ほたほたと頬を濡らしてばかりだ。太鼓橋の頂に至って足を止め、すんと鼻を鳴らしながらなんとかしゃくりあげるのを抑え込んでいると、天巳は懐紙を取り出した。素直にそれを受け取ったみちるが顔を背けて身嗜みを整え直す。
「そう泣くな。そなたの涙で池ができたとあっては我の至らなさを喧伝しているようではないか」
「あ、天巳様は悪くないです……」
「いやいや、これからはそなたの加護に染められるのを待つ無力な雨龍だからな。そう泣かれては伏して頭を垂れるしかあるまい」
――加護に、染められる?
みちるはほんのり赤らんだ目で天巳を見上げる。天巳は軽く頷いて言葉を続けた。
「知っての通り、我が瞳は加護を捨てたことでこのようになった。しかし、霊力に満ちたそなたと結ばれれば、本来の色に戻る日も遠くなかろう」
「それ……は……また、天巳様と、お揃いになれる……ということですか……?」
濡れてくしゃくしゃになった懐紙を握り込みながら、みちるはひと言ひと言、確かめるように問いただす。あまりに前のめりな姿勢に悪戯心の湧いた天巳はあえてそっけなく「そうだな」とだけ呟いた。
するとまたひと粒、澄んだ熱い雫がみちるから溢れ出ずる。それを慰めるように雨はより細く、しとやかに傘を撫でては静かに消える。
「まったく……こうも泣かせていたら、そなたの両親にまた引き離されそうだ」
「……それなら、もう二度と……離れぬように、手を繋いでいてくださりませ」
みちるが傘の下でそっと天巳の袂を引く。天巳は己の傘を手放すと、みちるのそれも傾けて、何にも遮られない彼女を強く抱きしめた。
「……っ、あ、天巳、様」
「手を繋ぐだけとは欲がない。我はそなたが丸ごと欲しくてたまらないというのに」
「わ、私も……天巳様が」
ほしいです、と言いきることができずに恥じらうみちるの唇を、天巳の親指が撫でて誘う。
「まだ言えぬか。構わぬ。水が染み入りほころぶ花を待つ愉しみもあろう」
そのまま己の目の高さに抱き上げたみちるに、天巳はそっと顔を近づける。思わせぶりな目配せに頬を染めつつ、みちるは目を閉じた。
雨の味がするくちづけを交わし合う。
ふたりの胸に満ちていく想いが水底に降り積もる。
足元に咲いた傘の花が、ふたりを寿ぐように咲いていた。