「長い長い冬が明けました。緑の大地を照らすあたたかな光! これもすべて――様が賜った御加護のおかげにございます」
「ありがとう、――様! これ、ぼくたちが摘んできたお花だよ。――様はお花、好き?」
「わたくしたちもより一層、分家としての矜恃を持ってご本家を支えるよう励みます。――様、ご安心くださいね」
 
 どこかで聞いた声が次々とみちるの内に満ちていく。懐かしく、あたたかく、そしてどこか――物悲しい。
 しゃん、しゃん、と鈴の音が響いた。続いて笛の音が天へと上っていく。これも聞き覚えのある音色だ。
 
「この祠では――様を祀っているの。見て、この目が覚めるような金色! 姿が見えなくても、ここからわたしたちを見守ってくださるのね」
 
 太陽の光を受けて誇らしげに輝く金色。それを大切に押し頂いているのは誰だろうか。
 
「あなたの代でますます御加護は強く確かなものになるでしょうね」
「まったくだ。私たちも鼻が高い」
 
 ほっそりとした女性に寄り添う男性の輪郭。胸にどっと押し寄せた感情に名をつけられぬまま、みちるは咄嗟に手を伸ばした。
 しかし、ふたりに触れることは叶わない。
 
「逢いたいだろう?」
 
 背後で、烏の声がした。
 
「抱きしめてもらいたい、頭を撫でてもらいたい――いいんだ。きみにはそれを願う権利がある」
 
 あと少し手を伸ばせば触れられるところに、懐かしい顔が見える。思い出の中だけで焦がれていた微笑みがそこにある。
 
「ただ、今のままじゃ駄目なんだ。きみに加護を授けたものを――はっきり自覚して、俺に伝えて?」
 
 ふたりの輪郭が揺らぐ。ちらちらと細かな光の粒子がふたりの顔を覆い隠す。
 遠ざかるそれを引き止めようと手を伸ばすみちるの手首が後ろから伸びてきた羽根に包まれ、くるりと体を反転させられる。
 黒い羽根がみちるの背を優しく包んだ。明るく照らされていた理想郷を、舞い散る羽根がまだらに隠す。
 
「ほらほら、俺だって意地悪はしたくないんだ。こう見えてお嫁さんは大切にしたいんだよ?」
「……お嫁、さん?」 
「そう。きみほどの霊力を秘めた娘と契りを交わせばこの天の下はあまねく光で照らされる。八咫烏が導く光は強く深くどこまでも届く。たとえ水底に逃げたって干上がらせてしまうだろうね」
 
 ――水底。
 みちるの瞳の奥が何かをうったえかけるようにざわめいた。
 玄烏はつまらなさそうにその変化を見抜くと、両手でみちるの頬を包み込んで己の顔に引き寄せる。
 
「ほら、俺の瞳にきみが映ってる。瞳の色は何色かな? 青? 黒? 違うよねえ」
「色……わ、たし、は」
「よし、一度目をつむって。自分の中に流れる霊力を感じてごらん」
 
 玄烏は革手袋をした手でみちるの瞼を覆う。ひやりとした感覚が混乱しきったみちるには心地よい。玄烏の言う通りにそっと目を閉じればさらりと前髪が撫でられた。
 
「そう、いい子」
 
 甘い囁きと共に額にくちづけが落とされる。みちるの内が落ち着きなくざわめいて掻き乱されていく。
 何かが変わってしまうような不安。玄烏の手をどけようとすると、後頭部を少し強めに抱きかかえられた。
 
「俺の名前を呼んで?」
「……玄烏?」
「うん。そのまま目を閉じて。何色が見える?」
 
 閉ざされた視界は真っ暗闇だ。しかし時折何か光るものがちらついた。その色は、果たして。
 
「……わからない。白い? ような……」
「……へえ」
 
 甘さを削いだ低い声音。みちるの背筋が硬直する。
 
「まだ染まらないつもり? もうひとつの過去が欲しくないのかな」
 
 突然、視界が一気に明るくなる。玄烏が手をどけたのだ。
 戸惑うみちるの顎が持ち上げられて金の瞳が細められた。
 
「もうひとつの過去は金色にきらきら光って綺麗だろう? きみは日の巫女として、皆を照らし崇められていたんだよ。きみに満ちていくのは水じゃない。まばゆいばかりの日輪だ」
 
 どくん、と鼓動が始まりを告げた。
 みちるの瞳は玄烏のそれに映る景色に魅入られている。
 丁寧に拭き浄められた板の間。
 日輪を柄に刻んだ神剣はその鞘すら輝いている。
 それを手にして舞うのは黒衣を纏ったみちるだ。
 永遠を顕す正円の鏡を額に掲げ、誇らしげな笑顔で栄光を振りまく。
 
「……あれは……わたし?」
「そう。みちる、きみだよ。美しいだろう?」
 
 玄烏は懐から短剣を取り出してみちるに持たせる。舞うみちるが携えているものと同じ神剣だった。
 
「ほうら、日の巫女の証だ。輝かしいね」
 
 輝きに魅了されたみちるは、操られたように玄烏の瞳に、その中で舞う自分に魅入る。
 優雅に、そして力強く舞うみちる。それは思い出の中の母と似ていた。その袖がゆったりと膨らみ、やがて烏の羽根になる。何かに向けて伸ばされた手を取るのはやはり同じ黒衣をはためかせる玄烏だ。
 眼前の光景に重ね合わせるように、玄烏はみちるの手を取った。鞘を握る手を上から包み込むと、そっと指先だけを絡め、爪にくちづける。
 映し出される絵空事と現実が混ざりあっていく。
 玄烏と揃いの色を纏って微笑むみちるは、その金の瞳で玄烏を見つめている。
 
「綺麗だよ。その金の瞳、蜂蜜みたいにとろけそうだ。あまねく世を照らす光の瞳を持つ日の巫女。八咫烏たる俺の伴侶にふさわしい色だ」
 
 睦言を聞いているのは、どちらのみちるだろう。
 頬をすべる玄烏の指がくすぐったい。このままくちづけられることを恥じらって顔を背けた先で、父が母の肩を抱いていた。
 
「……かあさま」
 
 母は袖で目元を押さえている。みちるが玄烏と添うことが嬉しいのだろうか。
 父がしきりに口を動かしている。何を言っているのか聞き取れず首を傾げる。
 
「父様? よく聞こえない」
 
 何かを訴えかけるような気配にみちるはただならぬものを感じて玄烏を押しやる。
 
「待って……父様が、何か」
「直にわかるよ。ほら、ご両親の前だから恥ずかしいのはわかるけど、こういうことはきちんとしないと」
 
 たやすくみちるを引き戻した玄烏は親指でみちるの唇をなぞる。
 
「さあ、教えて。きみは誰の加護を受ける巫女だい?」
 
 軽やかに尋ねてくる眼前の男の名を呼べばいい。それですべてが変わる。
 それだけで父と母とまた共に暮らせる。烏に愛でられ、求められるままに巫女としての役目を果たして、そうすればみちるは――
 
「………………あ…………」
 
 目の前が白んでくる。金も黒も溶けていく。
 両親の輪郭が朧げになる直前、父がすうと息を吸った。
 
「   」
 
 それが耳に届く直前、空がごう、と鳴った。
 どこか現実味のない光の乱反射が吹き荒れる風の彼方に消えていく。
 空高くで何かが吠えている。風の唸り声か、雲の断末魔か。
 みるみる空が黒雲に覆われていく。その中で暴れ回る瞬きの正体に気がついた時――それは既に地を貫いていた。
 抉られた足元が次々と波打つように隆起し、空へ戻らんと天上めざして跳ね上がっていく。
 地が水を噴いていた。地面が脈打ちながら辺り一面を水浸しにしていく。否、水位がどんどん上がり行くこの有様では水浸しなどという生易しいもので済まされない。
 
「ちっ、あとひと息だったのに」
 
 玄烏が羽根を大きく広げて傘を作る。噴き上がる水を防ぎながらみちるを抱えて飛ぶつもりだ。ふわりと浮いた足元をぎょっと見て、みちるはじたばたと身をよじった。
 
「いや! 離して!」
「急に元気になったな。いいのか? ここで手を離したら沈むしかないぜ。大好きなご両親に二度と会えなくなっても――ああ、いや、会いたいのか」
 
 腰に回された腕をなんとか振りほどこうとするみちるがはっと動きを止める。静かに玄烏を見上げれば、優しいばかりのとろける瞳はそこになかった。
 暗雲を背負って爛々と光る金のまなこ。そこにあるのは傲慢さを宿らせた支配者の目だ。
 
「やっぱり……やっぱり父様も母様も、もういないんじゃない!」
「いいや? 居るって言っただろ。俺の用意した過去を選べば、な」
 
 吹きつける風に巻き上げられた水の飛沫がみちるの頬を打つ。金の瞳にあてられて呆けていた意識が研ぎ澄まされていく。
 
「私の過去にはきらきらした思い出なんてないの。ずっと明るい太陽を恨めしく思って生きてきた。私が望んでいたのは目のくらむ太陽じゃない、寄り添ってくれる雨。だって、私は、雨の……ッ」
 
 風に煽られて玄烏の羽根がみちるの頬を打つ。その衝撃で持たされていた神剣の鞘がするりと抜けて真っ逆さまに落ちていった。あっという間に水面に吸い込まれていくそれを見て、ぐいとみちるを抱え直した玄烏が空を目指して大きく羽ばたく。みちるはそれでも懸命に身を捩った。
 
「ここから落ちたらあの鞘と同じ目に遭うぜ。お前は利口だと思ってたんだが見込み違いか?」
「貴方と飛ぶくらいなら沈んだ方がましよ!」
 
 みちるは抜き身の神剣を勢いにまかせて振り払う。
 あぶね、と首を仰け反らせた玄烏の腕の力が緩んだ。胸板を押し返そうと逆手に持ち替えたところで刃が腕の内側をすべる。
 
「い……っ」
 
 鏡のように澄んだ剣はみちるの柔肌を切り裂いたが、構わず勢いに任せて玄烏を押しのける。
 
 黒雲と波打つ水面のちょうど真ん中に、みちるはひとり飛び込んだ。
 
 真下ではごぼりと水が湧き上がる。その一瞬、水面が龍の口を象って大きく裂けた。
 みちるの腕から流れた血が帰る場所を見つけたようにそこへ飛び込む。
 そして――黒雲が、稲妻を呼んだ。