みちるは眼前で漆黒の羽根を広げる男を見上げた。
 何度も瞬きを繰り返し、頭の中で彼の言葉を反芻する。
 軽やかな声音。それに似合わぬ重い一撃であることは本人も承知しているのか、みちるが状況をうまく飲み込めぬことも愉しんでいるようにふんふんと鼻歌を歌ってみせる。
 
「あなた……が? どうして……」
「おっ、復活した? いいね。固まったままならさっさと連れて行こうかと思ったよ」
「連れて?」
「そう。だってこんなじめじめした辛気臭い新居なんて御免だろ。俺ならきみを陽のあたる場所に連れ出してあげられる」
 
 玄烏はそこに観客が居並ぶ舞台であるかのように両腕を広げた。黒い羽根がばさりと重たく響いて彼の威光を引き立てる影となる。
 
「なんだかんだ言っても住み慣れたあの村が一番だろう? 優しいご両親に俺らを敬ってくれる従順な民。そしてみちるは類まれな加護を以て村を照らす()の巫女だ」
 
 くるりと回ってみせた玄烏は硬直したままのみちるに深く跪いて手を差し伸べる。傘の柄を握ったままのみちるはそれに応じることはなかったが、淡々と切り替えた彼は不思議と不恰好にならない仕草で胸に手をあててみせた。
 
「そして極めつけにきみの隣に立つのは陽の光を導く八咫烏たるこの俺がいる。どうかな。違った未来が拓けて来ないかい?」
 
 またもやぱちりと片目をつぶってみせた玄烏はそれが癖らしく、にっと口の端を上げて笑う。
 しかし、みちるは彼の仕草などどうでも良かった。彼があっけらかんと言い放ってみせた、ただひとつが彼女を捉えて離さない。
 
「…………優しいご両親?」
「そう! きみを大切に育ててくれた御尊父と御母堂さ。彼らがいなくちゃ今の君は無いからね」
「そんな……だって、ふたりとも、もう」
「そうだね。きみの認識ではそうだろう」
 
 しんみりとしてみせた玄烏はふっと目を伏せる。彼岸へ向けるまなざしに、みちるは玄烏の考えが読めずにただただ混乱させられるばかりだ。
 
「……会いたくは、ないのかな?」
 
 そう問われて否定できるほどにみちるの中で両親は過去の思い出になりきってはいない。心の一番やわらかい部分を突いてみせた玄烏は、みちるの答えを待つだけの余裕を見せる。
 何度か口を開いては閉じを繰り返していたみちるは傘の柄を握り締めながらふるふると首を振る。案外粘るな、と口の中だけで呟いた玄烏だが、今度ははっきりと音を乗せた声を発した。
 
「御母堂には浅からぬ縁があってね。頼まれごとを請負ったよ――天巳について、だけど」
「あま、み、さま」
「そう。確かに天巳はきみの運命でもある。けれど、異なる種族の運命なんかにきみの一生を棒に振ることは無いんだ。ま、一緒に暮らしてわかってきたと思うけど、あいつはなかなか一途だろう?」
 
 みちるは恐る恐る頷く。この水底に招かれてから何不自由がないようにと世話を焼いてくれた天巳の献身はみちるの想像を超えていた。それを一途と呼ぶならまさにその通りだ。
 玄烏は庭木を見渡すと、手近な葉を一枚むしってくるりと円錐状に丸める。それを杯に見立てて枝からしたたる雨粒を受けとめ始めた。
 
「それはね、言葉を変えれば執着とも呼ぶんだ。気の遠くなるような時を生きるべき龍が、全身全霊をちっぽけな人の子にすべて向ける」
 滔々と語るうちに葉の中身は徐々に雨水で満たされていく。
 
「いくら雨巫女といえど、人の子だ。生きるべき場所から離れ、破滅的なほどの霊力を受けとめ続けられるほど、強い存在ではない。寵愛の始まりは遠からず破綻する蜜月の終わりを意味している」
 
 一滴、また一滴。絶えずしたたる雫を受けとめ上昇していく水面は、器の脆弱さなど歯牙にもかけず広がり続ける。やがて増幅していく小さな水面の圧に葉の内側が震え出す。
 
「今までは気にも留めなかった些細な疲労が亀裂になる、心のうちが揺さぶられて見たことの無い自分が暴かれる――覚えはないかい」
 
 玄烏に問われるまでもなくみちるには心当たりがあった。天巳に連れられて初めて庭に出たあの日。雨音ひとつひとつにどうしようもなく心が掻き乱された。
 雨を待ち望む雨巫女としての本懐が揺さぶられたのだろうと思っていた。しかし、今にして思えば自分らしくないにも程があるふるまいだった。
 濡れることがわかっていながら傘を捨てて雨に打たれる、激昂する、天巳の制止に聞く耳を持たない――押し殺してきた幼い感情の発露なのか、それとも。
 そしてその結果の発熱だ。もっと体の芯から凍る寒さを味わったことはあった。美沙に受けた酷な仕打ちは手足の指で数えるには足りない。けれど、僅かな時間、雨に打たれただけで昏倒したのだ。あれは、本当に環境が変わったことによる疲労のせいなのだろうか?
 ぐるぐると渦を巻く思考の海に放り出されたみちるを引っ張り上げんばかりに、玄烏は言葉の命綱を投げ込む。それは妖しく揺らめいてみちるの眼前で尻尾を振った。
 
「きみにとって心地の良い献身であり、離し難い慈愛の雨垂れだ。しかし、最初は受け入れ、満たされることに浸る杯も――やがて溢れて内側から砕け散る」
 
 玄烏は無情にもぱっと手を広げる。葉はびしゃりと弾け飛んだ。びしょ濡れになった手を振って水気を払った玄烏はちらりと視線を泳がせた。みちるがそれを追えば、庭に設えてある川に葉が落ちるところだった。水面はそれを受けとめると、音もなくそれを流れの果てに追いやっていく。
 
「きみの御母堂は、それを恐れたのさ。だから俺に祈りを捧げた。禁忌とわかっていながらね。ああ美しき母の愛ってところかな」
「禁忌?」
 
 みちるは母のことをほとんど知らない。胸に抱いてもらった覚えはある。雨龍の御方のために舞う、雨巫女としての顔に畏れを成したこともある。しかし、それは母の人となりを知るものではないのだ。
 何を感じ、考え、日々の糧としてきたか。みちるの行く末をどう案じてきたのか。それを語らうにも反発するにも、まだみちるは幼すぎた。
 そう。幼いみちるを遺してどのように泉下の人となったのか――父も含め、誰も語ってはくれなかった。
 それゆえに、みちるは雨巫女の任をひとりで学ぶしかなかったのだ。祠の祀り方、祈り方、祝詞の奏上、そしてかの神剣が何故奥宮に残されていたのか――知らねばならぬことが山ほどあった。
 その母が、禁忌を犯した?
 傘の柄を握りしめた指が白んでくる。鼓動が胸の内側から振動となってみちるの喉を動かす。
 
「母様は、貴方に何を祈ったのですか」
 
 玄烏はゆっくりと口の端を歪めた。
 
「雨龍と雨巫女の繋がりを利用して、加護を反転させること。つまり呪いさ。きみの御母堂は龍を欺いた。その報いとして命を落とした。まあ天に唾する大罪の報いとしては軽すぎるけどね」
「のろい……」
 
 玄烏の言葉を反復するだけでずんと重くなっていく胃の腑のあたりを無意識にさする。
 それを見て玄烏は「おやおや随分繊細になったね」と鼻で笑った。
 
「母親の命と引き換えになり損ないの雨龍から逃れられたっていうのに、結局それに捕まって絆され、馬鹿みたいな執着に食い殺されようとしている。お人好しにも度が過ぎるとは思うけど、どうやらきみの霊力は封じたところで渾々と湧き出てくる泉のようだ」
 
 玄烏は一歩前に出ると、みちるが縋り付いている傘を掴んで放り投げる。放物線を描いたそれが落下するより早く、みちるを引き寄せ金の瞳でまっすぐに見つめた。
 
「雨龍を堕とす手伝いを引き受けたのが運の尽き、いやこれぞ運命……かな」
「……ッ、や、離してっ」
 
 身を捩るみちるの肩を抱き込んだ玄烏はそれ以上の抵抗を封じこんだ。
 あの時と同じように、唇を重ねる。
 息を吸い込む直前で硬直した唇を割って玄烏は深くみちるを味わう。
 
「んん……!」
 
 押し付けられた胸板を押し返そうとする精一杯の抵抗すら愉しみつつ、幾度も角度を変えてみちるの唇を貪った。
 身を焦がす熱い唇。その中に溶けだした甘さが、みちるを捉えて離さない。
 じっとりと濡れた玄烏の革手袋がみちるの頬を包み込む。その中で黒眼鏡のひやりとした感覚がみちるの肌になじんでいく。
 ようやくみちるの唇を解放した玄烏は、くたりと力の抜けた華奢な体を抱きとめつつ耳元に唇を寄せた。
 
「きみは青と黒の狭間にいる花嫁だ。きみの母がそうしたように、俺もきみを守ってあげる」
「や、天巳さま、たすけ……」
「人の子に呪われるような龍が助けに来るはずがない。生かされた命は、大切に使わないとね」
 
 喉の奥で押し殺した笑い声が頭に響く。
 黒い革手袋がみちるの顎をそっと捕らえ、持ち上げる。
 雨で額にこごる前髪をそっと梳き、左右で色の違う瞳をまじまじと覗き込んだ。
 
「中途半端なのは好きじゃないんだ。早く俺の色に染めてあげるよ」
「い、いや! これは、天巳様と同じ……」
「だ、か、ら。それが嫌なんだって」
 
 歌うように節をつけた玄烏は強引にみちるを横抱きにすると羽根を広げる。
 とん、と軽く飛び石を蹴って舞い上がったその影が水底の池に映り込み、影絵のように焼き付いた。