特別。僕にとっての特別。皆にとっての特別。特別って、よく使う単語だけれど、結局はどういう意味だろう?そうか、こういう時こそ早く部屋に帰って、分厚い国語辞典をよいしょっと開き、“特別”という単語を調べてみるべきだ、こんなところに立ち尽くしていても何も解決しないんだよ、でもいざ調べるとなると少し面倒くさい気もするし、でも、
―――流川くん。
はっ、と我に返ると、僕の左側にSが立っていた。
わあ、とっても素敵な絵ですね。誰が描いた?
君はわざとらしくそう言い、僕の目の前に飾ってある水彩画を見つめて。その横顔が、ふ、と笑顔を作った。
美術室のすぐ近く、渡り廊下を渡ったところの掲示板を埋め尽くすのは、校内で行われた、水彩画コンテストの入賞作品の一群。
特選、入選、佳作、約三十点ほどの入賞作品がずらりと並ぶ。僕の絵もありがたいことに、優秀な作品のひとつに選出され、ここに飾られていた。
ただ、僕の絵が勝ち取ったのは、校内でたったひとつだけの、“特別賞”の称号だ。
「3-Fの、流川くんっていう天才画家が描きました」
「へー、それはそれは、是非お目にかかりたいですね」
「はは、誰だよ」
「特別賞おめでとう」
「うん」
「何うんって、嬉しくないの」
「いや、嬉しいけど」
「俺はもっと嬉しいよ」
君はそう言ってにっこりと笑い、白い歯を輝かせる。
その笑顔につられるようにして、僕は微笑んだ。
先生、特別賞とか、今までなかったと思うんですけど。
いや、そんなことないよ、流川君はいつも特選だから知らないだけ。
何ですかその皮肉。
まあいいじゃない、とにかく、俺は今回の流川君の絵、すごく良いと思う、何か特別なものを感じたから、今までの“とっても上手な絵”と明らかに違っているなって思ってね、ごめんね、特選でも良かったけどね、ああ、あとこれ、市の別のコンクールに出した方がいいと思うんだよね、日程がここの―――
昨日、美術部の顧問の先生と部室で交わした会話が脳裏を通り過ぎる。金でも銀でも赤でもない、青いテープが端っこに貼られた僕の絵が、静かにこちらを見下ろしている。
「……僕さ、嘘ついたんだ」
口から出た声は、隣に立つ青年へ向けたもの、で、そのまま青年の耳へ、吸い込まれて行った。
どんな嘘。青年は尋ねる。
「君のこと、好きって言う女の子がいたんだ」
「うん」
「その子に、Sは、彼女がいるんだよって」
「はは、何で?」
「盗られると思った」
「俺が?」
「うん、可愛い子だったから」
「流川より可愛い子、この高校に居ないよ、俺全員見た」
悪戯っぽく君は笑う。それにつられて、恥ずかしさと嬉しさで、僕も笑う。しかも、もう嘘じゃないじゃん、と君は言う。
ああ、彼女じゃないか。男だから、彼氏。
それが僕のことを言っているのだ、と、気付いた時、突然自分の顔に血が集まり、真っ赤に染まっているかのような錯覚を覚えた。
君の顔をじっと見つめる。真っ直ぐで嘘をつかない視線が、僕を見つめ返す。
胸の奥から何か、あたたかいものが込み上げてきて溢れ出し、僕達のいるこの空間をじわりじわりと、埋め尽くす。
「………3-Fの流川くんは俺の恋人だって、皆に言いふらしていい?」
「え、言うの」
「うん、俺も盗られたくないもん」
「誰も盗らないよ」
流川も周りに自慢して良いよ。
一人のハンサムな青年はにっこりと微笑んで、自信たっぷりに言う。
はあ?ムカつくな。僕は笑って彼の腕を小突く。
もう一度、特別賞を貰った僕の絵を見つめてみる。そうか、これが、特別な絵。
水彩で描かれた、美術室の窓から見える景色。晴れ渡る青空に、少しだけの綿雲。窓から覗く校舎の別館は古びているけれど、どこか懐かしくて、あたたかくて、僕たちを見守る優しい色。
僕は絵を見たまま、君に言う。
「……でも、背中の蝶のことは、誰にも言わない方が良いよね」
―――うん、誰にも言うなよ、流川しか見てないんだからさ、
君のはにかんだ笑顔と、優しい声。
絶対誰にも言わないよ、君の綺麗な背中の絵のこと。
僕だけが知ってる、秘密なんだから。
―――水彩画の中、美術室の窓から蝶が一羽、ひらりと外へ飛び立っている。
その色は、君の背中にいる蝶と同じ、綺麗な青と緑の、そう、碧色。
自由にひらひらと、自分の行きたい場所へ飛び立つんだ。
その蝶は僕にとって、特別な存在。
だって君は、特別だから。
ねえ、君にとって、僕はどう?
「うん、分かった」
僕はそう軽い音で答えて、君に笑ってみせる。そしてまた、二人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑うんだ、お願い、どうか今のこの瞬間を、誰も見ていませんように、僕たちだけの秘密の時間の中に、閉じ込めておけますように。
今まで何度も考えたことのある、絵のタイトル。僕は美術部のくせに、うん、これだ、ってしっくりきたことは正直一度もなくて、先生に任せてつけてもらったりしたこともあった。
でも、今回は珍しく、すごく気に入ってるんだよ、
僕は水彩画の下、丁寧な字で書いた題名を何度も、読み返した。
『踊れ、君の碧い蝶』
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