僕の無気力な身体は、自分の机にマネキンみたいに置いてあり、顔は呆と窓の外を見つめて、いや、正確にはただ視線を外へ投げているだけで、意識的に何か見ようとはしていない。
何か溜息をつこうにも、溜息をつく理由もないし、吸い込む理由も無いし、あははと笑う理由なんかもっと無いし、だから、僕は何もせずに頬杖をついて、左側を向いている、というだけ。
あれから、日々の生活は何も変わっていない。
あれから、のあれというのは、Sが、僕の事を噂していたあの日、のことで。
僕のこと、綺麗な子って言ったよね?
俺のだから、って、言ったよね?
あれって、どういう意味?
尋ねるのは簡単かもしれないけれど、僕はなんとなく、Sにそんなことを聞く勇気はなくて、毎日顔を合わせても、その事に言及することはできなかった。
だってもしも、彼にそのことについて尋ねたとして、えっ、盗み聞きしてたの?怖い。って、言われる可能性だってあるじゃないか、まあ、盗み聞きに間違いはないけどね。
つい二日前のこと、美術部の帰りにグラウンドの近くを歩いて寮に向かっていたら、グラウンドから大きな声で僕の名前を叫ぶおかしな奴がいて、ギョッとして目を向けると、部活中のSが満面の笑みでこちらに手を振っていた、という事件があった。結局、恥ずかしくて気付かないふりをしてしまったけど。何か起きたといえば、それくらいだ。
そりゃ勿論、Sのことは友達だから好き、なのに違いはないけど、別にそれ以上のことはない筈で、ただ、あの言葉の真意が知りたいっていうだけで、僕は、
「―――ねえ、流川くんって、Sくんと仲良い?」
え?
僕は間抜けな声で返事をして、右側を向く。
隣の席の女の子が、僕の方を向いて、にっこりと口角を上げたお手本の様な笑顔を浮かべていた。
たまに会話する程度の子。黒髪のストレートヘアに大きな瞳、特徴的な八重歯。クラスでも男子が可愛いと噂している子だ。
Sのことを丁度考えていた時にそんな事を聞かれ、正直面食らってしまう。
何もない風を装いながら、どうして、と尋ねると、彼女は髪の毛を耳に掛け、俯いて、口を開いた。
実は私ね、Sくんにずっと憧れてて、だって、すごくかっこいいから、寮で同じ部屋でしょ?
「……うん、そうだよ」
「Sくんって、恋人とか、好きな人、いるのかな。知ってる?」
彼女が僕に尋ねる。可愛らしい、キラキラ輝く瞳をして。
僕はSじゃないし、その可愛い顔は一体何の為なんだろう?前から思っていたけど、女の子は不思議だ。
Sに、恋人とか、好きな人。
いるのかな。
同じ部屋で生活をして、沢山喋って、ふざけて。彼の背中の秘密まで、見せられて。美術の課題だって、手伝った。
それでも、知らないことがある。
頭の中で、楽しそうに話しながら歩く彼の姿を、鮮明に思い浮かべてみる。その隣にいるのは、見知らぬ可愛い女の子。誰だろう。その子は誰?君の好きな人、は―――
僕は一呼吸置いて、彼女から目を逸らし、分厚い教科書を鞄から取り出しながら、口を開く。
「……なんか、彼女、いるんだってよ」
残念だったね。
僕は同情した振りをして、ちらりと隣の様子を伺ってみる。一瞬だけ、愛想笑い。
「ふうん、残念」
きっとSから見ても魅力的な、可愛い君は、いとも簡単に落胆し、肩を落として、美しい黒色のストレートヘアをさらりと靡かせ、反対側の女子に話し掛け始める。
知らないんだろ。君は、あの、彼の背中にいる綺麗な蝶を。
あれは、この高校でたったひとり、僕だけが知る特別な、
教科書を持った僕の手が、行き場を失い、固まる。
その直後、扉の音と共に颯爽と現れた教師が、152頁を開いて、と言葉を発し、僕の震える指は命令通りに教科書をパラパラと捲って、100、130、150、162、189、、
知らない。彼に彼女がいるかどうかなんて。
………僕は一体、何の味の嘘をついたんだろう?
唾を飲み込んだ喉が変に渇いて、咳払いを数回繰り返してみる。
教科書の中、歴史上の人物の肖像画と眼が合う。これは誰だっけ?ああ、まだ習ってない頁だった。名前も知らないそいつが僕の顔をじっと見て、お前は嘘吐きだ、お前は悪い子だ、と、僕を無言で批判する。
―――そうだ、僕は、悪い子。
××××× ×××× ×××× ×××× ×××× ×××× ××××
……………眼をぱっちりと開けてみると、やっぱり、部屋の中は真っ暗。枕元に置いた携帯を覗くと深夜1時過ぎだ。
僕は確かに22時くらいに眠りについた筈なのに、何故かさっきから覚醒してしまい、眠れなくなった。
真っ暗で見えないけれど、空っぽの隣のベッドの方に首を向ける。Sはまだ帰って来ない。いつも週末は遅い。
暗闇の中、あかあかと光る携帯を何となく触っていると、何となく、ゲームのアプリを開いてしまう。本当に何となくね。
ああー、またデッキを組み直さなきゃ。それにしても攻撃力が心配だ。SSRが出るまでパッケージを買いまくろうか?無理だ、小遣いを使い果たすのはもうごめんだよ、新しい画材も欲しいしね。このアプリは中学の頃からずっとやっていて、懲りずに毎晩見知らぬ誰かとバーチャルで対戦をしているのだ、自分でもよく飽きないなと思う。
バーチャルの世界に指先から浸り始めていたら、突然、ドアの外でSの笑い声、あ、帰って来た。
おいお前、ふざけんなよ、ははは、わかった、はい、お休み、またな。と、聞き慣れた声の後で、ガチャ、とドアが開く音。
僕は何となく、こんな遅くに起きていた自分を隠したくて、急いで携帯を閉じて、寝たふりをすることにした。
手前側の彼のベッドに背を向けて黙り、じっと動きを止める。
……ただいま。
Sは真っ暗な部屋の中に、挨拶をひとつ落とした。
僕が寝ていると分かっていても、いつもただいまと言ってるのだろうか?ちょっと可愛い。
「……流川」
「起きてる?」
何度か名を呼ばれたが、寝た振りを決め込んで眼を閉じる。
バサバサ、と鞄を置いたような音と、洋服をベッドの上に脱ぎ捨てたような気配。
彼もそのまま寝るのだろう。僕はそう思い、寝息が聞こえてきたらゲームを再開しようかな、とか考えていた。
……だから、こっちに近寄る気配に、全く気付けなかったんだ。
何?と、思う間もなく、ベッドが二人分の体重を受けて沈み、僕の頭を、大きな掌が包んでいた。
その手は小さな子供を、あやすような手付きで、髪を梳くように動かし、毛先でくるくると遊んで、そして。
死ぬほど優しい強さで、頭頂部から後頭部を通って頸へ、ゆっくりと、頭を撫でる。
Sは何回かそれを繰り返したあと、おやすみ。と呟き、ふっと手が離れて、ベッドが軽くなったのを感じた。
僕が背中で寝たふりをしながら瞬きを繰り返しているうちに、程なくして、向こうのベッドから寝息が聞こえ始める。
もう寝たのか?早い。
規則的な寝息が部屋に充満する中、ゆっくりと身体ごと振り返ると、Sの背中が見えた。豆電球だけがついた暗闇の中、目を凝らす。
その背中は服を着ていなくて、ただ薄いブランケットのようなのを、肩の少し下から身体に被せているだけになっていた。
広い肩幅と、腰に向かって細くなっていくシルエット。同性ながら惚れ惚れするような肉体が、寝息に合わせて僅かに上下する。
ブランケットに隠れた、彼の背中。
僕の脳内に、あの綺麗な蝶の姿がちらつく。
今なら、寝ているよ。
ほら、今なら大丈夫。
そう僕に語りかけたのは、君じゃない、君の背中にいる蝶だ。
僕は緊張と背徳に苛まれる中、自分では抑えられない好奇心に煽られて、身体を起こし、ベッドから抜け出した。足音がしないよう、Sの寝ているベッドへ一歩、一歩、
少しだけ。
ほんの少しだけ。
ほんの少し、あの蝶を見るだけ。
心臓が口から飛び出しそうだ。僕は、僕は、
Sのベッドにゆっくりと腰掛け、後ろ姿に近付いた。震える左手で、その真っ白な肩のすぐ下、ブランケットに手をかけようとした、その時。
目の前の身体が起き上がり、こちらを振り向いた。Sは、そうだ、紛れも無い、間違いなくSが、しっかりと目を開けて、僕を見ている。
「……、えっ、ごめ、嘘、起こした、」
僕は焦ってベッドから飛び退こうとしたけれど、僕の左の手首が強めに掴まれ、ぐっと引っぱられた。
ベッドに腰掛け、僕を真っ直ぐ見つめる、よく知る青年のシルエット。彼は僕の肩の位置を探る様に確かめて、そのまま、両肩を掴む。あたたかい体温が彼の掌から、ダイレクトに伝わる。
時間が止まる、呼吸が止まる。
なんとかして、すうっと小さく、息を吸い込むと、目の前の顔が、ぐっと近付く。
僕は彼が何をしようとしているか、すぐに勘付く。いつだって鈍感な癖に、今だけは察しが良いなんて、変だね。僕は震える両腕を、彼の首の後ろへ回して、身を乗り出し、もっと近付いて。
真っ暗闇で、互いの顔も薄らとしか見えないまま、僕達はキスした。
あ、柔らかい。所謂男の唇、だけれど、こんなに柔らかいんだ、触れるだけで離れると、Sが距離を詰め、そのままもう一度唇がくっ付いた。
自分の身体が強張っているのを感じる。凄く変な気分だ、どうしよう、僕の、経験値を超えた出来事が、今ここで始まっていて、僕がその当事者、だなんて。
Sの腕が僕の首の後ろへ回り、髪の毛を撫でて、僕の身体がゆっくりと倒された。そのままベッドに、二つの青年の身体がふわり、落ちる。
流川。彼は呟く。
「……俺、流川が好きだ」
僕も、Sのことが好き。
僕はそんな事、彼に伝えるつもりはなかったのに、勝手に口が、そう言っていた。
はあ、良かった、とSは言って、寝転んだ僕の身体を強く抱き締める。
本当に嬉しい。Sは僕の耳許で、気持ちを吐き出す。
広い背中を抱き締めて、ぐっと力を込める。なんか汗かいてるよ。僕が言うと、ごめん、緊張したから、と君が笑って言う。
「でも、何で俺のベッドに来たの」
「え、」
「俺、流川の気配を感じて、起き上がったらほんとにいたから」
「………ごめん、どうしても、その、君の背中の蝶々が、見たくて」
え?と、笑いを吐き出すような言い方で君は言う。
初めて見た時から、あれがずっと頭から離れないんだ、でも、一回しか見てないからさ、どんなのだったかな、とか、いつも考えて、寝てる間に見てやろうって、
「そんなの、早く言えよ」
「いや、なんか言いづらかった」
君が擽ったそうに笑う。そのまま、君は薄暗い中ベッドから立ち上がり、部屋の入口に近づいて行って、パチ、と電気をつけた。
暗闇からあかあかとした照明に切り替わり、僕は数回瞬きをして、君を見る。君も眩しそうな顔をして、僕を見ている。
何だかおかしくなって僕と君は同時に笑い声を出す。君がすぐにベッドに戻ってきて飛び乗り、向かい合った体勢で、正面から顔を合わせる。
痛いほど明るい部屋の中、僕の目がよく知る青年の顔を捉える。Sだ。間違いない。君が顔を近付けて、額と額の距離がゼロになり、見た事のない柔らかい視線が、僕にぶつかる。
その色に、僕の本能は簡単に盗まれてしまう。あれ、僕は、本当はずっと前から、君のこと、
あのさ、と僕が口を開く。
「ん」
「さっき、どうして僕の頭撫でた?」
「え?」
「そっちこそ、先に僕のベッドに来て、頭撫でて、おやすみって言っただろ」
「違う」
「違わない、僕は起きてた」
忘れて。お願い。と君は笑いながら言い、僕の脇を擽ろうとするので、必死で抵抗する。
嫌だ、やめろと僕が言うと、気持ち悪いと思った?と君が僕に尋ねる。
「別に」
「……流川の髪、柔らかくて、綺麗で、俺ほんと好きなんだ」
いつも起きないからさ、本当びっくりした。
“いつも”起きないってことは、いつもあれをしてたってこと?僕はそう聞こうと思ったけれど、それよりも前に、顔と顔がまた近付いて、もう一度、キスをされる。僕は眼を開けて、無防備に閉じた君の瞳を確認して、あ、なんか可愛いなとか思い、眼を閉じる。
くっ付いた唇が静かに離れて、君の揺れるような目の色を見ていると、君は突然、僕に背を向けた。
「はい、どうぞ」
そこには、ずっとずっと、追いかけていた、青緑色の蝶が、僕を待っていた。
僕は思わず、息を吸い込んで、ごくりと飲み込んだ。わあ、綺麗。気付けばそう口がこぼしていて。
そうか、触覚はこんな感じだったんだ、羽の細部まで、すごく繊細な線が描き込まれていて。
君の左の肩甲骨の下、その小さな蝶に、左手を近付け、そっと触れてみる。
艶々とした君の肌と、やっと会えた蝶の姿が、目の前でじわじわと混ざる。どこか現実味のない、それでいて生々しくリアルな、何とも言えない不思議な感覚が、僕の心を満たそうとする。
「……ありがとう」
「写真でも撮る?」
「ふ、いや、いいよ」
「これがそんなに気に入ったの」
君の背中にいるから、好きなのかも。と、馬鹿なことを言おうとしたけれど、僕はその言葉を飲み込んで、あのさ、と続けた。
「いつから、その、」
「何」
「いつから、僕を?」
「え、あー、」
初めて会った時。
え?と、僕は情けない声を出して、目を泳がせてしまう。
振り返って僕と目を合わせる君が、照れくさそうに笑った。
「だから、俺も自分でびっくりしたんだけど、一目惚れしたんだ、恥ずかしいな」
君から吐き出されたその音と笑顔は、物凄く強靭な魔力を持っていて、僕の心を無理やり裸にして、そのまま食べてしまうかもしれない、と、わけのわからないことを、僕は考えた。
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