関数f(x)イコール、xの二乗マイナス2について、この問題ね、はい、最初は、えーxの値が、マイナス2から1まで変化する時の、平均変化率。はい、これは基本中の基本です。まず1マイナス、マイナス2分の―――
ポキッ、と、細い芯の折れた音と共に、ノートに無慈悲に散らばる、小さな点々。チッ、と僕は舌打ちをしそうになったけれど、ギリギリのところで我慢し、口を噤む。
ノートの右の端っこに、僕の安いシャーペンによって生まれ、命を吹き込まれかけた“それ”は、いとも簡単にムードを壊されて、ぐちゃぐちゃ、と線で塗り潰され、消えてしまった。
気を取り直して、シャーペンを2、3回ノックし、僕は教師の説明に耳を傾けてみた。
体育の後の三限、数学。微分積分の説明の羅列が、耳の中を右から左へ、するりするりと通り過ぎて行く。ちら、とさっきの失敗作を視界の右端に捉え、やっぱり、気になって、失敗作の隣にまた、輪郭を描き始めてしまう。
たった一度見ただけの、蝶の輪郭を。
季節は梅雨も終わり、夏を迎える準備もすっかり整って、むず痒い暑さが始まりかけている。
相変わらず背中の蝶のことばかり気にしている僕だったけれど、S本人とは、更に打ち解けた仲になったような、気がする。
考えてみれば、スクールカーストのどこにも属していないかのような存在の僕と彼が仲良くする理由なんて、何もない。でも、割と良い関係を築けているということは、彼は相当、良い奴なのだ。いつでも明るくて冗談も忘れず、気の良い青年、で。
そうそう、美術の課題を手伝ってくれたお礼と言って、学食の横にある売店の人気商品、チョコチップクッキーを五つも奢ってくれたし。
僕とSは、時間が合えば二人で学食に行き、下らない事を喋って、先生の物真似を評価したり、土日暇していれば僕の所持するゲームで対戦しては余裕で勝ち、あ、そうそう、Sにクラスマッチの決勝でゴールを決めてよ、と言ったら本当に決めてしまって、学年全員が応援する中わざわざ僕の目の前に走って来て、汗臭い身体で抱きつかれる羽目になったり、あとは意外と真面目に、テストが終わると部屋でお互いの答案や点数を言い合ったり、そんなところだ。
あと、他クラスの彼とは廊下でもよく遭遇した。
移動教室で僕の姿を見つけると、必ず彼は僕の名前を大きな声で叫んで、僕が行動を共にしている集団から僕だけを上手いこと引っ張り出し、肩に腕を回してベッタリと引っ付いて、歩き出すのだ。
この後授業何?とか、昼一緒に行こうよ、とか、その時々で、色々と。
僕は、人気者の彼と一緒に、周囲の女の子達からの視線を浴びることになり、少しばかりの優越感に浸ったりして。
S君って格好良いよね、と、クラスメイトの女の子達はよく彼を話題に出しては、持て囃していた。
もっとも彼とは、それなりに仲良くしているとはいえ、平日の生活リズムは各々違っている。
彼は夜になると女の子たちと遊んでいるようで(分からないけど多分)、帰りが遅い日が多々あり、僕は僕で部活で忙しかったので、夜寝る時間もバラバラだった。
僕が寝た後で、部活の練習と夜遊びを終えた彼が部屋に帰ってきて休み、僕は早起きして、彼の寝顔を横目に見ながら朝のスケッチに行く、というような、いい感じのすれ違い生活でもあった。
下らない事はよく喋ったけれど、その一方でSに彼女がいるかどうかは知らないし、僕も聞かれたことはなかった。まあ、僕はいないけど。
彼は同性から見ても、贔屓無しでかなり人気のある男だったので、まあ、いるのだろうな。もしかしたら何人か。くらいに思っていた。
……そんなこんなで僕は、校内でどんどん株を上げてゆく彼の、“秘密の背中の絵”について、誰にも言わずに日々を過ごしている。
にも関わらず、僕はあの蝶が頭から離れず、どんな蝶だったのか、気になって仕方がなくて、自分の脳内の記憶を勝手に補填しながら、授業中でさえも落書きをしてしまう始末だ。
Sと仲良くなればなるほど、何故か、背中の蝶とは遠ざかるような気がして。
あの蝶。
深い青緑色のあれは、今も、彼の背中で、自由に飛んでいるのだろう。
「中学の時、ちょっと調子に乗っててさ」
Sは秘密の背中の絵に関して、初日にたったそれだけ、僕に説明した。ふうん、とだけ僕は答えた。
彼とはすっかり仲良くなってしまったから、尚更、ねえ、あの蝶をもう一度見せてくれない?とは、言いづらかった。
同じ部屋で生活しているのだから、偶然見えそうなものだけれど、彼と着替えるタイミングが被ったとしても、彼は必ずと言っていいほどこっちを向いて着替えるから、背中が見えないのだ。色々と喋りかけてくるからかもしれないけれど、初日以降Sが僕に背中を向けて着替えることは、本当になくて。
見たい。
あの蝶をまた、この目で。
僕にとってあの蝶は、近くにあるのに遠い、手の届きそうで届かない、仲の良い青年の背中にある筈なのに姿が見えない、そんな、もどかしい感覚を抱かせる、不思議な存在になっていた。
そうそう、水泳はどうするつもりなのか一応聞いてみたら、体育教師と話をつけてあるから大丈夫、と。どうやって話をつけたのか、詳しくは聞かないことにしよう。
数学のあとの四限、生物の授業を終え、教室に帰る途中の僕は、珍しく独りぼっちだ。
何故か、と言うと。
クラスの数少ない友人達が五限をサボって隣の女子高の文化祭に行こうという計画を立て、勿論誘われたのだが、興味があるのに違いはないのに何となくそういう気分になれず、断ったからだ。
僕は独り、真面目に五限も受ける(別に真面目でも何でもなく普通の事だ)ことにして、理科室から教室へ続く廊下をとぼとぼ歩いていた。
ふと、よく見た事のある後ろ姿が視界にちらついて、意識がそちらに移る。
廊下を歩く、二人の青年。
二つのシルエットのうち一つは、表紙の折れ曲がった物理の教科書を丸めて右手に持ち、ポケットに左手を入れて大股で歩く、Sだった。その隣を歩くのは、彼の友人らしき人物。
見知った姿に少し嬉しくなった僕は、おーい、と、声をかけようかと思ったけれど、Sの隣の彼は僕が全く知らない奴のようだった、まあ別にいいか、わざわざ話しかけなくても。なんとなく僕は彼らに追いつかないよう、少しだけ歩くスピードを緩める。
僕の脳は不思議とクリアになって、聴こえてきた二人の会話に、何となく耳を傾けた。
お前って寮どこだっけ?
五階。西棟。
ああ、あっちか、一人部屋?
いや、二人だよ。
誰と二人?
流川だよ、3の、確かFだ。
そうだ、正解。僕のクラスまでよく憶えてたな、と、僕は彼らの背後で、黙って面白がる。
知らないなぁ、と友達。僕も君を知らないし、まあそうだよね。
知らない?美術部だってよ。と、Sが僕の情報を付け加える。恥ずかしいから、もう良いよ。
「知らない、どんな奴」
「うーん、背は170くらいかな、細身で、髪が長くて、」
……綺麗な子だよ。
えっ、と、言い放ったのは、僕じゃない、彼の友人だった。
綺麗って、男だろ。
うん、当たり前。
顔が?
うん、顔も、なんか全部。
何だそれ。
いやなんかさ、色白で、目が大きくて、女の子かと思うくらい綺麗なんだよ。
あ、ちょっと待って、俺見た事あるかも、あの人かな、と笑う、Sの友人。
俺も話してみたい、今度部屋行かせてよ、と、面識のない彼が声を弾ませる。
「駄目、俺のだから」
わはは、何それ、嘘だろ?
本当。あ、次体育、急がないと。
さっきのやり取りをすっかり忘れてしまったかのように、屈託ない笑顔で笑う横顔。短く刈った髪の毛と、僕よりも太い首、頸、背の高い、広くて筋肉質な背中。そのシルエットが、僕の視界からどんどん、遠ざかり、小さくなって行く。
何故か立ち止まってしまった僕を、独り、置いてきぼりにして。
綺麗な子。
駄目、俺のだから。
―――俺のだから。
僕の心臓が、どきり、どきりとうるさく鳴る。単純な脳がSの言葉を何度も繰り返し、平常心がじわじわと煽られてゆく。
すっかり遠くで、声を上げて笑う彼の背中、その隠れた刺青が、僕しか知らないあの蝶が、透けて見えたような気がして。
僕は生まれて初めて感じるくすぐったさを噛み締めて、どうしてだろう、どうしてこんなにくすぐったいんだろう、と自問自答をしながら、歩き始める。
真っ白な廊下の上、薄汚れた上履きが、一歩一歩前に進んで、目に見えない何かを追いかける。
手に触れられて、綺麗な手だと言われた。僕の知らないところで、彼に、綺麗な子だと言われて、俺のだと言われた。
たったそれだけなのに。
息が詰まったように、胸が締め付けられているのを何とか誤魔化して、深呼吸。
分かってる、分かっている、どうしてこんなにくすぐったいのかなんて。自分の事だから、分かってるんだ。
なんて単純なんだろう。
なんて簡単な。
曖昧な色で濁った僕が、ここに、ひとり。
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