目の前に突然現れたのは、小さな蝶の絵だった。
鮮やかな青色の蝶。
……いや、青というよりはもっと深く、緑がかった、綺麗な青緑色だ。
その筋肉質な、左の肩甲骨の少し上あたりに。
ひとつの蝶の刺青が、我が物顔で、居座っていた。
それが、描かれたものではなくて、肌に彫られたものだ、ということを理解するまでに、たった一秒しかかからなかった。
でも僕はそれを見た時、怖いとかガラが悪いとかそんな事じゃなく、単純に感じたんだ、ああ、なんて綺麗な蝶だろう、と。
それは、不思議な蝶だった。
だだっ広い君の背中のキャンバスに、たったひとつ、ぽつんと描いてあるだけなのに。
何故だろう、自由にひらひらと、好きなところを飛んでいるように、僕には見えたんだ。
折角だから二人で学食へ行こう、案内してよ、と。
寮の自分の部屋で、今日転入してきたばかりの初対面の青年は、簡単な自己紹介の挨拶のついで、みたいな感じで、軽くフレンドリーに僕を誘った。
特に用事もなかったし、というか、断る隙を見つけられなくて、すぐに二つ返事で快諾したんだけど。
あ、着替えるから、ちょっと待って、と彼の背中が早口で言い、制服のシャツを脱いだら、そこには美しい蝶の刺青があったのだ。
ただ、それだけの事で。
僕の口は真っ先に、知り合ったばかりの彼に教えてあげていた、それ、校則違反だよ、と。
別に僕は優等生でもなんでもない、普段ひたすら絵を描いているだけの、ただの地味な美術部員のひとりでしかないし、風紀委員とかそういう立場でもない。でも、何かの使命感、はたまた僕は常識人ですというアピール、か何かが影響して、そういう言葉が出たのだろう、うん、多分、そうだ。
「うん、誰にも言うなよ、君しか見てないんだからさ」
分かった?と、首だけ振り返って尋ねる彼の、自信満々な清々しい笑顔に面食らった僕は、ただ無言で頷くことしかできなかった。
高校三年の春に転入してきた同部屋の同級生は、蝶の刺青が入った、Sという名の青年だった。
好きなメインディッシュを選んでいるSの後ろ姿に続いて、自分のトレイに小皿を乗せていく。ひとつ、ふたつ。お昼時には一面にびっしりと並んでいるおかずの小皿は、夜のこの時間になると、少し控えめな数になる。
普通に考えて初対面のはずの学食のおばちゃんたちと、飾らない会話を楽しむSが、僕の目の前であははと明るい音を立てて笑う。僕はそのおばちゃんたちと、事務的な会話以外はしたことがない。ましてやここで笑顔が出るなんて、信じられない話だ。
僕が170センチくらいしかないから、それと比較すると恐らく180センチメートルを少し超えたあたり、の背丈に、広い肩幅、真っ黒なツーブロックの短髪は綺麗にセットされて、日に焼けた健康的な肌に、男らしく精悍な、整った顔面。
爽やかで男らしい。
そんな形容が、ピタリと当てはまる。
筋肉質、長身、男前、そして、社交的。女子からの人気を獲得するには打って付けの、男子から羨まれるにはピッタリの、いかにも、“先天的な陽の雰囲気”を醸し出す人物。
それに、三年の春からこの高校に転入してくるなんて、余程優秀な奴なのだろう(自分で言うのもアレだが、ここは割と進学校だ)。引越しか、志望大学の為か、どっちかだろう。
ちっとも筋肉なんかなく、地味にひっそりと生きている僕とは、住んでいる世界が違う、はずだ。
にもかかわらず、僕は、誘われて素直に着いてきてしまった。どうかしてる。お腹空いてないとか嘘をついて、断るべきだったか。
でも、まあ一年間とはいえ同じ部屋で過ごすのだし、きっとスクールカーストの上位に位置することになるであろう彼と、無難に仲良くしておいて損はないだろう。
あの奥にしよう、というSの仰せの通りに、窓際の真っ白なテーブルを二人で陣取った。Sは僕の目の前に自分のトレイを置き、椅子に腰を落として、はー、お腹空いたと呟いた。
夜の19時半を回ったばかりの学食は、少し前に夕食のピークを過ぎ、人の姿も疎らだ。
学食の営業時間は20時までなので、この時間が一番空いている。僕はいつも食事を10分足らずで済ませてしまうので、大体夜はこの時間に一人で訪れることが多かった。まあ今日は例外的に、一人じゃないけれど。
そういう学食の事情も含め、一年と二年の校舎とか、理系クラス限定の隔離棟の話とか、寮の部屋の配置等について、ぽつりぽつりと説明する僕に、Sはふーん、そうなんだねと相槌を投げる。
「あ、ここってサッカー部ある?」
「うん、あるよ」
「そうか」
「サッカー部に入るの?」
いや、小中高ずっとしてきたんだけど、勉強に専念したくて、部活に入るか迷ってる、一年しかないしね、と、彼が会話の隙間で透明なプラスチックのカップの水を、一口。
サッカー部なんて知り合いもいなければ、ボールをちゃんと蹴ったことすらない。彼とは今のところ、普通に会話こそしているものの、面白いほど共通点がないみたいだ。
ところでさ、君は何か部活に入ってる?と、Sの質問。まん丸の大きな瞳が、僕の顔を覗き込む。
サッカーを何年も続けてきたような活発で体力もある人間に、真逆の特性を開示するのは、なんとなく気が引ける。だけど、ここで変な嘘を言ったり隠したりしてもおかしい、よな。
「僕は美術部だよ」
「へえ、上手?」
「どうかな、描くのは好きだけど」
「すごい、絵が上手いって格好良い」
「格好良い…?」
「俺は全然上手く描けないから」
「別に、格好良いってことはないと思うけど」
俺は格好良いと思うよ、自分ができないことができるって、すごいじゃん。
Sはそう言って、見るからに明るく活発そうな、爽やかな笑顔を煌めかせた。
僕は何となく、その笑みに何か返さなければ、と思ったが、とりあえず口元だけを緩ませて笑い、視線を外して下へ。
空っぽのおかずの小鉢が僕を見つめる。
サッカーができるなんて格好良いね。と、言った方がいいのかもしれないと思ったけれど、今そんなことを言ったところでただのお世辞にしか聞こえないだろうし、お互いを褒めたりしてなんだか気味が悪いし、いかにも彼に媚を売っているような感じがしたら嫌だから、やめておこう。
ていうかさ。というSの声にぱっと顔を上げると、彼は白ご飯の半分程残ったお茶碗を片手に、食べかけのハンバーグをつつきながら言った、食べるの速くない?と。
「え、そうかな」
「うん、俺結構速いつもりだったから、負けた気分」
「はは、何それ」
「ちょっと待ってよ、あと一分で食べ終わる」
急いでご飯をかき込もうとする彼に、急がなくて良いよ、と声を掛けながら、自分が自然と笑っていることに気付く。
住む世界は違うのだろうけれど、彼は僕を見下したり、根暗な美術部員だと揶揄したりするようなタイプではないのかも、しれない。
彼の食事を邪魔しないように、左側に視線を投げ、すっかり暗くなった裏庭を眺めた。中央で座り込み暇を持て余している男子生徒が2、3人と、ベンチには仲睦まじい男女のカップルが一組。
伸ばしたままの髪を右耳にかけ、髪の毛の癖を撫で付けるように押さえる。天気が悪いので、変な風にうねっているな。何となく、今までの高校生活の思い出が頭の中に、浮かび上がってくる。
一年の後期で、前のルームメイトが体育倉庫に火を付けて退学処分になって以来、僕はずっと一人部屋で悠々自適に過ごして来た。
部活の課題を好きな時間に描けたし、大きなスケッチブックを広げてデッサンをしたって誰にも文句を言われないし、ベッドにそれを放り出したまま寝たって構わないし、はたまた変な時間に出て行ってスケッチをしに行っても、不審がられることもなく。たまに、同じ美術部の数名の仲間が部屋に遊びに来たりして。最高だった。
しかし突然三年の春から、転入生の彼と、ルームメイトになってしまうことになるなんて。誰が予想できただろうか。
先生から話を聞かされた時、正直ちょっとガッカリしてしまったのは、言うまでもない。
それに、今の今まで忘れていたけれど、彼の背中の、あの蝶。
あれについて、詳しく聞いていいのかどうかわからないし、というか、聞きたくない。高校生のくせに刺青が入っているなんて、やっぱりよく考えなくても変だ。
もしかしたら彼は、何かの特別な団体に属しているとか?無理やり、入らされたとか?それとも何だ、その、単純にそういった輩の家族とか、もしくは―――
「………くん」
「流川くん」
はっ、と、僕は息を飲み、突然現実に引き戻された。目の前の彼に視線を戻すと、水を一気飲みしているところで。
ごく、と爽快な音を立てて、喉が上下する。
「食べ終わったよ、お待たせ」
別に全然、待っていないけれど、あ、うん、と僕は言った。
各々のトレイを手に、立ち上がった。食べていた時よりも生徒の数は減って、更に閑散としている。
何年生かは分からないけれどおそらく後輩、の4人の女子生徒が座っているテーブルの隣を通り過ぎる時、ひそひそと彼女等が何かを言い、前を歩くSの姿に、視線をちらつかせる。ほら、もう、早くも目立っている。
ねえねえ、ところで、その刺青についてなんだけど、と、切り出す勇気なんか、僕にあるはずがない。
もう部屋に帰るよね?と尋ねるSの背中に、そうだねと返しながら、広い背中を見つめる。
綺麗な絵だった。
とても、綺麗な蝶だった。
だけど、一瞬しか見ていないから、どんな風だったか詳しくは思い出せない。
綺麗な青緑色の蝶、ということしか。
その、左の肩甲骨の、少し上あたり。
「あれ、寮はどっちだったっけ」
「そこから左だよ」
「あ、そっか、俺しばらく道に迷うかも」
ははは、と白い歯を見せて笑い、こちらを振り返る青年。
真新しい制服のシャツには、椅子に座っていたせいで皺が少し、残っている。
もう一度、あの蝶が見たい。
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